ヴァーチャルな喜怒哀楽を生きる:ケンダル・ウォルトン「フィクションを怖がる」について

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『分析美学基本論文集』からつまみ読み。ケンダル・ウォルトンによる1978年の論考「フィクションを怖がる(Fearing Fictions)」に関するメモと雑感です。

ホラー映画に対して「怖かった」と言うけれども、それって本当に「恐怖」だと言えるのか?って話。


①恐怖とは身に危険が迫ることへの信念から生じる。➡現実に危険への信念がなければ「恐怖」とは「言えない」。

②ホラー映画の鑑賞者は、自分が現実には安全だとしっかり「理解している」。➡現実に危険があるとは「信じていない」。

よって①と②は矛盾しているので、ホラー映画に対して「怖かった」と言うのは誤りである。しかし……

実際彼は、現実世界のまさにいま起ころうとしている大惨事を恐れる人の状態と、いくつかの点でまぎれもなく同じ状態にある。彼の筋肉は緊張し、ぎゅっと椅子をつかむ。鼓動が早まり、アドレナリンが湧き出る。(p.303)

身体的には実際に「怖がっている」のだと。ウォルトンはこれを暫定的に「準恐怖」と定義する。これをもとにウォルトンは、鑑賞者が現実的なレベルではなく、ヴァーチャルなレベルで”怖がっている”ことを説明していく。


手始めに「いやいや、”現実に”怖がっているでしょ」という反論への再反論を行う。

①危険はないと完全に理解している、というけど、実は半信半疑なんじゃね? 半分は現実に危険だと信じているんじゃない?

➡多少なりとも信じているなら、逃げ出すとか警察を呼ぶとか、多少はそういった行動をしようと思うはず。実際にはそんなことする人いないので、「半分は危険性を感じている」ってのは間違い。

➡あるいは――震え上がるような身体的な反応は、どう考えても「半分だけ危険性を感じている」人の振舞いではない。どちらかと言うと「100%怖がっている」人のそれに近い。よって、別の説明が必要である。

②知的には「危険性がない」と分かっていても、「直感的」には危険を感じているのでは?

➡「怖いから観るのを辞める」といった、本来行うはずの「意図的行動」とらない。自動的な反応(動悸、汗)だけが起きる。つまり直感的にも危険性は「感じていない」。

③意図的行動をとらないと言うけど、それって恐怖が「瞬間的」すぎて反応できないだけでは? 少なくとも瞬間的には危険を感じているんじゃね?

➡ホラー映画を観ている間の反応は持続的。怖がっているというのなら、映画の間ずっと"怖がっている"。

➡恐怖ほかにも、憐れみや称賛など、鑑賞中以外にも感情は持続する。よって、それは「瞬間的」ではない。


最終的に「怖がっている」「怖がっていない」を両立させたいウォルトンは、ここから「虚構的真理」という概念を導入する。というのも「水は100℃で沸騰する」というのは観測可能な真の命題だが、フィクションだとややこしい話になる。

「桃太郎は鬼を退治した」というけれど、”現実には”桃太郎も鬼も存在しないので、当然”退治する”こともできない。かと言って、「桃太郎は鬼を退治した」というのが偽かと言うと、それも違和感がある。

要するにこの命題は、「『桃太郎』という昔話(=虚構世界)において、桃太郎は鬼を退治した」と言い換えれば、真の命題になるのだ。これが虚構的真理。

虚構的真理は単に「想像」することによって作られることもあるが、より重要なのはルール付けされた原則によってもたらされるケースだ。例えば、鬼ごっこで鬼をやる子供は、現実には醜悪で凶暴な怪物の「鬼」ではないが、ゲームの参加者は彼を"鬼"だとみなす「原則」のもとで、彼=鬼から逃げる。ここからウォルトンの有名なごっこ遊び理論 (Make-Believe Theory)」が始まる。

結論から言うと、ホラー映画鑑賞者は、

・現実には危険性を感じておらず、怖がっていない。

しかし

・「ごっこ上における」危険性を”信じていて”、「ごっこ上では」怖がっていると言える。

ごっこ上でそのスライムが自分を脅かしていると理解することからもたらされる一つの結果として、チャールズは準恐怖に陥っており、その事実が、ごっこ上で彼はそのスライムを恐れているという真理を発生させているのである。(p.313)

とのことだ。つまり、ホラー映画を観て「怖がる」→「飛び上がる」という一連のプロセスは、鬼ごっこの鬼を「怖がる」→「逃げる」プロセスと同じであり、特定の原則に基づいたヴァーチャルな「恐怖」なのだと言う。


あとの章は補足的な説明。我々は虚構世界の単なる「外的な観測者」ではなく、自ら虚構のレベルまで降りていくんだよー、とか。


最後に、上記で得られた理論が、どのように有用なのか説明する。

①フィクションはなぜ、どのように重要だと言えるのか?

