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美しいもの、もっと美しいもの
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2024-02-29T20:12:36+09:00
2024-02-29T20:20:32+09:00 美的理由についての前置き 快楽主義 エンゲージメント理論 共同体主義理論 ネットワーク理論 ✂ コメント 参照文献 美的価値についての議論は引き続きたいへん盛り上がっているが、次の事実は意外なほどに無視されている。すなわち、美しさや優美さは比較・ランクづけ可能である。絵の下手な私が模写した《真珠の耳飾りの少女》は、フェルメールによるオリジナルほどには美的価値がない。 「趣味については議論できない」「美は見る人の目の中にある」を真に受けている人は、美的価値に上下があるという観察自体を否定したくなるだろう。「みんな違ってみんな良い」というわけだ。しかし、仮になんらかの観点から私の模写がフェルメール…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20240229/20240229182755.png" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#美的理由についての前置き">美的理由についての前置き</a></li>
<li><a href="#快楽主義">快楽主義</a></li>
<li><a href="#エンゲージメント理論">エンゲージメント理論</a></li>
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<li><a href="#ネットワーク理論">ネットワーク理論</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a><ul>
<li><a href="#参照文献">参照文献</a></li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>美的価値についての議論は引き続きたいへん盛り上がっているが、次の事実は意外なほどに無視されている。すなわち、<strong>美しさや優美さは比較・ランクづけ可能である</strong>。絵の下手な私が模写した《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%BF%BC%EE%A4%CE%BC%AA%BE%FE%A4%EA%A4%CE%BE%AF%BD%F7">真珠の耳飾りの少女</a>》は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%E1%A1%BC%A5%EB">フェルメール</a>によるオリジナルほどには美的価値がない。</p>
<p>「趣味については議論できない」「美は見る人の目の中にある」を真に受けている人は、美的価値に上下があるという観察自体を否定したくなるだろう。「みんな違ってみんな良い」というわけだ。しかし、仮になんらかの観点から私の模写が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%E1%A1%BC%A5%EB">フェルメール</a>のオリジナルを凌いでいるのだとしても、それと同時に、前者が後者に比べて稚拙であり、覇気がなく、ごくふつうの意味において劣っていることを否定できるわけではない。芸術家や<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%D5%A5%A9%A1%BC%A5%DE%A1%BC">パフォーマー</a>ですら創作や上演に際しては、自らの一手一手を美的に評価しており、より力強いブラシ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%AF">ストローク</a>やより優美なターンをもたらすよう配慮している。美的価値における優劣が意味をなさないのだとすれば、これらの配慮を理解することは不可能である。</p>
<p>さて、価値があるとはそもそもどういうことか。近年の現代美学において広く受け入れられている分析によれば、<strong>価値があるとははなんらかの行為や反応をする理由を与える特徴をもつということだ</strong><a href="#f-00f9b981" id="fn-00f9b981" name="fn-00f9b981" title="具体的にどのような行為や反応をする理由を与えるのが美的価値なのかというのは論争的な点だが、有力な見解のひとつとして、美的価値に駆動されるふるまいはなんらか特定的な意味での「鑑賞[appreciation]」である。クバラも、これに乗っている。">*1</a>。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%E1%A1%BC%A5%EB">フェルメール</a>のオリジナルは、私の模写にはない精巧さをもつので、美術館に鑑賞しに行ったり、保護・修復・展示したり、見て感動を覚えるだけのより強い理由を与える。そう選択できる場合には合理的なエージェントはみなオリジナルを鑑賞するべきであるし、私の模写ではなくオリジナルを美術館に展示するべきである。オリジナルよりも私の模写に対してより強い感動を覚えるエージェントは、美的理由に照らせば不合理である。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilarchive.org%2Frec%2FKUBNTO-2" title="Robbie Kubala, Non-Monotonic Theories of Aesthetic Value - PhilArchive" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>ロビー・クバラ[Robbie Kubala]は近刊の論文「Non-Monotonic Theories of Aesthetic <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a>」で、このような等級づけ可能性[gradability]に加え、次のような原理を尊重することが、美的価値論にとっての重要な評価基準になることを訴えている。</p>
<blockquote>
<p><strong>単調性</strong>:対象Oに関してφする美的理由の強さは、Oの美的価値に沿って単調に変化する。<strong><br />Monotonicity</strong>: The strength of our aesthetic reasons to φ with respect to an object O varies monotonically with the aesthetic <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/value">value</a> of O.</p>
</blockquote>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%E1%A1%BC%A5%EB">フェルメール</a>のオリジナル版《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%BF%BC%EE%A4%CE%BC%AA%BE%FE%A4%EA%A4%CE%BE%AF%BD%F7">真珠の耳飾りの少女</a>》は、私の模写よりも高い美的価値をもつ。したがって、前者を鑑賞する理由は後者を鑑賞する理由よりも強い。ここで、私よりもはるかに手先が器用だが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%E1%A1%BC%A5%EB">フェルメール</a>ほどではない美術部員が同じ作品を模写したならば、彼女の模写はオリジナルほどではないにせよ私の模写よりも美的価値が高いはずだ。したがって、彼女の模写を鑑賞する理由は、私の模写を鑑賞する理由よりも強く、オリジナルを鑑賞する理由よりも弱い。美的価値の大小が、そのまま、鑑賞する理由の大小となる。一見すると、これはすごく当たり前のことである。</p>
<p>しかし、クバラによれば、美的価値とはなにかに答えようとする理論の多くが、この単調性原理に違反したケースを認めてしまうのだ。具体的には、Nguyen (2019)とStrohl (2022)の<strong>エンゲージメント理論</strong>、Riggle (2022)の<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%C6%B1%C2%CE%BC%E7%B5%C1">共同体主義</a>理論</strong>、Lopes (2018)の<strong>ネットワーク理論</strong>は、それぞれ美的価値と美的理由の強さが不釣り合いに変化するケースを許容してしまう。逆に、今日ひどく攻撃されている<strong>快楽主義</strong>は、単調性原理を尊重している限りでは理論的アドバンテージをもっている。</p>
<p>以下ではクバラの議論を紹介しよう。同時に、現代の代表的な美的価値論を三つまとめて紹介することになるので、本エントリーはかなりお得である。</p>
<h3 id="美的理由についての前置き">美的理由についての前置き</h3>
<p>各立場の検討に先立ち、クバラは説明課題をさらに明確化している。ここが実はかなり大事なので、ちゃんとまとめておこう。</p>
<p>作品を鑑賞する理由はいろいろある。私の母なら<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%E1%A1%BC%A5%EB">フェルメール</a>のオリジナルよりも私の模写を見る理由をより強くもつかもしれないし、単純に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%A6%A5%EA%A5%C3%A5%C4%A5%CF%A5%A4%A5%B9%C8%FE%BD%D1%B4%DB">マウリッツハイス美術館</a>まで赴く時間や旅費のない人も私の模写を見る理由をより強くもつかもしれない。注意したいのは、これらはいずれも対象の美的価値とは関係のない、主体側の要因から鑑賞理由が左右されるケースだという点だ。</p>
<p>クバラは単調性原理を以下のように限定する。</p>
<blockquote>
<p><strong>狭義の鑑賞的単調性(NAM)</strong>:対象Oを鑑賞する対象由来の美的理由の強さは、Oの美的価値に沿って単調に変化する。<br /></p>
<p><span class="notion-enable-hover" style="font-weight: 600;" data-token-index="0">Narrow Appreciative Monotonicity (NAM)</span>: The strength of our object-given aesthetic reasons to appreciate O varies monotonically with the aesthetic <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/value">value</a> of O.</p>
</blockquote>
<p>Wolf (2011: 55)は美的価値を比較する例として、「構造の複雑さ、散文の質、人物描写の深さと繊細さ、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D4%CC%B1%BC%D2%B2%F1">市民社会</a>に対する洞察」ゆえに『ミ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%EB%A5%DE">ドルマ</a>ーチ』は『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A1%A6%A5%F4%A5%A3%A5%F3%A5%C1%A1%A6%A5%B3%A1%BC%A5%C9">ダ・ヴィンチ・コード</a>』より優れた小説であると述べるが、こういったケースこそ注目に値するものである。そこでは、複雑さや繊細さといった<strong>対象がもつ美的特徴</strong>に由来して、より強い美的理由が生じる。個人的なこだわりや社会的義務が与えるのは、対象由来の理由ではないか、美的理由ではないことから、脇に置かれるべきである<a href="#f-a72ba092" id="fn-a72ba092" name="fn-a72ba092" title="主体由来の美的理由なるものを認めるかどうかは、最近ちょっと盛り上がっているトピックである。ある芸術家やジャンルに個人的な愛着をもつことは、それらをより優先的に鑑賞する理由を高める。それは「美的」理由と呼ばれるのにふさわしいものなのか、大局的に見ていいことなのか、論争ポイントがいくつもある。
">*2</a>。</span></p>
<p>クバラによれば、美的実践が基本的には対象志向であることを多くの理論は十分に説明できておらず、したがって過度に修正的である。この点は私もなんとなく感じつつ明確化できていなかった点なので、かなり学びがあった。「対象由来の美的理由」というのは私も今後使っていこうと思う。</p>
<h3 id="快楽主義">快楽主義</h3>
<p>伝統的な見解では、<strong>美的に良いものとは美的快楽を与えるものである</strong>。ある特別な快楽を与えるからこそ、《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%BF%BC%EE%A4%CE%BC%AA%BE%FE%A4%EA%A4%CE%BE%AF%BD%F7">真珠の耳飾りの少女</a>》や<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%B8%A5%E3%A5%AF">クジャク</a>は美的に良い、というわけだ。ここでは、価値の一次的な担い手は美的快楽であり、アイテムはこれを与える限りで、道具的で二次的な価値をもつことになる。美的快楽主義は、快楽を「価値ある経験」に取り替えて射程を広げたり、判定するのは理想的批評家だとして客観性を担保したり、さまざまな仕方で補強されているが、そのポイントに変わりはない。美的に良いものは、feel goodにしてくれるから良いのだ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fna0d660b74e3d" title="美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Ffeelgood" title="Make me feel goodなもの - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>ところが、現代美学ではこのような美的快楽主義への異論が相次いでおり、さまざまな代替案が提示されている。美的価値を説明するのは快楽を与える能力ではなく、実践に相対的な達成である、はたまた意義ある共同体の実現である、といった具合に。快楽に訴えて美的価値を説明する場合にも、快楽を与えられるから美的に良いのではなく、美的に良いものは快楽でもって反応することが適切なのだ(適合態度分析)、という説明順序を好む論者たちが現れている。Van der Berg (2020)や森 (2020)が紹介しているように、議論はおおむね「快楽主義者とその論敵たち」という構図で進行している。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FFA" title="美しいものは喜びに適合している?:美的価値についての適合態度分析 - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>クバラによれば、しかし、単調性原理を尊重している限りでは、快楽主義はよろしい理論である。快楽主義において、美的価値の度合いはアイテムが与えられる快楽の度合いに正確に対応する。鑑賞者には快楽を最大化する理由がある。したがって、鑑賞する理由の強弱は与えてくれる快楽の大小に対応する。より大きな快楽を与えるアイテムほど、より鑑賞する理由が強いのだ。単調性原理は守られており、鑑賞する理由がより強いのに美的価値が低かったり、美的価値がより高いのに鑑賞する理由が弱いケースは入り込まない。</p>
<p>クバラの考えでは、美的快楽主義は対象由来の理由に焦点を当てている点でも望ましい。主体が感じる快楽は、当然ながらそのときの体調や普段の信念によって左右される。しかし、「構造の複雑さ、散文の質、人物描写の深さと繊細さ、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D4%CC%B1%BC%D2%B2%F1">市民社会</a>に対する洞察」ゆえに『ミ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%EB%A5%DE">ドルマ</a>ーチ』が与えるより大きな快楽、それだけがプロパーな意味での美的価値を構成するのだと考える限りで、美的快楽主義は作品外的な要因たちを切り離せる。</p>
<p>クバラ自身は美的快楽主義を本格的に擁護するつもりがなく、その他の問題点も含めて総合的に判断すれば退けられるべきだと示唆している<a href="#f-88d7d1bf" id="fn-88d7d1bf" name="fn-88d7d1bf" title="クバラ自身の美的価値論は、本論文でも別のところでも体系的には提示されていないが、適合態度分析にややシンパシーがあるように感じられた。本論文の批判対象からこの立場が除外されていることからも示唆される。">*3</a>。それはともかく、単調性原理を守っていることは、美的快楽主義がもつその限りでのアドバンテージである。とりわけ、多くの立場はこの原理に違反してしまうからだ。</p>
<h3 id="エンゲージメント理論">エンゲージメント理論</h3>
<p>Nguyen (2019)とStrohl (2022)はそれぞれ独立に、「エンゲージメント[engagement]」の概念を中心に据えた美的価値の理論を展開している。engagementは美的対象への「従事」「関与」「たずさわり」などと訳せそうだが、ここではそのままエンゲージメントと表記しておく。</p>
<p>グエンによれば、美的実践において価値があるのは、アイテムへとエンゲージする経験それ自体である。美的判断論の伝統に反し、対象がもつ価値について正しく判断することは別に楽しくないし、私たちを美的実践へと駆り立てるものではない<a href="#f-6c06ee7a" id="fn-6c06ee7a" name="fn-6c06ee7a" title="これは、『なぜ美を気にかけるのか』でベンス・ナナイ[Bence Nanay]も賛同を示している見解である。">*4</a>。このことは、いわゆる自律性の原理(美的判断は他人からの証言任せではなく直接経験に基づいて自力でやらなければならない)の出どころについても理解させてくれる。結局のところ肝心なのはエンゲージメントであり、自律的でない美的判断にはエンゲージメントが欠けているのでよろしくないのだ。</p>
<p>クバラは、グエンが用いる「美的価値」が、ほとんど場合<strong>アイテムの</strong>美的価値ではなく、アイテムの<strong>経験の</strong>価値を指している点で、議論に照らせば的外れであることを的確に指摘した上で、一応、「価値あるエンゲージメントを与えるアイテムには美的価値がある」というふうに<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A2%B7%EB%BC%E7%B5%C1">帰結主義</a>的に拡張できることを示唆している。こう拡張されたエンゲージメント理論は、快楽ではなく価値あるエンゲージメントに訴える点を除けば、美的快楽主義とほとんど同じ立場である。</p>
<p>しかし、一様に増減する快楽とは異なり、グエンの想定しているエンゲージメントは、まったく予想のつかない仕方で価値が増減する。例えば、『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%CE%EE%A4%CE%CB%DF%CD%D9%A4%EA">死霊の盆踊り</a>』のようなどうしようもない駄作でも、いかにどうしようもないのかじっくり分析する経験は、グエンにおいて価値あるエンゲージメントとなりうる。すると、『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%CE%EE%A4%CE%CB%DF%CD%D9%A4%EA">死霊の盆踊り</a>』は価値あるエンゲージメントを与えうるので、美的価値の高い作品となる。これはどう考えてもおかしいし、これだとなんでもありだ。</p>
<p>あるいは、『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%CE%EE%A4%CE%CB%DF%CD%D9%A4%EA">死霊の盆踊り</a>』から通常それを駄作にしているとされる特徴を取り除いた場合、具体的にはアホみたいに長いダンスシーンを大幅にカットした場合、作品はマシなものになりそうなところだが、エンゲージメント理論においてはよりひどいものになる可能性すらある。というのも、それがとことん駄作だと結論づけるに至る価値あるエンゲージメントにとって、アホみたいに長いダンスシーンはまさに必要だったからだ。修正版『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%CE%EE%A4%CE%CB%DF%CD%D9%A4%EA">死霊の盆踊り</a>』は、もはやかつての価値あるエンゲージメントを与えてくれない。したがって美的価値がより低い。しかし、この結論は、作品をまだマシなものにしようとして、その目立った美的欠点を取り除いたという事実に照らせば、奇妙である。</p>
<p>ス<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%EB">トロール</a>のエンゲージメント理論も同様の問題を抱えている。彼によれば、従来の批評的基準では駄作とされるが、興味深い仕方で基準破りをしているような、「良い駄作」がある。ス<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%EB">トロール</a>によれば、「良い駄作」は価値あるエンゲージメントを与えてくれるからこそ良いのだが、だとすれば、それが駄作でもあることはどのように理解すればよいのか。「良い駄作」と「悪い駄作」の違いはなんなのか。『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%CE%EE%A4%CE%CB%DF%CD%D9%A4%EA">死霊の盆踊り</a>』は結局、良い駄作なのか悪い駄作なのか。</p>
<p>結局のところ、エンゲージメント理論は対象由来の美的理由ではなく、エンゲージする主体由来の理由を多分にもち込んでしまい、単調性原理に違反したケースを認めてしまう点でよろしい美的価値論ではない。対象が与える快楽という一元的な説明を嫌って、エンゲージメントというなんでもありな概念をもち出したところから、この問題は始まっている。</p>
<h3 id="共同体主義理論"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%C6%B1%C2%CE%BC%E7%B5%C1">共同体主義</a>理論</h3>
<p>Riggle (2022)は、ともに食事しともに踊るといった、「私たち」単位でなされる美的活動に焦点を当てるべく、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%C6%B1%C2%CE%BC%E7%B5%C1">共同体主義</a>理論なる立場を提唱している。それによれば、美的実践とは「個性を育成し、美的自由を促進し、美的コミュニティを生み出す」ような美的共同体を理念とした実践であり、これに寄与するものこそ美的価値だとされる<a href="#f-39f67a3e" id="fn-39f67a3e" name="fn-39f67a3e" title="リグルは美的共同体の善として(1)個性、(2)美的自由、(3)美的共同体を挙げるが、(3)はどう見ても同語反復だし、そうでないとしても(1)(2)と同じ並びにするのはカテゴリー・ミステイクだ。リグルは繰り返しこの三つを取り上げるのだが、どういうつもりなのかは分からない。">*5</a>。</p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%C6%B1%C2%CE%BC%E7%B5%C1">共同体主義</a>理論は、「アイテムxは美的価値Vをもつ ⇔ __」みたいな分析を積極的に拒んでいるのでたいへん扱いにくいのだが、見方によっては、これも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A2%B7%EB%BC%E7%B5%C1">帰結主義</a>的な理論である。価値の一次的な担い手は美的共同体であり、アイテムはこれに寄与する限りで、道具的で二次的な価値をもつことになる。クバラによれば、リグル的な美的価値は、たしかに等級づけ可能である(つまり、美的共同体にちょっとしか寄与しないものと、よりよく寄与するものがありうる)。しかし、単調性原理には違反している。鑑賞する理由の強さは、美的共同体にどれだけ寄与するかには対応づけられていない。美的共同体なるものによりよく寄与するからこそ、目の前のアイテムに鑑賞するより強い理由を認める人がいるとは考えにくいし、いるとしても、それは脅迫されて脅迫者を尊敬するのと同様に、誤った類の理由[wrong kind of reason]からそうするに過ぎない。</p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%C6%B1%C2%CE%BC%E7%B5%C1">共同体主義</a>理論は、対象由来の美的理由から積極的に距離を取ろうとしているらしいが、そのせいで単調性原理にも違反してしまう。一方、リグルも『なぜ美を気にかけるのか』のディスカッションでは、「しょうもない作品やダサい服やしょぼいバンドに時間を費やしてしまう」ことがあると述べている。しょうもないから見ないというのは対象由来の理由にほかならないが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%C6%B1%C2%CE%BC%E7%B5%C1">共同体主義</a>理論はその規範性も悪い美的共同体に訴えて説明したがるかもしれない。しかし、悪い美的共同体のなにが悪いのか、ちゃんとした説明はまだ与えられていないし、ダサい服共同体などがこれに該当することも説得的に示されたわけではない。課題は山積みである。</p>
