美しいものは喜びに適合している?:美的価値についての適合態度分析

美的価値とはなんぞやをめぐる、最新の研究です。*1

「美しい」「崇高である」「パワフルである」といった美的価値については、しばしばそれによって引き起こされる反応の観点から説明されてきた。すなわち、美しかったり優美だったりして美的に良いものとは、私たちに特別な快楽やら満足やら喜びを与えるものにほかならない。ここでは、ある特別な情動的反応をもたらす能力の観点から、美的価値を持つことが分析されている

いわゆる美的快楽主義はこの筆頭なわけだが、能力による価値の分析にはいろいろとしんどい点がある。とりわけ、どうやって価値の客観性を担保するのかが問題となる。ワーグナーの美しい楽曲は快楽を与えるとは言うが、クラシックに親しんでいない私にはあんなのちんぷんかんぷんなだけで、特別な快楽は感じられない。私だけでなく多くの人がそうなのだとしたら、なぜワーグナーの楽曲には美的価値があるなどと言えるのか。

快楽主義者はだいたいここで理想化をかまして、美的価値があるものとは、理想的な状況にある理想的主体に快楽などを与える能力があるもののことだ、というムーヴをとる。こうすれば、理想的主体に該当しない私がワーグナーを楽しめなくても、それによってワーグナーの価値が脅かされることはない。しかし、これはこれでさまざまな問題を巻き込むことになる。美的エリートたる「理想的主体」とはなんぞや、なぜそんなものを認めなければならないのか、なぜ私たち凡人はエリートを目標としなければならないのか。

近年、別のアプローチとして、倫理学における価値の適合態度分析[fitting attitude analysis](以下FA)を援用して、美的価値を説明する論者たちが現れてきた。その代表はGorodeisky (2021) "On Liking Aesthetic Value"だが、ゴロデイスキーはFAに加えて細々としたコミットメントをたくさんしているので、門外漢にはちょっとレベルの高い議論をしている。一方、つい最近のBJAに載ったKriegel (2023) "A Fitting-Attitude Approach to Aesthetic Value?"はかなり分かりやすくて、立場も中立的だし論文としても短い。以下ではこの2本を手がかりとして、適合態度から美的価値を分析するアプローチを紹介する。

適合態度分析

適合態度分析は倫理学から来ている。クリーゲルによれば、倫理学におけるFAには長い歴史があり、19世紀末のブレンターノをパイオニアとして、A. C. Ewing (1939)が体系的に擁護し、Chisholm (1981, 1986)が広めたらしい。詳しくはSEPを参照。

道徳的価値についてのFAによれば、例えば「徳の高い」人とは、称賛という反応に適合した・称賛するに値する人のことだ。FAによる価値の説明はごくシンプルだが、通常考えられてきた順序をひっくり返しているのが興味深い。つまり、徳の高い人だからこそ称賛に値するのではなく、称賛に値する人だからこそ徳の高い人なのだ。「徳の高さ」というある道徳的価値が被説明項であり、「称賛に値する」というある適切な反応がその説明項となっている。

もうちょっとテクニカルに言えば、ふつうFAには基礎づけ[grounding]の方向についてのコミットメントがある*2。ある価値Vには、それに適合した態度Aがある、というだけでなく、ほかならぬその適合した態度Aがあるという事実が、価値Vがあるという事実を基礎づけているのだ。

FAのアプローチをとるうれしさは、価値がなんらかの仕方で私たちの反応的態度と結びついているという直観をカバーしつつ、冒頭に挙げたような、価値の客観性を担保できる点だ。称賛に値するがゆえに徳の高い人(その人に対する適切な反応とは称賛であるような人)に対して、一部のひねくれ者たちが称賛しないどころか非難するとしても、そのことは徳の高い人の徳の高さを脅かさない。ひねくれ者たちは単に適切な態度をとっていないのであり、ひねくれ者たちにとってさえ適切な態度とは称賛なのだ。価値は、それにフィットした適切な反応から説明されているので、現に誰かがそう反応することは必要ではない。人知れず徳を積んで、人知れず亡くなった人物は、これまでもこれからも誰にも称賛されないかもしれないが、称賛に値する徳の高い人物なのだ。

美的価値についての適合態度分析

クリーゲルやゴロデイスキーは、このようなFAを使って美的価値を説明しようとする。クリーゲルは、FAアプローチによる美的価値の研究プログラムを、次のように形式化している。

(FA-V) 任意の美的価値Vと、Vである任意のxについて、次のようななんらかの経験Aが存在する。(i)xへの反応としてAを経験することが適合しており、(ii)xは(i)のおかげでVなのである。(Kriegel 2023: 67)