➡古来フィクションの役割とは、「情動を浄化」してくれるものされてきた(アリストテレスとか)。つまり感情のコントロールを学ぶことだと。だとすれば、その練習は虚構世界・ごっこ遊びを通したシュミレーションによってのみ可能となる。

さらに、次のことも説明できる。

②悲劇的なバッドエンドが好きな人が、それでもなお登場人物に共感・同情しながら鑑賞するのは矛盾してない?

➡共感・同情は「ごっこ上」でのヴァーチャルなもの。悲劇を望むのは現実における嗜好。両者は両立しうる。

③オチが分かっていても熱中しながら鑑賞できるのはなぜ?

➡ストーリーに熱中するのは「ごっこ上」でのヴァーチャルなもの。現実にはオチを知っていても、それに(ごっこ上で)熱中することは可能。

などなど、非常に便利な理論だそうだ。





休憩タイム。


個人的に気になった点をいくつか。

なにより、準恐怖の位置付けがよく分からなかった。はじめのほうでは「ごっこ遊び」の結果生じるものだと思っていたが、どうやら「ごっこ遊び」そのものの媒介にもなっているみたい。準恐怖、即ち身体的な反応がどうやって生じるのかは、明らかに重要なポイントであるにもかかわらず、説明が甘い。

彼が怖がっていることをごっこ的にしている要因の一部は、チャールズが準恐怖の状態にあるという事実、つまり彼が自分の動悸の早まりや筋肉の緊張などを感じているという事実である。(p.312)

だからこそ「怖かった」という言明は可能となる。それは分かるが、上でも引用したが通り、

ごっこ上でそのスライムが自分を脅かしていると理解することからもたらされる一つの結果として、チャールズは準恐怖に陥っており、その事実が、ごっこ上で彼はそのスライムを恐れているという真理を発生させているのである。(p.313)

準恐怖の前提には「危険性アリ」という"信念"がある。これが準恐怖を生み、準恐怖(身体的な反応)が「怖かった」というごっこ遊びに基づく言明を可能にする。

じゃあ、信念ってなんだ? 

最初に戻って、「現実の危険性に対する信念はない→よって現実的には”怖がっていない”」を確認すると、これって「ごっこ上の危険性に対する信念ならある→よってごっこ上では”怖がっている”」ってだけじゃね? 要するに表面的な理解を一つ下のメタに移して、なぁなぁにしているだけなのでは……。現実の”恐怖”がごっこ上の「恐怖」によって説明されるとしても、結局入れ子構造が無限に続いてしまうのではないか。


とはいえ、現実の表面的な”恐怖”が、実はヴァーチャルなレベルでの恐怖の投影なのだという指摘は興味深い。ウォルトンはこれをフィクション鑑賞のみに適応しているが、喜怒哀楽の言語ゲームを生きる我々にとって、人生も一つの「ごっこ遊び」でしかない気がする。

加えて、名前で損していると思う。「ごっこ」だとか「ふり」だとか、言葉のシニカルさだけで反論を集めているという話も聞いた。

ポストモダン的な「クールさ」を推し進めるのであれば、あらゆることはヴァーチャルになる。仕事というのは人間関係とルーチンワークの「仕事ごっこ」であり、恋愛は記念日とプレゼントの「恋愛ごっこ」でしかない。ウォルトンは、一度観たことのある作品でも「ごっこ遊び」によって感動を救い出せると言うが、それは「ごっこ上での」感動に過ぎない。現実には影しかない。

自分をどうにか騙して虚構を現実として思わせるというよりは、われわれ自信が虚構的になるのである。(p.325)

これはちょっとした名言に違いない。『マトリックス』に描かれる水槽の脳や、『インセプション』の入り組んだ夢の中で生きる人たち。ウォルトンは、そういったヴァーチャルな現実に対して「別にそれでもよくね?」と肯定しているように思えた。昔だったら僕も両手上げて同意していたが、いまではどうだろうか。なかなか態度を決められない。いずれにせよ、「クールさ」については近い内に何か書かなきゃ、と思っている。





2018/04/05補足

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森功次「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」

田村均「虚構世界における感情と行為 : ケンダル・ウォルトンの虚構と感情の理論」

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この辺読んだ。疑問点があるていど整理されたので、ざっくり補足。

フィクションと情動のパラドックスについては、Seahwa Kimが以下のようにまとめている。

(1)私達は、自分の感情の対象が実在すると信じているときにのみ感情を持つ。

(2)私たちは、虚構作品の登場人物や状況が実在しないことが分かっている

(3)私たちは、虚構作品の登場人物や状況に対して感情を持つ

(田村 pp.3-4)(*引用者強調)

