「写真を見ること、写真を通して見ること」を通して見ること|修士論文あとがき

はじめに

UTokyo Repositoryにて修士論文を公開しました。

リンクは以下です。

http://hdl.handle.net/2261/00079131

「写真を見ること、写真を通して見ること――ケンダル・ウォルトンによる「透明性テーゼ」の理論的射程をめぐって」と題し、写真論を扱っています。

タイトル通り、ケンダル・ウォルトン(Kendall Walton)というアメリカの美学者による写真論を中心としています。

論文の位置づけとしては分析美学内の写真論ということで、「写真とはなにか」という問いから、概念の分析、条件の確認、反論の整理、ポイントごとの擁護&反論と、一歩ずつ前進するようなanalytic styleをとっています。

内容としても、仮想敵となるのは「写真は死んだんじゃ〜」と言ってちゃぶ台をひっくり返すタイプの言説です。語尾が「ポモ〜!」な人たちによって、「写真とは何か」みたいな問い立てはずいぶん難しくなってしまったが、われわれは依然そのような哲学的探究を必要としており、理論構築はめちゃ意義のあることだ、といったことを序文で書いています。

 

正直、いまいち振り切れていない箇所も多々あるため、ドヤるような論文では決してないですが、公開するというのはあらかじめ決めていました。読み手の方でなんらか引き出していただける可能性にベットするとともに、議論全体の前進につながることを祈っています。

以下、簡単な論文要旨です。

 

簡単な論文要旨

1.ケンダル・ウォルトンの透明性テーゼ

ウォルトンは「写真は(鏡や望遠鏡や眼鏡と同じく)透明だ」という、びっくらこくようなことを言っている。

ウォルトンに対する反論者として、脊髄反射でイマイチなコメントをしている人たち、ポストモダン残党、世紀末のデジタル写真礼賛派などが入り乱れている。「透明性テーゼ(Transparency Thesis)」をめぐる論争はたいへん見どころが多く、分析美学内においても非常に有名な論争のひとつとなっている。

ウォルトンウォルトンで、2008年に書かれたあとがきで「そりゃズルくないか?」と思わせるような後出しジャンケンをしていたり。

第一章後半では、「写真は透明である」という存在論的主張に関しては、ウォルトンに分があることを示した。すなわち、「写真である」ための妥当な条件と「透明である」ための妥当な条件を照らし合わせたとき、前者が後者を伴うという主張には無理がない。反論者はいずれかの条件をいじることで、両者の間に齟齬があることを示そうとするが、これはうまく行っていないことを示し、ウォルトン側を擁護した。

 

2.写真の諸特権と透明性テーゼの射程

第二章では、しかし、「写真は透明である」という事実が、「写真は諸価値において特別である」ということを伴わないことを示した。ここには、現象学的価値(phenomenological value)と認識論的価値(epistemic value)が含まれる。

ウォルトンは、とりわけ写真のリアリズム=現象学的価値を説明するという目的から、透明性テーゼを打ち出している。写真を見ることは被写体に対する親密な(close)情動的経験(恋人の写真が愛おしさの感情を喚起する、みたいな)を与えるが、これを説明するのは「写真を通して、文字通り、被写体を見ている」ことだとウォルトンは述べる。

第一章で示した通り、「写真を通して、文字通り、被写体を見ている」ことについて、本論文は👌だ。それを真正な知覚(perception)と呼んでもいいだろう*1

しかし、真正な知覚は、ウォルトンが問題とするような情動的経験=結合感にとって、必要条件でも十分条件でもない。これを示すために、錯覚やバーチャルリアリティに関する認知科学の論文を引いたりした。対象を知覚していないのに結合感を感じたり、対象を知覚しているのに結合感を感じない、といった現象は現に存在する。

