デジタル写真に関する議論で、よく引かれているサヴドフ論文(1997)。
「デジタル画像編集技術の普及によって、写真一般の信憑性が下がっちゃうぞ!」というのが大筋。
とりわけ、芸術写真における写真表現にフォーカスしている。アンリ・カルティエ=ブレッソンにとっての「決定的瞬間」が、簡単に「作れる」ようになってしまった時代、写真はどうなっちまうのか、という話です。
(言及されている写真や絵画には、適当なリンクを貼っています)
0.イントロダクション
テクノロジーの功罪
- 創作における素材と道具は、芸術家の作品制作を大きく左右する。素材や道具におけるイノベーション、技術的発達は、芸術のリソースを拡張し、創作の幅を拡げる。
- しかし、テクノロジーは特定の能力を拡張するだけでなく、別の能力を抑制する側面を持つ(Maynard 1991)。
- 新たなテクノロジーは、芸術創作の選択肢を増やすだけではなく、それを根本から変容させる。
- 新しい選択肢は、古い選択肢に取って代わるわけではない。いろいろな選択肢から選ばれる。(木炭画、水墨画,、水彩画、油彩画+ダゲレオタイプ、カロタイプ)
- ただし、メディアは物理的な側面だけでなく、信念や実践や慣習と結びついている。新たなメディアの発達は、 我々が古いメディアを見たり使ったりする仕方を変え、それゆえ古いメディアによって作られる作品の読解をも変えうる。
- デジタル画像の登場は、写真が伝統的に持っているとされてきた能力を小さくし、写真と向き合う我々の態度を変容させている。
1.写真にできること、できないこと
写真の特徴とは
- 手始めに、伝統的な写真の機能を検討する。写真は絵画と異なる仕方で機能しうる。
- 写真を特徴づける最大のものは、その機械的な本性。写真は撮影者の意図から独立して、被写体が存在したことの証拠となる。
- 写真は絵画よりもショッキング。
- このような(現実との)親密な結びつきについて、色んな人が色んなことを言ってきた。ケンダル・ウォルトン「透明性」、アンドレ・バザン「リアリズム」、ルドルフ・アルンハイム「光学的プロセスから生成されるイメージ」。
- ただし、写真はまったく客観的でない仕方で被写体を見せることもできる。撮影におけるアングル、照明、フレーミングの選択、二面性、矩形、白黒といったメディアの性質。とはいえ、これらの非客観的要素があったとしても、我々は現実と特別な結びつきを持ったものとして写真を見る。
- 写真のドキュメンタリー・パワー*1は、その生成プロセスの客観性に関わるものであり、見えの厳密な模倣に関するものではない。
- 記録(documenting)と模写(duplicating)は結構ちがう。正確な記録は正確な模写であるとは限らず、逆もしかり。とはいえ、知覚する際には両方の要素が絡み合っている。馬の写真は馬の実在を示す(記録)と同時に、馬の見え方を教えてくれる(模写)。
- 現状、見えの模写に関して、我々は写真に頼っている(免許、パスポート、その他本人確認用の書類)。しかし、写真の正確性には限界もある。(ex.ハットで顔を隠したJ.P.モルガンの写真。モルガンの見た目に関して不正確な情報を与える)。写真が見せるものと、我々が知っている真実との間に、ギャップがあり、写真は見るものの心をかき乱す。
異化と写真の美的衝撃
- 写真の歪みを知覚することは、その美的衝撃において重要な役割を果たす。
- イモージン・カニンガム(Imogen Cunningham)《Leaf Pattern》(1929)。鉢植え植物という極めてありふれたものを、異化させる。
- 絵画もまた事物を異化させるが、その性格は写真と異なる。ゴッホの糸杉、ピカソのギター、マティスのヌードは事物を異化させているが、それぞれが芸術家の想像力の産物であり、現実世界にある事物とは区別される。
- 写真における異化は、世界についてのなにかを暴露する。
- クラランス・ジョン・ラフリン(Clarence John Laughlin)《The Appearance of Anonymous Man》(1949)。セット撮影であることを知っていても、亡霊であるかのように見てしまう。