このうちどれかを否定しないと、矛盾が発生するという寸法。ウォルトンは(3)を否定して、「現実の感情ではなく、ごっこ上の感情やで」というわけ。

フィクション作品”として”鑑賞する際には(2)はおおむね自明だとして、個人的には(1)を否定したほうが手っ取り早くないか?と思ったが、いわゆる「感情の認知主義」というヤツはなかなか強固らしい。

つまり、①真実であり、真実だと知っている、②嘘だが、真実だと信じ込んでいる、③真実だが、嘘だと思いこんでいる、④嘘であり、嘘だと知っている、のうち①②に対してのみ感情装置は起動する。しかし(2)は要するに④であり、こうして(1)と(2)がぶつかる。

だからこそ「実在すると信じているときにのみ」の「のみ」って部分を外せばいいんじゃね、と思うが、結局「④嘘であり、嘘だと知っていることに感情を抱くのはなぜか」というわけで、もとの問題に戻ってくる。(1)を否定しようとすると、その中から飛び出してきた④が、再度(1)(2)(3)の矛盾をもたらすのだ。結局人間は刺激に対して条件反射をしているだけなのだ、とか、そういった解答が必要になってくる。


僕自身はジョン・サールの思考実験中国語の部屋で切り込めるんじゃないか、って思った。実験について詳しくはウィキペディア参照。

たとえ中国語を理解していなくても、マニュアルがあれば中国語でメッセージをアウトプットできる。情動というのも、社会的慣習や個人的嗜好がまとめられたマニュアルをもとに、自動的にアウトプットされたものではないか。だとすれば、虚構中の世界そのものが実在するかどうか、ましてや鑑賞者がその実在を信じているかどうかは問題にならない。人間機械論みたいで我ながらディストピアじみているが、「虚構上では確かに怖がっているが、現実上では怖がっていない」なんていうよりもすっきりするじゃない。


余談だが、去年の東京フィルメックス映画祭でワン・ビン監督の『ファンさん』という作品を観た。アルツハイマーのファンさんを捕らえたノンフィクション作品らしいが、前情報が一切なかった僕は最後の最後までフィクションかどうかわからないまま観終わった。ウォルトンだったらこれを「不完全なごっこ遊び」とでも呼ぶだろうか。僕は結局「もやもやした微妙な気持ち」のまま観終わったが、仮にノンフィクションだと知っていたとして、ファンさんへの同情が増しただろうか。あるいはそうかもしれない。

逆にあれがフィクションで、僕自身そのことを知りつつ観ていたとしたら、「これは作り話で、ファンさんを演じている人は本当はアルツハイマーじゃないんだ」と認識しつつ、意識下で「ファンさんが実在するというごっこ遊びのもとで、ごっこ上の同情を抱く」ことができただろうか。これはちょっと怪しくないか。(断定はできないけど)

もちろん、「フィクションかノンフィクションか」についての認識は、アウトプットされる情動に少なからず影響するだろう。しかし、「実話かどうか」は近年の創作においてますますあやふやになってきている。そもそもドキュメンタリー映画だって、カメラによって切り取られた瞬間から、それはもはや現実たりえない。これを逆手に撮って、フィクションっぽいノンフィクションにしたのが『ファンさん』だろうし、先々月ぐらいに話題になった『スリー・ビルボード』はノンフィクションっぽいフィクションを意識しているだろう。素朴な言い方だが、鑑賞者にとっては「どっちでもいい」のであり、それよりもカメラワークや音楽といった手法的な部分が大きな影響力を持っている。「フィクションだと認識しているかどうか」が、アウトプットされる情動が「真の情動」なのか「準情動」なのかを左右するというのは、直観的に見て疑わしい。だったら「中国人の部屋」説みたいに、刺激に反応するだけの人間像を思い描いたほうが、好都合なように思える。


ほかにもいろいろツッコミどころを見つけたが、これぐらいにしておこう。ひとまずは、僕レベルでも思いつくような疑問にちゃんとツッコんでくれている人がいるのを確認したということで、一安心だ。

Book Review:ノエル・キャロル『批評について──芸術批評の哲学』

 分析美学のフィールドで話題になっている新刊。(新刊といっても発売は去年の11月。読書ペースを上げねば……)