<h3 id="ネットワーク理論">ネットワーク理論</h3>
<p>Lopes (2018)が提唱するネットワーク理論は、クバラや私やほかの多くの論者が認めるように、ほとんど唯一本格的に展開されている反快楽主義理論である。その分、ロペスの理論体系は入り組んでいて難しいが、ポイントは次のようにまとめられる。すなわち、<strong>美的価値は、特定の美的実践において特定の行為タイプに従事し、やるからにはうまくやろうとするエージェントに対して、行為する理由を与える性質から基礎づけられる高次の性質である</strong>。ある絵画が優美という価値をもつのは、キュレーターがそれを展示する理由をもったり、修復家がそれを修復する理由をもったり、鑑賞者がそれを見に行く理由をもつという事実から基礎づけられる。彼らにそういった行為をする理由があるのは、彼らが美的エキスパートであり(あるいは美的エキスパートを目指すべき立場にあり)、エキスパートはうまく行為して達成を目指すべきだからだ。</p>
<p>ネットワーク理論は、達成を目指すエージェントたちを出発点とし、社会的相互作用の観点から美的価値を分析している。しかし、そこで説明されるのはもっぱら私たちになぜあれこれする理由があるのか、美的価値の規範的効力であって、この分析自体に美的価値の上下や正負は現れない。</p>
<p>Lopes (2018: Chap. 7)はやや補助的な議論として、美的利点を次のように説明している。</p>
<blockquote>
<p><strong>利点</strong>:美的価値Vはアイテムxの美的利点である=〈xはVである〉という事実は、美的実践Kの状況CにおいてエージェントAが行為φする理由であり、CにおいてAがうまくφすることが、KにおけるVの促進につながるようなものである。</p>
<p><span class="notion-enable-hover" style="font-weight: 600;" data-token-index="0">Merit</span>: V in an aesthetic merit in x = the fact that x is V is a reason for A to φ in C in K, and A’s success in φing in C contributes to promoting V in K. (2018: 132)</p>
</blockquote>
<p>要点だけ噛み砕けば、<strong>美的利点とは、成功した行為のなかで増えていく性質のことである</strong>。ある絵画の優美さは、うまく展示されたり鑑賞されるなかで、より多くの優美な絵画の生産へと貢献する。このとき、優美さは絵画実践という環境にフィットしており、自己増殖的であり、したがって美的利点なのだ<a href="#f-1c7d2b14" id="fn-1c7d2b14" name="fn-1c7d2b14" title="反対に、美的欠点とは、成功した行為のなかで減っていく性質のことだとされる。トイレの汚さは、うまく清掃されたり酷評されるなかで、この世界から消えていくことになる。">*6</a>。</p>
<p>ロペス的な美的利点は、等級づけ可能(美的価値の大小は拡散力の大小に対応する)だが、リグルの考える美的価値と同様に、単調性原理に違反している。猫<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>は流行っており、流行っているからこそさらに拡散されていくが、この拡散力自体が、猫<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>的ユーモアを美的利点にしている、というのは変な説明である。端的に言って、流行りものが良いとは限らないし、良いのだとしても、流行っているからこそ良いのではない。猫<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>には、それを鑑賞するだけの対象由来の美的理由がぜんぜんないかもしれないし、あるとしても、それは流行っているからこそ美的価値をもつ=鑑賞に値するわけではない(そう考えてしまうのは、またしてもwrong kind of reasonだ)。</p>
<p>美的利点についてのロペスな説明は、対象由来の美的理由をまったく捉えられていないため、潔く放棄するべきだとクバラは結論づけている。実際、美的価値そのものを達成の観点から分析するというネットワーク理論のコア部分は、対象由来の美的理由を認めることと両立可能である。増えるかさらに増えるかを、美的に良いかより良いか、したがって鑑賞する理由があるかさらにあるかに対応づけるのがしんどいのだ。</p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>各立場の紹介から検討までたいへん手際のよい論文だった。上でも述べたが、対象由来の美的理由に焦点を合わせるべきだ、というスタンスはかなり共感できる。美的価値論は、どうしても「美的価値」というワンワードでの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%B4%EE%CD%F8">大喜利</a>になってしまいがちだが、こうして議論の焦点を合わせてくれる論者がいるというのは頼もしいことだ。</p>
<p>ところでこの論文に行き当たったのは、いま個人的に<strong>ネガティブな美的価値</strong>についての論文を準備しているからだ。まだ考え中だが、ことによるとクバラとかなり似たような作業を通して、かなり似たような結論にたどり着く論文になるかもしれない。すなわち、美的価値には明らかに負の値をもったものがあるのだが、主要な美的価値論の多くはこの事実をうまく説明できず、したがって退けられるべきなのだ。近いうち、どこかで発表できればと思う。</p>
<p> </p>
<h4 id="参照文献">参照文献</h4>
<p><span style="font-size: 80%;">Kubala, Robbie. Forthcoming. “Non-Monotonic Theories of Aesthetic <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a>.” <em>Australasian Journal of Philosophy</em>.<br /></span><span style="font-size: 80%;">Lopes, Dominic McIver. 2018. <em>Being for Beauty: Aesthetic Agency and <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a></em>. Oxford <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.<br /></span><span style="font-size: 80%;">Lopes, Dominic McIver, Bence Nanay, and Nick Riggle. 2022. <em>Aesthetic Life and Why It Matters</em>. Oxford <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>. ドミニク・マカイヴァー・ロペス, ベンス・ナナイ, ニック・リグル『なぜ美を気にかけるのか』<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%B8%F9">森功</a>次訳, <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%D2%A6%C1%F0%BD%F1%CB%BC">勁草書房</a>, 2023.<br /></span><span style="font-size: 80%;">Nguyen, C. Thi. 2019. “Autonomy and Aesthetic Engagement.” <em>Mind; a Quarterly Review of Psychology and Philosophy</em> 129 (516): 1127–56.<br /></span><span style="font-size: 80%;">Riggle, Nick. 2022. “Toward a Communitarian Theory of Aesthetic <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a>.” <em>Journal of Aesthetics and Art Criticism</em> 80 (1): 16–30.<br /></span><span style="font-size: 80%;">Strohl, Matthew. 2022. <em>Why It’s OK to Love Bad Movies</em>. Routledge.<br /></span><span style="font-size: 80%;">Van der Berg, Servaas. 2020. “Aesthetic Hedonism and Its Critics.” <em>Philosophy <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Compass">Compass</a></em> 15 (1): e12645.<br /></span><span style="font-size: 80%;">Wolf, Susan. 2011. “Good-for-Nothings.” <em>Proceedings and Addresses of the American Philosophical Association</em> 85 (2): 47–64.<br /></span><span style="font-size: 80%;"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%B8%F9">森功</a>次. 2020. 「美的なものはなぜ美的に良いのか:美的価値をめぐる快楽主義とその敵」『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%BB%D7%C1%DB">現代思想</a>』 49 (1): 86–100.</span></p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-00f9b981" id="f-00f9b981" name="f-00f9b981" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">具体的にどのような行為や反応をする理由を与えるのが<strong>美的</strong>価値なのかというのは論争的な点だが、有力な見解のひとつとして、美的価値に駆動されるふるまいはなんらか特定的な意味での「鑑賞[appreciation]」である。クバラも、これに乗っている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-a72ba092" id="f-a72ba092" name="f-a72ba092" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">主体由来の美的理由なるものを認めるかどうかは、最近ちょっと盛り上がっているトピックである。ある芸術家やジャンルに個人的な愛着をもつことは、それらをより優先的に鑑賞する理由を高める。それは「美的」理由と呼ばれるのにふさわしいものなのか、大局的に見ていいことなのか、論争ポイントがいくつもある。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fcommitment" title="美的なこだわりを持つことの利点? - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><span style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif;"></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-88d7d1bf" id="f-88d7d1bf" name="f-88d7d1bf" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">クバラ自身の美的価値論は、本論文でも別のところでも体系的には提示されていないが、適合態度分析にややシンパシーがあるように感じられた。本論文の批判対象からこの立場が除外されていることからも示唆される。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-6c06ee7a" id="f-6c06ee7a" name="f-6c06ee7a" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">これは、『なぜ美を気にかけるのか』でベンス・ナナイ[Bence Nanay]も賛同を示している見解である。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-39f67a3e" id="f-39f67a3e" name="f-39f67a3e" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">リグルは美的共同体の善として(1)個性、(2)美的自由、(3)美的共同体を挙げるが、(3)はどう見ても同語反復だし、そうでないとしても(1)(2)と同じ並びにするのはカテゴリー・ミステイクだ。リグルは繰り返しこの三つを取り上げるのだが、どういうつもりなのかは分からない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-1c7d2b14" id="f-1c7d2b14" name="f-1c7d2b14" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">反対に、美的欠点とは、成功した行為のなかで減っていく性質のことだとされる。トイレの汚さは、うまく清掃されたり酷評されるなかで、この世界から消えていくことになる。</span></p>
</div>
psy22thou5
後期シブリーの美学
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2023-10-24T20:37:30+09:00
2023-10-24T20:37:30+09:00 フランク・シブリー[Frank Sibley]の名前と結びつけられた仕事として、真っ先に思いつくのは「Aesthetic Concepts」(1959)と、その実質的な続編にあたる「Aesthetic and Nonaesthetic」(1965)だろう。前者は、美学者としてのキャリアの最初期に書かれた論文であり、20世紀美学において最も盛んに検討された論文のひとつとなった。 美的なものの議論においてシブリーの果たした貢献は改めて確認するまでもなく、絶大である。しかし、注目は上のふたつの論文に集中しており、その他の仕事はあまり引用されていない。このふたつは『Philosophical Revi…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20231024/20231024183944.png" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><strong>フランク・シブリー[Frank Sibley]</strong>の名前と結びつけられた仕事として、真っ先に思いつくのは「Aesthetic Concepts」(1959)と、その実質的な続編にあたる「Aesthetic and Nonaesthetic」(1965)だろう。前者は、美学者としてのキャリアの最初期に書かれた論文であり、20世紀美学において最も盛んに検討された論文のひとつとなった。</p>
<p>美的なものの議論においてシブリーの果たした貢献は改めて確認するまでもなく、絶大である。しかし、注目は上のふたつの論文に集中しており、その他の仕事はあまり引用されていない。このふたつは『<em>Philosophical Review</em>』という大手も大手の哲学ジャーナルに掲載されたことからも美学にとどまらない関心を集めたわけだが、その後シブリーは新設されたばかりの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A1%BC%A5%CD%A5%EB%C2%E7%B3%D8">コーネル大学</a>哲学科の運営に忙殺されたようで、いくつかのProceedingsや論集への寄稿を除けば、ほとんど論文を書かなくなってしまった<a href="#f-5e78f319" name="fn-5e78f319" title="教え子のColin Lyasが語るところでは、「Aesthetic Concepts」ですらも、完璧主義者のシブリーは出版をためらっており、知人に進められてしぶしぶPhilosophical Reviewに出したらしい。">*1</a>。未発表のものも含めて、シブリーの書いたものをまとめて読めるのは、論文集『<em>Approach to Aesthetics</em>』が没後に刊行されたおかげである。目次と各章要旨については松永さんのエントリーを参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2F9bit.99ing.net%2FEntry%2F92%2F" title="フランク・シブリー美学論文集のまとめ - 9bit" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>本記事では、シブリーがそのキャリアの最後期において取り組んでいたア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>を紹介する。論文集で言うと、以下の三部作がこれに該当する。</p>
<ul>
<li>12章:<strong>述定的な形容詞と限定的な形容詞</strong> [Adjectives, Predicative and Attributive]</li>
<li>13章:<strong>美的判断:小石、顔、ゴミ捨て場</strong> [Aesthetic Judgements: <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Pebbles">Pebbles</a>, Faces, and Fields of Litter]</li>
<li>14章:<strong>醜に関するいくつかの注記</strong> [Some Notes on Ugliness]</li>
</ul>
<p>共通して扱っているのは、哲学者<strong>ピーター・ギーチ[Peter Geach]</strong>が提示した、述定的形容詞と限定的形容詞の区別である。美学そっちのけでこの区別について検証したのが12章、「美しい」という形容詞に関して応用したのが13章、「醜い」という形容詞に関して応用したのが14章である。</p>
<p>どれも生前に出版されることはなく、ひとつ目以外は完成した論文というよりも、ドラフトにとどまっている。査読を通った論文たちではないので、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AC%C0%CF%C5%AF%B3%D8">分析哲学</a>者からは引かれにくい、という事情もあるかもしれない。</p>
<p>『<em>Approach to Aesthetics</em>』はいまコツコツと翻訳が進んでいるが、私は13章を担当していることもあり、この時期のシブリーのア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>に興味を持った。結局、シブリーはこの仕事を完遂することができなかったわけだが、そこには検討に値する主張が散らばっている。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#述定的vs限定的">述定的vs限定的</a></li>
<li><a href="#美しいは述定的か限定的か">「美しい」は述定的か限定的か</a></li>
<li><a href="#醜いは述定的か限定的か">「醜い」は述定的か限定的か</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a><ul>
<li><a href="#参考文献">参考文献</a></li>
</ul>
</li>
</ul>
<p> </p>
<h3 id="述定的vs限定的">述定的vs限定的</h3>
<p>ギーチが提示した、述定的形容詞/限定的形容詞の区別からはじめよう。</p>
<p>1956年にギーチは、ただでさえ短い哲学論文を掲載することで有名な『<em>Analysis</em>』に「Good and Evil」という論文を寄せ、その冒頭わずか2ページで、形容詞には論理的に<strong>述定的[predicative]</strong>なものと<strong>限定的[attributive]</strong>なものがあると主張した。</p>
<p>訳語はちょっとずらしているが、これは英文法における形容詞の叙述用法/限定用法に対応している。「この車は赤い[This car is red.]」における形容詞redは、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/SVC">SVC</a>の補語の位置に来ており、叙述用法で使われている。一方、「これは赤い車である[This is a red car.]」における形容詞redは、名詞carに修飾しており、限定用法で使われている。「asleep」なんかは叙述用法でしか使えず、「elder」なんかは限定用法でしか使えないというのを習ったはずだ。</p>
<p>ギーチによれば、英文法上の用法の区別とは別に、形容詞自体が論理的・本質的に見てpredicativeなものなのかattributiveなものなのかの区別がある。上の例では、「赤い」は叙述用法でも限定用法でも使われていたわけだが、ギーチによれば、redは本質的に述定的な形容詞である。本質的に述定的な形容詞は、「xはFなKである」を「xはKである」+「xはFである」に分割できる。つまり、「赤い」が文法的には限定用法で使われている「これは赤い車である」の場合にも、意味されていることは「これは車である」+「これは赤い」に過ぎない。</p>
<p>一方、本質的に限定的な形容詞は、このような分割を許さない。ギーチによれば、例えば、「大きい[big]」は本質的に限定的な形容詞である。というのも、「これは大きいノミである」は、「これはノミである」+「これは大きい」を意味するものとは言えないからだ。問題となっているそれは、ノミであることと独立に、単に大きいものとは言えない。本質的に限定的な形容詞は、「xはFなKである」を「xはKである」+「xはFである」に分割できないのだ。</p>
<p>ギーチの関心は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D1%CD%FD%B3%D8">倫理学</a>であり、「Good and Evil」も後半は「良い[good]」という形容詞が本質的に限定的であるという見解の擁護に費やされる。「これは良い」のような文は「これは良い◯◯だ」に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%D5%A5%EC%A1%BC%A5%BA">パラフレーズ</a>可能であるはずだし、そうでなければ意味をなさない。というのも、端的に赤いものはあるが、端的に良いものはないのだ。トースターとして良いのか、犬として良いのか、はたまた<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%D5%C6%B3%B8%A4">盲導犬</a>として、番犬として、愛玩犬として良いのかといった観点が、「良い」という形容詞には必ず伴う。<a href="#f-1a0c9ba1" name="fn-1a0c9ba1" title="ちなみに、ギーチのこのアイデアを規範性の話一般へと発展させたのがThomson (2008)であり、めっちゃいい本である。">*2</a></p>
<p> </p>
<p>シブリーはまず、述定的/限定的形容詞の区別が、ギーチの言う通りに成り立つのかに関心を寄せる。ギーチが明確に述べているのは、「xはFなKである」は述定的形容詞の場合には分割可能であり、限定的形容詞の場合には分割可能でない、ということだが、ここでの「分割できる/できない」もそれほど明確ではない。シブリーの読みでは、ギーチは分割可能かどうかをテストする方法を4つ示している。</p>
<ol>
<li>「xはFなK1である」+「K1はK2である」が、「xはFなK2である」を含意しないなら、「xはFなK1である」は分割できず、Fは限定的形容詞である。「xは大きいノミである」+「ノミは動物である」は、「xは大きい動物である」を含意しない。</li>
<li>「xはFなKである」が、「xはKである」を含意しないなら、「xはFなKである」は分割できず、Fは限定的形容詞である。「xは偽物のダイヤモンドである」は、「xはダイヤモンドである」を含意しない。</li>
<li>「xはF1なKである」+「KはF2である」が、「xはF2である」を含意しないならば、「xはF1なKである」は分割できず、F1は限定的形容詞である。「xは腐った食べ物である」+「食べ物は生命を支える」は、「xは生命を支える」を含意しない。</li>
<li>「xはFである」の真偽を、なんらかの「xはKである」を踏まえずに確証できないなら、xは限定的形容詞である。</li>
</ol>
<p>12章はこの4つのテストがそれぞれうまくいくのかの検証に当てられている。ギーチが2ページで導入した話を、22ページかけて検討しているあたりがシブリーらしい。</p>
<p>シブリーは、これら異なる4つのテストが、形容詞の限定性という単一のものを切り出すのに使える、というのを疑っている。入念な(ほとんど執拗な)検討の紹介は省くが、結論としてシブリーは、4つ目のテストだけが、限定性を切り出すものとして有効であると考える。4つ目のテストだけが、「xはFなKである」が論理的に分割可能かどうかではなく、Fが限定的形容詞であるかどうかを直接的にテストするものになっている。</p>