- ルネ・マグリット(Rene Magritte)《The Central Story》(1928)、《The Lovers》(1928)。ラフリンと似たような題材であっても、見るものに与える印象は異なる。マグリットの絵画はミステリアで象徴的、ラフリンの写真は不自然で不穏。
- マグリットは絵画と写真の違いに関心があり、写真研究と結びついた絵画作品も残している。(《The Therapist》(1937))
空間の分裂
- 写真は、二面性と観点の工夫によって、断絶し、亀裂の入った空間を見せることができる。(ex.アンドレ・ケルテス(Andre Kertesz)《Buy》(1962))。亀裂は現実世界から"発見"されたものであり、ただ描かれただけの絵画にはないショッキングさを持つ。
- 同様の例として、アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)《Valencia, Spain》(1933)。
- ブレッソン写真の解説。左右の明暗コントラスト、男性のメガネと円模様の対応、肩と円の連続による調和が、左側をより奇妙な空間として強調する。
- 左右で分離したフォトコラージュのようにも見えるが、実際には統合された空間であると観者は知っているため、困惑が生じる。知識と視覚の混乱。
- 絵画における空間の歪みは、写真ほどショッキングではない。エドゥアール・マネ(Édouard Manet)《フォリー・ベルジェールのバー》(1882)。
- 絵画と写真では、分離の衝撃が異なる。「写真が記録したもの」と「写真が我々に見るよう強いるもの」のギャップ。
反射を用いた空間分裂
- ウォーカー・エヴァンス(Walker Evans)《Street Scene, Brooklyn》(1931ごろ)。鏡を使用。
- アジェ(Atget)《Avenue des Gobelins, Paris》(1910ごろ)。ガラスの反射を用いて、折り重なった空間を見せる。
- フォトリアリズム絵画も、反射を描こうとする。(Ex.リチャード・エステス(Richard Estes)の絵画)。しかし、写真とは異質なもの。写真において、分裂した空間は現実世界に属する。
- 我々は、写真の真実性について確信できるが、絵画には常に懐疑的でいられる。
時間の凍結
- ブレッソン《Behind the Gare St. Lazare》(1932)。絶妙なタイミングとポジショニング。手前の男性と、奥のポスターイラストが形状的に一致。絵画だと、この奇跡的一致が、不自然でわざとらしく描かれてしまう。
- 絵画と写真における反応の違いは、イメージの出自における違いに由来する。メディウムへの期待。
絵画の強み
- 写真の超現実的能力を持たないかもしれないが、画家に想像可能なことであればなんでも描くことができる。写真にはできない絵画表現として、マティス《赤のハーモニー》、マグリット《人間の条件》、ゴッホ《糸杉と星の見える道》、ヒエロニムス・ボス《快楽の園》。
写真修正の問題
- もっとも、絵画と写真の違いはそこまで自明ではない。明らかな修正の痕跡がない限り、我々は写真をストレート写真として扱ってしまう。
- 写真の中には、修正が明らかであるため、真実性のアウラを欠いているケースもある。ラフリン《The Masks Grow to Us》(1947)、多重露光。不自然でわざとらしく、説教がましい感じがする。
- 同様の例として、ワンダ・ウルツ(Wanda Wulz)《Cat and I》(1932)。
- より表現的な写真技法として、ジェリー・ユルズマン(Jerry Uelsmann)のフォトモンタージュ。
- 明らかにストレート写真ではないモンタージュの効果は、写真の絵画のそれに近い。
- ユルズマンの1991年の作品。マグリット絵画との類似性。
2.デジタル技術の衝撃
デジタル技術の登場
- デジタル・イメージとは、個々に分離したグリッド(ピクセル)によって作られるイメージ。電子的に保存、コピー、送信、表示、プリントされる。
- 写真は、デジタルに変換することで、好きにいじることができる。"写真家"は画家と同じ自由を手に入れた!?