 分析哲学の論文を思わせるクリアな議論から、「批評とはなにか」を考える。キャロルは一貫して「理由にもとづいた価値付け」こそが批評行為であるとする。一方で分析や解釈などといった(しばしば批評の本質とみなされがちな)手法は、価値付けをサポートするための補助的な作業にとどまる。
 仮想敵となるのは文体論や物語論といった、形式主義的な批評理論だろうか。「客観的な批評は不可能」だとするそれらの立場に対し、キャロルはあくまでも「客観性の担保は可能」だとする。ただし、「その作品特有のカテゴリーにおいて」は。ではカテゴライズの客観性はどのように担保されるのか、という反論に関しては、本書終盤で再反論を行っている。しかし、この例にかぎらず、全体的にキャロルの行う再反論には「日常的」「直感的」な経験を拠り所とするものが多く、共感できないわけではないが、納得はしづらい。例えば、先述のような客観の不可能性を強調する論者に対しては、ノエルは大意として次のように答える。「我々は日常的な対人コミュニケーションにおいて、相手の気持ちを考え、それでおおむね上手く暮らしている。現に相手の気持ちを考えることが”出来ている”のだとすれば、芸術批評についても同じことが言えるはずだ」と。しかし、これではあまりにも楽観的かつ反知性的な見方ではないか。客観的批評を可能とする素朴な立場に回帰しているだけで、不可能論者からすれば「それってあなたの感想ですよね」で終わりだ。浅学なもので、この議論に切り込むだけの材料はないものの、改めて問題の根深さを実感させられる。

 また、価値付けを支える「根拠」として、作者の”意図”を過度に重視している点も気になる。目的によって行為が生じ、行為には結果が生じる。そこまでは分かるが、一連のプロセスがあたかも直線的に、濾過されることなく実現されるというのは無理があるだろう。キャロルは創作の基本様式として、一作者対一作品の構図を念頭に置いているだろうが、現代的な状況(たとえばロザリンド・クラウス以降の「ポスト・メディウム」的状況)において、そのような構図は更新されつつある。
 ついでに、古典的価値への盲信には辟易させられた。ミケランジェロはすごい、シェイクスピアはすごい、他の作品よりもすごい、みんなもそう思うでしょ??と言われたところで、「そうか?」としか思えない。各所で吐露してきた通り、ぼくなんかは『老人と海』を噴飯ものの駄作だと思ってるクチなので、このような古典至上主義にはまるで共感できなかった。キャロルは、特定のカテゴリーにおける、特定の目標に照らし合わせれば、作品の優劣は判断可能であるとする。だが、問題はそんなに単純だろうか? 例えばSF映画の名シーンといえば、キューブリック『2001年:宇宙の旅』のスターゲイト突入シーンがある。しかし「あの無限のように続く陶酔的サイケデリズムが、SF的価値を高めている」からといって、誰かがあの場面を拡張させ、+1分追加しただけの作品『2001年:宇宙の旅+1』を発表すれば、キューブリックの『2001年:宇宙の旅』”よりも優れている”作品を作れる、というのは直観的にいって誤りだろう。カテゴリーだとか、意図だとか、目的だとかいったところで、作品の優劣をつけるのはやはり難しいように思える。そうではなく「『2001年:宇宙の旅』は天才キューブリックの手による古典的傑作であり、あの上映時間、あのコンポジションこそが最適なのだ」というのなら、それこそ古典至上主義的な思考停止だ。

 しかし、反論への再反論をベースとする論述は整理されていて、わかりやすい。こういう文章を書きたいものだ。分析哲学系の本は初めて手に取ったが、議論の現在地がはっきりしていて、つけようと思えばケチもつけやすい。なるほど、原則からいって論争的なフィールドだと思う。もっと色々見てみたい。

面白かった映画選2017

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 あけましておめでとうございます。ぼくです。

 年に一度、観た映画の年間ベストをまとめようという本企画も今回で4回目。2017年は就活のせいでなかなか映画観れないなーと予想していましたが、いつの間にか就活を辞めていて、たくさん観れました。合計で136本です。

 では、はじめます。

観た順。ランキング形式ではない!
数字はFilmarksにてつけた点数。
*劇場公開が今年の作品も、古いものは「旧作」扱い。

[旧作]

  1. マグノリア』(1999) ☆5.0 /// 『ブギーナイツ』(1997) ☆5.0 /// 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007) ☆5.0 /// 『パンチドランク・ラブ』(2002) ☆4.9
  2. 『牯嶺街少年殺人事件』(1991) ☆5.0 /// 『台北ストーリー』(1985) ☆4.5
  3. 霧の中の風景』(1988) ☆4.6
  4. (審査員特別賞:『西瓜』(2005) ☆4.0)
  5. クラウド アトラス』(2012) ☆4.7
  6. 『タレンタイム〜優しい歌』(2009) ☆5.0
  7. ざくろの色』(1971) ☆4.7
  8. 『エル・スール』(1982) ☆4.7
  9. パイレーツ・ロック』(2009) ☆4.6
  10. 『炎628』(1985) ☆5.0