認識論的価値についても、透明性テーゼによる説明はいまいちだと主張した*2。写真はしばしば知識形成に役立つ情報源となるが、このことはわざわざ透明性テーゼに訴えずとも主張できる。絵画に対する優越を訴えたいならば、「写真は対象との間に自然的な反事実的依存関係を持っていて〜〜」というくだりで十分なのだ。

よって、ウォルトンによる理論構築は、当初の目的から鑑みれば失敗している、というのが第二章での評価。

 

3.デジタルの挑戦、「写真」の再編成

第三章では、話題がコロコロと変わる。この辺は意図的な転調というより、いまいち説得的な橋渡しができなかったという反省ポイントだ。

まずはデジタル写真ウォルトン論文は1984年なので、デジタル以降の状況を踏まえて更新しなきゃ、といったことを書いた。

とりわけ、「デジタル写真が形式としてデジタル(離散的)であることはそこまで深刻な問題じゃないよ」というのと、「デジタルカメラで撮影された客観的な写真と、編集されたデジタル・イメージが、ともに“写真”という概念下で扱われてしまうのが困る」というのを書いた。

じゃあ今日において「写真」概念をわれわれはどういう仕方で定義・理解するべきなのかという段では、ロペスらの「ニューセオリー」や(改めて)スクルートンの保守的な立場を検討している。

結局のところ、「写真はある側面においては客観的だが、客観的でない側面も持つ」というイイトコドリな立場がベストであり、これは実はウォルトンの立場にほかならない、というパンチライン(?)を添えた。

ウォルトンは写真に二重の役割を認めている。すなわち、透明性テーゼにおいて主張されたように、写真は鏡や望遠鏡や眼鏡と同じ「視覚の補助(aids to vision)」であり、絵画と違って透明なわけだが、同時に、絵画と同じく「画像(picture)」である

後者の事実が示すのは、写真が表象(representation)であるという事実にほかならず、これはスクルートンの立場と明確に相違する。写真が虚構的なものや不特定のものを描写できるということに関して、ウォルトンは明確に認めている。

ウォルトン理論は、しばしばスクルートン理論と抱合せで「写真は客観的なのだ、という保守的・ナイーブ・モダニズム的なことを言ってるお固い立場」と読まれてしまうが、実は写真の二面性を強調する穏当かつ妥当な立場なのだ、ということを示した*3

ニューセオリーなんかは、このような立場としてのウォルトン理論を踏まえた上で、自分らの理論構築が妥当なのかどうか見直すべきだ。実際、この作業はコステロが前々から「やんなきゃ」といいつつ、いまいち進んでいない。

 

ついでに、調子に乗ってこのような「ウォルトン理論2.0」からシンディ・シャーマンウィリアム・エグルストンの作品がどうのこうのと書いたパートがあるが、ジャム・セッションで言うならば完全にロストしている部分だ*4

とはいえ、理論理論で実践との接点がないのはまずいので、もうちょい用意周到に扱いたかったくだりではある。合掌🙏

最後の最後に「写真を用いた虚偽の問題」という、これまた唐突な転調が置かれている。しかし、「写真の死を訴えたい陣営がまだ納得しなさそうなので、皆さんがわあわあゆうてる“死”ってそんなに深刻なものじゃないですよ」という動機自体は一貫しているはず。

主張内容と描写内容に関する議論、写真を用いた嘘およびミスリード、捏造写真に含まれる虚偽、ディープフェイクのわるさといったトピックを、駆け足で並べている。少なくとも、このように論点を並べておくことが、「写真はもう死んだんじゃ〜」といった極論に対する“マジレス”たりうると信じている。

 

さいごに

こちらはM1の秋ぐらいに書いたメモだが、当初の無謀な構想に比べたらずいぶん無難な修論に仕上がったな、という印象。

そして、ほどよいところで風呂敷をたたむのは、きっとよいことなんだろうな、と自分では思っている。本当は五万字ぐらいで整えるつもりだったのが八万字になっている時点で、あまりたためていないのだけども。

 