美的価値があることもまた、それに対応した適切な反応があることから説明される。

美的価値にフィットした適切な反応とはなにか。ここで、ゴロデイスキーとクリーゲルの方針は分かれている。ゴロデイスキーはある種の美的快楽[aesthetic pleasure]を特徴づけ、それに適合していることから美的価値を一般的に説明する。これは美的価値についての一元的で包括的な説明だ。これに対し、クリーゲルは複数の美的経験[aesthetic experiences]を認めることで、それらにフィットした美的価値についても多元主義をとる。

どっちのアプローチのほうがよいのかはともかく、どちらもある特別なタイプの快楽ないし経験があり、それでもって反応することが適切であることから、美的価値(たち)を説明している。こうして、説明課題は「特別なタイプの快楽ないし経験」を記述することへとパスされる。

実際、この課題に答えることは美学にとっての十八番といえる。大昔から美学者たちは単なる快楽、経験、判断、態度ではなく、美的な快楽、経験、判断、態度とはなにか、その弁別的な特徴とはなにかを考えてきたからだ。ふたりによる特徴づけは、どちらも部分的には伝統的に指摘されてきたような要素を取り入れている。

ゴロデイスキーは、美的な快楽に8つの特徴づけを与えている。ざっくり、

  1. 情動が絡むこと
  2. 気持ちいいので自己維持されがちであること
  3. 全体論的な複合性を持つこと
  4. ものの価値を明らかにするような認知的側面があること
  5. 合理的観点から査定されうること
  6. 普遍的であること
  7. さらなる目的がなく自己充足的であること
  8. 感じるためにバックグラウンドが必要となること

ゴロデイスキーによれば、これらは快楽に一般的な特徴から、より美的快楽にならではの特徴の順にソートされている。ふつうの快楽(セックス、ドラッグ、ロックンロール)も1〜3あたりを満たすが、典型的に8つ全部を満たすのは美的快楽だけだ。

例えば、特徴7なんかは明らかにカントの特徴づけた「無関心性」から来ているし、特徴6は「普遍妥当性」から来ている。ゴロデイスキーは熱心なカント研究者でもあるので、このような特徴づけになるのは当然といえば当然だ。*3

ちなみに、よく知られた美的経験の特徴づけは、Beardsley (1979; 1982)によるものだ。ビアズリーは経験の美的性格として、(1)対象にがっちり注意を向けていること、(2)心配から解き放たれた自由感があること、(3)悲しみすぎたり怖がりすぎないだけの情動的距離を置いていること、(4)積極的になにかを発見しにいくような側面があること、(5)人として統合されるような全体感があることを指摘している。その一部がゴロデイスキーの特徴づけとオーバーラップしていることは明らかだ。

私たちには現にこのような美的快楽・美的経験を味わう場面がある。素晴らしい絵画や自然の風景を前にしたときの経験はその範例になるだろう。このような観察に関して議論の余地はほとんどなく、美的実践に参与している方ならご存知あれのことですよ、という感じでたいていは話が進む。ともあれ、このような特別なthe美的快楽ないしthe美的経験でもって反応することが適切なものこそ、美的価値を持つものなのだ、というのがゴロデイスキーの主張となる。

 

一方、クリーゲルはこういった単一のthe美的経験を特徴づけようとはしていない。クリーゲルによれば、FAアプローチの強みとはむしろ、さまざまな反応に対応してカラーの異なるさまざまな価値を説明できることである。

クリーゲルは、ケーススタディとして3つの美的価値、「美しさ」「崇高さ」「パワフルさ」を取り上げている。FAに則って、それぞれ次のように説明される。

(FA-B) 任意のxについて、xは美しい ⇒ (i)xは美的喜び[delight]に適合しており、(ii)xは(i)のおかげで美しい。

(FA-S) 任意のxについて、xは崇高である ⇒ (i)xは美的畏怖[awe]に適合しており、(ii)xは(i)のおかげで崇高である。

(FA-P) 任意のxについて、xは美的にパワフルである ⇒ (i)xは美的感動[moved]ないし美的奮起[stirred]に適合しており、(ii)xは(i)のおかげで美的にパワフルである。

肝心な課題は「美的喜び」「美的畏怖」「美的感動ないし美的奮起」といった、(複数形の)美的経験sの特徴づけとなる。

クリーゲルは、美しさに適合した美的喜びについては(1)対象に向けられていること、(2)対象が偉大で自分はしょぼいという感覚があること、(3)驚きの要素があることをざっくり挙げている。崇高さに適合した美的畏怖については(1)把握しきれなさがあること、(2)自分がちっぽけだと実感することを挙げ、パワフルさに適合した美的感動については(1)外的な力から強いられる感覚があること、(2)意義の充満が感じられることを挙げている。どれもゴロデイスキーやビアズリーに比べればゆるいものだが、個別に厳密な特徴づけを与えるのは別の論文でやることと認識しているのだろう。

