芸術作品の「最適」な解釈を求めて:ジェロルド・レヴィンソン「仮想意図主義」について

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『分析美学基本論文集』、飛ばし飛ばしですが読み進めています。今回は第3章「作品の意味と解釈」からアメリカの哲学者Jerrold Levinsonによる「文学における意図と解釈」のメモです。

出典は1996年の『The pleasures of aesthetics』に収録された論文「Intention and Interpretation in Literature」。作品解釈において、「作者の意図」ってどこまで関与する&考慮すべきなの?という問題に対し、「仮想意図主義」という立場を突き付けた重要論文とのこと。

ひとまず、「意図と解釈」を巡る論争を追ってみる。



素朴な意図主義

まずはじめに、素朴な意図主義があった。作品には作者の「意図」が反映されていて、「解釈」とはそれを正しく引き出すことである、と。

ここで大前提となっている以下の二点。

①作品の裏に、唯一の真である「意図」が隠れている、という本質主義

②分析によって、それを突き止めることができる、というアクセス可能性

これは、あまり芸術鑑賞に親しんでいない、ごく一般的な人にとっては直観的に受け入れやすい考えであろう。現代文のセンター試験で「作者の気持ちを答えよ」と言って選択肢から選ばせる問題は、まさにこのような①と②を前提としている。

これが19世紀までの常識だった。




反意図主義

しかし、人間だんだんと頭よくなってくると同時に懐疑的になってくるもんで、「本当にそうか?」と思う連中が出てくる。

1910年代半ばのロシア・フォルマリズムが「小説って、各機能が連鎖しているだけじゃね?」と言い出し、これに元気づけられたW. WimsattM. Beardsleyが、超有名論文「意図の誤謬 The Intentional Fallacy(1946)」を発表、ニュー・クリティシズム爆誕する。

「作品を歴史的文脈や、作者の伝記的事実と結びつけて論じるのって、しょーもないよね」「作者の意図って、そもそも知りえなくね?」ってことで、意図主義の大前提であった②アクセス可能性が棄却される。

続いてフランスで構造主義が出現すると、もう大変。「小説の肝心な部分は、その構造によって決定されている」らしい。意味があって構造が作られる、のではなく、構造があって意味が作られる、のであれば①本質主義も信じられなくなる。

そこから、「テクスト外部の情報をガン無視した批評」としてのテクスト論が興隆を極め、世はまさに大★反意図主義時代。1967年にはロラン・バルトが「作者の死」を宣言し、作者はいよいよどーでもいい存在になってくる。




意図主義リバイバル

ちょっとまてよ!と言ったのがアメリカのE.D.Hirsch博士。1967年の「解釈の妥当性 Validity in Interpretation」では、なんと自ら①本質主義と②アクセス可能性をかなぐり捨て、「テクストはそもそも曖昧なのだ」と認める。

そもそもテクスト論は、棄却したはずの①本質主義と②アクセス可能性を前提としているのではないか、とハーシュは攻撃する。彼らは言語的な分析から得られる結果を重視するが、言語自体が曖昧ならば、その結果に意味ってないんじゃないか?と。

だからこそハーシュは言う。「もうちょい作者の意図を考慮してもいいんじゃね?」。




穏健現実意図主義(Moderate Actual Intentionalism)

復活した意図主義は、90年代以降二つの派閥に分かれてゆく。

その一つが、ノエル・キャロルやGary Ismingerに代表される「穏健な”現実”意図主義」。穏健現実意図主義は、

①テクストは、その言語的習慣から複数の「読み=解釈」が可能であり、

②その「正しさ」を採点する要素は、やはり「現実の作者が持っていた意図」である、

と主張する。①については、オースティンらの言語行為論を援用する論者もいる。言葉というのは、たとえ曖昧であっても、習慣によって規定可能なのだ、と。

たとえば、「月が綺麗ですね」というのが「I love you」を意味するのは、我々が「夏目漱石がかつて<I love you>を<月が綺麗ですね>と訳させた」こと知っている場合、かつそのときに限る。要はこれが「習慣」だ。

