芸術作品の「最適」な解釈を求めて:ジェロルド・レヴィンソン「仮想意図主義」について

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『分析美学基本論文集』、飛ばし飛ばしですが読み進めています。今回は第3章「作品の意味と解釈」からアメリカの哲学者Jerrold Levinsonによる「文学における意図と解釈」のメモです。

出典は1996年の『The pleasures of aesthetics』に収録された論文「Intention and Interpretation in Literature」。作品解釈において、「作者の意図」ってどこまで関与する&考慮すべきなの?という問題に対し、「仮想意図主義」という立場を突き付けた重要論文とのこと。

ひとまず、「意図と解釈」を巡る論争を追ってみる。



素朴な意図主義

まずはじめに、素朴な意図主義があった。作品には作者の「意図」が反映されていて、「解釈」とはそれを正しく引き出すことである、と。

ここで大前提となっている以下の二点。

①作品の裏に、唯一の真である「意図」が隠れている、という本質主義

②分析によって、それを突き止めることができる、というアクセス可能性

これは、あまり芸術鑑賞に親しんでいない、ごく一般的な人にとっては直観的に受け入れやすい考えであろう。現代文のセンター試験で「作者の気持ちを答えよ」と言って選択肢から選ばせる問題は、まさにこのような①と②を前提としている。

これが19世紀までの常識だった。




反意図主義

しかし、人間だんだんと頭よくなってくると同時に懐疑的になってくるもんで、「本当にそうか?」と思う連中が出てくる。

1910年代半ばのロシア・フォルマリズムが「小説って、各機能が連鎖しているだけじゃね?」と言い出し、これに元気づけられたW. WimsattM. Beardsleyが、超有名論文「意図の誤謬 The Intentional Fallacy(1946)」を発表、ニュー・クリティシズム爆誕する。

「作品を歴史的文脈や、作者の伝記的事実と結びつけて論じるのって、しょーもないよね」「作者の意図って、そもそも知りえなくね?」ってことで、意図主義の大前提であった②アクセス可能性が棄却される。

続いてフランスで構造主義が出現すると、もう大変。「小説の肝心な部分は、その構造によって決定されている」らしい。意味があって構造が作られる、のではなく、構造があって意味が作られる、のであれば①本質主義も信じられなくなる。

そこから、「テクスト外部の情報をガン無視した批評」としてのテクスト論が興隆を極め、世はまさに大★反意図主義時代。1967年にはロラン・バルトが「作者の死」を宣言し、作者はいよいよどーでもいい存在になってくる。




意図主義リバイバル

ちょっとまてよ!と言ったのがアメリカのE.D.Hirsch博士。1967年の「解釈の妥当性 Validity in Interpretation」では、なんと自ら①本質主義と②アクセス可能性をかなぐり捨て、「テクストはそもそも曖昧なのだ」と認める。

そもそもテクスト論は、棄却したはずの①本質主義と②アクセス可能性を前提としているのではないか、とハーシュは攻撃する。彼らは言語的な分析から得られる結果を重視するが、言語自体が曖昧ならば、その結果に意味ってないんじゃないか?と。

だからこそハーシュは言う。「もうちょい作者の意図を考慮してもいいんじゃね?」。




穏健現実意図主義(Moderate Actual Intentionalism)

復活した意図主義は、90年代以降二つの派閥に分かれてゆく。

その一つが、ノエル・キャロルやGary Ismingerに代表される「穏健な”現実”意図主義」。穏健現実意図主義は、

①テクストは、その言語的習慣から複数の「読み=解釈」が可能であり、

②その「正しさ」を採点する要素は、やはり「現実の作者が持っていた意図」である、

と主張する。①については、オースティンらの言語行為論を援用する論者もいる。言葉というのは、たとえ曖昧であっても、習慣によって規定可能なのだ、と。

たとえば、「月が綺麗ですね」というのが「I love you」を意味するのは、我々が「夏目漱石がかつて<I love you>を<月が綺麗ですね>と訳させた」こと知っている場合、かつそのときに限る。要はこれが「習慣」だ。

しかし、「月が綺麗ですね」というセリフによって、「告白」を意味させることは、一筋縄じゃいかない。テクスト論者だったら「月が綺麗ですね」を額面通り「月の綺麗さについて同意を求める」発言だと解釈してしまう。そうではなく、「I love you」を意味するのは、他ならぬ話者本人が「I love you」と伝えようとしていたから、すなわち、「I love you」を意図していたからにほかならない。

ここまでは素朴な意図主義と同じだが、素朴な意図主義には問題点がある。それは、もし話者が「バーカ」を意図して「月が綺麗ですね」と発言したというのが事実であれば、「月が綺麗ですね」は罵倒言葉となってしまう。つまり、意図だけが意味内容を決定するのでは「なんでもアリ」になってしまい不都合なのだ。

穏健現実意図主義であればこれは簡単な話で、「でもそんな言い方、習慣的に存在しないよね」って一言でおしまい。②は①によってカバーされることで、「意図はやっぱり大事だよね」ってことになる。

ただし①を突き詰めるあまり、今度は②を無視して「習慣だけが意味内容を決定する」という「慣習主義 Conventionalism」というのも出てきたらしいが、これについては勉強不足なので留保。




仮想意図主義(Hypothetical Intentionalism)