[新作]

たかが世界の終わり』☆4.0
『沈黙ーサイレンスー』☆4.0
ラ・ラ・ランド』☆2.5
『お嬢さん』☆4.7
『ムーンライト』☆3.5
『メッセージ』☆4.7
『オクジャ okja』☆4.2
『T2 トレインスポッティング』☆3.8
『パターソン』☆4.3
ベイビー・ドライバー』☆4.0
ダンケルク』☆3.8
『立ち去った女』☆4.9
スイス・アーミー・マン』☆3.9
『ドリーム』☆3.8
エンドレス・ポエトリー』☆4.3
オン・ザ・ミルキー・ロード』☆2.0






[旧作]


マグノリア』(1999) 
ブギーナイツ』(1997)
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)
パンチドランク・ラブ』(2002) 

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 しょっぱなからなんだこのふざけたセレクトは、と言われてもしかたがないでしょうよ。今年Filmarksで満点☆5.0を付けたのは6作ですが、50%に当たる3作がポール・トーマス・アンダーソン作品からのノミネートということで、世界の均衡が崩壊しています。

 「エンターテイナー・オブ・アメリカ」、「ポップ・カルチャーの救世主」、「現代のアンディ・ウォーホル」、とはぼくが勝手に呼んでいるのですが、PTAのカラフルさは他の追随を許さない。大抵の作品が長尺(マグは3時間、ブギとゼアは2時間半)にもかかわらず、最初から最後まで「おもしれえ……おもしれぇ……! おもしれぇよォ……!」と、アホみたいに面白がっていられる、このテンポの良さはアメリカの財産、映画界の福音に違いない。もう両手離しで、頭ごなしに褒めたくなる、そんなPTA映画。

 老若男女が入り混じってわちゃわちゃするマグノリアは文句なしに大傑作だし、デカマラ青年の成功と性交と挫折と中折を大真面目に描いたアホ映画ブギーナイツも捨てがたい。石油と閉鎖社会と宗教のドロッドロで窒息するようなゼア・ウィル・ビー・ブラッドも素晴らしい。だが、個人的にはパンチドランク・ラブが一番好きかも。「変わっている」というよりは、「ちょっと頭の弱い」バリーが、あっちへぶつかって、こっちへぶつかって……。本当に好きだ。アァ……。

 2017年12月に公開した新作『Phantom Thread』ですが、まだ配給決まってないのかな。仕事してくれ、頼む。




『牯嶺街少年殺人事件』(1991)
台北ストーリー』(1985)

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 「一番好きな映画監督は?」と聞かれたら、元気よく「エドワード・ヤン!」と答えるようになってから久しいですが、ついにやってきましたよ大本命、『牯嶺街少年殺人事件』リバイバル上映!! うぉぉぉお!! 事件だ事件だァ!!! 2017年は、これを観るために生きていたと言っても過言ではない。

 クーリンチェに対するぼくの偏愛は各所で垂れ流していて、皆さんうんざりしているかもしれませんが、改めて愛を語ります。こいつはとんでもない傑作です。

 60年代初頭の台北。マフィア並に組織化された中学生不良グループの抗争。暴行あり流血あり死人ありの、圧倒的世紀末。まさに台湾版『ゴッド・ファーザー』。悲しいぐらいピュアな男の子と、出会う男すべて狂わせるガール。これだけ動的な話にもかかわらず、台湾ニューシネマのスタイルで撮られる映像はあまりにもひっそりとしていて、白々しい。感情を煽るようなBGMは一切なく、カメラはどこまでも遠い。しかも、それが4時間ぶっ続け。生きるってのは、無音と向き合うことなんだ。『カラマーゾフの兄弟』には人生の全てが書かれているそうだが、クーリンチェはお世辞にも教訓的な映画ではない。はっきり言ってこんなの観ても、個人的な日々はなに一つ好転しない。だけど、この押し付けがましくない物語が、ぼくはひたすらに愛おしい。『カラマーゾフの兄弟』には人生の全てが書かれているそうだが、それだけじゃ足りないんだ。

 こんなマニアックな作品にも関わらず、ロングヒットになり、弐番館でも盛況を収めるなど、ようやく時代がエドワード・ヤンに追いついてきている。この衝撃は、家で借りてきたDVDを観るだけじゃ、半分も回収できないだろう。今年また上映するかどうか定かではないが、万が一あったら、みんな走るんだ。走れ、走れ、劇場へ走れ。

 ついでに(って言っちゃアレだけど)、ほぼ同時にやっていた『台北ストーリー』も、なかなかの佳作です。本当に悲しくて、やりきれない気持ちになる。リアルが”リアル”すぎて、なんも言えない。好きだぜ、エドワード・ヤン