しかし、「月が綺麗ですね」というセリフによって、「告白」を意味させることは、一筋縄じゃいかない。テクスト論者だったら「月が綺麗ですね」を額面通り「月の綺麗さについて同意を求める」発言だと解釈してしまう。そうではなく、「I love you」を意味するのは、他ならぬ話者本人が「I love you」と伝えようとしていたから、すなわち、「I love you」を意図していたからにほかならない。

ここまでは素朴な意図主義と同じだが、素朴な意図主義には問題点がある。それは、もし話者が「バーカ」を意図して「月が綺麗ですね」と発言したというのが事実であれば、「月が綺麗ですね」は罵倒言葉となってしまう。つまり、意図だけが意味内容を決定するのでは「なんでもアリ」になってしまい不都合なのだ。

穏健現実意図主義であればこれは簡単な話で、「でもそんな言い方、習慣的に存在しないよね」って一言でおしまい。②は①によってカバーされることで、「意図はやっぱり大事だよね」ってことになる。

ただし①を突き詰めるあまり、今度は②を無視して「習慣だけが意味内容を決定する」という「慣習主義 Conventionalism」というのも出てきたらしいが、これについては勉強不足なので留保。




仮想意図主義(Hypothetical Intentionalism)

さて、穏健現実意図主義は、あろうことか味方にぶん殴られる。それがジェロルド・レヴィンソンの唱える仮想意図主義だ。ここでようやく本題に入る。

文学における意図と解釈 Intention and Interpretation in Literature (1996)」によって立ち上がる仮想意図主義は、穏健現実意図主義の②「現実の作者が持っていた意図が、解釈の正しさを決定する」に関して、その「現実」って部分に疑いを投げかける。

要は、それって読者が解釈行為を行う中で、バーチャルに形成された仮想的な作者の意図なんじゃね?ってこと。

文学として提供されたものや他の言語的言説の意味を決定するのは、話者の現実の意図ではない。それはむしろ、作品内部の構造とその製作に関わる周囲の文脈の中でわれわれに利用可能なあらゆる情報源を考慮し、そこから正当に引き出された特性のすべてにわたって、最も適切に立てられた仮説としての意図なのである。(p.247)

レヴィンソンはこれを「最良の仮説」と呼ぶ。

続いてレヴィンソンは、「作者の意図」として混同されているものを、二つに区別する。一つが「意味論的意図」であり、いわゆる「作者のいいたいこと」に一致する。例えば、棒状のものを登場させて、作者が「男根のメタファーだ!」と言えば、「男根」がその意味論的意図である。

もう一つが「範疇的意図」であり、作品のカテゴリーに関わる。これは個々の表現について「作者であるオレ様は、これを意味しているんだ!」という強制的なものではなく、「いかに捉えられるべきか」に関する、ゆるやかな推奨である。例えば、小説が(日記やニュース記事としてではなく)他ならぬ小説として読まれるのは、作者がそれを「小説として」読んでもらうよう、範疇的意図を働かせたからである。「最良の仮説」を作り上げる上で、重要なのは範疇的意図を捉えることであり、意味論的意図を突き止めることではない、とレヴィンソンは言う。

さて、解釈を行う上で、我々は作品の内外から様々な情報を収集し、根拠とする。ここで、どんな情報に依拠するべきなのか、というのが問題となる。穏健現実意図主義を含む意図主義には、つまるところ「筆者がそう言っているのだから、そうに違いない!」という信念があり、作者のインタビューや私的な日記を重視するが、レヴィンソンはそこに疑問を投げつける。作者の私秘的な情報が、その他の情報に比べて、明らかに説得的ではない場合において、それででも私秘的な情報を優先させる意図主義者の解釈は、それが最適ではないという点で間違っている、と。

そもそも、それがいかに私秘的なものであろうとも、だからといってイコール作者の意味論的意図なのだと確定できるわけではない。また 、意図主義者だけがそのような私秘的情報にアクセスでき、非意図主義者は「できるのにそうしていない」と批判するのは道理に合わない、と。






