Geert Gooskens "The Digital Challenge - Photographic Realism Revisited"(2011)

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「画像表象とリアリズム」Episode 1です。

指導教官とのゼミで描写(depiction)関連の論文を読むようになったので、そのまとめノートをブログに綴っておこうかと。

主に、デジタル時代の画像文化に関するものが中心です。

 

今日、紹介するのはGeert Gooskensによる"The Digital Challenge - Photographic Realism Revisited"(2011)という論文。(補足で別の論文についても触れます)

ACADEMIAのプロフィールによれば、Avans University of Applied Sciencesで教員をされているそうです。オランダ人?ですかね。専門は描写の哲学。

論文の内容は、ざっくり要約すると「デジタル写真のリアリズムを養護する」もの。

とりわけ、ウィリアム・J. ミッチェル『リコンフィギュアード・アイ』(1992)で提唱している、「デジタル写真はアナログ写真の持つリアリズムを欠いている」というテーゼに対する反論が中心。

 

後にコメントで指摘する通り、ところどころ穴の目立つ論文ですが、デジタル写真周辺の議論を俯瞰できるという意味でひとまずまとめてみました。

 

 

 

デジタルの挑戦 "The Digital Challenge"

写真のリアリズム

写真は従来、現実的な装置として考えられてきた。*1

ウォルトン2008、バルト1982)

①「写真はリアリズムを本質として持つ」

[A]認識論的なリアリズム:

写真は、対象についての情報を与えてくれる。我々はそれを信じ、利用する。ケンダル・ウォルトン「透明な画像」(1984)など。

[B]存在論的なリアリズム:

写真は、被写体と因果的に結びついている。インデックス性を持つ。ロラン・バルト『明るい部屋』(1980)など。

➡認識論と存在論は互いに絡み合い、写真にリアリズム的な性格を与えている。 

 

デジタルの挑戦

しかし、デジタル写真の登場は、そのような写真のリアリズムを否定する。

(ミッシェル1992、サヴドフ1997)

②「デジタル写真は写真である」

③「デジタル写真はリアリズムを欠いている」!?

 

不都合な帰結

よって①②③より

④a「リアリズムは写真の本質ではない」(絵画と写真が区別不能になる)

もしくは

④b「デジタル"写真"は写真ではない」(実践と乖離し直観に反する)

のいずれかが導かれる。

この帰結は、なるべく避けたい。*2

 

筆者は前提である③「デジタル写真はリアリズムを欠いている」を否定する。

 

 

「デジタル写真のリアリズム」を養護する

デジタルの挑戦には、二種類のものがある。

 

[A]認識論的挑戦:

操作可能性「デジタル写真は、容易に操作(加工)可能なので、被写体についての情報を正確には与えてくれない」

 

これに対し、筆者は3つの点から反論。

反論①:操作(加工)には、現実的なオリジナルの素材が前提となる。*3

反論②:たとえ操作(加工)されていたとしても、被写体について多くの情報を伝えてくれる。(ex.ナショナルジオグラフィックの表紙、加工されたギザのピラミッド写真)

反論③:反事実的な情報を伝える合成写真は、コラージュであって、もはや写真ではない。

➡よって、操作可能性という認識論的挑戦は、デジタル写真のリアリズムを否定するものではない。

 

 

よりも深刻な問題なのは以下の挑戦。

 

[B]存在論的挑戦:

因果的結びつきの欠如「デジタル写真は、デジタルコードによる再構成でしかなく、被写体との因果的結びつきを持たない」

 

筆者は「デジタル写真もまた、被写体と因果的に結びついている」ことを、以下のように論証する。

①「アナログ写真は被写体と因果的に結びついている」ゆえに「遺品のような機能(relic-like function)を果たす」

②「デジタル写真もまた、遺品のような機能を果たすケースがある」

よって①②より

③「デジタル写真もまた、被写体と因果的に結びついている」

 

ここで筆者が挙げる「デジタル写真が遺品のような機能を果たすケース」は3つ。

ケース1.亡くなった友人のデジタル写真をスマホの壁紙にすることで、遺影のような機能をもたせる。デジタル写真もまた、被写体とのつながりを感じさせてくれる。

ケース2.アナログの遺影にヒゲを落書きしたら怒られるのと同様、デジタルの遺影にフォトショップでヒゲを付け加えるのも失礼にあたる。デジタル写真もまた、被写体と存在論的に近いものとして扱われている。

 

より重要なのは以下のケース。

ケース3.デジタル写真かと思って見ていたものが、完全なシミュレーション画像(CG)だと伝えられると、印象が変わる。

・シミュレーション画像に比べたら、デジタル写真もまた、レンズの前の被写体と因果的に結びついているといえる。

・すなわち、デジタル写真は、アナログ写真に比べたら遠回り(デジタルコードの介入)ながらもインデックス性を持つ。

➡よって因果的結びつきの欠如は否定され、「デジタル写真もまた、被写体と因果的に結びついている」といえる。

 

 

結論:

デジタルの挑戦は認識論的にも存在論的にも、デジタル写真のリアリズムを否定するものではない。

デジタル写真もまた、リアリズムを本質として持つ

 

 

 

 

"Can Digital Pictures Qualify as Photographs?"(2012)

以下は補足です。

2012年の別の論文で、Gooskensは同様の問題を扱っている。

大半は上でまとめた議論の繰り返しだが、一部追加している話があるので、ご紹介。

 

「写真に対する認識そのものが変容した」説

Barbara Savedoff "Escaping Reality: Digital Imagery and the Resources of Photography."(1997)