<p>まとめると、限定的形容詞Fとは、その適用に際し、なにを念頭に置いており、なにとしてFなのかが明らかにされない限り、Fなのかどうかも確証できないような形容詞である。「これは大きい」とだけ言われても、なにとして大きいのかが分からなければ意味不明である。ノミとして、成人男性として、惑星として大きいのだという、なんらかの基準が必要である。</p>
<p>ただし、シブリーは形容詞が述定的なものと限定的なものに区別されるというギーチの主張を、その通りには受け入れない。というのも、シブリーによれば、<strong>両用の形容詞がいくらでもある</strong>からだ。例えば、「赤い」はギーチにおいて本質的に述定的な形容詞だとされていたが、シブリーは次のような例を挙げる。</p>
<ul>
<li>xは赤い顔である。</li>
</ul>
<p>ある人の赤面に対してこのように述べるとき、「赤い」は「顔である」ことと独立して赤いことを伝えるものではない。というのも、人の顔はせいぜい濃い目のピンクになるだけであり、決してスカーレットやクリムゾンや#ff0000のような赤にはなりえない。顔のわりに赤いだけであり、端的に赤いのではない。</p>
<p>つまり、シブリーによればまずもって存在するのは、形容詞が<strong>述定用法</strong>で使われる文脈と、<strong>限定用法</strong>で使われる文脈の区別である<a href="#f-de46f949" name="fn-de46f949" title="ややこしいが、英文法の叙述用法/限定用法は、文法的にどのような位置づけにあるのか(isと合わさった述語の一部なのか、修飾語なのか)という問題なので、ここでシブリーが問題としている述定用法/限定用法とは違う。後者は、発話がどういう文脈でなされるのか、という問題である。">*3</a>。ある車を指して「あれは赤い車だ」と述べる文脈では、端的に赤いものであることを伝えているが、ある人の顔を指して「赤い顔だ」と述べる文脈では、顔としては赤いことを伝えている。</p>
<p>形容詞には述定用法と限定用法がある。すると、形容詞それ自体については、次の区別ができることになる。</p>
<ul>
<li><strong>本質的に述定的な形容詞</strong>:述定用法でしか使えない。厳密にカラーコードなどで指定された「スカーレットである」など。</li>
<li><strong>本質的に限定的な形容詞</strong>:限定用法でしか使えない。「大きい」など。</li>
<li><strong>両用の形容詞</strong>:述定用法、限定用法どちらでも使われうる。</li>
</ul>
<p>ギーチは形容詞を2種類に区別していたが、実際には両用の形容詞を含む3種類がある。そして、シブリーの主張によれば「赤い」を含む多くの形容詞は実際には両用である。もうひとつ、両用の形容詞の例を見よう。</p>
<ul>
<li>xは甘いソーテルヌである。</li>
</ul>
<p>ソーテルヌは、飲み物としてはふつうの人がふつうに甘いと感じる、甘口のワインである。なにか甘い飲み物のおすすめを聞いているときにウェイターがこのように述べれば、「甘い」は述定用法で使われている可能性が高い。つまり、銘柄に関係なく、それは端的に甘いのだ。一方、ソーテルヌたちを品評しているときにワイン評論家がこのように述べれば、「甘い」は限定用法で使われている可能性が高い。つまり、ソーテルヌのなかでもとりわけ甘い方なのであり、ソーテルヌとして甘いのだ。このように、「甘い」という形容詞も両用である。</p>
<p>ギーチから取り出し、以上のように整形したア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>でもって、13章と14章ではいよいよ美的形容詞の検討へと移っていく。</p>
<h3 id="美しいは述定的か限定的か">「美しい」は述定的か限定的か</h3>
<p>13章の主題は美的形容詞だが、簡単化のために、基本的には「美しい」という形容詞のみを扱っている。</p>
<p>シブリーの結論から言えば、<strong>「美しい」やその他多くの美的形容詞は、両用の形容詞である</strong>。つまり、「xは美しいKだ」は、Kであることとは独立に端的に美しいものなのだと意味する文脈もあれば、Kであることとは切り離せず、Kとして美しいものなのだと意味する文脈もある。</p>
<p>わりと当たり前の主張のように思われるかもしれないが、これは美学史に照らすとそれなりに挑発的なものである。というのも、美的判断をめぐる議論では、美的形容詞が本質的に述定的だと想定している論者も、本質的に限定的だと想定している論者もいるからだ。シブリーはその両方に対抗し、両用なのだと主張する。(この、「AかBかで争われているが、文脈次第じゃない?」というスタンスは、シブリーにありがちなムーヴだ。)</p>
<p>議論の余地はあるものの、クローチェやカントは〈美的形容詞は本質的に述定的〉派として挙げられている。趣味判断をするときには、対象についての概念的理解を動員していない、というやつだ。美しいものはただ無関心的な目で見て美しいのであり、機能や本性を踏まえて美しいと考えるようでは、プロパーな美的判断が成り立っていないとされる。このような伝統的な美的判断論をシブリーはわりとさっくり退けている。例えば、</p>
<ul>
<li>xは美しい顔である。</li>
</ul>
<p>と言われる特定の文脈では、顔であることと独立に美しいと言われているわけではない。パレットで見たときにいくら美しいエメラルド色でも、エメラルド色の顔は「美しい顔」とは言えない。というのも、顔には顔としての理想・標準・規範があり、エメラルド色であることはこの理想に照らして変だからだ。もちろん、この理想は時代や場所に相対的なものだろうが、ともかく、ある種の文脈で上のような判断が提示されるときには、なんらかの理想が踏まえられている。顔の理想を踏まえた「xは美しい顔である」は、顔であることと独立に美しいことを伝えているわけではない。「xは美しい馬である」「xは美しい女性である」についても同様であり、「美しい」には限定用法があるのだ。</p>
<p>一方、スクルートンとサヴィルははっきりと、〈美的形容詞は本質的に限定的〉派をサポートしている。曰く、なにとして美しいのかを問うことなく、端的に美しいとは言えない。顔として美しい、馬の基準から見て美しいと言われることはあるが、なにかがただただ美しいとは言えないのだ。</p>
<p>シブリーはこちらの見解にも噛みつく。曰く、なにかが端的に美しいと判断する文脈はふつうにある。例えば、遠くに見える謎の物体を指して、「あそこのあれ、なにか分からないけど、美しいね」と述べる場面では、なにか分かっていないが「美しい」が適切に使われている。「なにか分かっていないのに、どうして美しいなどと言えるのかね?」と応じるのは的外れである。美しい形や美しい色というのは、その持ち主がなんなのかとは独立に、ただただ美しいのである。</p>
<p>他にも、次のような例を考えよう。</p>
<ul>
<li>xは美しい小石である。</li>
</ul>
<p>シブリーによれば、小石には小石としての美しさの理想・標準・規範はない。べつにどんな形状や色でもかまわないのだ。したがって、上のように述べる人は、ふつう「xは小石として/小石の基準から見て美しい」と述べているわけではない。そこで伝えられているのは「xは小石である」+「xは美しい」であって、後者には「美しい」の述定用法が含まれている。<a href="#f-e7a6eb8f" name="fn-e7a6eb8f" title="ややこしいので本文では割愛したが、シブリーによれば「xは美しい小石である」にも、弱い意味での限定用法はある。例えば、美しい小石を自慢しあっている場面での「これこそ美しい小石だ!」は、比較グループである小石たちのなかでも相対的に美しいほうの小石であることを伝えており、小石であることと独立に美しいと述べているわけではない。「xは甘いソーテルヌである」も、場合によってはこの弱い意味での限定用法になる。シブリーは、その種のもののなかで比較をする弱い限定用法と、その種としての理想・標準・規範を踏まえた強い限定用法を区別しており、もっぱら後者にのみ関心を寄せている。">*4</a></p>
<p>ある意味では、「美しい」の述定用法では、色や形に関する一般的で形式的な基準が参照されている。しかしシブリーによれば、「色」や「形」といった概念を踏まえて、「色としては美しい」「形の理想から見て美しい」と言うのは、やっぱり変である。顔として、顔の基準に照らして美しいという判断と、色や形がそのまま美しいという判断の間にはやはり境界線があり、シブリーは後者を述定用法とみなしている。<a href="#f-3e535c61" name="fn-3e535c61" title="13章ではほかにも、述定的に美しいと判断していた色や形であっても、豚の背中だと発覚した途端にそれ以上「xは美しい」と言いたくなくなる現象について検討している。こちらについてのシブリーの見解は十分にまとまっていないように思われるので、割愛する。">*5</a></p>
<p> </p>
<p>ということで、「美しい」という形容詞は両用であり、<strong>色や形が端的に美しいことを伝える述定用法</strong>もあれば、<strong>なんらかの理想・標準・規範と相対的に美しいことを伝える限定用法</strong>もある。シブリーは多くの美的形容詞が両用であることを示唆しているが、期待に反し、「醜い」という形容詞は両用ではないと主張するのが14章である。</p>
<p> </p>
<h3 id="醜いは述定的か限定的か">「醜い」は述定的か限定的か</h3>
<p>醜さは、興味深いにもかかわらず、相対的にあまり注目されてこなかったトピックである。シブリーによれば、醜さのメ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%CB">カニ</a>ズムを検討すると、端的にただ醜いという判断はできないことが明らかになる。</p>
<p>シブリーによれば、<strong>醜さは歪曲している[disformed]ことや変性している[disnatured]ことから構成される</strong>。然るべきあり方から捻じ曲げられ、ズレているものだけが、醜いのだ。ここでの「歪曲している」「変性している」は、なにとして歪曲・変性しているかがつねに問われる。然るべきあり方の存在しないものには、捻じ曲げられ・ズレているあり方も存在しないのだ。例えば、小石や雲は、シブリーの見解では然るべきあり方を持たない(別にどんな色や形でもかまわない)。歪曲し変性した小石や雲は存在せず、したがって、この意味においての醜い小石や雲は存在しない。</p>
<p>主張をまとめるとこうなる。(1)醜さには歪曲・変性が必要であり、(2)「歪曲している」「変性している」は本質的に限定的な形容詞である。したがって、(3)<strong>「醜い」は本質的に限定的な形容詞である</strong>。</p>
<p>しかし、「xは醜い雲である」と述べるような場面はたしかにあるように思われる。シブリーはこのケースを次のように説明する。このように述べる人はまず、顔のような別の基準を踏まえており、その基準に照らして醜い顔を想定しており、最後に醜い顔に似た雲であると判断することで、「xは醜い雲である」と判断している。ここには、雲としての醜さの基準は現れておらず、顔なりほかの種の醜さの基準が転用されている。したがって、「醜い」は本質的に限定的な形容詞であるとする反例にはならない。ある雲が、いかなる種の然るべきあり方とも独立に、ただ端的に醜いと言われるケースではないからだ。</p>
<p>似たケースとして、次のようなものがある。「xは醜いカエルである」と述べられる場面でも、xがカエルの基準に照らして醜いと述べられているとは限らない。カエルとはそういう見た目のものなのだから、xはカエルとして醜いわけではない。では、述定用法で「醜い」と述べていることになるのか。ここでもシブリーは同じ代替的説明を適用する。判断者はまず人の顔なり別の基準を念頭に起き、醜い人の顔との類似をカエル一般に見出すことで「カエルは醜い」という総称文的な判断を形成し、最後に「xは醜いカエルである」と判断している。ここでも、カエルのかわりに人の顔という基準が参照されており、いかなる種の然るべきあり方とも独立に、ただ端的に醜いと言われるケースにはなっていない。</p>
<p>最後に補足的な主張として、シブリーは<strong>醜いかどうかは嫌悪感とは概念的に無関係である</strong>と主張している。というのも、(ある種の)嫌悪感を抱かせるものが直ちに醜いなら、ただ端的に醜いものがありえてしまうからだ。しかし、シブリーによれば嫌悪感を抱かせるものを醜いと判断するとは限らないし、醜いと判断するものが嫌悪感を抱かせるとは限らない。醜いという判断は、私があるものに嫌悪感を抱いたことの表明ではなく、あるものがある然るべきあり方から逸脱していることの記述なのである。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>以上、後期シブリーの3本の論文から、コアとなるア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>だけを引き出してきた。</p>
<p>形容詞や名詞に着目した分析は、日常<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%B3%D8">言語学</a>派から影響されているシブリーらしいスタイルであり、今日からするとむしろ新鮮な文体で読んでいて楽しい。述定的/限定的形容詞というギーチの区別も、シブリーはいろんな遊び方のできるおもちゃとして楽しく取り扱っていたことが伝わってくる。出てくる例はどれも日常的で親しみやすいものなので、翻訳が刊行されたあかつきにはぜひ広く読まれて欲しいと思う。</p>
<p>まだあまり検討されていないが、間違いなくそれに値すると私が考えているのは、<strong>これら後期シブリーの主張が、より有名な初期シブリーの主張と一見すると矛盾しているようにも思われる</strong>という点だ。「Aesthetic Concepts」のポイントは、私の理解では次のふたつのテーゼにある。</p>
<ul>
<li>美的判断は、美的でないものの知覚に基づいている。例えば、細い曲線を見て取ったからこそ、優美であると判断する。</li>
<li>美的判断は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A1%B3%A3%C5%AA">機械的</a>にはなされない。細い曲線があると分かったからといって、優美であると結論できるわけではない。細い曲線があるけど優美ではないかもしれない。</li>
</ul>
<p>非美的性質と美的性質の間には、前者が後者の基盤になるという依存関係が成り立っている。しかし、シブリーは関連する非美的性質群を把握できたからといって、美的性質について頭で考えて結論することはできないと主張する。美的概念に、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>はないのだ。この見解は、カントらのより伝統的な美的判断論の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A1%BC%A5%C8%A5%B9">エートス</a>を汲んだ主張である。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A1%B3%A3%C5%AA">機械的</a>な推論ではないことこそ、美的判断のコアとなる特徴づけなのだ。</p>
<p>しかし、形容詞の限定用法についてのシブリーの議論は、一見するとむしろ、概念を踏まえた<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A1%B3%A3%C5%AA">機械的</a>な美的判断を認めているようにも読める。「xは美しい馬である」という判断が、実質的に「(1)xは馬である、(2)xは馬としての美しさの基準を満たしている」という判断なのだとすれば、たとえxを実際に目の当たりにせずとも、「(1)xは馬である、(2)xは馬としての美しさの基準を満たしている」が真であると伝えられた人は、「xは美しい馬である」と結論することができてしまうのではないか。これは美的判断の非推論性テーゼと矛盾する。</p>
<p>非推論性テーゼを維持するために、シブリーは、形容詞を限定用法で用いた美的判断について、別の理解を提示しなければならない。例えば、「馬の基準を念頭に置く」というのは、概念的な理解や知識の問題ではなく、経験を通して形成されたknow-howの問題であるかもしれない。これは芸術のカテゴリーが果たす役割について論じつつ、非推論性テーゼを維持するために<strong>ケンダル・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>[Kendall <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a>]</strong>が採用した説明と同じである。この方針がどこまでうまくいくのかは、私の博論で検討している。</p>
<p> </p>
<p>関連する二次文献についてもちょっとだけ紹介しよう。美的概念まわりの話が大好きなLingnan Universityのふたり(Andrea SauchelliとRafael De Clercq)は、後期シブリーを参照した論文も書いている。とくに、<a href="https://philpapers.org/rec/SAUSOB" target="_blank" rel="noopener">Sauchelli (2014)</a>は、後期シブリーのア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>を体系的に扱った、ほとんど唯一の検討論文だろう。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%A1%BC%A5%C1">ソーチ</a>ェリは、「美しい」は両用の形容詞であり、「醜い」は本質的に限定的な形容詞であるとするシブリーの主張をそれぞれ興味深いものだとしつつ、両立しえないのではないかと疑問を呈している。というのも、「醜い」が一見述定用法で用いられるケースを排除するための理屈(顔なり別の基準を念頭に置いている)は、そのまま「美しい」の述定用法としてシブリーが認めるケースを排除するのにも使えてしまうし、「美しい」には述定用法があるとするシブリーの議論(なにか分からないが遠くにある物体を「美しい」と言う)は、そのまま「醜い」にも述定用法があるとする議論として使えてしまうのだ。</p>
<p>醜さと嫌悪感が概念的に結びついていない、という最後の主張は、<a href="https://philpapers.org/rec/DORUII" target="_blank" rel="noopener">Doran (2022)</a>において取り上げられている。ドランは、嫌悪感を抱かせる傾向性を持ったものが醜いのだという見解を擁護し、シブリーに反論している。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>のアーサー・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>賞も取った立派な論文だが、立派すぎて59ページもあるので、私は読めていない。</p>
<p> </p>
<h4 id="参考文献">参考文献</h4>
<p>De Clercq, Rafael. 2008. “Aesthetic Ideals.” In Kathleen Stock & Katherine Thomson-Jones (eds.), <em>New Waves in Aesthetics</em>. Palgrave-Macmillan. 188–202.</p>
<p>Doran, Ryan P. 2022. “Ugliness Is in the Gut of the Beholder.” <em>Ergo an <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Open%20Access">Open Access</a> Journal of Philosophy</em> 9 (5): 88–146.</p>
<p>Geach, Peter T. 1956. “Good and Evil.” <em>Analysis</em> 17 (2): 33–42.</p>
<p>Lyas, Colin. 2001. “The Manifold Logical Complexities of Adjectives.” In Emily Brady & Jerrold Levinson (eds.), <em>Aesthetic Concepts: Essays after Sibley.</em> Clarendon Press. 149–161.</p>
<p>Lyas, Colin. 2013. “Sibley.” In Berys Nigel Gaut & Dominic Lopes (eds.), <em>The Routledge Companion to Aesthetics</em>. Routledge. 131–141.</p>
<p>Sauchelli, Andrea. 2014. “Sibley on ‘Beautiful’ and ‘Ugly.’” <em>Philosophical Papers</em> 43 (3): 377–404.</p>
<p>Sibley, Frank. 2001. <em>Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics</em>. Clarendon Press.</p>
<p>Thomson, Judith Jarvis. 2008. <em>Normativity</em>. Open Court Publishing.</p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-5e78f319" name="f-5e78f319" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">教え子のColin Lyasが語るところでは、「Aesthetic Concepts」ですらも、完璧主義者のシブリーは出版をためらっており、知人に進められてしぶしぶ<em>Philosophical Review</em>に出したらしい。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-1a0c9ba1" name="f-1a0c9ba1" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ちなみに、ギーチのこのア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>を規範性の話一般へと発展させたのが<a href="https://philpapers.org/rec/THON-2" target="_blank">Thomson (2008)</a>であり、めっちゃいい本である。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-de46f949" name="f-de46f949" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ややこしいが、英文法の叙述用法/限定用法は、文法的にどのような位置づけにあるのか(isと合わさった述語の一部なのか、修飾語なのか)という問題なので、ここでシブリーが問題としている述定用法/限定用法とは違う。後者は、発話がどういう文脈でなされるのか、という問題である。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-e7a6eb8f" name="f-e7a6eb8f" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ややこしいので本文では割愛したが、シブリーによれば「xは美しい小石である」にも、弱い意味での限定用法はある。例えば、美しい小石を自慢しあっている場面での「これこそ美しい小石だ!」は、比較グループである小石たちのなかでも相対的に美しいほうの小石であることを伝えており、小石であることと独立に美しいと述べているわけではない。「xは甘いソーテルヌである」も、場合によってはこの弱い意味での限定用法になる。シブリーは、その種のもののなかで比較をする弱い限定用法と、その種としての理想・標準・規範を踏まえた強い限定用法を区別しており、もっぱら後者にのみ関心を寄せている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-3e535c61" name="f-3e535c61" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">13章ではほかにも、述定的に美しいと判断していた色や形であっても、豚の背中だと発覚した途端にそれ以上「xは美しい」と言いたくなくなる現象について検討している。こちらについてのシブリーの見解は十分にまとまっていないように思われるので、割愛する。</span></p>
</div>
psy22thou5
美的なものと芸術的なもの
hatenablog://entry/820878482967555232
2023-09-15T18:00:23+09:00
2023-09-15T18:00:23+09:00 1 美学は芸術の哲学なのか? 2 芸術抜きの美学? 3 美学抜きの芸術? 4 ビアズリー、ディッキー、シブリー 5 美的なものと芸術的なもの、その後 参考文献 1 美学は芸術の哲学なのか? 博士論文(80,000 words)をあらかた仕上げて予備審査に出したので、ゴキゲンのブログ更新。 博論でも取り上げている話だが、私の専門である美学/芸術哲学への入門的な話題としてよさそうだったので、一部ネタを抜粋して再構成してみた。なにかというと、美学と芸術哲学の関係性についての話だ。*1 美学[aesthetics]は、なんの専門家でもない人にとっては「男の美学」「仕事の美学」とか言われるときの流儀やこ…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20230915/20230915144822.png" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#1-美学は芸術の哲学なのか">1 美学は芸術の哲学なのか?</a></li>
<li><a href="#2-芸術抜きの美学">2 芸術抜きの美学?</a></li>
<li><a href="#3-美学抜きの芸術">3 美学抜きの芸術?</a></li>
<li><a href="#4-ビアズリーディッキーシブリー">4 ビアズリー、ディッキー、シブリー</a></li>
<li><a href="#5-美的なものと芸術的なものその後">5 美的なものと芸術的なもの、その後</a><ul>