(間奏。ワケワカメの典型例としてゴダールの『ウィークエンド』を貼っておく。意味論的意図はとくに無い)


なるほど面白かった。何十年もかけて議論が少しずつ洗練されてゆく感じは、実に刺激的。

要は謙虚さの違いだ。意図主義はどこまで行っても本質を前提とする意味での実在論であり、仮想意図主義は相対的にのみ物事を捉えようとする唯名論なのだ。意図主義者からすれば仮想意図主義は気取っていて埒が明かない。仮想意図主義者からすれば意図主義は理想論ばかりでまだまだ子供だ。

「仮想意図主義」は実在論にシンパシーを感じる僕ですら説得的なように思えるが、これも一つの「クールの哲学」に違いない。しかし、これは批評行為の本質的不可能性を掲げるものではなく、批評行為を積極的に肯定する点でものすごく好感的な主張だ。

「解釈の実態とは◯◯”である”=事実的言明」「解釈は△△”であるべきだ”=規範的言明」の区別については、意識的/素直な議論が必要だろう。実際のところ我々がどのように批評を行っているのか、という議論の中に、「より”作品をすくい上げる”ことができる」といった価値評価を組み込もうとするとロクなことにならない。「作者の意図は関与するのか」のように、事実記述をスタート地点にすると、行き着く先は規範との循環だ。

「作者の意図は考慮”すべき”か」「どのような解釈を行う”べき”か」といった規範的な議論からスタートすれば、もう少しマシなように思える。仮想意図主義が「正解」の解釈を諦めて「最適」の解釈に依拠することで行うのは、規範的言明である。これは僕の個人的な論敵である「クールの哲学」に属するが、批評行為を肯定し、救済するものでもある。だからこそ、仮想意図主義は非意図主義なのであって、反意図主義なのではない。


いやァ、こういう論文を書きたいものだ。たいへん勉強になった。

「意図と解釈」の議論については、このまま修論の題材に使おうかとすら思っている。前回取り上げたケンダル・ウォルトン周辺のフィクション論や、ネルソン・グッドマン周辺の記号論/イメージ認識とも隣接していて、まさに分析美学の中心地だ。思弁的実在論における相関主義の議論とも接続可能だし、ポスト・インターネット以降のコンテクスト変化とも結びつけられれば面白そうだ。

結局、僕の関心は「真実」vs「虚偽」からブレずにここまでやってきたんだなぁ、と実感する。


●参考文献

河合大介「現実意図主義の瑕疵」

松永伸司「作者の意図と作品の解釈」-9bit

ヴァーチャルな喜怒哀楽を生きる:ケンダル・ウォルトン「フィクションを怖がる」について

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『分析美学基本論文集』からつまみ読み。ケンダル・ウォルトンによる1978年の論考「フィクションを怖がる(Fearing Fictions)」に関するメモと雑感です。

ホラー映画に対して「怖かった」と言うけれども、それって本当に「恐怖」だと言えるのか?って話。


①恐怖とは身に危険が迫ることへの信念から生じる。➡現実に危険への信念がなければ「恐怖」とは「言えない」。

②ホラー映画の鑑賞者は、自分が現実には安全だとしっかり「理解している」。➡現実に危険があるとは「信じていない」。

よって①と②は矛盾しているので、ホラー映画に対して「怖かった」と言うのは誤りである。しかし……

実際彼は、現実世界のまさにいま起ころうとしている大惨事を恐れる人の状態と、いくつかの点でまぎれもなく同じ状態にある。彼の筋肉は緊張し、ぎゅっと椅子をつかむ。鼓動が早まり、アドレナリンが湧き出る。(p.303)

身体的には実際に「怖がっている」のだと。ウォルトンはこれを暫定的に「準恐怖」と定義する。これをもとにウォルトンは、鑑賞者が現実的なレベルではなく、ヴァーチャルなレベルで”怖がっている”ことを説明していく。


手始めに「いやいや、”現実に”怖がっているでしょ」という反論への再反論を行う。

①危険はないと完全に理解している、というけど、実は半信半疑なんじゃね? 半分は現実に危険だと信じているんじゃない?