- ミッチェル(1994)「この新たな創作的自由を持ったデジタルな産物は、もはや写真ではない」。デジタルにおいて、コピーはオリジナルと区別不能であり、写真の信用性を引き下げている。
- デジタル技術は、すばやく容易にイメージを変容させる。シームレスかつ特定不可能な合成、ミックス。(Ex.ナンシー・バーソン(Nancy Burson)の合成写真)
- 伝統的な写真において、修正は例外的な行為だった。デジタル時代において、コンピュータ上でツールを用いて修正するのは、ごく基礎的なプロセスとなっている。
- 写真修正の例。再配置:ナショナルジオグラフィック誌、ギザのピラミッド写真。削除:ローリングストーン誌、ドン・ジョンソンの表紙写真。合成:ダスティン・ホフマンとトム・クルーズが一緒にいる写真(詳細不明)。
デジタル技術がもたらしたもの
- 新たなテクノロジーは、マスメディアにおける写真の使い方を決定的に変えると共に、写真のドキュメンタリー的価値を、深刻なまでに引き下げた。
- 観者は新聞や雑誌の写真でさえ、アナログなのかデジタルなのか加工されているのか区別できず、何でもかんでも疑ってしまう。
- ストレート写真相手でさえ、その客観性を確信できない。
- 我々は、あらゆる写真を疑いにかけてしまう。
- 写真は常に、観者をミスリードする可能性を持つ。画像のクロップによる隠蔽。エドワード・ケネディの例(詳細不明)。
- 市民戦争を撮影した、アレクサンダー・ガードナー(Alexander Gardner)の写真。実は、兵士の死体を動かして、銃などを配置した上で撮影している。
不信の累積
- 写真はもともと恣意的に作り出される可能性を秘めていたが、その可能性は限定的なものだった。修正はなんだかんだ面倒だったので、伝統的な写真はおおむね信用できたのに対し、デジタル修正以降は本当に信用ならない。
- 加工された写真に触れる機会が多ければ多いほど、写真を加工しやすいものとして考えるようになる。
- 写真の正確さに関する信念は、まだ深く染み付いている。見ることに関する慣習は、いまのところ変わらずにいる。しかし、コンピュータ技術の発達と共に画像修正もどんどん容易になっている。容易になると、人々はそれを頻繁かつ思慮なく使うようになる。
- 写真の信用性は失墜し、絵画と写真の違いはだんだん小さくなっていく。
写真一般の美的失墜
- このような変化は、写真の実用的な面だけでなく、美的な面にも影響する。アーティストは新たな自由を獲得したが、かつて写真を特徴づけていた美的な価値、超現実的な魅力は失われるかもしれない。
- ペドロ・マイヤー(Pedro Meyer)《Desert Shower》(1985/1993)。かつて取りそこねた「決定的瞬間」を、数年後デジタル合成によって再現する。
- デジタル修正がより普及し、技術がより洗練されると、ストレート写真も含めて、写真一般のドキュメンタリー的アウラが失われる可能性がある。
- ブレッソンの絶妙なタイミングやポジショニングも、デジタル修正の可能性があると台無しに。
- デジタル修正の可能性によって、写真の面白さは低減する 。
- 写真のように見えるものと出会ったとき、我々はそれを構築物として見るようになりつつある。
- 写真への不信は、過去の作品を見る際にも生じうる。ここには、世代間の格差もあるだろう。デジタルが当たり前な世代は、写真のアウラや作者性を鑑賞するのが困難かもしれない。
- 未来の世代は、自分たちの写真経験とは異なるものとして、写真を経験しうる。
- 写真は過去へのノスタルジアを提示するが、「写真はかつて信用に足るメディアだった」こと自体がやがてノスタルジアとなりかねない。
感想&コメント
- ずいぶんカジュアルな論文だなぁ、というのが第一印象。前半で次々に紹介されているアート写真の事例は、それぞれ興味深いものの、議論をいたずらに冗長にしている感じ。
- 一貫して写真を現象学的に捉えようとしているため、ウォルトンらの議論とはやや焦点がズレる*2。
- 論文中で引用されているミッチェル(1994)もそうだが、基本的には「デジタル"写真"はもう写真じゃない」ってスタンス。これは個人的に疑問視している。というのも、サヴドフの予言(?)から20年以上が過ぎ、すっかりデジタルが主流となった現代においても、デジタル写真は"写真扱い"されているし、"信用"されているように思われるからだ。この話についてはまた今度。
- しかし、伝統的な写真が持っていた美的価値(奇跡的なタイミングや、空間の歪みから生じる「面白さ」)が、デジタル技術によって簡単に作れるようになったせいで、写真の面白さが減ったよね、という大筋には頷けるところがある。僕自身は熱心な写真家ではないけど、現場でアートとして写真をやっている人たちは大変そうだな。どれだけすごい瞬間を撮ったところで、「すごさ」自体が低減しているもんだから……。
- とはいえ、写真に関して「もはや撮るべき被写体がない」状態は、ポスト・モダニズム以降しばしば言われてきたことだ。本論文ではレヴィーンやシャーマンやプリンスに関する言及がないが、その辺も弱みだと思う。