<li><a href="#参考文献">参考文献</a></li>
</ul>
</li>
</ul>
<h3 id="1-美学は芸術の哲学なのか">1 美学は芸術の哲学なのか?</h3>
<p>博士論文(80,000 words)をあらかた仕上げて予備審査に出したので、ゴキゲンのブログ更新。</p>
<p>博論でも取り上げている話だが、私の専門である美学/芸術哲学への入門的な話題としてよさそうだったので、一部ネタを抜粋して再構成してみた。なにかというと、美学と芸術哲学の関係性についての話だ。<a href="#f-20f0a2e7" name="fn-20f0a2e7" title="タイトルはシブリーの「美的なものと非美的なもの」のパロディを意図していたが、調べてみたらDavid Bestなる人が1982年にその名も「The Aesthetic and the Artistic」という論文を書いていた。読んでみたいが、図書館の購読対象外なので手に入らない……。">*1</a></p>
<p><strong>美学[aesthetics]</strong>は、なんの専門家でもない人にとっては「男の美学」「仕事の美学」とか言われるときの流儀やこだわりを指す日常語であり、もうちょっと詳しい人にとっては、<strong>芸術哲学[philosophy of art]</strong>の同義語だ。英語でも事情は同じらしく、aestheticsが専門だと言えば、artについてなんか研究している人だと思われがちらしい。</p>
<p><a href="https://bigakukai073.bigakukai.jp/day01/">日本美学会の大会プログラム</a>なんかを覗けば、美学というラベルのもとで個別の芸術作品や芸術家や芸術運動について研究している方がたくさん見つかるだろう。ややこしいことに、日本の「美学」は芸術哲学ですらなく、芸術学(science of artとかart studies)という<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%A3%A5%B7%A5%D7%A5%EA%A5%F3">ディシプリン</a>に近いのだが、なぜこんなことになっているのか私には分からないので、日本の事情は脇に置く。<a href="#f-115faa79" name="fn-115faa79" title="ちょっとだけこの話をすると、日本における「美学」は、経緯はともかくガラパゴス化していると言うべきだろう。まず、文学部という訳わからんdepartmentの下に哲学科がある時点で結構きびしいと思うのだが、たいていの場合、美学研究者は哲学科ではなく美術史や芸術学とセットの別の科に振り分けられている。美学がまずもって哲学であることが、そもそもほとんど認識されていないように思う。学振の区分でも、美学は哲学ではなく芸術学の下位にある。
それは別にいいとして、部分的に「美学」を冠した学科に入っても、プロパーな意味での(つまり、バウムガルテンやカントと同じタイプの仕事をしているという意味での)美学者がいるとは限らない。しばしば、構成員は美学史研究者か、なんなら美術史研究者であり、JAACやBJAに載るようなタイプの論文を読み書きしているわけではない。例えば、現在の慶應美美には(ひとつ目のビに反して)専門に美学を掲げる教員が一人もいない。
ある意味では、「美学」のラベルで私の認識する美学の仕事とはかなり異なる仕事をしている人たちにこそ、本エントリーへの意見を伺ってみたいところだ。歴史に関しては、私なんかよりもはるかに詳しいはずなので。(『なぜ美』WSで美学会に登壇したときにこの話を振ってみてもよかったかもしれない。)">*2</a></p>
<p>とにかく、<strong>美的[aesthetic]</strong>というラベルは、<strong>芸術的[artistic]</strong>というラベルと、かなり密接なものとして理解されてきたし、理解されているわけだ。カジュアルには、芸術の持つなんか特別な価値のことを、美的価値と言ったりする人もいるだろう。あるいは、美しい風景の美しさを褒めるのに「芸術的だ」と言うことも多い。</p>
<p>しかし、専門家にとって美学とは、襟を正して「感性的認識の学」と紹介されるアレのことであり、18世紀に二十歳そこそこの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%A6%A5%E0%A5%AC%A5%EB%A5%C6%A5%F3">バウムガルテン</a>というドイツ人が創始し、カントが『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BD%C3%C7%CE%CF%C8%E3%C8%BD">判断力批判</a>』で盛り上げた特定の学問分野を指す。おそらくあまりミスリーディングでない訳語としてaestheticsとは感性学であり、感性という特定の知覚・認知モードを主題とした学問のことである。標準的には、頭を使って考え結論することとは対照的に、ぱっと見たり聞いたりすることで即時的になにかを把握するという点から、感性的認識は特徴づけられる。「考えるな、感じろ」というわけだ。こういった性格から、現代では<a href="https://academic.oup.com/book/3110">ベンス・ナナイ[Bence Nanay]</a>や<a href="https://amzn.asia/d/9HnfJnS">源河亨さん</a>のように、知覚の哲学と密接に結びつけて美学を論じる人たちもいる。</p>
<p>ややこしいことに、伝統的に美学者たちは、感性的認識の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>ケースとして美しいもの、とりわけ美しい芸術作品を熱心に取り上げてきたのだ。優美な絵画を見て、考えるよりも先にグッと来る経験こそがプロパーな美的経験だとされ、作品経験の外にある実生活まで忘れて没入してしまうのが美的態度であり、そういった経験を与える作品には美的価値=芸術的価値がある、などなど。このようにして①感性、②美、③芸術の三位一体からなる学問分野として、美学は発展してきた。<a href="#f-7f9c5b6d" name="fn-7f9c5b6d" title="私は美学史の専門家ではないので、この辺りの話は手癖でざっと書いている。詳しくは『美学』『西洋美学史』『美学辞典』を読むべし。">*3</a></p>
<p>実際には、芸術作品以外にも、感性的認識の対象となりうるアイテムはいろいろある(e.g., 壮大な風景、きれいな人)のだが、なぜか芸術作品ばかりフォーカスされてきた。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A1%BC%A5%B2%A5%EB">ヘーゲル</a>は自然美より芸術美ほうがえらいと考えていたようだし、ウォルハイムやサヴィルに至ってはまず芸術への美的経験があって、それが派生することではじめて自然物への美的経験があるとされる。歴史的にいろいろと事情はあるようなのだが、正直あれこれ読んでも私にはそこを結びつける必然性がほとんど理解できていない。美的なもの(美的経験、美的態度、美的価値、美的性質などなど)の概念と、芸術の概念は、どちらも他方に依存しているようには思われない。</p>
<p>ということで、私は<strong>切り離し派</strong>だ。美学と芸術哲学は、もちろん無縁ではないのだが、どちらも他方を含意したり要請するものではない。美的なものの領域と芸術的なものの領域は、部分的にオーバーラップするだけなのだ。この見解は、博論のなかで擁護するつもりだが、本エントリーでは関連する議論の背景だけまとめておこう。</p>
<h3 id="2-芸術抜きの美学">2 芸術抜きの美学?</h3>
<p>もうちょっと話を絞ろう。私が専門にしている、現代、つまりざっと20世紀後半〜現在の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%D1%B8%EC%B7%F7">英語圏</a>の美学(日本では「分析美学」として紹介されている)においても、これを芸術哲学とセットで理解するのが標準的である。いかんせん、分野ではトップジャーナルのひとつである<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>発行の学会誌が、『<em><a href="https://academic.oup.com/jaac">Journal of Aesthetics and Art Criticism</a></em>』と題されている。JAACでも、感性学っぽい論文はそんなに多いわけではなく、芸術関連の哲学的論文が多く収録されている。イギリス<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>の方はもうちょっとストイックに『<em><a href="https://academic.oup.com/bjaesthetics">British Journal of Aesthetics</a></em>』と題されているが、こちらでもart関連の論文は少なくない。</p>
<p>ほんのつい最近になって、美学者たちは自分たちが芸術(とくにモダンアート以降の難解でエリート主義的なあれこれ)を気にかけなくてもよいことに気がついたようだ。2000年代には、斉藤百合子[Yuriko Saito]の活躍を中心にいわゆる<a href="https://plato.stanford.edu/entries/aesthetics-of-everyday/">日常美学</a>が台頭し、芸術に限られない、いろんなアイテムへの美的関与が注目されるようになった。つい最近も、美的価値というのが必ずしも芸術的価値と抱き合わせではないことに気がついた人たちが、この主題を大きく発展させている。ロペス、ナナイ、リグルによる『<a href="https://amzn.asia/d/czJuSIi">なぜ美を気にかけるのか</a>』はその最新の成果であり、イントロダクションで早々に「アートだけが肝心じゃないんですよー」的な強調がなされている。<a href="#f-8dfc1b41" name="fn-8dfc1b41" title="高田さんによる『なぜ美』書評👇
私のコメントは、前に邦訳刊行記念ワークショップに出たときにまとめた👇
">*4</a></p>
<p>美的経験や美的価値をどのように特徴づけようとも、芸術であるアイテムかつそれらのみがその種の経験を与え、その種の価値を持つ、というのはありえそうにない。美学は、芸術に限らずいろんなアイテムの持つ美的側面、私たちのとる美的観点を扱う、独自の主題を持った独自の分野なのだ。なので、少なくとも今日、美学の専門家であることから芸術についてなんかやっていることを推論するのはあまり適切ではないだろう。</p>
<p>ということで、美学側からの「芸術いらんわ」が近年徐々に進展しているわけだが、面白いことに、遡れば先に「美学いらんわ」と言い出したのは芸術哲学サイドなのだ。</p>
<h3 id="3-美学抜きの芸術">3 美学抜きの芸術?</h3>
<p>もう一度時代を遡ろう。最初に触れたように、美学はその最初期(つまり18世紀のヨーロッパ)において、すでに芸術と仲良しこよしだった。カントは、『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BD%C3%C7%CE%CF%C8%E3%C8%BD">判断力批判</a>』を前半で切り上げればよかったものの、途中から美的判断よりも芸術への判断や芸術家の天才性について書きたくなったらしく、おかげでひどく誤解される本にしてしまった<a href="#f-08c22bae" name="fn-08c22bae" title="つまり、美的判断の特徴としてカントが挙げている無関心性やら合目的性が、芸術に対するプロパーな判断の特徴として誤解されたり、後者の話が前者の話として誤解されたり、云々。">*5</a>。</p>
<p>ところが、この蜜月はやがて芸術の側がこじれにこじれて破綻へと向かう。とはいえ、そのタイミングはいわゆるモダンアートの台頭(21世紀初頭)とは必ずしも揃っていない。例えば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%B6%A5%F3%A5%CC">セザンヌ</a>による遠近感のぐちゃぐちゃな絵画に対し、クライブ・ベルが向けていたのは明らかに美的関心であり、考えるよりも先に胸にグッと来る形式と、その美的価値への関心であった。こういった経験や性質や価値はごく適切な意味での「美的なもの」の範疇に収まっている。戦後、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%ED%A5%C3%A5%AF">ポロック</a>の絵画を礼賛した<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%EC%A5%E1%A5%F3%A5%C8%A1%A6%A5%B0%A5%EA%A1%BC%A5%F3%A5%D0%A1%BC%A5%B0">クレメント・グリーンバーグ</a>に至るまで、芸術への美的<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>は有力な見解であり続けた。1950年代ぐらいまでは、まだまだ美学と芸術は仲良しだったのだ。<a href="#f-7d293eda" name="fn-7d293eda" title="もちろん、これは美学の議論と芸術関連の哲学的議論が親和的であったという意味での「仲良し」であって、芸術家と美学者が仲良しだったわけではない。すでに1952年にはアメリカ美学会の場でバーネット・ニューマンが「芸術家にとっての美学は、鳥にとっての鳥類学のようなものだ」といって揶揄したことがよく知られているし、今日でも、JAACやBJAを読もうとする芸術家はほとんどいないだろう。それはそれでどうなんだ、というのはまた別の問題だ。">*6</a></p>
<p>仲違いさせた人物としてしばしば引き合いに出されるのは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%BB%A5%EB%A1%A6%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">マルセル・デュシャン</a>である。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">デュシャン</a>による<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%C7%A5%A3%A5%E1%A5%A4%A5%C9">レディメイド</a>作品は、その辺のありふれた日用品を買ったり拾ってきて設置しただけの「芸術」であり、逆立ちしてもそこには適切な意味で美的な価値が含まれていそうにはなかった。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">デュシャン</a>は、芸術がより認知的な領域であること、すなわち「考えるな、感じろ」どころか、しっかり考えるべき領域であることを、その作品を通して強調してきたのだが、これは18世紀から連なる美学のコアに真っ向から挑戦するものであった。感性的認識の学とは、要は「考えるな、感じろ」の学であったからだ。鑑賞においてあれこれ考えなければならないのだとすれば、芸術はもはや美的なものの範疇には収まっていないことになる。<a href="#f-093a1a73" name="fn-093a1a73" title="デュシャンがレディメイドを解説する短いスピーチについては、この前、私訳をホームページに載せた。
">*7</a></p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">デュシャン</a>の仕事は長らく無視されていたのだが、1960年ごろにもなってようやく<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カにて再発見される。同時代には、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%EA%A1%BC%A5%F3%A5%D0%A1%BC%A5%B0">グリーンバーグ</a>好みの抽象<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%BC%E7%B5%C1">表現主義</a>への反発として、かっぱらってきたジャンク品をキャンバスに貼り付け、"絵画らしい"絵画をスポイルすることが流行っていたのだ(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%C3%A5%B5%A5%F3%A5%D6%A5%E9%A1%BC%A5%B8%A5%E5">アッサンブラージュ</a>とかコンバインと呼ばれる)。1960年代、多くの分野がそうであったのと同じように、芸術もどこか変な方向へと猛<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%C3%A5%B7%A5%E5">ダッシュ</a>で突き進み始めたらしい。それからというもの、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C7%A5%A3%A1%A6%A5%A6%A5%A9%A1%BC%A5%DB%A5%EB">アンディ・ウォーホル</a>の《<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2_(1964%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)">エンパイア</a>》やら<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D6%A5%E9%A5%E2%A5%F4%A5%A3%A5%C3%A5%C1">アブラモヴィッチ</a>の《<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A00">リズム0</a>》やら、もはや美学の道具立てではその意義を語れそうにない芸術作品が次々と台頭していった。</p>
<p>芸術哲学者も、芸術実践におけるこれらの変動に反応した。<strong>アーサー・C・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>[Arthur C. Danto]</strong>は、もはや視覚的にグッと来るかどうかという観点から、芸術とそうでないものを見分けるのも、それらの価値を見分けるのも不可能だという点を強調した。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C7%A5%A3%A1%A6%A5%A6%A5%A9%A1%BC%A5%DB%A5%EB">アンディ・ウォーホル</a>の《ブリロ・ボックス》は、店売り商品のブリロの箱と、視覚的にはなんら違いがない。そしてこのことは、多くの芸術哲学者にとって、美的な違いがないことを意味する。あれこれ考えてグッと来るようじゃダメで、見て直ちにグッと来るのでなければ美的な価値があるとは言えないのだ。しかし、《ブリロ・ボックス》には商品のブリロの箱にはない芸術的価値があることは、否定しがたい。であるとすれば、芸術的価値とは美的価値に限られないし、芸術の経験は美的経験に限られないのだ。トレンディな<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%A5%A2%A1%BC%A5%C8">現代アート</a>たちを扱うのに、美学はますます無力なものとなっていく。<a href="#f-33bc5936" name="fn-33bc5936" title="芸術的価値については以下のエントリーも参照。
">*8</a></p>
<p>実際、今日につながる「芸術哲学」が明確に輪郭づけられたのも、この時代にあたる。ちょっと前の1950年代までは、後期<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>を雑に読んだ哲学者たちが、芸術は定義不可能だと主張し、この分野の発展を抑圧していた。それからマンデルバウムが現れ、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>とディッキーが現れ、レヴィンソンとキャロルが現れる「定義論<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%C3%A5%AF%A5%E9%A5%C3%A5%B7%A5%E5">バックラッシュ</a>」については、別のエントリーを参照してもらいたい。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FMANFRA" title="レジュメ|モーリス・マンデルバウム「家族的類似と芸術に関する一般化」(1965) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>ともかく、この時代にはっきりしたのは、芸術を芸術たらしめるコアはなんにせよ美的なものではない、という点だ。芸術の制度的定義も歴史的定義も、美的な機能や価値をまったく持たないアイテムですら芸術になれるという点にポイントがあった。</p>
<h3 id="4-ビアズリーディッキーシブリー">4 <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>、ディッキー、シブリー</h3>
<p>こうして、1960年代から1970年代にかけて芸術哲学の側から「美学いらんわ」が叫ばれるようになったのだが、哲学者たちも一枚岩ではなかった。とりわけ、この時代にほとんど孤軍奮闘で芸術的なものと美的なものをがっちり結びつけていた論者として、<strong>モンロー・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>[Monroe Beardsley]</strong>がいる。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fbeardsley-aesthetics" title="レジュメ|「ビアズリーの美学」|スタンフォード哲学百科事典 - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>において、芸術とは美的経験を与えるよう意図して作られた道具にほかならず、芸術的価値はアフォードされる美的経験の価値に対応している。私は<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/beardsley_translation">ビアズリーの翻訳もしている</a>のだが、いまだになぜここまで強情に美的なものと芸術の結びつきを手放そうとしなかったのかは分かっていない。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>においては、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">デュシャン</a>の《<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89_(%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3)">泉</a>》のような美的機能のない作品は、実のところ芸術作品ではなく、芸術実践についてなにかをコメントする<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%AF%B3%D8%BD%F1">哲学書</a>と同じ身分を持ったアイテムに過ぎないのだ。この見解については、私の見たところ誰一人賛同していない。</p>
<p>ともかく、圧倒的に影響力を持ち(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は1967~68年には<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>会長を務めている)、圧倒的にぶっ叩きやすい立場に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>していた<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>という人物がいたからこそ、芸術哲学は急速に発展を遂げていったのだというのが、私なりの分析美学史観だ。例えば、芸術についての制度説の提唱者であり、「美学いらんわ」陣営を代表する<strong>ジョージ・ディッキー[George Dickie]</strong>は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>への熱心な批判者であり、ほとんど全ての哲学的見解を<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>に対する反発のなかで形成していった論者であるように私には思われる。</p>
<p>とはいえ、芸術に振られたことは、美学にとって必ずしも不幸なことではなかった。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>と同時代には、オックスフォード大を出て<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カに渡ってきた<strong>フランク・シブリー[Frank Sibley]</strong>がおり、美的なものの概念セットとして今日まで引き継がれるさまざまな見解を洗練させることとなる。シブリーも、美的なものの概念は芸術の概念に先行したものであると考えており、「芸術いらんわ」を推し進めていた先駆者であると言えそうだ。シブリーは芸術にならではの話題についてはほとんど関心を向けておらず、だからこそ、美学という学問をそのコアに立ち返りつつ発展させることに、大きく貢献できたのだろう。</p>
<h3 id="5-美的なものと芸術的なものその後">5 美的なものと芸術的なもの、その後</h3>
<p>1980年前後に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%EA%A5%CE%A5%A4%C2%E7%B3%D8">イリノイ大学</a>のディッキーのもとで学んだのが<strong>ノエル・キャロル[Noël Carroll]</strong>である。映画研究とのダブルディグリーをやっていたのと、師であるディッキーの影響からか、キャロルは「美学いらんわ」陣営の新世代代表となり、その名も『<em><a href="https://www.cambridge.org/core/books/beyond-aesthetics/1DBFAA4529EF3E2C1B74A8904DDDB8AB">Beyond Aesthetics</a></em>』(2001)という論文集を刊行している。第一論文として収録されている「Art and Interaction」(1986)では、芸術との典型的な相互作用として、美的な反応とは区別される解釈的反応があり、歴史的にも重視されてきたことを強調している。考察する楽しみというのは、見て直ちにグッと来るタイプの楽しみとは別タイプであり、どちらも芸術作品へのふさわしい反応とみなすべきなのだ。</p>