➡多少なりとも信じているなら、逃げ出すとか警察を呼ぶとか、多少はそういった行動をしようと思うはず。実際にはそんなことする人いないので、「半分は危険性を感じている」ってのは間違い。

➡あるいは――震え上がるような身体的な反応は、どう考えても「半分だけ危険性を感じている」人の振舞いではない。どちらかと言うと「100%怖がっている」人のそれに近い。よって、別の説明が必要である。

②知的には「危険性がない」と分かっていても、「直感的」には危険を感じているのでは?

➡「怖いから観るのを辞める」といった、本来行うはずの「意図的行動」とらない。自動的な反応(動悸、汗)だけが起きる。つまり直感的にも危険性は「感じていない」。

③意図的行動をとらないと言うけど、それって恐怖が「瞬間的」すぎて反応できないだけでは? 少なくとも瞬間的には危険を感じているんじゃね?

➡ホラー映画を観ている間の反応は持続的。怖がっているというのなら、映画の間ずっと"怖がっている"。

➡恐怖ほかにも、憐れみや称賛など、鑑賞中以外にも感情は持続する。よって、それは「瞬間的」ではない。


最終的に「怖がっている」「怖がっていない」を両立させたいウォルトンは、ここから「虚構的真理」という概念を導入する。というのも「水は100℃で沸騰する」というのは観測可能な真の命題だが、フィクションだとややこしい話になる。

「桃太郎は鬼を退治した」というけれど、”現実には”桃太郎も鬼も存在しないので、当然”退治する”こともできない。かと言って、「桃太郎は鬼を退治した」というのが偽かと言うと、それも違和感がある。

要するにこの命題は、「『桃太郎』という昔話(=虚構世界)において、桃太郎は鬼を退治した」と言い換えれば、真の命題になるのだ。これが虚構的真理。

虚構的真理は単に「想像」することによって作られることもあるが、より重要なのはルール付けされた原則によってもたらされるケースだ。例えば、鬼ごっこで鬼をやる子供は、現実には醜悪で凶暴な怪物の「鬼」ではないが、ゲームの参加者は彼を"鬼"だとみなす「原則」のもとで、彼=鬼から逃げる。ここからウォルトンの有名なごっこ遊び理論 (Make-Believe Theory)」が始まる。

結論から言うと、ホラー映画鑑賞者は、

・現実には危険性を感じておらず、怖がっていない。

しかし

・「ごっこ上における」危険性を”信じていて”、「ごっこ上では」怖がっていると言える。

ごっこ上でそのスライムが自分を脅かしていると理解することからもたらされる一つの結果として、チャールズは準恐怖に陥っており、その事実が、ごっこ上で彼はそのスライムを恐れているという真理を発生させているのである。(p.313)

とのことだ。つまり、ホラー映画を観て「怖がる」→「飛び上がる」という一連のプロセスは、鬼ごっこの鬼を「怖がる」→「逃げる」プロセスと同じであり、特定の原則に基づいたヴァーチャルな「恐怖」なのだと言う。


あとの章は補足的な説明。我々は虚構世界の単なる「外的な観測者」ではなく、自ら虚構のレベルまで降りていくんだよー、とか。


最後に、上記で得られた理論が、どのように有用なのか説明する。

①フィクションはなぜ、どのように重要だと言えるのか?

➡古来フィクションの役割とは、「情動を浄化」してくれるものされてきた(アリストテレスとか)。つまり感情のコントロールを学ぶことだと。だとすれば、その練習は虚構世界・ごっこ遊びを通したシュミレーションによってのみ可能となる。

さらに、次のことも説明できる。

②悲劇的なバッドエンドが好きな人が、それでもなお登場人物に共感・同情しながら鑑賞するのは矛盾してない?

➡共感・同情は「ごっこ上」でのヴァーチャルなもの。悲劇を望むのは現実における嗜好。両者は両立しうる。

③オチが分かっていても熱中しながら鑑賞できるのはなぜ?

