美的なこだわりを持つことの利点?

美的にオープンマインドであること

芸術鑑賞を含む美的実践においては、オープンマインドであることが大事だと言われがちだ。偏見を持ってより好みするのではなく、どんなものでも受け入れて楽しむだけの余裕と寛容さを持つこと。それが、美的生活を豊かに営む秘訣、というわけだ。*1

ラノベを馬鹿にして純文学しか読まない人、マーベル映画を下に見てスローシネマしか見ない人、GReeeeNなんかよりもQueenを聞けと言ってくる人は、うざいし、間違っているし、損しているような気がする。そんな「偏った」人にはなりたくないし、なるべきではないと思われる。

美的生活においては、こだわりを持たず、自由な心であちこちを漂い、なるべくさまざまなものに出会うのが最善の戦略だ。もちろん、〈最大限オープンマインドであれ〉というのは、〈決してなにかをけなしたりせず、全てを愛せ〉というのとイコールではない。出会った上で気に入らないのは結構である。食わず嫌いをしない、順位を付けないという態度が肝心なのだ。

*1:美的にオープンマインドであることには、少なくとも二通りの解釈ができる。

  • 選択におけるオープンマインド:特定のジャンル/作者/作品を、それであるがゆえに拒否せず、どんなものでも選択し鑑賞しようとする心構え。
  • 鑑賞におけるオープンマインド:なにかを選択した上で、特定のジャンル/作者/作品なのだ、といった分類上の先入観を捨てて、無垢の目で見ようとする心構え。

オープンマインドに選択できる人でも、オープンマインドに鑑賞するとは限らないし、逆も然りである。鑑賞におけるオープンマインドさ、鑑賞と知識の問題は美学においては古典的問題だが、ここでは扱わず、もっぱら選択におけるオープンマインドだけを問題とする。

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論文出ました+賞とりました🏆|芸術カテゴリーに関する制度説

英語論文を書きました。イギリス美学会発行のオープンアクセスジャーナル『Debates in Aesthetics』18(1)に載っています。

イデアはおおむね2021年5月に応用哲学会で発表した「駄作を愛でる/傑作を呪う」がベースですが、逆張り鑑賞の話はすっかり削り、芸術カテゴリーと制度の問題にしぼった感じです。学会でコメントを頂いた皆さまには改めて御礼申し上げます。

また、たいへん光栄なことですが、直近で刊行された数号のなかから最優秀論文としてDebates in Aesthetics Essay Prizeに選んでいただきました。とても励みになりますし、Grammarly有料プランのもとがとれました。

いろいろあって出版が遅れていたらしく、いつ世に出るのかハラハラしていましたが、2022年大晦日にこっそり出てました。引用はSen (2022)でお願いします。

 

以下、ごくかいつまんで論文の概要をご紹介。

芸術作品のカテゴリーに関する論文です。

広く認められているように、作品のカテゴリーは鑑賞に大きく影響を与えます。ホラーならこういう風に予期するし、SFならああいう風に解釈するし、ミュージカルならそういう風に評価する、といったように、カテゴリーはいろんな場面で役割を持っています。これらはジャンルの例ですが、芸術運動、様式、形式、伝統、メディウムなども同じような役割を果たします。

作品はひとつでも、どのカテゴリーを踏まえるかで複数の見方ができる。しかし、「相対主義ですね」というので終わりなのではなく、そのなかには適切な見方と不適切な見方がありそうだ、というのが問題の起点です。『2001年宇宙の旅』をSFとして鑑賞するのは的を射ていますが、恋愛映画として鑑賞するのは的外れです。これは極端な例ですが、批評的な解釈や評価の対立が生じる場面では、しばしば批評家によるカテゴライズの対立が背景にあります。どういうものとして見ようとしているかのレベルで齟齬があるからこそ、解釈や評価が対立するわけです。そして、芸術作品はどういうものとして見ても構わない、とはあまり思われません。

作品にはどうも「正しいカテゴリー」というのがあり、そのもとで鑑賞されるべきだ、と言えそうなのですが、では正しいカテゴリーとはなんなのか、どうやって決まるのか、という問題が生じます。

結論から述べれば、私の主張は、正しいカテゴリーがある種の制度的プロセスにおいて定着する、というもの。その過程で、根強く人気のある意図主義と戦ったり、カテゴリー所属の問題を観賞的ふるまいの問題として変換したり、最終的にフランチェスコ・グァラ[Francesco Guala]の制度=均衡したルール説を援用して、「正しいカテゴリー」を説明しています。あるカテゴリーが作品にとって「正しい」のは、そのカテゴリーと結びついた一連の観賞的ふるまいがあるコミュニティ内で均衡したルールになっている、すなわち、(1)均衡なので自分だけ離反してもうれしさがないし、(2)ルールなのでふるまいをガイドする規範的な力がある、そんな状態のことだ、という説です。最後の節では、だからなんだ話として、カテゴリーに関する制度説の帰結についても触れています。

鑑賞的ふるまいのうち、作品の意味内容に関する理解や解釈を巡っては、2022年6月の「作者の意図、再訪」ワークショップにて「制度は意図に取って代われるのか」という発表をしました。キャサリン・エイベルの制度的アプローチを検討しつつ、別の制度的アプローチを提唱するという内容で、おおまかには今回のDiA論文と同じモデルを提示しています。論文版は、WS報告として『フィルカル』7(3)に掲載されていますので、こちらもよろしければぜひ。

 

ドラフトは指導教員のJohn O'Dea先生に見ていただきました。すごく頼りになりました。ありがとうございます。

英語論文かつpeer-reviewedかつ賞までいただいてハッピーで埋め尽くされていますが、この調子で博論もがんばります。かのSen, Amartyaと並べてSen, Kiyohiroもどしどし引用なさってください。

ホラーとはなにか|ノエル・キャロル『ホラーの哲学』、ジャンル定義論、不気味論

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の邦訳が出版され、訳者の高田敦史さん(@at_akada_phi)より一冊ご恵贈いただきました。ありがとうございます。大好きな本がまたひとつ日本語で読めるようになったということでたいへんうれしいです。内容としてもキャッチーで面白いので飛ぶように売れてほしいところですね。

ラージャンルについての理解が深まるだけでなく、一般的に分析美学や、あるジャンルを哲学的に論じていくやり方について学べるよい本です。個人的には、ブログに載せたRed Velvet論や『ユリイカ』に書いたビリー・アイリッシュ論でも批評のとっかかりとして役立った本なので、「批評に使える分析美学」のレアな一例かもしれません。

かいつまんで論旨を確認した後、個人的に気になるふたつの論点についてかるく解説しましょう。ひとつはジャンル定義におけるキャロルのスタンスについて、もうひとつはより近年の展開としての「不気味なもの」論について。

  • 危険で不浄なモンスター
  • 定義と反例と範例
  • 不気味なものと「テイルズオブドレッド」
  • その他いろいろ
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