<p>キャロルと同い年の<strong>ロバート・ステッカー[Robert Stecker]</strong>も、美的でない芸術的価値があるという見解の熱心な擁護者として知られている。同世代には<strong>デイヴィッド・デイヴィス[David Davies]</strong>、<strong>ピーター・ラマルク[Peter Lamarque]</strong>、<strong>ジェロルド・レヴィンソン[Jerrold Levinson]</strong>、<strong>グレゴリー・カリー[Gregory Currie]</strong>、<strong>ス<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>ブン・デイヴィス[Stephen Davies]</strong>がおり、芸術哲学はいよいよ全盛期を迎えたといってよいだろう。</p>
<p>もちろん、同世代には<strong>マルコム・バッド[Malcolm Budd]</strong>、<strong>アラン・ゴールドマン[<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Alan">Alan</a> Goldman]</strong>、<strong>アレン・カールソン[Allen Carlson]</strong>など、美学寄りの関心が強い論者も含まれているし、キャロルは美学の論文もたくさん書いている。イメージとしては、芸術哲学と美学が別個の領域であることが認識されつつ、みんなキャパがあるので結局両方やっているという感じだ。レヴィンソンなんかは、芸術哲学研究としては芸術の定義、音楽の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>、意図と解釈の問題について独創的なア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>を次々と発表し、美学研究としては美的快楽主義を洗練・擁護するなど、超人的というほかない仕事ぶりを見せている。(論集はもう5冊出している。)<a href="#f-ee06dca8" name="fn-ee06dca8" title="レヴィンソンという哲学者の中心的なアイデアについては以下のエントリーを参照。
">*9</a></p>
<p>とにかく、キャロルら分析美学第2世代(と私はみなしている)の活躍を通して、芸術作品に絞って美学をやる論者も、美的な観点に絞って芸術哲学をやる論者も、ほとんど見られなくなった。「見た目に美しく、心にグッと来るからこそ芸術的価値がある」、はたまた「芸術作品こそが美的価値の主要な担い手である」みたいな主張は、かなり古臭く前時代的な主張となったのだ。芸術哲学と美学は手を切って、必要なときにのみ互いを参照する関係性になったように思われる。(ただし、ジャーナル上での棲み分けはとくに進まなかったことから、今日においてもJAACやBJAには芸術哲学と美学が混在している。)</p>
<p>前述の通り、2000年代以降は、芸術抜きの美学が模索されていたような雰囲気が伺われる。とりわけ、<strong>ドミニク・マカイヴァー・ロペス[Dominic McIver Lopes]</strong>のキャリアはその模索を反映しているような気がする。画像や写真についての割にテクニカルな哲学からキャリアを始めたロペスは、『<em><a href="https://www.oupjapan.co.jp/ja/products/detail/13623">Beyond Art</a></em>』(2014)によって芸術の諸問題をあらかた切り分け(この書名も、キャロル『<em>Beyond Aesthetics</em>』へのオマージュだろう)、『<em><a href="https://academic.oup.com/book/10852">Being for Beauty</a></em>』(2018)で芸術抜きの美的価値論へと向かっていく。今後もロペスを磁場として、この動向は進展していくだろう。(ざっと世代分けするなら、ロペスあたりから第3世代といった感じだろうか。だいたいこの世代がいまトップ研究者として分野をリードしている。)</p>
<p>しかし!実は21世紀に至って再び美的なものと芸術的なものを結びつけようとする野心的な一派が現れている。2000年代に先陣を切ったのは<strong>ジェームズ・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%A7%A5%EA">シェリ</a>ー[James Shelley]</strong>であり、近年は<strong>ケレン・ゴロデイスキー[Keren Gorodeisky]</strong>が後に続いている。ふたりとも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A1%BC%A5%D0%A1%BC%A5%F3%C2%E7">オーバーン大</a>学の教授であり、美的価値の議論ではまとめてオーバーン・ビューと呼ばれることもある。美的価値論としては<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%C2%BA%DF%CF%C0">実在論</a>寄りの見解であることが特徴だが、私にとってより興味深いのは、どちらも芸術と美的反応を深く結びつけている点だ。ただし、彼らは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>ともまた異なる仕方で、このふたつを結びつけている。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%A7%A5%EA">シェリ</a>ーは「<a href="https://philpapers.org/rec/SHETPO-3">The Problem of Non-Perceptual Art</a>」(2003)において、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">デュシャン</a>の《泉》もまた、プロパーな意味での美的反応の対象なのだという見解を擁護している。そのために「美的なもの」のスコープ自体を再考し、美的じゃなさそうな<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%A5%A2%A1%BC%A5%C8">現代アート</a>たちをもそのもとに収めようとするのだ。同様の見解はゴロデイスキー「<a href="https://philpapers.org/rec/GORTAO-18">The Authority of Pleasure</a>」(2021)にも現れる。ただし、これらは単なる規定ではない。二人とも、近代美学のクラシックを読み込んでいる論者であり、そのルーツに立ち返れば、美的なものは必ずしも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%A5%A2%A1%BC%A5%C8">現代アート</a>のあれこれをカバーし損ねるものではない、と主張するのだ。<a href="#f-aa660b66" name="fn-aa660b66" title="シェリーの「Intelligible Beauty」(2022)は、美的なものと芸術的なものの関係史を記述した論文として抜群に面白かった。
また、ゴロデイスキーの立場は先日の哲学若手研究者フォーラムで紹介した。資料は以下を参照。
">*10</a></p>
<p>ワイドスコープな美的なもの概念というのは、美学にとっても芸術哲学にとっても検討に値するア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>である。論証の具体的な中身や、切り離し派として私がどう応答するかは、博論に乞うご期待といったところで、話を切り上げよう。</p>
<p> </p>
<h4 id="参考文献">参考文献</h4>
<p style="text-align: left;"><span style="font-size: 80%;">Beardsley, Monroe C. 1958. <em>Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism</em>. Harcourt, Brace.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 1982. <em>The Aesthetic Point of View: Selected Essays</em>. Cornell <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Carroll, Noël. 1986. “Art and Interaction.” <em>Journal of Aesthetics and Art Criticism</em> 45 (1): 57–68.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 2001. <em>Beyond Aesthetics: Philosophical Essays</em>. Cambridge <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 2022. “Forget Taste.” <em>Journal of Aesthetic Education</em> 56 (1): 1–27.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Danto, Arthur. 1964. “The Artworld.” <em>The Journal of Philosophy</em> 61 (19): 571–84.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Dickie, George. 1965. “Beardsley’s Phantom Aesthetic Experience.” <em>The Journal of Philosophy</em> 62 (5): 129–36.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 1974. <em>Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis</em>. Cornell <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 1988. <em>Evaluating Art</em>. Temple <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Gorodeisky, Keren. 2021. “The Authority of Pleasure.” <em>Noûs</em> 55 (1): 199–220.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Levinson, Jerrold. 1996. <em>The Pleasures of Aesthetics: Philosophical Essays</em>. Vol. 57. Cornell <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Lopes, Dominic Mciver. 2011. “The Myth of (Non‐Aesthetic) Artistic <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a>.” <em>The Philosophical Quarterly</em> 61 (244): 518–36.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 2014. <em>Beyond Art</em>. Oxford <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 2018. <em>Being for Beauty: Aesthetic Agency and <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a></em>. Oxford <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Shelley, James. 2003. “The Problem of Non-Perceptual Art.” <em><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/British">British</a> Journal of Aesthetics</em> 43 (4): 363–78.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 2022a. “Intelligible Beauty.” <em>Aristotelian Society Supplementary Volume</em> 96 (1): 147–64.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 2022b. “The Concept of the Aesthetic.” In <em>The <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Stanford">Stanford</a> Encyclopedia of Philosophy</em>, edited by Edward N. Zalta, Spring 2022. Metaphysics Research Lab, <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Stanford">Stanford</a> University. <a href="https://plato.stanford.edu/archives/spr2022/entries/aesthetic-concept/.">https://plato.stanford.edu/archives/spr2022/entries/aesthetic-concept/.</a></span><br /><span style="font-size: 80%;">Sibley, Frank. 2001. <em>Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics</em>. Clarendon Press.</span><br /><span style="font-size: 80%;">Stecker, Robert. 2012. “Artistic <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a> Defended.” <em>Journal of Aesthetics and Art Criticism</em> 70 (4): 355–62.</span><br /><span style="font-size: 80%;">———. 2019. <em>Intersections of <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a>: Art, Nature, and the Everyday</em>. Oxford <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span></p>
<p> </p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-20f0a2e7" name="f-20f0a2e7" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">タイトルはシブリーの「美的なものと非美的なもの」のパロディを意図していたが、調べてみたらDavid Bestなる人が1982年にその名も「<a href="https://doi.org/10.1017/S0031819100050968">The Aesthetic and the Artistic</a>」という論文を書いていた。読んでみたいが、図書館の購読対象外なので手に入らない……。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-115faa79" name="f-115faa79" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ちょっとだけこの話をすると、日本における「美学」は、経緯はともかく<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%E9%A5%D1%A5%B4%A5%B9%B2%BD">ガラパゴス化</a>していると言うべきだろう。まず、文学部という訳わからんdepartmentの下に哲学科がある時点で結構きびしいと思うのだが、たいていの場合、美学研究者は哲学科ではなく美術史や芸術学とセットの別の科に振り分けられている。美学がまずもって哲学であることが、そもそもほとんど認識されていないように思う。学振の区分でも、美学は哲学ではなく芸術学の下位にある。</p>
<p>それは別にいいとして、部分的に「美学」を冠した学科に入っても、プロパーな意味での(つまり、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%A6%A5%E0%A5%AC%A5%EB%A5%C6%A5%F3">バウムガルテン</a>やカントと同じタイプの仕事をしているという意味での)美学者がいるとは限らない。しばしば、構成員は美学<strong>史</strong>研究者か、なんなら<strong>美術史</strong>研究者であり、JAACやBJAに載るようなタイプの論文を読み書きしているわけではない。例えば、現在の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C4%D8%E6">慶應</a>美美には(ひとつ目のビに反して)専門に美学を掲げる教員が一人もいない。</p>
<p>ある意味では、「美学」のラベルで私の認識する美学の仕事とはかなり異なる仕事をしている人たちにこそ、本エントリーへの意見を伺ってみたいところだ。歴史に関しては、私なんかよりもはるかに詳しいはずなので。(『なぜ美』WSで<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>に登壇したときにこの話を振ってみてもよかったかもしれない。)</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7f9c5b6d" name="f-7f9c5b6d" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">私は美学<strong>史</strong>の専門家ではないので、この辺りの話は手癖でざっと書いている。詳しくは『<a href="https://amzn.asia/d/drSvKBz">美学</a>』『<a href="https://amzn.asia/d/5huVHBn">西洋美学史</a>』『<a href="https://amzn.asia/d/1ZfkurC">美学辞典</a>』を読むべし。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-8dfc1b41" name="f-8dfc1b41" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">高田さんによる『なぜ美』書評👇</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fat-akada.hatenablog.com%2Fentry%2F2023%2F09%2F07%2F211454" title="ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>私のコメントは、前に邦訳刊行記念ワークショップに出たときにまとめた👇</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fsenkiyohiro.notion.site%2FWS-4a0f63f5181b4068bb19d24e11f34e92%3Fpvs%3D4" title="#なぜ美 翻訳刊行記念WS" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-08c22bae" name="f-08c22bae" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">つまり、美的判断の特徴としてカントが挙げている無関心性やら合目的性が、芸術に対するプロパーな判断の特徴として誤解されたり、後者の話が前者の話として誤解されたり、云々。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7d293eda" name="f-7d293eda" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もちろん、これは美学の議論と芸術関連の哲学的議論が親和的であったという意味での「仲良し」であって、芸術家と美学者が仲良しだったわけではない。すでに1952年には<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>の場でバーネット・ニューマンが「<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/54/3/54_KJ00004585199/_article/-char/ja/">芸術家にとっての美学は、鳥にとっての鳥類学のようなものだ</a>」といって揶揄したことがよく知られているし、今日でも、JAACやBJAを読もうとする芸術家はほとんどいないだろう。それはそれでどうなんだ、というのはまた別の問題だ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-093a1a73" name="f-093a1a73" class="footnote-number">*7</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">デュシャン</a>が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%C7%A5%A3%A5%E1%A5%A4%A5%C9">レディメイド</a>を解説する短いスピーチについては、この前、私訳をホームページに載せた。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.senkiyohiro.com%2Fresearch%2Fculture%2Freadymade" title="銭 清弘|sen kiyohiro - 〈レディメイド〉について────マルセル・デュシャン" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-33bc5936" name="f-33bc5936" class="footnote-number">*8</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">芸術的価値については以下のエントリーも参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fn69c34eb9ee75" title="芸術的価値についてどのような立場があるのか|obakeweb" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-ee06dca8" name="f-ee06dca8" class="footnote-number">*9</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">レヴィンソンという哲学者の中心的なア<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>については以下のエントリーを参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fcontextualism" title="ジェロルド・レヴィンソンと芸術に関する文脈主義 - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-aa660b66" name="f-aa660b66" class="footnote-number">*10</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%A7%A5%EA">シェリ</a>ーの「<a href="https://philpapers.org/rec/SHEIB-2">Intelligible Beauty</a>」(2022)は、美的なものと芸術的なものの関係史を記述した論文として抜群に面白かった。</p>
<p>また、ゴロデイスキーの立場は先日の哲学若手研究者フォーラムで紹介した。資料は以下を参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fsenkiyohiro%2Fpresentations%2F42830179" title="銭 清弘 (Kiyohiro Sen) - 批評が鑑賞をガイドするとはどういうことか - 講演・口頭発表等 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p></span></p>
</div>
psy22thou5
どの活動がなにゆえ「芸術」なのか?