さて、穏健現実意図主義は、あろうことか味方にぶん殴られる。それがジェロルド・レヴィンソンの唱える仮想意図主義だ。ここでようやく本題に入る。

文学における意図と解釈 Intention and Interpretation in Literature (1996)」によって立ち上がる仮想意図主義は、穏健現実意図主義の②「現実の作者が持っていた意図が、解釈の正しさを決定する」に関して、その「現実」って部分に疑いを投げかける。

要は、それって読者が解釈行為を行う中で、バーチャルに形成された仮想的な作者の意図なんじゃね?ってこと。

文学として提供されたものや他の言語的言説の意味を決定するのは、話者の現実の意図ではない。それはむしろ、作品内部の構造とその製作に関わる周囲の文脈の中でわれわれに利用可能なあらゆる情報源を考慮し、そこから正当に引き出された特性のすべてにわたって、最も適切に立てられた仮説としての意図なのである。(p.247)

レヴィンソンはこれを「最良の仮説」と呼ぶ。

続いてレヴィンソンは、「作者の意図」として混同されているものを、二つに区別する。一つが「意味論的意図」であり、いわゆる「作者のいいたいこと」に一致する。例えば、棒状のものを登場させて、作者が「男根のメタファーだ!」と言えば、「男根」がその意味論的意図である。

もう一つが「範疇的意図」であり、作品のカテゴリーに関わる。これは個々の表現について「作者であるオレ様は、これを意味しているんだ!」という強制的なものではなく、「いかに捉えられるべきか」に関する、ゆるやかな推奨である。例えば、小説が(日記やニュース記事としてではなく)他ならぬ小説として読まれるのは、作者がそれを「小説として」読んでもらうよう、範疇的意図を働かせたからである。「最良の仮説」を作り上げる上で、重要なのは範疇的意図を捉えることであり、意味論的意図を突き止めることではない、とレヴィンソンは言う。

さて、解釈を行う上で、我々は作品の内外から様々な情報を収集し、根拠とする。ここで、どんな情報に依拠するべきなのか、というのが問題となる。穏健現実意図主義を含む意図主義には、つまるところ「筆者がそう言っているのだから、そうに違いない!」という信念があり、作者のインタビューや私的な日記を重視するが、レヴィンソンはそこに疑問を投げつける。作者の私秘的な情報が、その他の情報に比べて、明らかに説得的ではない場合において、それででも私秘的な情報を優先させる意図主義者の解釈は、それが最適ではないという点で間違っている、と。

そもそも、それがいかに私秘的なものであろうとも、だからといってイコール作者の意味論的意図なのだと確定できるわけではない。また 、意図主義者だけがそのような私秘的情報にアクセスでき、非意図主義者は「できるのにそうしていない」と批判するのは道理に合わない、と。






(間奏。ワケワカメの典型例としてゴダールの『ウィークエンド』を貼っておく。意味論的意図はとくに無い)


なるほど面白かった。何十年もかけて議論が少しずつ洗練されてゆく感じは、実に刺激的。

要は謙虚さの違いだ。意図主義はどこまで行っても本質を前提とする意味での実在論であり、仮想意図主義は相対的にのみ物事を捉えようとする唯名論なのだ。意図主義者からすれば仮想意図主義は気取っていて埒が明かない。仮想意図主義者からすれば意図主義は理想論ばかりでまだまだ子供だ。

「仮想意図主義」は実在論にシンパシーを感じる僕ですら説得的なように思えるが、これも一つの「クールの哲学」に違いない。しかし、これは批評行為の本質的不可能性を掲げるものではなく、批評行為を積極的に肯定する点でものすごく好感的な主張だ。

「解釈の実態とは◯◯”である”=事実的言明」「解釈は△△”であるべきだ”=規範的言明」の区別については、意識的/素直な議論が必要だろう。実際のところ我々がどのように批評を行っているのか、という議論の中に、「より”作品をすくい上げる”ことができる」といった価値評価を組み込もうとするとロクなことにならない。「作者の意図は関与するのか」のように、事実記述をスタート地点にすると、行き着く先は規範との循環だ。

「作者の意図は考慮”すべき”か」「どのような解釈を行う”べき”か」といった規範的な議論からスタートすれば、もう少しマシなように思える。仮想意図主義が「正解」の解釈を諦めて「最適」の解釈に依拠することで行うのは、規範的言明である。これは僕の個人的な論敵である「クールの哲学」に属するが、批評行為を肯定し、救済するものでもある。だからこそ、仮想意図主義は非意図主義なのであって、反意図主義なのではない。


いやァ、こういう論文を書きたいものだ。たいへん勉強になった。

「意図と解釈」の議論については、このまま修論の題材に使おうかとすら思っている。前回取り上げたケンダル・ウォルトン周辺のフィクション論や、ネルソン・グッドマン周辺の記号論/イメージ認識とも隣接していて、まさに分析美学の中心地だ。思弁的実在論における相関主義の議論とも接続可能だし、ポスト・インターネット以降のコンテクスト変化とも結びつけられれば面白そうだ。

結局、僕の関心は「真実」vs「虚偽」からブレずにここまでやってきたんだなぁ、と実感する。


●参考文献

河合大介「現実意図主義の瑕疵」

松永伸司「作者の意図と作品の解釈」-9bit