論文のほうでは謝辞など載せていないので、この場を借りて日頃の感謝を。

総合文化研究科の教授方、とりわけ、指導教員であるジョン・オデイ氏には、修士論文執筆に際し多くのヒントと励ましをいただいた。

アカデミアという奇特な環境において、ともに研究のできる先輩・同輩・後輩の皆さんには、いつも助けられています。

なにより、両親に。僕の生活はどれをとっても、ふたりからの支えを得て成り立っている。

 

*1:実際、「知覚」と呼ぶかどうかに関してはもう少し細かい議論がある。本文を参照。

*2:補足として、透明性テーゼが写真のEVを説明しうる?という論点は、ウォルトン自身によるものではなく、エイベルら読解者によるもの。ウォルトン自身は「説明しえない」と認めている。

*3:僕が示すまでもなく、ウォルトン論文をちゃんと読めば自ずと明らかなことだとは思うのだが……。

*4:ボスもピンとこないような表情を浮かべていたので、「This is a "Hyosyo" part」と説明した。

レジュメ|ケンダル・ウォルトン「画像とおもちゃの馬」(2008)

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昨年の夏に碑文谷公園で見かけた猫

Walton, Kendall L. (2008).Pictures and Hobby Horses: Make-Believe beyond Childhood. In Kendall Walton, Marvelous Images: On Values and the Arts. Oxford University Press.*1

はじめに|ウォルトンによる描写の哲学

今回はケンダル・ウォルトン(Kendall Waltonによる描写の哲学。ウォルトンが描写について書いている論文はいくつかある。参照文献を兼ねて、以下にまとめておこう。

  • Walton, Kendall L. (1973). Pictures and Make-believe. Philosophical Review 82 (3):283-319.

描写論に限らず、後にウォルトンの中心的なテーゼとなる「ごっこ遊び理論(Make-Believe Theory)」が提出された最初期の論文。

虚構的命題の真偽にまつわる形式的な議論など、わりかし硬派な論述をしている。

 

  • Walton, Kendall (1992). Seeing-In and Seeing Fictionally. In J. Hopkins & A. Savile (eds.), Psychoanalysis Mind and Art. Blackwell. 281-291.
  • Walton, Kendall (2002). Depiction, Perception, and Imagination: Responses to Richard Wollheim. Journal of Aesthetics and Art Criticism 60 (1):27–35.

ともにリチャード・ウォルハイムの描写論に対するコメンタリー。

ちなみにウォルハイムからウォルトンへのコメンタリーもある。両者の論争(?)については清塚さんによる以下の論文がくわしい。

 

ウォルトンの主著。描写に関する話は第8章で扱われている。既発表論文を元にした節が多め。右も左もわからないころに翻訳をペラ読みしたが、あまり覚えていない。

 

  • Walton, Kendall L. (1976). Points of View in Narrative and Depictive Representation. Noûs 10 (1):49-61.

画像に小説のような「語り手(narrator)」はいるのか、という問題。未読。

 

  • Walton, Kendall L. (1984). Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism. Critical Inquiry 11 (2):246-277.

obakeweb内で無限に言及しているWalton 1984。写真の「透明性」を訴えた論文。

ウォルトン理論を俯瞰したとき、「透明な画像」の写真論はいわば「スピンオフ作品」だというのが僕の見解だ。実際、ウォルトンが写真経験に対して認めている性格は、彼が包括的な表象論として意図しているであろう「ごっこ遊び理論」から見ると、分かりやすく例外としての位置を占めている。さしあたり、本記事に写真の特殊性についての話は含まれない。

 

本記事で紹介する論文および上に挙げたいくつかは、論集『Marvelous Images: On Values and the Arts』に収録されている*2。美的価値に関する論文や、かの有名な「Categories of Art」(1970)も入っているので、一冊を手に入れて間違いない書籍である。

 