「適合している」とはどういうことか

といった具合に、the美的価値ないし美的価値sが説明されるわけだが、私は最初にゴロデイスキーを読んだとき、どうも煙に巻かれている印象を受けた。美的に価値のあるものは快楽に適合しているとは言うが、「快楽に適合している」ということはなにによって説明されるのか。どこのどれがなぜ「快楽に適合している」と言えるのか。

ゴロデイスキーはここに至って原始主義[primitivism]を選ぶ。すなわち、適合性はもうそれ以上分析できない原始的な概念であり、さらなる基礎づけを求めるわけにはいかないのだ。私はいまだにこの方針にピンときていない。そうだとすると、快楽に値するものは世界の側で理由もなく勝手に決まっており、それに対応してさまざまな大小の美的価値も勝手にあちこちに内在しているということになりそうだが、それでいいのか。*4

しかし、FAには適合性についての還元主義[reductivism]というオプションもある。クリーゲルが紹介するところでは、代表としては(1)理由に訴える還元と(2)理想に訴える還元がある。価値Vに反応的態度Aが適合していることとは、前者によればAする理由のほうがしない理由よりも大きいことであり、後者によれば理想的な主体ならAすることにほかならない。*5

(2)のほうの還元主義をとる場合、美的価値についてのFAアプローチは理想化を組み込んだ美的快楽主義に限りなく接近する。逆に言えば、理想化を組み込んだ美的快楽主義とは、(2)の還元にコミットした、FAアプローチの一種なのだとも言えるかもしれない。実際、クリーゲルはFAアプローチに接近している論者として、意外にもビアズリーを取り上げている。Beardsley (1970)もまた、理想化を組み込んだ美的快楽主義(美的価値を構成するのは、正しく経験されたときの美的満足である)なのだが、クリーゲルはここにある理想化をFAアプローチにおける適合性の話として解釈している。もちろん、能力に訴えるかどうかを含む多くの相違点があるので、ビアズリーにFAを帰属するわけにはいかないのだが、理想化を組み込んだ美的快楽主義とFAアプローチには確かに接点がある。ビアズリーオタクとしてはこの辺がかなり面白かった。

ちなみに、もうひとつの(1)理由に訴えた還元をとれば、Lopes (2018)が支持しているような実践的アプローチ(美的価値があるとは、ある種の行為をする理由を与えることである)に接近することになりそうだ。いずれにせよ、FAというdeterminableなアプローチがあり、そのdeterminateなバージョンとして理想化を組み込んだ快楽主義やネットワーク理論がある、という整理が示唆されていてかなり学びがあった。ことによると、今後の美的価値論は適合態度分析を出発点としたものになるかもしれない。

📌まとめ

  • 美的価値については、倫理学における態度適合分析を援用したアプローチがある。
  • 美的価値があることは、特定の美的快楽ないし美的経験に適合していることから説明される。
  • ゴロデイスキーのように単一の美的快楽を特徴づけ、それにフィットしたグローバルな美的価値を論じる方針もあるし、
  • クリーゲルのように複数の美的経験をそれぞれ特徴づけ、それぞれにフィットした多元的な美的価値を論じる方針もある。
  • 重要な説明項となっている「適合性」については、それ以上分析できないとする還元主義もあるが、理由や理想に訴えた還元主義もある。

*1:これまで紹介してきたものとしては、以下を参照。

美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb|note

美的に画一的な世界 - obakeweb

Make me feel goodなもの - obakeweb

美的なこだわりを持つことの利点? - obakeweb

ちょっとテクニカルですが、2022年の応用哲学会での発表資料もあります。

美的に良いものはなにゆえ良いのか:モンロー・ビアズリー再読[応用哲学会20220528]

*2:「ふつう」と書いたのは、そうじゃないFAの亜種もいるらしいからだ。例えばMcDowell (1998)は、基礎づけに関して価値と適合態度のどちらが優先するのかにコミットせず、無害な循環を認める立場らしい。ゴロデイスキーはマクダウェルにならっている。

*3:もちろん、カントは「美的快楽」なるものを特徴づけようとしていたわけではない。私のかじった程度の知識でも、カントは快適なものと美しいものをめぐるややこしい区別をいろいろとしていたのだが、ゴロデイスキーを含め分析美学者がこの辺の区別を採用しているのはあまり見たことがない。

*4:仮にその説明が正しいのだとしても、そもそも私たちが最初から気にしていたのは「どこのどれがどれだけの美的価値をなにゆえ持つのか」という問いではなかったか、と私なら思ってしまう。たぶん原始主義者の問いは私とは違って、「美的価値なるものが現に与えられたとして、それが美的価値であるとはどういうことか」を説明するところに関心があるのだろう。

*5:クリーゲル自身はさしあたり原始主義にもどちらの還元主義にもコミットせず中立を選んでいる。ゴロデイスキーと違って、クリーゲルはFA研究プログラムを素描するところまでを課題としているので、特定のコミットメントはなるべく回避しているのだ。