hatenablog://entry/4207112889963080857
2023-05-22T21:03:33+09:00
2023-05-22T21:08:29+09:00 芸術哲学の(根幹とまでは言わずとも、)代表的なトピックのひとつは芸術の定義である。芸術とはなにか。どこのどれがなにゆえ芸術作品であり、その他のアイテムはなぜ芸術作品ではないのか。 分析美学における芸術の定義史は教科書[1][2]やStanford Encyclopedia of Philosophyのエントリーを読んでいただければ結構なので、ここでは新しめの話を紹介する。*1 *1:ざっくり流れだけ紹介すると、芸術作品の本質はこれだ!いやあれだ!といった議論が一通りなされた後、「芸術の本質たる特徴はない」とする立場(ワイツ)によって50年代なかばには一旦議論が下火となる。その後、「作品の内的性…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20230522/20230522205945.png" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" />芸術哲学の(根幹とまでは言わずとも、)代表的なトピックのひとつは<strong>芸術の定義</strong>である。芸術とはなにか。どこのどれがなにゆえ芸術作品であり、その他のアイテムはなぜ芸術作品ではないのか。</p>
<p>分析美学における芸術の定義史は教科書[<a href="https://amzn.asia/d/61fWHwq">1</a>][<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/CARPOA-6">2</a>]や<a href="https://plato.stanford.edu/entries/art-definition/"><em>Stanford Encyclopedia of Philosophy</em>のエントリー</a>を読んでいただければ結構なので、ここでは新しめの話を紹介する。<a href="#f-17721b5a" name="fn-17721b5a" title="ざっくり流れだけ紹介すると、芸術作品の本質はこれだ!いやあれだ!といった議論が一通りなされた後、「芸術の本質たる特徴はない」とする立場(ワイツ)によって50年代なかばには一旦議論が下火となる。その後、「作品の内的性質じゃなくて、人や歴史や制度との関係的性質に訴えればいいんじゃないか?」という考え(マンデルバウム)とともに制度説(ディッキー)や歴史説(レヴィンソン)が現れ、定義論リバイバルとなる(70年代〜80年代)。
〈芸術作品を芸術作品たらしめているのは社会的要因であり、芸術という身分は制度や歴史と絡んでいる〉という考えはあまりにももっともらしかったので、もうそれでいいじゃんという雰囲気になった。その後現在に至るまで、ブランニューなオルタナティブは現れていない。その後の数十年は、これら社会的アプローチの洗練、曖昧な点の払拭、似たような立場の間の小競り合いによって費やされた感がある。
芸術の定議論が安定したのは、コンセプチュアル・アート以降、存在論的にブランニューな芸術形式がそもそも現れていないことにも原因があるのだろう。ある意味でやはり芸術は終焉したので、定義論が終焉するのも当然だ。">*1</a></p>
<h3 id="芸術の定義とバックパス">芸術の定義とバックパス</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FLOPNNA-2" title="Dominic McIver Lopes, Nobody Needs a Theory of Art - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>芸術の定議論では、制度説や歴史説といったそれなりにもっともらしい立場が現れて以降、おおきなブレイクスルーはなかった。流れを変えたのは<strong>ドミニク・ロペス[Dominic Lopes]</strong>である。2008年の、その名も「芸術の理論なんて誰もいらない」という論文で、ロペスは次のように提起する。</p>
<p>私たちが必要としているのは、<strong>芸術[art]</strong>の理論じゃなくて、<strong>諸芸術形式[the arts]</strong>の理論である。気になる/気にすべきなのは、音楽、ダンス、演劇、文学、映画、絵画、建築といった各芸術形式の本性であって、「芸術」というドでかいカテゴリーの本性ではない。私たちは「いい絵画だなぁ」と言ったりするが、めったに「いい芸術だなぁ」などとは言わない。ロペスは、artの理論をthe artsの理論によってバックパスしようとする。すなわち、</p>
<blockquote>
<p>(R) あるアイテムxは芸術作品である ⇔ xは活動Pにおける作品であり、Pは諸芸術形式のひとつである。(Lopes 2008: 109)</p>
</blockquote>
<p>音楽、ダンス、演劇、文学、映画、絵画、建築がそれぞれ芸術形式、芸術実践、芸術活動なのは分かっているとしよう。ある個別の対象xがそのいずれかの種に属するならば、xは芸術作品である。芸術作品の定義なんてこんなんでいいのだ、とロペスは考える。芸術の定義論にさらなる「○○説」を付け加えるかわりに、ロペスはゲームチェンジを提案しているのだ。</p>
<p> </p>
<p>ロペスの方針は、2014年の単著『<em><a href="https://philpapers.org/rec/LOPBA">Beyond Art</a></em>』で体系的にまとめられる。さて、そうなってくると当然次に気になるのは、<strong>どの活動がなにゆえ芸術活動と言えるのか</strong>、である。なぜ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F7%C1%B0%BE%C6">備前焼</a>は芸術活動なのに、コーヒーマグ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%C3%A5%D7">カップ</a>作りは芸術活動じゃないのか。なぜ小説家による執筆活動は芸術活動なのに、新聞記者によるレポートは芸術活動じゃないのか。なぜバレエを踊るのは芸術活動だが、サッカーのシュートは芸術活動じゃないのか。活動によって生産されるもの(食器、テキスト、動作)は似てるどころか、場合によってはまったく見分けがつかないのに。</p>
<p>ということで本題、<strong>ミシェル・アントワーヌ・イネス[Michel-Antoine Xhignesse]</strong>による論文「なにがある種を<em>芸術-</em>種にするのか?」(2020)に移る。<a href="#f-7b86e1ad" name="fn-7b86e1ad" title="ミシェル・アントワーヌ・イネスは現在キャピラノ大学の講師。David Daviesの指導のもと、2017年に芸術製作における意図についての博士論文を書き、2019年まではロペスらのいるブリティッシュ・コロンビア大学でポスドクをされていた。ここで取り上げている論文「What Makes a Kind an Art-kind?」は2018年イギリス美学会のEssay Prizeと2022年アメリカ美学会のDanto Prize in Aesthetics特別賞をとっている、大注目の1本。">*2</a></p>
<p> </p>
<h3 id="なにがある種を芸術種にするのか">なにがある種を芸術種にするのか?</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilarchive.org%2Frec%2FXHIWMA" title="Michel-Antoine Xhignesse, What Makes a Kind an Art-kind? - PhilArchive" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>ある種(形式、実践、活動)が芸術種なのかどうかは、<strong>慣習</strong>の問題である、というのがイネスの主張だ。「慣習」の中身については後ほど問題にするとして、とにかく慣習は本性から<strong>恣意的で偶然的</strong>なものなので、どれが芸術種でどれがそうでないかも恣意的で偶然的であり、したがってどれが芸術作品でどれがそうでないかも恣意的で偶然的だということになる。慣習的にそうなっちゃっているからにはそうなのであり、それ以上でも以下でもない。元も子もないと言えば元も子もない説明だが、イネスはこれを受け入れる。曰く、ある種を芸術種にするのは、「慣習的な雰囲気[a conventional atmosphere](488)」である。(もちろん、これは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>が述べた「an atmosphere of artistic theory」へのオマージュだ。)</p>
<p> </p>
<p>まずイネスは、ロペスが話をそちらにシフトさせようとしているthe artsが、<strong>物理的メディアのことではない</strong>のを確認する。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F7%C1%B0%BE%C6">備前焼</a>とマグ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%C3%A5%D7">カップ</a>、小説と新聞記事、ダンスとシュートは、ものとしてはすごく似ている。「絵画」を純粋に物理的メディア(平面上に印を付けた物体)のことだとみなしてしまうと、子供の雑な落書きも《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%CA%A1%A6%A5%EA%A5%B6">モナ・リザ</a>》も等しく絵画だし、ロペスの原則(R)に従えばどちらも芸術作品だということになる。しかし、子供の雑な落書きは芸術作品ではないはずだ。どうやったらこのような線引きを理解できるのか?<a href="#f-721fa5d0" name="fn-721fa5d0" title="「子供の雑な落書きだって絵画でありアートだろう!」と考えてしまう人は、問いのポイントを逃している。そうやって帰属できるのは、純粋に物理的メディアを問題とした薄い意味での「アート」でしかない。それでよければ、写真は芸術形式なので、私が日常的に撮影しているスナップショットはぜんぶアートだし、建築は芸術形式なので、私の住んでいるアパートも立派なアートだ、ということになる。これらが薄い意味で事実だとしても、〈《モナ・リザ》や《泉》や《ブリロ・ボックス》はなにゆえ芸術なのか〉という厚い問いとはほとんどなんの関係もない。
それでもなお「あらゆるものは等しくアートだ!線引きなどない!」みたいな直観がある人は、①それにどんな根拠があるのか、②他の人たちもその直観を持っているのか、③それが正しいとしてなにがうれしいのか、辺りを考えてみるとよい。">*3</a></p>
<p>芸術種についてのイネスの方針は、ロペスによってすでに予告されたものである。ロペスは芸術種のかわりに「芸術メディア」を問題としているが、ロペスにおける「メディア」はちょっと変わっている。曰く、絵画、写真、映画といったメディアを区別するのは<strong>技術的リソース</strong>であり、ここには物理的な素材(もの)だけでなくテクニックのような手続きも含まれている。ざっくり言えば、メディアは物理的なものだけでなく、テクニック、やり方、手続きによって個別化されるのだ。<a href="#f-88661070" name="fn-88661070" title="
「メディウム」についてはキャロルのサーベイを参照(ロペスへの反論もある)。こちらでも書いているが、「メディウム」を物理的媒体としてだけでなく慣習を組み込んだものとして理解し、この概念をいわば延命しようとする方針は、分析美学の外ではクラウスやカヴェルのアプローチとして知られている。">*4</a></p>
<p>これを引き継ぎ、手続き改め「慣習」こそが芸術種を芸術種たらしめている、というのがイネスの中心的な主張となる。では、「慣習」とはそもそもなにか?</p>
<p> </p>
<h3 id="ふたつの慣習概念">ふたつの慣習概念</h3>
<p>よく知られた慣習[convention]の定義は、<strong>デイヴィド・ルイス[David Lewis]</strong>によるものだ。つい数年前に邦訳が出た『<a href="https://amzn.asia/d/2ln9i3R">コンヴェンション:哲学的研究</a>』で、ルイスは慣習を「コーディネーション問題への解決手段」として説明している。実際には<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%CD%FD%CF%C0">ゲーム理論</a>のテクい話だが、以下ではポイントだけかいつまんでインフォーマルに紹介する。</p>
<p><strong>コーディネーション問題(調整問題)[coordination problem]</strong>というのは、二人以上のエージェントが互いの出方を見て自らの戦略を決めるような場面であり、利用可能な選択肢が複数あり、さしあたりは直接的なコミュニケーションができないような場面だ。具体的としては、車を運転するときには右車線を走るか、左車線を走るか、といった例が挙げられがちだ。みんな揃ってそちらを走るなら右でも左でも構わないが、ランダムに走ってぶつかるのはまずい。</p>
<p>ある選択が実現され、安定し、もはや自分だけ離脱しても得しないような状況を<strong>均衡[equilibrium]</strong>と言う。現在の日本では左車線走行が均衡をなしている。私が今日から自分だけ右車線走行をしようとしても、衝突してケガするだけなので、そんなことをしようとは思わない。みんなそう思っているので、誰も右車線走行には切り替えない。みんなで左車線を走るという戦略の安定によって、コーディネーション問題は解決される。</p>
<p>法律のようなルールを受け入れることでコーディネーション問題は手っ取り早く解決しうるが、そういう明示的合意がないうちは、私たちはいわば「空気を読む」(合理的に考慮する)しかない。連絡がつかない友達と渋谷で待ち合わせをするなら、とりあえずハチ公のような<strong>顕著な[salient]</strong>場所に行くだろう。前に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/TSUTAYA">TSUTAYA</a>前で待ち合わせをしたという<strong>先例[precedent]</strong>があるなら、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/TSUTAYA">TSUTAYA</a>前に行ってみるのも手だろう。ルイスによれば、とりわけこういった先例を通してコーディネーション問題を解決する装置こそ、<strong>慣習</strong>にほかならない。前にもそうしたから今回もそうする、そしてみんな同じように考えて前にしたのと同じことをするからこそ問題が解決される。それが慣習の役割であり、本性である。</p>
<p> </p>
<p>しかし、イネスは<strong>ルイス的な慣習は芸術活動と非芸術活動の線引きには使いづらい</strong>と考えている。なぜなら、芸術実践というのは、そもそもコーディネーション問題を解くようなものではなさそうだからだ。芸術作品を創造するという課題は、車線を選ぶという課題とはあまり似ていない。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%CB%A5%A8%A5%EA%A5%B9%A5%E0">マニエリスム</a>の絵画実践では人物の手足を長めに描く慣習があるが、その慣習抜きには困ってしまうような問題があらかじめ存在し、当の慣習が問題が解決しているわけでもない。一般的に、ルイス的な「慣習」は、あらかじめ存在し、解決されるべきコーディネーション問題を前提する点で、私たちが慣習とみなしているあれやこれをカバーするには狭すぎるのだ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FMILLTA" title="Ruth Garrett Millikan, Language, Thought, and Other Biological Categories: New Foundations for Realism - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>イネスはより使い勝手のよい慣習概念として、<a href="https://philpapers.org/rec/MILLTA">Millikan (1984)</a>の慣習概念を持ち出す(<a href="https://plato.stanford.edu/entries/convention/">SEP「Convention」の6.3</a>も参照)。ミリカン的な慣習は、<strong>「もっぱら先例に由来して複製[reproduce]していく行動パターン」</strong>であり、コーディネーション問題への解ともなりうるが、そうなることは必須ではない。複製は、「行動パターンP1から、それと似た行動パターンP2が生じ、P2はP1に反実仮想的に依存している」ことから説明される。なんらかの点で有益だから行動パターンとして複製されるのではなく、単にそうしてきたからそうし続けるという点が、慣習であることのポイントだ。先例に沿って同じような行動パターンを複製していれば、なんの役にも立たないとしても、そこにはもう慣習がある。また、意図して複製する必要もなく、無意識にふるまっても慣習の一部を構成しうる。ルイスが推論能力やら共通知識やら合理性やら意図をエージェントに要求する一方で、ミリカンはそういうのを全く求めない。ミリカンの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1">自然主義</a>的な「慣習」は、複製関係だけを要件とすることから、ルイスとは逆に広すぎるのではという懸念もある(例えば、合理的でない動物にも慣習があることになる)。それはともかく、イネスは芸術慣習をミリカン的な慣習から説明しようとする。</p>
<p> </p>
<h3 id="芸術慣習の恣意性">芸術慣習の恣意性</h3>
<p>いわゆる<strong>アートワールド</strong>も、さまざまな芸術慣習(ジャンルごとの解釈・評価慣習、イコノグラフィー、描写の規範など)が合わさった、複雑なシステムとして理解される。実際のところ、芸術慣習の起源と発展の全貌を追うのは難しいので、イネスは比較として17世紀オランダの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%C3%A5%D7%A1%A6%A5%D0%A5%D6%A5%EB">チューリップ・バブル</a>を紹介している<a href="#f-bd7ce297" name="fn-bd7ce297" title="
ウィキペディアによるとこちらもことの実態がよくわかっていないようだが。">*5</a>。1610年代ごろからオランダの宮廷ではチューリップがアクセサリーとしてバズり、それを身につけることのなにがうれしいのかを置き去りにして、人気だからより人気になり、高価だからより高価になっていった。チューリップ・ワールドはやがて<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%D6%A5%EB%CA%F8%B2%F5">バブル崩壊</a>に至るが、それまでの間、植物学者、園芸家、栽培家、商人、花屋といったさまざまな職種の人がそれぞれ役割を果たしていた。こういった投機的な力によって突き進み、強化されていく点で、かつてのチューリップ慣習と現在まで続く芸術慣習は同類である、というわけだ。どの花が人気を博し、価値あるとみなされるようになっていくのかは恣意的である。チューリップだからこそバズった、という側面はほとんどない。同様に、どの活動が芸術慣習に組み込まれるのかは、根本において恣意的である。</p>
<p> </p>
<p>さて、芸術活動なのかどうかが慣習の問題であり、慣習は恣意的だというのはわかったが、もっと具体的に言って、<strong>ある活動が芸術活動なのかどうかを私たちはどうやって知りうるのか</strong>。</p>
<p>イネスはこの問いに対して始終消極的である。結局のところ、諸芸術の歴史は長すぎて資料も断片的であるため、歴史上のどの時点でどういう理由から芸術活動となったのか、私たちには知り得ない場合が多い。とはいえ、比較的最近の芸術形式であり資料も豊富なもの、例えば映画については、なぜ諸芸術のひとつなのか多少は具体に答えられるとする。映画の制作や鑑賞の実践を調査し、現代文化において果たしている役割に着目すれば、機能主義的に映画はひとつの芸術形式なのだと言えるかもしれない。この手の説明は、すでに同様の役割を果たしてきた別の芸術形式(絵画や写真)から映画が派生してきたのだと指摘することで、正当化される。</p>
<p> </p>
<p>まとめよう。イネスが当初気にしていたのは芸術作品の定義であった。ロペスにならい、(1)あるアイテムが芸術作品かどうかは芸術活動の産物かどうかの問題だとした後で、イネスは(2)ある活動が芸術活動かどうかは芸術慣習的にそうなのかどうかの問題だとした。芸術慣習は恣意的なので、したがって芸術作品かどうかも恣意的である。芸術の定義としては、ディッキー的な制度説のややこしいところ(「身分の授与」とか「鑑賞の候補」とか)を削って、ミニマルにまとめたものだと位置づけられるだろう。</p>
<p>イネスによる重要な補足として、芸術慣習の起源が恣意的であるからといって、今日においてもなんの有用性もなく、維持する強制力もないわけではない。むしろ、はじめは恣意的でも、慣習は自己強化を重ね、ふるまいを統制するような規範として発展していくものだとする。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>「芸術種」と呼ばれているものはおおむね「芸術のカテゴリー」に対応するので、私の博論テーマにとっても非常に重要な論文だ。使っている説明項がミリカンの慣習かグァラの制度かという違いはあるが、社会的アプローチをとる点でも、私とは方針が大きく重なっている。</p>
<p>大きな対立点になりそうなのは、(1)芸術慣習(ないし制度)に根本的かつ包括的な恣意性があるとするのか、(2)いくつかの場面ではコーディネーション問題とその解としてのパターンがあるとするのか、という点だ。<a href="https://philpapers.org/rec/SENAIT-2">前に<em>Debates in Aesthetics</em>に書いた論文</a>では、私は芸術のカテゴライズ実践について後者に傾いている。グァラの制度理論はルイスの慣習理論の上に築かれているので、(多くの点でサールの制度理論よりはマシなのだろうが)イネスからは狭すぎると言われるかもしれない。本論文では触れていないので、イネスがグァラの制度理論をどこまで有望だと考えているのかは分からないが。</p>