霧の中の風景』(1988)

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 今年は、「映画」との出会いというよりも、「監督」との出会いに恵まれた一年だったように思います。なかでもイチオシが、ギリシャテオ・アンゲロプロス監督。このタルコフスキーへのリスペクトを隠そうともしない、難解・冗長・睡眠薬的作品を作りまくる頭のおかしい作家との遭遇は、今年もっとも刺激的な経験の一つだった。なんせ、『旅芸人の記録』(232分)、『霧の中の風景』(125分)、『こうのとり、たちずさんで』(142分)、『ユリシーズの瞳』(177分)、『永遠と一日』(134分)、『エレニの旅』(170分)、『エレニの帰郷』(127分)で、この監督だけで18時間と45分を捧げているので、無刺激だったと言えばおれはもう五感のない無機物よ。マグカップとか、観葉植物とか。

 一番心に刺さった作品は、霧の中の風景。これ、かなり観やすいというか、それほど長くもないし話もわかりやすいので、アンゲロプロス入門に最適だと思う。アンゲロプロス作品は、タルコフスキーの精神世界と小津安二郎の日常をゆるやかに繋げる。「曇天の日にしか撮影しない」という謎のこだわりによって、灰一色に統一された画面は、すんごい斬新で癖になる。なかなか知人で観ている人がいないので、語る相手がいなくて悲しいんだぼくは……。




審査員特別賞:

『西瓜』(2005) 

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 ここで番外編です。Filmarksはたいてい「好き嫌い」じゃなくて個人的に見た「完成度」で採点してるので、たまに「好きなんだけどなぁ〜!好きなんだけどなぁ〜!」といいつつ☆4.0ぐらいを付けてしまう作品がちらほら。

 しかし、「こんな快作を埋もれさせるのはもったいない!」ということで、急遽引っ張ってきた一作がこちら。快作というよりは、怪作です。

 改めて多く語るつもりはないので、ぼくのFilmarksレビューを御覧ください。あと、よかったら観てやってください、『西瓜』。

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https://filmarks.com/movies/29946/reviews/34515103


 現場からは以上です。




クラウド アトラス』(2012)

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 しばらく忘れていたが、「そうか、俺SF映画好きだったわ」というのを思い出した作品。『マトリックス』のウォシャウスキー姉妹ですね。6つの異なる時代(1849年、1936年、1973年、2012年、2144年、2321年)を舞台にしたオムニバス。壮大です。長いです。ドタバタします。

 全体論的な因果のもとで、輪廻転生を繰り返す人びと。散らばった話が、繋がったかと思えばまたちぎれて、どこまでも広がっていく。予算規模がすごいです。あと、ペ・ドゥナが可愛い。




『タレンタイム〜優しい歌』(2009)

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 あ、なんか思い出しただけで泣けてきた。

 ヒューマンドラマの大傑作といえば、ぼくの中ではしばらく『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』が断トツ首位を走っていたのですが、ついに追いつかれました。マレーシアのヤスミン・アフマド監督。日本で紹介されるのは初かな。

 4月に都内の某読書会で教えてもらった作品ですが、いやァ、良かった。文化祭の歌唱コンクールと、生徒それぞれが抱えるドラマ。Filmarksでは「『シング・ストリート』と『6才のボクが、大人になるまで。』を持ってきて、『ヤンヤン 夏の想い出』に落とし込んだ」と書きましたが、この”お菓子詰め合わせ”感は本当にすごい。それでいてビターなのだから、大した作品だ。

 基本的に映画観ていて泣いたことはないんですが、これは、ついに泣きました。渋谷イメージフォーラムの、夜遅くの回で、一番うしろの席で、ぼろぼろ泣いてました。ラストにかけての、あの展開はずるい。あまりにも”エモ”すぎる。なにより、劇中歌が本当に良い。必見度合いで言うと、クーリンチェにも匹敵する、素晴らしい名作です。もう一度観たい……。




ざくろの色』(1971)

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 早稲田松竹の二本立てで観たセルゲイ・パラジャーノフ監督特集。

 世の中にはいくつか「振り切れてクレイジー」な作品があって、例えばゴダール『ウィークエンド』ホドロフスキーホーリー・マウンテン寺山修司田園に死すなんかが思いつくが、本作ざくろの色』は間違いなくこの類。

 筋は有るようで無くて、動いているようで静止していて、喋っているようで何もかもが無音に包まれている。唐突に始まって、唐突に終わる。「さぁ、死ね」。コレを観おわって帰ったあと、あまりにも消化不良で胃もたれになったので、酒をあおって寝ました。観るドラッグ、とは言い得て妙だ。苦痛に感じるほどの長さでもない(71分)なので、みんなもっと気軽に観てほしい。