「画像とおもちゃの馬」(2008)は、自身が提唱するごっこ遊び理論のまとめと、それによる画像経験の説明を試みた論文である。

個人的な反省として、写真論を除くウォルトン理論については、かなりざっくりと理解してしまっている部分があったので、復習を兼ねて読んでみた次第。割と丁寧めにまとめたので長いです(1卍超え)。

*1:論文の出自については注1に書かれている。元となったのは1991年のレクチャー(ゆえに、語り口はやわらかめ)。その後、1992年にArt Issues誌に5ページの短い研究ノートが載り、1994年に長いバージョンがPhilosophic Exchange誌に載っている。Susan FeaginとPatrick Maynard編の『Aesthetics』にはひとつを残して図を省略したバージョンが載っている。

*2:姉妹本である『In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence』には音楽の哲学、メタファー論、フィクションの情動などが収録されている。

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レジュメ|グレゴリー・カリー「視覚的痕跡:ドキュメンタリーと写真の内容」(1999)

Currie, Gregory (1999). Visible Traces: Documentary and the Contents of Photographs. Journal of Aesthetics and Art Criticism 57 (3)-285-297.

 

分析写真論としてはWalton 1984と並び、写真の「情動的能力(affective power)」「現象学的特権(phenomenological privilege)」に関する定番論文の一つ。映画関連のアンソロジーなんかにも収録されている。

 

レジュメ

1.イントロダクション*1

中心的な課題は、(主に)映画における「ドキュメンタリー(documentaly)」概念の定義。

「現実を映している」ぐらいのゆるい定義だと、実写映画はすべてドキュメンタリーということになってしまう。これはまずい。どうやって絞っていくか。

まずは写真的表象(photographic representation)=フィルムを使ったイメージ(film image)の二重性(duality)について整理している。写真論的にはこの辺が重要。

 

2.「痕跡」と「証言」

カリーいわく、写真の内容には二種類ある。

画像による内容の伝達は、「痕跡(traces)」として伝達する場合と、「証言(testimony)」として伝達する場合がある。法廷における情報源としての「痕跡」と「証言」をアナロジーにしているっぽい。

ざっと、前者は客観性ゆえに伝達される必然的な内容で、後者は意図や文脈依存的な内容。写真は対象の「痕跡」だが、絵画は頑張っても「証言」止まり。

痕跡はウォルトンが指摘したような信念独立性を持つ。写真は足跡やデスマスクと同じ痕跡である。

手が滑って写真が出来上がることはあるが、手が滑って絵画が出来上がることはない。

 

3.痕跡でもミスリードになりうる

とはいえ、写真が痕跡であることは、ドキュメンタリー映像がミスリードになりうることを排除しない。製作者がなんらか誤解していたり、観客を誤解させようとする意図を持っていた場合、映画は観客をあざむく。

ここで、誤解されうる内容は、「証言」として伝達されている。

「○○の写真(photograph of)」と「○○についての写真(photograph about)」を区別する。of対象はつねに現実のものであり、写真映像はof対象の「痕跡」である。一方、about対象は虚構的な対象でも可であり、写真はabout対象の「証言」となる。

 

4.痕跡であるがゆえの価値について

次に、痕跡であることはなにが特別なのか確認しておく。認識論的価値、情動的価値をめぐる節。

写真的映像は認識論的価値が高めケネディ暗殺の映像から、撃たれた回数についての知識を形成することができる。痕跡であるおかげで。

写真的映像は情動的価値も高め。写真で見るのは絵画で見るのよりも相対的にショッキング。もちろん、直接見るのが一番ショッキングだが。情動喚起パワーは、痕跡であることによって得られている。

ウォルトンは写真が透明であるとまで言っているが、カリーは痕跡であるというコミットメントにとどまりたいらしい。

 

5.ドキュメンタリーにおける物語

ようやくドキュメンタリーに戻ってくる。

痕跡であることはドキュメンタリーにとって必要そうだが、明らかに十分ではない。あらゆる実写映画はカメラを用いて撮影されている点で、「役者の演技」の痕跡だが、だからといってドキュメンタリーとは限らない。