<p>とはいえ、そんなに深刻な対立点があるわけでもなさそうだ。いま投稿中の論文では「ジャンル」なる芸術のメタカテゴリーをルールの観点から分析しているが、そちらにはジャンルについてのルイス的説明をしている<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/ABEIIA">Abell (2015)</a>に対抗して、イネス=ミリカン的な説明を突きつけるくだりが含まれる。実際、芸術におけるジャンル=ルールがどう有効性を獲得するのか(イネス的な問い方としては、ある芸術種がどう定着するのか)については、まったくの恣意的か、さもなければ問題解決のための合理的採用だという、二者択一を迫られるものでもなさそうだ(という話も書いている)。</p>
<p> </p>
<p>私はもうすっかり分析美学における芸術の定義論に毒されたので、芸術作品かどうかは社会的相互作用のなかで恣意に決まるという見解にはそんなに驚きはなかった。しかし、〈芸術とはなにか〉をまさにこれから考えようとしている人にとっては元も子もないし、知的に魅力的でない立場のように思われてしまうのではないか、というのは時折思わないでもない。だからどうしようというわけでもないが。</p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-17721b5a" name="f-17721b5a" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ざっくり流れだけ紹介すると、芸術作品の本質はこれだ!いやあれだ!といった議論が一通りなされた後、「芸術の本質たる特徴はない」とする立場(<a href="https://note.com/zmz/n/n397f021fb7e9">ワイツ</a>)によって50年代なかばには一旦議論が下火となる。その後、「作品の内的性質じゃなくて、人や歴史や制度との関係的性質に訴えればいいんじゃないか?」という考え(<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/MANFRA">マンデルバウム</a>)とともに制度説(ディッキー)や歴史説(レヴィンソン)が現れ、定義論<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D0%A5%A4%A5%D0%A5%EB">リバイバル</a>となる(70年代〜80年代)。</p>
<p>〈芸術作品を芸術作品たらしめているのは社会的要因であり、芸術という身分は制度や歴史と絡んでいる〉という考えはあまりにももっともらしかったので、もうそれでいいじゃんという雰囲気になった。その後現在に至るまで、ブランニューな<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EB%A5%BF%A5%CA%A5%C6%A5%A3%A5%D6">オルタナティブ</a>は現れていない。その後の数十年は、これら社会的アプローチの洗練、曖昧な点の払拭、似たような立場の間の小競り合いによって費やされた感がある。</p>
<p>芸術の定議論が安定したのは、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%F3%A5%BB%A5%D7%A5%C1%A5%E5%A5%A2%A5%EB%A1%A6%A5%A2%A1%BC%A5%C8">コンセプチュアル・アート</a>以降、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的にブランニューな芸術形式がそもそも現れていないことにも原因があるのだろう。ある意味でやはり<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/COA">芸術は終焉した</a>ので、定義論が終焉するのも当然だ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7b86e1ad" name="f-7b86e1ad" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a href="https://philpeople.org/profiles/michel-antoine-xhignesse">ミシェル・アントワーヌ・イネス</a>は現在キャピラノ大学の講師。David Daviesの指導のもと、2017年に芸術製作における意図についての博士論文を書き、2019年まではロペスらのいる<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%EA%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%B7%A5%E5%A1%A6%A5%B3%A5%ED%A5%F3%A5%D3%A5%A2">ブリティッシュ・コロンビア</a>大学で<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C9%A5%AF">ポスドク</a>をされていた。ここで取り上げている論文「What Makes a Kind an <em>Art</em>-kind?」は2018年イギリス<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>のEssay Prizeと2022年<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>のDanto Prize in Aesthetics特別賞をとっている、大注目の1本。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-721fa5d0" name="f-721fa5d0" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">「子供の雑な落書きだって絵画でありアートだろう!」と考えてしまう人は、問いのポイントを逃している。そうやって帰属できるのは、純粋に物理的メディアを問題とした薄い意味での「アート」でしかない。それでよければ、写真は芸術形式なので、私が日常的に撮影しているスナップショットはぜんぶアートだし、建築は芸術形式なので、私の住んでいるアパートも立派なアートだ、ということになる。これらが薄い意味で事実だとしても、〈《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%CA%A1%A6%A5%EA%A5%B6">モナ・リザ</a>》や《泉》や《ブリロ・ボックス》はなにゆえ芸術なのか〉という厚い問いとはほとんどなんの関係もない。</p>
<p>それでもなお「あらゆるものは等しくアートだ!線引きなどない!」みたいな直観がある人は、①それにどんな根拠があるのか、②他の人たちもその直観を持っているのか、③それが正しいとしてなにがうれしいのか、辺りを考えてみるとよい。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-88661070" name="f-88661070" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FCARMS-6" title="レジュメ|ノエル・キャロル「メディウム・スペシフィシティ」(2019) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>」についてはキャロルの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A1%BC%A5%D9%A5%A4">サーベイ</a>を参照(ロペスへの反論もある)。こちらでも書いているが、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>」を物理的媒体としてだけでなく慣習を組み込んだものとして理解し、この概念をいわば延命しようとする方針は、分析美学の外ではクラウスやカヴェルのアプローチとして知られている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-bd7ce297" name="f-bd7ce297" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2581%25E3%2583%25A5%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2583%25E3%2583%2597%25E3%2583%25BB%25E3%2583%2590%25E3%2583%2596%25E3%2583%25AB" title="チューリップ・バブル - Wikipedia" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%AD%A5%DA%A5%C7%A5%A3%A5%A2">ウィキペディア</a>によるとこちらもことの実態がよくわかっていないようだが。</span></p>
</div>
psy22thou5
美しいものは喜びに適合している?:美的価値についての適合態度分析
hatenablog://entry/4207112889975094334
2023-03-26T21:32:30+09:00
2024-02-29T12:24:41+09:00 美的価値とはなんぞやをめぐる、最新の研究です。*1 「美しい」「崇高である」「パワフルである」といった美的価値については、しばしばそれによって引き起こされる反応の観点から説明されてきた。すなわち、美しかったり優美だったりして美的に良いものとは、私たちに特別な快楽やら満足やら喜びを与えるものにほかならない。ここでは、ある特別な情動的反応をもたらす能力の観点から、美的価値を持つことが分析されている。 いわゆる美的快楽主義はこの筆頭なわけだが、能力による価値の分析にはいろいろとしんどい点がある。とりわけ、どうやって価値の客観性を担保するのかが問題となる。ワーグナーの美しい楽曲は快楽を与えるとは言うが…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20230326/20230326213024.png" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FKRIAFA-4" title="Uriah Kriegel, A Fitting-Attitude Approach to Aesthetic Value? - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FGOROLA-3" title="Keren Gorodeisky, On Liking Aesthetic Value - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>美的価値とはなんぞやをめぐる、最新の研究です。<a href="#f-d7b7bf0e" id="fn-d7b7bf0e" name="fn-d7b7bf0e" title="これまで紹介してきたものとしては、以下を参照。
美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb|note
美的に画一的な世界 - obakeweb
Make me feel goodなもの - obakeweb
美的なこだわりを持つことの利点? - obakeweb
ちょっとテクニカルですが、2022年の応用哲学会での発表資料もあります。
美的に良いものはなにゆえ良いのか:モンロー・ビアズリー再読[応用哲学会20220528]
">*1</a></p>
<p>「美しい」「崇高である」「パワフルである」といった美的価値については、しばしばそれによって引き起こされる反応の観点から説明されてきた。すなわち、美しかったり優美だったりして美的に良いものとは、私たちに特別な快楽やら満足やら喜びを与えるものにほかならない。ここでは、<strong>ある特別な情動的反応をもたらす能力の観点から、美的価値を持つことが分析されている</strong>。</p>
<p>いわゆる美的快楽主義はこの筆頭なわけだが、能力による価値の分析にはいろいろとしんどい点がある。とりわけ、<strong>どうやって価値の客観性を担保するのか</strong>が問題となる。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A1%BC%A5%B0%A5%CA%A1%BC">ワーグナー</a>の美しい楽曲は快楽を与えるとは言うが、クラシックに親しんでいない私にはあんなのちんぷんかんぷんなだけで、特別な快楽は感じられない。私だけでなく多くの人がそうなのだとしたら、なぜ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A1%BC%A5%B0%A5%CA%A1%BC">ワーグナー</a>の楽曲には美的価値があるなどと言えるのか。</p>
<p>快楽主義者はだいたいここで理想化を<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%DE%A4%B7">かまし</a>て、美的価値があるものとは、<strong>理想的な状況にある理想的主体に</strong>快楽などを与える能力があるもののことだ、というムーヴをとる。こうすれば、理想的主体に該当しない私が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A1%BC%A5%B0%A5%CA%A1%BC">ワーグナー</a>を楽しめなくても、それによって<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A1%BC%A5%B0%A5%CA%A1%BC">ワーグナー</a>の価値が脅かされることはない。しかし、これはこれでさまざまな問題を巻き込むことになる。美的エリートたる「理想的主体」とはなんぞや、なぜそんなものを認めなければならないのか、なぜ私たち凡人はエリートを目標としなければならないのか。</p>
<p>近年、別のアプローチとして、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D1%CD%FD%B3%D8">倫理学</a>における価値の<strong>適合態度分析[fitting attitude analysis](以下FA)</strong>を援用して、美的価値を説明する論者たちが現れてきた。その代表は<a href="https://philpapers.org/rec/GOROLA-3">Gorodeisky (2021) "<span class="notion-enable-hover" data-token-index="0">On Liking Aesthetic Value"</span></a>だが、ゴロデイスキーはFAに加えて細々としたコミットメントをたくさんしているので、門外漢にはちょっとレベルの高い議論をしている。一方、つい最近のBJAに載った<a href="https://philpapers.org/rec/KRIAFA-4">Kriegel (2023) "A Fitting-Attitude Approach to Aesthetic Value?"</a>はかなり分かりやすくて、立場も中立的だし論文としても短い。以下ではこの2本を手がかりとして、適合態度から美的価値を分析するアプローチを紹介する。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#適合態度分析">適合態度分析</a></li>
<li><a href="#美的価値についての適合態度分析">美的価値についての適合態度分析</a></li>
<li><a href="#適合しているとはどういうことか">「適合している」とはどういうことか</a></li>
<li><a href="#まとめ">📌まとめ</a></li>
</ul>
<h3 id="適合態度分析">適合態度分析</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fplato.stanford.edu%2Fentries%2Ffitting-attitude-theories%2F" title="Fitting Attitude Theories of Value (Stanford Encyclopedia of Philosophy)" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>適合態度分析は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D1%CD%FD%B3%D8">倫理学</a>から来ている。クリーゲルによれば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D1%CD%FD%B3%D8">倫理学</a>におけるFAには長い歴史があり、19世紀末のブレンターノをパ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%AA%A5%CB%A5%A2">イオニア</a>として、A. C. Ewing (1939)が体系的に擁護し、Chisholm (1981, 1986)が広めたらしい。詳しくは<a href="https://plato.stanford.edu/entries/fitting-attitude-theories/">SEP</a>を参照。</p>
<p>道徳的価値についてのFAによれば、例えば「徳の高い」人とは、称賛という反応に適合した・称賛するに値する人のことだ。FAによる価値の説明はごくシンプルだが、通<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%EF%B9%CD">常考</a>えられてきた順序をひっくり返しているのが興味深い。つまり、徳の高い人だからこそ称賛に値するのではなく、<strong>称賛に値する人だからこそ徳の高い人なのだ</strong>。「徳の高さ」というある道徳的価値が被説明項であり、「称賛に値する」というある適切な反応がその説明項となっている。</p>
<p>もうちょっとテクニカルに言えば、ふつうFAには基礎づけ[grounding]の方向についてのコミットメントがある<a href="#f-79dda1c4" id="fn-79dda1c4" name="fn-79dda1c4" title="「ふつう」と書いたのは、そうじゃないFAの亜種もいるらしいからだ。例えばMcDowell (1998)は、基礎づけに関して価値と適合態度のどちらが優先するのかにコミットせず、無害な循環を認める立場らしい。ゴロデイスキーはマクダウェルにならっている。">*2</a>。ある価値Vには、それに適合した態度Aがある、というだけでなく、ほかならぬその適合した態度Aがあるという事実が、価値Vがあるという事実を基礎づけているのだ。</p>
<p>FAのアプローチをとるうれしさは、価値がなんらかの仕方で私たちの反応的態度と結びついているという直観をカバーしつつ、冒頭に挙げたような、<strong>価値の客観性を担保できる</strong>点だ。称賛に値するがゆえに徳の高い人(その人に対する適切な反応とは称賛であるような人)に対して、一部のひねくれ者たちが称賛しないどころか非難するとしても、そのことは徳の高い人の徳の高さを脅かさない。ひねくれ者たちは単に適切な態度をとっていないのであり、ひねくれ者たちにとってさえ<strong>適切な</strong>態度とは称賛なのだ。価値は、それにフィットした適切な反応から説明されているので、現に誰かがそう反応することは必要ではない。人知れず徳を積んで、人知れず亡くなった人物は、これまでもこれからも誰にも称賛されないかもしれないが、称賛に値する徳の高い人物なのだ。</p>
<h3 id="美的価値についての適合態度分析">美的価値についての適合態度分析</h3>
<p>クリーゲルやゴロデイスキーは、このようなFAを使って美的価値を説明しようとする。クリーゲルは、FAアプローチによる美的価値の研究プログラムを、次のように形式化している。</p>
<blockquote>
<p>(FA-V) 任意の美的価値Vと、Vである任意のxについて、次のようななんらかの経験Aが存在する。(i)xへの反応としてAを経験することが適合しており、(ii)xは(i)のおかげでVなのである。(Kriegel 2023: 67)</p>
</blockquote>
<p>美的価値があることもまた、それに対応した適切な反応があることから説明される。</p>
<p>美的価値にフィットした適切な反応とはなにか。ここで、ゴロデイスキーとクリーゲルの方針は分かれている。ゴロデイスキーはある種の<strong>美的快楽[aesthetic pleasure]</strong>を特徴づけ、それに適合していることから美的価値を一般的に説明する。これは美的価値についての一元的で包括的な説明だ。これに対し、クリーゲルは複数の<strong>美的経験[aesthetic experiences]</strong>を認めることで、それらにフィットした美的価値についても<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BF%B8%B5%BC%E7%B5%C1">多元主義</a>をとる。</p>
<p>どっちのアプローチのほうがよいのかはともかく、どちらもある特別なタイプの快楽ないし経験があり、それでもって反応することが適切であることから、美的価値(たち)を説明している。こうして、説明課題は「特別なタイプの快楽ないし経験」を記述することへとパスされる。</p>
<p>実際、この課題に答えることは美学にとっての十八番といえる。大昔から美学者たちは単なる快楽、経験、判断、態度ではなく、<strong>美的な</strong>快楽、経験、判断、態度とはなにか、その弁別的な特徴とはなにかを考えてきたからだ。ふたりによる特徴づけは、どちらも部分的には伝統的に指摘されてきたような要素を取り入れている。</p>
<p>ゴロデイスキーは、美的な快楽に8つの特徴づけを与えている。ざっくり、</p>
<ol>
<li>情動が絡むこと</li>
<li>気持ちいいので自己維持されがちであること</li>
<li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%B4%C2%CE%CF%C0">全体論</a>的な複合性を持つこと</li>