「そういえば、あるよ」
 1000がだしぬけに言った。そして本棚からおもむろに『ざくろの色』のVHSを出したのだ。
「観たことない?」
「あるわけないでしょ」
「ちょっとやってみる?」
「本物?」
「もちろん」





『エル・スール』(1982)

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 はい、スペインのヴィクトル・エリセ監督です。修行僧みたいにストイックで寡作な監督さん。

 80年代のいわゆる”Slow Cinema”勢とは一線を画す、独自のリアリズムを追求した作家だと思います。エリセ映画は決して”巧み”なものではなく、想像力で空を飛ぶ鳥というよりは、よちよち歩きの幼児みたいで、不器用だからこそ愛おしい。『エル・スール』で描かれる親子のすれ違いは、あまりにも普遍的で、逃げ場がない。こんなどうしようもない物語をすくい取るのは、すごく誠実な態度だと思うし、優しさなんだと思う。しんみりとしちゃうけど、本当に優しい映画なので、心の荒んだ悪人にも観てほしい。




パイレーツ・ロック』(2009)

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 PTA以外、割としんみり系が並んでしまっているので、ここで一つ明るいヤツを。ラブ・アクチュアリーリチャード・カーティス監督ですね。

 60年代イギリス、まだラジオでロック・ミュージックを放送するのが規制されていた時代。「海上から勝手に流そうぜ!」ということで、本当にそれをやってしまった人たちの半実話。一癖も二癖もあるラジオパーソナリティーたちと、60年代ロックの名曲たち……。「毎日が文化祭」みたいで、本当に楽しそう。この男子校的なノリも含めて、どちらかというと男子向けな話なのかもしれない。ロックは正義なのよ。




『炎628』(1985)

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 旧作最後のノミネートはソ連より戦争映画『炎628』。この凄惨さについては、いまだに言葉にできずにいる。

 ナチスの横暴を描いた作品は多く存在するが、「おい!酷いぞ!」と憤慨するものこそあれ、本作みたいに「あっ……ああァ……!」と言葉を失う類のものはそうそう無いのでは。映画に関する表象文化論ではたびたび「表象不可能性」が問題に上がりますが、これもまた、物語る=再現することの本質的不可能性を痛感させられるような作品です。ここまで鬼気迫る狂気は、ちょっと見たことない。

 レンタルビデオ屋には置いておらず、「幻の名作」と化していますが、みなさんDVD買ってください。ぼくは買いました。これから先、何度観返すことになるのか分からない。暗い気持ちになるのであまり観たくないが、ここにあるのは紛れもない”歴史”であって、『炎628』はどこまでも歴史に誠実な作品だ。ぼくはそんな風に思うが、あるいは全くの逆で、抑えきれない怒りが作り出した偏狭的な作品のようにも観れる。いずれにせよ、”こんなもん”は観たことない。Filmarksの平均評価が☆4.4ってあたりに、「震えて眠れ」って感じだ。






[新作]


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 今年はずいぶん映画館に行った印象です。あと、映画館でアルバイトしていました。チケットを売ったり切ったりしていると自分も観たくなってきますし、回りにも映画好きが増えたことでいい刺激になったんじゃないかと。

 何より、マーティン・スコセッシグザヴィエ・ドランパク・チャヌクジム・ジャームッシュクリストファー・ノーランエミール・クストリッツァアレハンドロ・ホドロフスキーアキ・カウリスマキの新作が上映ということで、もはや”激アツ”なんて騒ぎではない。もうこれはカーニヴァルよ。作家性のカーニヴァル

 今年は本数多めなので、あっさりまとめようと思います。お納めください。


たかが世界の終わり
 みんなだいすきドランかんとくの最新作。周囲を含めて笑えるぐらい酷評されてましたが、ぼくは好きです。初期ドランの良さなんて、まさにこれなんじゃないか。みんな『Mommy』と『わたしはロランス』しか観てないんだろ。

『沈黙ーサイレンスー』
 遠藤周作。この堂々巡りの議論は正直退屈だが、信徒がこっぴどく殺されまくるのは、一周回って見ものというか、レパートリーが抱負すぎて感心した。まぁ、対して面白くはない。

ラ・ラ・ランド
 ミュージカル嫌い代表ことボクが満を持してのラ、ラ、ランド上陸。粗探しするためだけにIMAXに課金。十分すぎるほど悪口言ったので、もう大丈夫です。『セッション』にすら見劣りする三流映画。こんな作品をありがたがる人たちって、関取が一人で餅つきをする映像を延々と2時間見せられても「おもろいおもろい」言ってそう。