また、ドキュメンタリーにも物語(narrative)がある。これが虚構的になってはいけない。ドキュメンタリーの物語は現実の事実に即している必要がある。

映像によって物語に意味を与えるのがドキュメンタリー映画、物語によって映像に意味を与えるのがフィクション映画、とのこと。

 

6.写真的内容は非概念的

なぜかまた寄り道。

フィルムイメージの二つの内容(痕跡=of対象=「写真的内容(photographic content)」と、証言=about対象=「物語的内容(narrative content)」)は、知覚の哲学的にも区別できる。

信念(beliefs)と知覚(perception)の区別として、前者は概念的内容(conceptual content)を持つが、後者は持たない。*2

ここで、写真的内容は非概念的だが、物語的内容は概念的だと言える。

写真Sの作者Xは、対象Pについての概念を持っていなくても(すなわち、見てもなんだか分からないとしても)、Pの写真を制作することができる。

 

7.ドキュメンタリーの緊張

物語としては一貫していながら、ミスリードな内容を含むドキュメンタリーには独特な緊張がある。

フィクションにおいてはこのような緊張はない。製作者が事実を誤認していたとしても、映画自体は誤った内容として一貫している。一方、ドキュメンタリーにおいては、物語的内容と写真的内容の間に齟齬が生じうる。

理想的なドキュメンタリー(ideal documentary)においては、それを構成するフィルムイメージが写真的な仕方のみで表象を行う。これを作業仮説とする。

 

8.部分と全体の問題

次に、部分と全体の問題を考えなきゃならない。

映画全体が真正なドキュメンタリーであったとしても、部分部分に非ドキュメンタリーなニセの素材が含まれている可能性がある。ワンシーンだけセット撮影、など。

ここで、「ドキュメンタリー部分(documentary parts)」が真にドキュメンタリー的であるのは、それが真正なドキュメンタリー映画の一部であることによって定められる。

しかし、「真正なドキュメンタリー映画」は、そもそも真正な「ドキュメンタリー部分」によって構成されていることを必要条件とする。

すなわち、ここには循環がある。部分が真正ではじめて全体は真正だし、全体が真正ではじめて部分は真正になる。このあたり、カリーは結構まじで苦戦している。

いろいろ調整した結果として↓

ドキュメンタリーの定義

部分Aは真正なドキュメンタリー映画Bの真正なドキュメンタリー部分であるiff

①AはBの部分である。

②AはフィルムによるPの痕跡であり、Bという(主張された)物語内においては、痕跡であることによってPに関する情報伝達に寄与する。

③Bのフィルム的部分は、そのたいていが、Aのような部分によって構成されている。

これで、フィクション映画もはじけるし、フェイクドキュメンタリーもはじけるし、伝記映画のような事例もはじける。

 

9.その他いろいろ①

痕跡でありかつ証言でもあるような面倒なケースを見ていく。

ヒトラーのドキュメンタリーにおけるナレーションは、ナレーターの声の痕跡だが、ヒトラーの痕跡ではない。ゆえに、映画においては痕跡としての映像と証言としてのナレーションが混在している。

このように考えると、ナポレオンについての(ナレーションによる)証言は存在しても、(映像による)痕跡は存在しないので、「ナポレオンのドキュメンタリー」は不可能ということになる?

カリーはこの帰結を認めた上で、ナポレオン-についての-ドキュメンタリー(documentary-about-Napoleon)は不可能だが、ナポレオンに関連するドキュメンタリー(Napoleon-related-documentaly)は可能だ、的なことを言っている。専門家のインタビューを集めた映像は後者。

こうなってくると、テレビのレクチャー番組や、スポーツ中継も、ドキュメンタリーということになるが、この辺はなぁなぁにしている。

最後に、芸術作品を「歴史的概念(historical concept)」とみなす立場についてコメントしている*3。「ドキュメンタリー」もその線でいけそうだが、カリーはそもそも芸術作品の歴史的定義に与しないので、ドキュメンタリーについても支持しないらしい。*4