➡ストーリーに熱中するのは「ごっこ上」でのヴァーチャルなもの。現実にはオチを知っていても、それに(ごっこ上で)熱中することは可能。

などなど、非常に便利な理論だそうだ。





休憩タイム。


個人的に気になった点をいくつか。

なにより、準恐怖の位置付けがよく分からなかった。はじめのほうでは「ごっこ遊び」の結果生じるものだと思っていたが、どうやら「ごっこ遊び」そのものの媒介にもなっているみたい。準恐怖、即ち身体的な反応がどうやって生じるのかは、明らかに重要なポイントであるにもかかわらず、説明が甘い。

彼が怖がっていることをごっこ的にしている要因の一部は、チャールズが準恐怖の状態にあるという事実、つまり彼が自分の動悸の早まりや筋肉の緊張などを感じているという事実である。(p.312)

だからこそ「怖かった」という言明は可能となる。それは分かるが、上でも引用したが通り、

ごっこ上でそのスライムが自分を脅かしていると理解することからもたらされる一つの結果として、チャールズは準恐怖に陥っており、その事実が、ごっこ上で彼はそのスライムを恐れているという真理を発生させているのである。(p.313)

準恐怖の前提には「危険性アリ」という"信念"がある。これが準恐怖を生み、準恐怖(身体的な反応)が「怖かった」というごっこ遊びに基づく言明を可能にする。

じゃあ、信念ってなんだ? 

最初に戻って、「現実の危険性に対する信念はない→よって現実的には”怖がっていない”」を確認すると、これって「ごっこ上の危険性に対する信念ならある→よってごっこ上では”怖がっている”」ってだけじゃね? 要するに表面的な理解を一つ下のメタに移して、なぁなぁにしているだけなのでは……。現実の”恐怖”がごっこ上の「恐怖」によって説明されるとしても、結局入れ子構造が無限に続いてしまうのではないか。


とはいえ、現実の表面的な”恐怖”が、実はヴァーチャルなレベルでの恐怖の投影なのだという指摘は興味深い。ウォルトンはこれをフィクション鑑賞のみに適応しているが、喜怒哀楽の言語ゲームを生きる我々にとって、人生も一つの「ごっこ遊び」でしかない気がする。

加えて、名前で損していると思う。「ごっこ」だとか「ふり」だとか、言葉のシニカルさだけで反論を集めているという話も聞いた。

ポストモダン的な「クールさ」を推し進めるのであれば、あらゆることはヴァーチャルになる。仕事というのは人間関係とルーチンワークの「仕事ごっこ」であり、恋愛は記念日とプレゼントの「恋愛ごっこ」でしかない。ウォルトンは、一度観たことのある作品でも「ごっこ遊び」によって感動を救い出せると言うが、それは「ごっこ上での」感動に過ぎない。現実には影しかない。

自分をどうにか騙して虚構を現実として思わせるというよりは、われわれ自信が虚構的になるのである。(p.325)

これはちょっとした名言に違いない。『マトリックス』に描かれる水槽の脳や、『インセプション』の入り組んだ夢の中で生きる人たち。ウォルトンは、そういったヴァーチャルな現実に対して「別にそれでもよくね?」と肯定しているように思えた。昔だったら僕も両手上げて同意していたが、いまではどうだろうか。なかなか態度を決められない。いずれにせよ、「クールさ」については近い内に何か書かなきゃ、と思っている。





2018/04/05補足

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森功次「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」

田村均「虚構世界における感情と行為 : ケンダル・ウォルトンの虚構と感情の理論」

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この辺読んだ。疑問点があるていど整理されたので、ざっくり補足。

フィクションと情動のパラドックスについては、Seahwa Kimが以下のようにまとめている。

(1)私達は、自分の感情の対象が実在すると信じているときにのみ感情を持つ。

(2)私たちは、虚構作品の登場人物や状況が実在しないことが分かっている

(3)私たちは、虚構作品の登場人物や状況に対して感情を持つ

(田村 pp.3-4)(*引用者強調)