『お嬢さん』
 これはたまらん。本当に面白かった。韓国のサスペンスものはなんだかんだグロいだけで、気分が悪くなって終わりのパターンが多いため、あまり好きではないんですが、そこはさすがのパク・チャヌク。なんでこんなに笑えるんだ。天才。

『ムーンライト』
 ララランドを抑えてのアカデミー賞作品賞を受賞。の割に、ここまでシンプル”つまらん”のはどういうことか。ウォン・カーウァイrespectなのは分かったから、もう一声欲しいところだった。

『メッセージ』
 SF映画では今年のベスト。あのテッド・チャン原作なんだから、面白くないわけがない。宇宙、生命、時間、言語……このおそろしく”地味”な哲学的思弁が、人によっては無理なんだろうが、ぼくにはばっちりフィットした。

『オクジャ okja』
 近年台頭してきたNetflixが満を持して送る韓国映画。このためだけにNetflixに登録し、まんまと課金し続けています。思っていたほど胸糞ではないし、カバっぽい質感のオクジャは可愛いけど、話は並だ。

『T2 トレインスポッティング
 
トレインスポッティング自体なんの思い入れもないため、始終どうでもよかった。回りの人たちは「音楽がイイぃぃいい!!」とか叫んでイッてましたが、ゆうてそんなじゃね?

『パターソン』
 ゆるい映画2017年代表。「ありふれた平凡な生活」を謳ってますが、こいつら、めちゃくちゃ恵まれてる方じゃねーか!リア充◯ね!ってのは置いといて、やっぱり気持ちよかった。ブルドッグのマーヴィンは大正義。

ベイビー・ドライバー
 よく出来てるんだろうが、あまりにも期待未満でブチ切れた。あれはちょっと大人げなかったと思う……。
 いや、やっぱ凡作だよこれ。

ダンケルク
 予告の段階でうすうす想像はできたが、まぁ、地味な映画です。とはいえ、個人的にはやっぱ正義だし、「大義であった……」って感じさ。ありがとう『ダンケルク』。

『立ち去った女』
 ちょっと異色の新作。イメージフォーラムでひっそりやっていたフィリピン映画ですが、10時間の映画とか作ってる鬼畜鬼才ラヴ・ディアスの、超短い(4時間)作品。おもろいですが、もう二度と観れない気がしてならない。何を観たんだろうか? 本当に観たんだろうか? 全部まぼろし

スイス・アーミー・マン
 ハリー・ポッターが放屁しまくる映画。思っていたほどアホじゃなかったし、ちょっと怖かった。わけわからんが、なんか好き。

『ドリーム』
 アメリカ地域文化やってる界隈で盛り上がってた作品ですが、うーん、まぁ普通かな。実話ベースだから、こんなもんか。

エンドレス・ポエトリー
 世界代表のサイコ、ホドロフスキー超監督の新作。前作『リアリティのダンス』もばつぐんに面白かったですが、軽く超えました。ジジィの野望は終わらない。

オン・ザ・ミルキー・ロード
 最後の最後、愚痴で終わらせて下さい。『ベイビー・ドライバー』以上の「ガッカリ of the year」は間違いなくコレ。ドタバタしてるだけで、もうまるでダメ。2017年の楽しい映画経験を台無しにするレベルの駄作。ぼくは悲しいヨ。


 終わった……。今年も長かったし、例年長くなってる気がする……。

 映画関連でほかに印象に残っている出来事と言えば、東京フィルメックス映画祭ですかね。ワン・ビン監督の新作『ファンさん』と、アッバス・キアロスタミ監督の『24フレーム』を観に行きましたが、どちらも微妙。特に後者は吐血レベルのつまらなさで、面白くなさすぎて面白かったです。イベントとしてはすごく新鮮で楽しかったですね。オールナイト上映には一度も行けなかったので、今年は数回行きたいところ。

 あと、上でもちらっと触れましたが、映画館でバイトしてました。本当に入り浸っていたんで、ホーム感がすごい。いま映画館行っても、「あっ、チケット売り場に椅子があるんだ。いいなぁ……」とか、「あのドリンク、作るのダルそうだな〜」とか、「ゴミ置いてくんじゃねぇよ、掃除大変だろうが!」みたいなところばっかり気になってしまう。


 タイミングが合わず観られなかった作品もちらほら。アキ・カウリスマキ希望のかなたと、ブレードランナー 2049スター・ウォーズの新作なんかは、早めに観ておきたい。

 監督単位では、アレクサンドル・ソクーロフアレクセイ・ゲルマンロベール・ブレッソンヴェルナー・ヘルツォークをまとめてチェックしたいですね。まだまだ頑張ります。

 まもなく院試なので、映画沼への復帰は2月中旬頃〜を予定しています。無事に院生になれたら、狂ったように映画を観る予定なので、乞うご期待。

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 いい年になりますように。