 

10.ドキュドラマについて

事実に基づきつつ脚色を加えたドキュメンタリー・ドラマ(Docudrama)について補足。

たいていのドキュドラマはフィクション映画だと言ってしまってかまわない、とする。製作者の意図によって再構成された映像を多数含むため、信念独立ではなく、痕跡的なドキュメンタリーではない。

 

11.その他いろいろ②

残された課題について整理。

上の議論ではおよそショットを単位として考えていたが、単一のショットにおいてドキュメンタリーかどうか定かでないような事例がある。ディズニーランドのドキュメンタリーで、ディズニーランドを映像として映しつつ、画面端にミッキーのアニメーションを映しているようなショットなど。

これをどう考えればいいのかマジでわからん、的なことを書いている。

 

✂ コメント

必要十分条件云々の定義論に関しては、個人的にほとんど興味ないのでノーコメント*5。流石に議論が飛び散りすぎだろ、と思うがその辺の構成についても保留。

 

「痕跡/証言」「of/about」「非概念的/概念的」「写真的/物語的」と二項対立を連発しながら、写真的映像を特徴づけているのが、写真論的な見どころか。*6

実際、「痕跡ゆえの価値」というくだりがだいぶルーズなので、いまいち説得的ではない。大筋としては言っていること(痕跡なので、知識形成においては役立つし、特別な情動的経験を与えてくれる)には異議がないが、痕跡だから価値アリというナイーヴな議論はやや不安だ。

また、「痕跡かどうか」という別の定義論については、スクルートンやウォルトンに軽く触れているぐらいで、ほとんど扱っていない*7。「自然的な反事実的依存関係を持つ」ことは「痕跡である」ことにとって十分ではなさそうなので、この辺もうちょい詰めてほしかった(タイトル的にはむしろこっちを期待していたな)。*8

分析写真論ではPettersson 2011が「痕跡としての写真」説を打ち出して、カリーをフォローしている。カリーを読んでから考えるとそこまで目新しいことを主張しているわけではないと分かるのだが、痕跡かつ描写である画像の経験や、認識論的価値と情動的価値の絡み合いなど、カリーがサボっている論点を詰めてくれるので、真面目だなぁと思う。

 

*1:見出しは適時ぼくがつけています。

*2:知覚の哲学についてはそこまで明るくないが、概念的かどうかで信念と知覚を切り分ける議論は、たぶん古めのもの。ティム・クレーン(Tim Crane)の1992年の議論を参照しているらしいが、なんだか眉唾なくだりに思われる。知らぬけど。

*3:ジェラルド・レヴィンソンやノエル・キャロルの立場だったと思う。

*4:この節の終わりで唐突に「There may be more to documentary than I have been able to excavate, but I hope I have uncovered at least part of its structure.」というドロンをかましているが、突然言い訳されても困る。しかも論文はもうちょい続く。

*5:定義として成功しているかは置いといて、ドキュメンタリーの特徴づけとしてオモローかどうか聞かれれば、いまいちだとは思う。

*6:ちなみに、この手の区別としてはMaynard 1997の「の写真 (photograph of)」vs「の描写(depiction of)」が有名だが、カリー論文では引用されていない。うーむ。

*7:ウォルトンについても、「...photographs are not representations at all. Rather, they are like windows, mirrors, and telescopes: aids to sight」という立場として説明されているが、これは普通に誤り。ウォルトンは「写真は画像表象であり、かつ、視覚の補助である」という立場なので、「not only ~ but also」とすべきところ。同様の誤解(単純化されたウォルトン理解?)はカリーに限ったものではないので、修論ではこの辺めちゃめちゃ責めたつもり。

*8:例えば、「時刻を同期している二つの時計AとB」みたいな事例を考えたときに、時計Bは時計Aの痕跡か、と言われればノーと答えたくなる。