このうちどれかを否定しないと、矛盾が発生するという寸法。ウォルトンは(3)を否定して、「現実の感情ではなく、ごっこ上の感情やで」というわけ。

フィクション作品”として”鑑賞する際には(2)はおおむね自明だとして、個人的には(1)を否定したほうが手っ取り早くないか?と思ったが、いわゆる「感情の認知主義」というヤツはなかなか強固らしい。

つまり、①真実であり、真実だと知っている、②嘘だが、真実だと信じ込んでいる、③真実だが、嘘だと思いこんでいる、④嘘であり、嘘だと知っている、のうち①②に対してのみ感情装置は起動する。しかし(2)は要するに④であり、こうして(1)と(2)がぶつかる。

だからこそ「実在すると信じているときにのみ」の「のみ」って部分を外せばいいんじゃね、と思うが、結局「④嘘であり、嘘だと知っていることに感情を抱くのはなぜか」というわけで、もとの問題に戻ってくる。(1)を否定しようとすると、その中から飛び出してきた④が、再度(1)(2)(3)の矛盾をもたらすのだ。結局人間は刺激に対して条件反射をしているだけなのだ、とか、そういった解答が必要になってくる。


僕自身はジョン・サールの思考実験中国語の部屋で切り込めるんじゃないか、って思った。実験について詳しくはウィキペディア参照。

たとえ中国語を理解していなくても、マニュアルがあれば中国語でメッセージをアウトプットできる。情動というのも、社会的慣習や個人的嗜好がまとめられたマニュアルをもとに、自動的にアウトプットされたものではないか。だとすれば、虚構中の世界そのものが実在するかどうか、ましてや鑑賞者がその実在を信じているかどうかは問題にならない。人間機械論みたいで我ながらディストピアじみているが、「虚構上では確かに怖がっているが、現実上では怖がっていない」なんていうよりもすっきりするじゃない。


余談だが、去年の東京フィルメックス映画祭でワン・ビン監督の『ファンさん』という作品を観た。アルツハイマーのファンさんを捕らえたノンフィクション作品らしいが、前情報が一切なかった僕は最後の最後までフィクションかどうかわからないまま観終わった。ウォルトンだったらこれを「不完全なごっこ遊び」とでも呼ぶだろうか。僕は結局「もやもやした微妙な気持ち」のまま観終わったが、仮にノンフィクションだと知っていたとして、ファンさんへの同情が増しただろうか。あるいはそうかもしれない。

逆にあれがフィクションで、僕自身そのことを知りつつ観ていたとしたら、「これは作り話で、ファンさんを演じている人は本当はアルツハイマーじゃないんだ」と認識しつつ、意識下で「ファンさんが実在するというごっこ遊びのもとで、ごっこ上の同情を抱く」ことができただろうか。これはちょっと怪しくないか。(断定はできないけど)

もちろん、「フィクションかノンフィクションか」についての認識は、アウトプットされる情動に少なからず影響するだろう。しかし、「実話かどうか」は近年の創作においてますますあやふやになってきている。そもそもドキュメンタリー映画だって、カメラによって切り取られた瞬間から、それはもはや現実たりえない。これを逆手に撮って、フィクションっぽいノンフィクションにしたのが『ファンさん』だろうし、先々月ぐらいに話題になった『スリー・ビルボード』はノンフィクションっぽいフィクションを意識しているだろう。素朴な言い方だが、鑑賞者にとっては「どっちでもいい」のであり、それよりもカメラワークや音楽といった手法的な部分が大きな影響力を持っている。「フィクションだと認識しているかどうか」が、アウトプットされる情動が「真の情動」なのか「準情動」なのかを左右するというのは、直観的に見て疑わしい。だったら「中国人の部屋」説みたいに、刺激に反応するだけの人間像を思い描いたほうが、好都合なように思える。


ほかにもいろいろツッコミどころを見つけたが、これぐらいにしておこう。ひとまずは、僕レベルでも思いつくような疑問にちゃんとツッコんでくれている人がいるのを確認したということで、一安心だ。