・デジタル写真の登場とその操作(加工)可能性に伴い、(アナログ写真も含めた)写真全体の信頼性(reliability)が低下した

・結果として、絵と写真の区別はなくなるだろう。

our faith in the credibility of photographs will inevitably, if slowly and painfully, weaken, and one of the major differences in our conceptions of paintings and photographs could disappear - Savadoff(1997)

➡上記の議論にあてはめれば、[A]認識論的挑戦から自動的に[B]存在論的挑戦が導かれる、という説。

 

Gooskensによる反論

しかし、認識論的に操作(加工)されているかされていないか区別できないことは、写真の存在論的ありかたを左右しない

・xである(to be x)ために、xとして認識される(to be recognized as x)必要はない。

・ex.手紙の末尾にあるキスマーク。19/20個がプリントされた絵で、区別不能な1つだけが本当のキスマーク(唇を押し付けたもの)だとしても、それによって「20個全てが等しく因果的結びつきを欠いている」ことにはならない。1つのキスマークは、依然として真正なものでありつづける。

➡[A]認識論的挑戦からただちに[B]存在論的挑戦は導かれない。

 

 

 

 

コメント

まずはよかったところ。

1.認識論と存在論を区別しようとする姿勢

・とりわけ、上述した2012年の論文でなされている議論。

・認識的な区別不可能性から、実在を過小評価するような議論は哲学でも多いので、この態度は大事。

・しかし、後述する通り、区別がうまくいっていないのが残念。

 

2.デジタル写真も、被写体に因果的結びつきを持つという指摘

・「被写体が別様であれば、出力される写真も別様になる」というのは、ケンダル・ウォルトン は"Transparent Pictures"で「反事実的依存(counterfactual dependence)」として議論しているもの。

➡これをデジタルに適応したのは面白いし、そこから「デジタルもまた、被写体と因果的に結びついている」という結論自体は納得のいくものだ。

 

3.議論の流れが明晰

・分析系の人らしく、話が明瞭でわかりやすい。英語も易しい。

 

以下、ダメだったところ。

4.議論する対象の限定に問題がある

・本稿で扱われている「デジタル写真(digital photography)」は、「デジタルカメラで撮影された、ほぼ無加工の写真」に限定されている。

・ある程度の操作(加工)があっても大丈夫、という議論があるが、これは完全に程度の問題。(ex.真っ暗になるまで明度を落とした写真は、被写体についてなにも説明してくれない)

・コラージュされた反事実的な写真を「写真」の範疇から除外するのも、大きなコストのように思える。(ex.同時代に生きていない二人の人物をコラージュした画像であっても、それぞれの人物の見た目について情報を与えてくれる点で、写真として扱えるのではないか)*4

➡大幅に加工された写真やそのコラージュ、シミュレーションされた非因果的画像こそ、検討すべき対象ではないか?*5

 

5.存在論のつもりで議論している部分が、認識論の話になっている

・挙げられている「遺品のように機能するケース」はどれも、観者の情動に関する認識論的なもの。それを遺品として捉えるかどうかは、完全に観測者相対的。

・「我々がどう思うかと、事物がどう実在するかは無関係」というのは、自身でも指摘しているはずなのに。

➡写真の(存在論的な)インデックス性に関する議論が浅い。

 

6.推論があやしい

①「アナログ写真は被写体と因果的に結びついている」ゆえに「遺品のような機能(relic-like function)を果たす」

②「デジタル写真もまた、遺品のような機能を果たすケースがある」

よって①②より

③「デジタル写真もまた、被写体と因果的に結びついている」

・という推論は明らかにおかしい。個人的にここが一番深刻だと思う。

・①「AならばB」、②「xはB」、よって③「xはA」という推論だが、典型的な後件肯定の誤謬を犯している。(A⇒Bだからといって、B⇒Aとは限らない)

➡「遺品のような機能を果たす」ことは、「被写体と因果的に結びついている」ことの十分条件ではない。

 

 

 

イデアメモ

ちょっとだけ僕の思いついたことを書いておこう。

完全に殴り書きしただけのノートで恐縮だが、こういう図式が役に立つのではないか。

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要は、

〇実在的な対象それ自体

(x)志向される全体としての統一した対象

①眼の前で現前している対象の見え(射影)

②無加工のアナログ写真

③無加工のデジタル写真

④加工された画像や、モンタージュ

⑤シミュレーションによるCG画像や、絵画

という段階を設けるのはいかが?という提案。

 

たとえば

ウォルトンは「②を通して(x)を見れるんだぜ」という議論。*6

・ミッチェルは②と③の間に「リアリズム」の境界を引こうとする議論。

・Gooskensは④を分割し、加工されたデジタル画像までを「リアリズム」の範疇として認め、モンタージュ以降を「反リアリズム」とする。

・実在的な対象それ自体を、写真論に組み込んだものはあるのかしら。

などなど。

 

 

赤字でOOOっぽいことをメモってますが、そちらはまだまだ構想(妄想)段階なので、別稿に譲りたいと思う。

 

 

 

 

*1:前提として、本論文中に出てくる「realistic」は「現実的」であって「写実的」ではない、という説明がなされている。

*2:個人的には④aを認めちゃうのもアリという気がしなくもない。まぁ、また別の機会に。

*3:オリジナルの素材を一切用いない画像に関しては、「シミュレーション」として以下で扱う。

*4:実際ウォルトンはこのような指摘をしており、コラージュであっても部分的には透明である、といった議論を行っている

*5:とはいえ、これは外側からケチをつけているに過ぎない。

*6:もしかしたら、「②を通して①を見れるんだぜ」という議論かもしれないが、その辺は僕の中で咀嚼しきれていない。