Book Review:ノエル・キャロル『批評について──芸術批評の哲学』

 分析美学のフィールドで話題になっている新刊。(新刊といっても発売は去年の11月。読書ペースを上げねば……)

 分析哲学の論文を思わせるクリアな議論から、「批評とはなにか」を考える。キャロルは一貫して「理由にもとづいた価値付け」こそが批評行為であるとする。一方で分析や解釈などといった(しばしば批評の本質とみなされがちな)手法は、価値付けをサポートするための補助的な作業にとどまる。
 仮想敵となるのは文体論や物語論といった、形式主義的な批評理論だろうか。「客観的な批評は不可能」だとするそれらの立場に対し、キャロルはあくまでも「客観性の担保は可能」だとする。ただし、「その作品特有のカテゴリーにおいて」は。ではカテゴライズの客観性はどのように担保されるのか、という反論に関しては、本書終盤で再反論を行っている。しかし、この例にかぎらず、全体的にキャロルの行う再反論には「日常的」「直感的」な経験を拠り所とするものが多く、共感できないわけではないが、納得はしづらい。例えば、先述のような客観の不可能性を強調する論者に対しては、ノエルは大意として次のように答える。「我々は日常的な対人コミュニケーションにおいて、相手の気持ちを考え、それでおおむね上手く暮らしている。現に相手の気持ちを考えることが”出来ている”のだとすれば、芸術批評についても同じことが言えるはずだ」と。しかし、これではあまりにも楽観的かつ反知性的な見方ではないか。客観的批評を可能とする素朴な立場に回帰しているだけで、不可能論者からすれば「それってあなたの感想ですよね」で終わりだ。浅学なもので、この議論に切り込むだけの材料はないものの、改めて問題の根深さを実感させられる。

 また、価値付けを支える「根拠」として、作者の”意図”を過度に重視している点も気になる。目的によって行為が生じ、行為には結果が生じる。そこまでは分かるが、一連のプロセスがあたかも直線的に、濾過されることなく実現されるというのは無理があるだろう。キャロルは創作の基本様式として、一作者対一作品の構図を念頭に置いているだろうが、現代的な状況(たとえばロザリンド・クラウス以降の「ポスト・メディウム」的状況)において、そのような構図は更新されつつある。
 ついでに、古典的価値への盲信には辟易させられた。ミケランジェロはすごい、シェイクスピアはすごい、他の作品よりもすごい、みんなもそう思うでしょ??と言われたところで、「そうか?」としか思えない。各所で吐露してきた通り、ぼくなんかは『老人と海』を噴飯ものの駄作だと思ってるクチなので、このような古典至上主義にはまるで共感できなかった。キャロルは、特定のカテゴリーにおける、特定の目標に照らし合わせれば、作品の優劣は判断可能であるとする。だが、問題はそんなに単純だろうか? 例えばSF映画の名シーンといえば、キューブリック『2001年:宇宙の旅』のスターゲイト突入シーンがある。しかし「あの無限のように続く陶酔的サイケデリズムが、SF的価値を高めている」からといって、誰かがあの場面を拡張させ、+1分追加しただけの作品『2001年:宇宙の旅+1』を発表すれば、キューブリックの『2001年:宇宙の旅』”よりも優れている”作品を作れる、というのは直観的にいって誤りだろう。カテゴリーだとか、意図だとか、目的だとかいったところで、作品の優劣をつけるのはやはり難しいように思える。そうではなく「『2001年:宇宙の旅』は天才キューブリックの手による古典的傑作であり、あの上映時間、あのコンポジションこそが最適なのだ」というのなら、それこそ古典至上主義的な思考停止だ。

 しかし、反論への再反論をベースとする論述は整理されていて、わかりやすい。こういう文章を書きたいものだ。分析哲学系の本は初めて手に取ったが、議論の現在地がはっきりしていて、つけようと思えばケチもつけやすい。なるほど、原則からいって論争的なフィールドだと思う。もっと色々見てみたい。