<li>ものの価値を明らかにするような認知的側面があること</li>
<li>合理的観点から査定されうること</li>
<li>普遍的であること</li>
<li>さらなる目的がなく自己充足的であること</li>
<li>感じるためにバックグラウンドが必要となること</li>
</ol>
<p>ゴロデイスキーによれば、これらは快楽に一般的な特徴から、より美的快楽にならではの特徴の順にソートされている。ふつうの快楽(セックス、ドラッグ、ロックンロール)も1〜3あたりを満たすが、典型的に8つ全部を満たすのは美的快楽だけだ。</p>
<p>例えば、特徴7なんかは明らかにカントの特徴づけた「無関心性」から来ているし、特徴6は「普遍妥当性」から来ている。<a href="https://philpeople.org/profiles/keren-gorodeisky">ゴロデイスキーは熱心なカント研究者でもある</a>ので、このような特徴づけになるのは当然といえば当然だ。<a href="#f-c72c6a57" id="fn-c72c6a57" name="fn-c72c6a57" title="もちろん、カントは「美的快楽」なるものを特徴づけようとしていたわけではない。私のかじった程度の知識でも、カントは快適なものと美しいものをめぐるややこしい区別をいろいろとしていたのだが、ゴロデイスキーを含め分析美学者がこの辺の区別を採用しているのはあまり見たことがない。">*3</a></p>
<p>ちなみに、よく知られた美的経験の特徴づけは、Beardsley (1979; 1982)によるものだ。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は経験の美的性格として、(1)対象にがっちり注意を向けていること、(2)心配から解き放たれた自由感があること、(3)悲しみすぎたり怖がりすぎないだけの情動的距離を置いていること、(4)積極的になにかを発見しにいくような側面があること、(5)人として統合されるような全体感があることを指摘している。その一部がゴロデイスキーの特徴づけとオーバーラップしていることは明らかだ。</p>
<p>私たちには現にこのような美的快楽・美的経験を味わう場面がある。素晴らしい絵画や自然の風景を前にしたときの経験はその範例になるだろう。このような観察に関して議論の余地はほとんどなく、美的実践に参与している方ならご存知あれのことですよ、という感じでたいていは話が進む。ともあれ、このような特別なthe美的快楽ないしthe美的経験でもって反応することが適切なものこそ、美的価値を持つものなのだ、というのがゴロデイスキーの主張となる。</p>
<p> </p>
<p>一方、クリーゲルはこういった単一のthe美的経験を特徴づけようとはしていない。クリーゲルによれば、FAアプローチの強みとはむしろ、さまざまな反応に対応してカラーの異なるさまざまな価値を説明できることである。</p>
<p>クリーゲルは、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B1%A1%BC%A5%B9%A5%B9%A5%BF%A5%C7%A5%A3">ケーススタディ</a>として3つの美的価値、「美しさ」「崇高さ」「パワフルさ」を取り上げている。FAに則って、それぞれ次のように説明される。</p>
<blockquote>
<p>(FA-B) 任意のxについて、xは美しい ⇒ (i)xは美的喜び[delight]に適合しており、(ii)xは(i)のおかげで美しい。</p>
<p>(FA-S) 任意のxについて、xは崇高である ⇒ (i)xは美的畏怖[awe]に適合しており、(ii)xは(i)のおかげで崇高である。</p>
<p>(FA-P) 任意のxについて、xは美的にパワフルである ⇒ (i)xは美的感動[moved]ないし美的奮起[stirred]に適合しており、(ii)xは(i)のおかげで美的にパワフルである。</p>
</blockquote>
<p>肝心な課題は「美的喜び」「美的畏怖」「美的感動ないし美的奮起」といった、(複数形の)美的経験sの特徴づけとなる。</p>
<p>クリーゲルは、美しさに適合した<strong>美的喜び</strong>については(1)対象に向けられていること、(2)対象が偉大で自分はしょぼいという感覚があること、(3)驚きの要素があることをざっくり挙げている。崇高さに適合した<strong>美的畏怖</strong>については(1)把握しきれなさがあること、(2)自分がちっぽけだと実感することを挙げ、パワフルさに適合した<strong>美的感動</strong>については(1)外的な力から強いられる感覚があること、(2)意義の充満が感じられることを挙げている。どれもゴロデイスキーや<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>に比べればゆるいものだが、個別に厳密な特徴づけを与えるのは別の論文でやることと認識しているのだろう。</p>
<h3 id="適合しているとはどういうことか">「適合している」とはどういうことか</h3>
<p>といった具合に、the美的価値ないし美的価値sが説明されるわけだが、私は最初にゴロデイスキーを読んだとき、どうも煙に巻かれている印象を受けた。美的に価値のあるものは快楽に適合しているとは言うが、「快楽に適合している」ということはなにによって説明されるのか。どこのどれがなぜ「快楽に適合している」と言えるのか。</p>
<p>ゴロデイスキーはここに至って<strong>原始主義[primitivism]</strong>を選ぶ。すなわち、適合性はもうそれ以上分析できない原始的な概念であり、さらなる基礎づけを求めるわけにはいかないのだ。私はいまだにこの方針にピンときていない。そうだとすると、快楽に値するものは世界の側で理由もなく勝手に決まっており、それに対応してさまざまな大小の美的価値も勝手にあちこちに内在しているということになりそうだが、それでいいのか。<a href="#f-8fda5471" id="fn-8fda5471" name="fn-8fda5471" title="仮にその説明が正しいのだとしても、そもそも私たちが最初から気にしていたのは「どこのどれがどれだけの美的価値をなにゆえ持つのか」という問いではなかったか、と私なら思ってしまう。たぶん原始主義者の問いは私とは違って、「美的価値なるものが現に与えられたとして、それが美的価値であるとはどういうことか」を説明するところに関心があるのだろう。">*4</a></p>
<p>しかし、FAには適合性についての<strong>還元主義[reductivism]</strong>というオプションもある。クリーゲルが紹介するところでは、代表としては(1)<strong>理由</strong>に訴える還元と(2)<strong>理想</strong>に訴える還元がある。価値Vに反応的態度Aが適合していることとは、前者によればAする理由のほうがしない理由よりも大きいことであり、後者によれば理想的な主体ならAすることにほかならない。<a href="#f-a626ec75" id="fn-a626ec75" name="fn-a626ec75" title="クリーゲル自身はさしあたり原始主義にもどちらの還元主義にもコミットせず中立を選んでいる。ゴロデイスキーと違って、クリーゲルはFA研究プログラムを素描するところまでを課題としているので、特定のコミットメントはなるべく回避しているのだ。">*5</a></p>
<p>(2)のほうの還元主義をとる場合、美的価値についてのFAアプローチは理想化を組み込んだ美的快楽主義に限りなく接近する。逆に言えば、理想化を組み込んだ美的快楽主義とは、(2)の還元にコミットした、FAアプローチの一種なのだとも言えるかもしれない。実際、クリーゲルはFAアプローチに接近している論者として、意外にも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>を取り上げている。Beardsley (1970)もまた、理想化を組み込んだ美的快楽主義(美的価値を構成するのは、<span class="notion-enable-hover" style="font-weight: 600;" data-token-index="1">正しく経験されたときの</span>美的満足である)なのだが、クリーゲルはここにある理想化をFAアプローチにおける適合性の話として解釈している。もちろん、能力に訴えるかどうかを含む多くの相違点があるので、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>にFAを帰属するわけにはいかないのだが、理想化を組み込んだ美的快楽主義とFAアプローチには確かに接点がある。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>オタクとしてはこの辺がかなり面白かった。</p>
<p>ちなみに、もうひとつの(1)理由に訴えた還元をとれば、Lopes (2018)が支持しているような実践的アプローチ(美的価値があるとは、ある種の行為をする理由を与えることである)に接近することになりそうだ。いずれにせよ、FAというdeterminableなアプローチがあり、そのdeterminateなバージョンとして理想化を組み込んだ快楽主義やネットワーク理論がある、という整理が示唆されていてかなり学びがあった。ことによると、今後の美的価値論は適合態度分析を出発点としたものになるかもしれない。</p>
<h3 id="まとめ">📌まとめ</h3>
<ul>
<li>美的価値については、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D1%CD%FD%B3%D8">倫理学</a>における態度適合分析を援用したアプローチがある。</li>
<li>美的価値があることは、特定の美的快楽ないし美的経験に適合していることから説明される。</li>
<li>ゴロデイスキーのように単一の美的快楽を特徴づけ、それにフィットしたグローバルな美的価値を論じる方針もあるし、</li>
<li>クリーゲルのように複数の美的経験をそれぞれ特徴づけ、それぞれにフィットした多元的な美的価値を論じる方針もある。</li>
<li>重要な説明項となっている「適合性」については、それ以上分析できないとする還元主義もあるが、理由や理想に訴えた還元主義もある。</li>
</ul><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-d7b7bf0e" id="f-d7b7bf0e" name="f-d7b7bf0e" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">これまで紹介してきたものとしては、以下を参照。</p>
<p><a href="https://note.com/obakeweb/n/na0d660b74e3d">美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb|note</a></p>
<p><a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/FAO">美的に画一的な世界 - obakeweb</a></p>
<p><a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/feelgood">Make me feel goodなもの - obakeweb</a></p>
<p><a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/commitment">美的なこだわりを持つことの利点? - obakeweb</a></p>
<p>ちょっとテクニカルですが、2022年の応用哲学会での発表資料もあります。</p>
<p><a href="https://senkiyohiro.notion.site/2022-7c355d5c89f240818e71f18d0d51b191">美的に良いものはなにゆえ良いのか:モンロー・ビアズリー再読[応用哲学会20220528]</a></p>
<p></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-79dda1c4" id="f-79dda1c4" name="f-79dda1c4" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">「ふつう」と書いたのは、そうじゃないFAの亜種もいるらしいからだ。例えばMcDowell (1998)は、基礎づけに関して価値と適合態度のどちらが優先するのかにコミットせず、無害な循環を認める立場らしい。ゴロデイスキーは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%AF%A5%C0%A5%A6%A5%A7%A5%EB">マクダウェル</a>にならっている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-c72c6a57" id="f-c72c6a57" name="f-c72c6a57" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もちろん、カントは「美的快楽」なるものを特徴づけようとしていたわけではない。私のかじった程度の知識でも、カントは快適なものと美しいものをめぐるややこしい区別をいろいろとしていたのだが、ゴロデイスキーを含め分析美学者がこの辺の区別を採用しているのはあまり見たことがない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-8fda5471" id="f-8fda5471" name="f-8fda5471" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">仮にその説明が正しいのだとしても、そもそも私たちが最初から気にしていたのは「どこのどれがどれだけの美的価値をなにゆえ持つのか」という問いではなかったか、と私なら思ってしまう。たぶん原始主義者の問いは私とは違って、「美的価値なるものが現に与えられたとして、それが美的価値であるとはどういうことか」を説明するところに関心があるのだろう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-a626ec75" id="f-a626ec75" name="f-a626ec75" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">クリーゲル自身はさしあたり原始主義にもどちらの還元主義にもコミットせず中立を選んでいる。ゴロデイスキーと違って、クリーゲルはFA研究プログラムを素描するところまでを課題としているので、特定のコミットメントはなるべく回避しているのだ。</span></p>
</div>
psy22thou5
美的なこだわりを持つことの利点?
hatenablog://entry/4207112889961083536
2023-02-09T23:30:45+09:00
2024-02-29T12:24:15+09:00 美的にオープンマインドであること 芸術鑑賞を含む美的実践においては、オープンマインドであることが大事だと言われがちだ。偏見を持ってより好みするのではなく、どんなものでも受け入れて楽しむだけの余裕と寛容さを持つこと。それが、美的生活を豊かに営む秘訣、というわけだ。*1 ラノベを馬鹿にして純文学しか読まない人、マーベル映画を下に見てスローシネマしか見ない人、GReeeeNなんかよりもQueenを聞けと言ってくる人は、うざいし、間違っているし、損しているような気がする。そんな「偏った」人にはなりたくないし、なるべきではないと思われる。 美的生活においては、こだわりを持たず、自由な心であちこちを漂い、…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20230210/20230210133336.png" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<h3 id="美的にオープンマインドであること">美的にオープンマインドであること</h3>
<p>芸術鑑賞を含む美的実践においては、オープンマインドであることが大事だと言われがちだ。偏見を持ってより好みするのではなく、どんなものでも受け入れて楽しむだけの余裕と寛容さを持つこと。それが、美的生活を豊かに営む秘訣、というわけだ。<a href="#f-2bdccc10" id="fn-2bdccc10" name="fn-2bdccc10" title="美的にオープンマインドであることには、少なくとも二通りの解釈ができる。
選択におけるオープンマインド:特定のジャンル/作者/作品を、それであるがゆえに拒否せず、どんなものでも選択し鑑賞しようとする心構え。
鑑賞におけるオープンマインド:なにかを選択した上で、特定のジャンル/作者/作品なのだ、といった分類上の先入観を捨てて、無垢の目で見ようとする心構え。
オープンマインドに選択できる人でも、オープンマインドに鑑賞するとは限らないし、逆も然りである。鑑賞におけるオープンマインドさ、鑑賞と知識の問題は美学においては古典的問題だが、ここでは扱わず、もっぱら選択におけるオープンマインドだけを問題とする。">*1</a></p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%CE%A5%D9">ラノベ</a>を馬鹿にして純文学しか読まない人、マーベル映画を下に見てスローシネマしか見ない人、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/GReeeeN">GReeeeN</a>なんかよりも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Queen">Queen</a>を聞けと言ってくる人は、うざいし、間違っているし、損しているような気がする。そんな「偏った」人にはなりたくないし、なるべきではないと思われる。</p>
<p>美的生活においては、こだわりを持たず、自由な心であちこちを漂い、なるべくさまざまなものに出会うのが最善の戦略だ。もちろん、〈最大限オープンマインドであれ〉というのは、〈決してなにかをけなしたりせず、全てを愛せ〉というのとイコールではない。出会った上で気に入らないのは結構である。食わず嫌いをしない、順位を付けないという態度が肝心なのだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="美的コミットメントを行うこと">美的コミットメントを行うこと</h3>
<p>ということで、美的にオープンマインドであることは、よいことだとされている。逆に、美的に閉じこもっていくこと、こだわりを持つこと、なにかを頑固に拒否することは、よくないことだとされる。<strong>しかし本当だろうか</strong>。よりオープンマインドであることは常に美的生活をより良くするのか。オープンマインドであるがゆえの損、オープンマインドでないがゆえの得というのは、一切ないのか。</p>
<p>考えてみるまでもなく、<strong>現実の美的生活を営む私たちは、決して完璧にオープンマインドではない</strong>。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%CE%A5%D9">ラノベ</a>を馬鹿にして純文学しか読まない人、マーベル映画を下に見てスローシネマしか見ない人、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/GreeeeN">GreeeeN</a>なんかよりも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Queen">Queen</a>を聞けと言ってくる人は実際にいる。</p>
<p>こだわりというのは、「あの大衆向けで安易なジャンル/作者/作品なんかよりも、こっちの洗練された高尚なジャンル/作者/作品の方を見るぞ」という方向(ロー下げハイ上げ)ばかりではない。批評家連中がもてはやしている<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C0%A1%BC%A5%EB">ゴダール</a>なんかより、私は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%B3%A4%C0%BF">新海誠</a>を見るぞ、というのは立派なこだわりだ。</p>
<p>また、直接的になにかを下げる必要もない。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BC%BE%E5%BD%D5%BC%F9">村上春樹</a>の小説を愛し、自分の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>にとってすごく重要なものとみなし、今後も新作は必ずチェックするし、どんなに忙しくても必ず年に1回は『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%EB%A5%A6%A5%A7%A5%A4%A4%CE%BF%B9">ノルウェイの森</a>』を読むぞ、と決心するのは立派なこだわりである。ある種のものを毛嫌いして拒否するのも、ある種のものを愛して身を捧げるのも、そうでなければ無限の可能性に満ちていた美的生活の未来を、ある方向に閉じていく点では一緒である。年に1回は『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%EB%A5%A6%A5%A7%A5%A4%A4%CE%BF%B9">ノルウェイの森</a>』を読む、なんてこだわりがなければ、その時間を使ってさらに別のなにかと出会えるかもしれないからだ。</p>
<p>オープンマインドであることと反対のベクトルとして、美的に閉じこもっていくこと、こだわりを持つこと、より好みすることを<strong>美的コミットメント</strong>と呼ぼう。大小はともかく、私たちはみななんらかの美的コミットメントをしているというのは、おそらくそんなに誇張された観察ではない。趣味において個性があるというのは、それぞれの美的コミットメントがあるというのとほぼ同義だ。私たちにはどうしたって好き嫌いがある。美的コミットメントが美的生活を一方的に閉ざし、悪化させるなら、なぜ私たちはこんなにも頻繁に美的コミットメントを行うのか?</p>
<p>この問いに答えるには、美的にオープンマインドであること、美的コミットメントを行うことの、利点欠点をそれぞれ整理する必要がある。そもそもなぜ、美的にオープンマインドであるべきだなどと思われているのか。実は、<strong>美的コミットメントをしたほうが美的生活が豊かになるという側面もあるのではないか</strong>。<a href="#f-8cff7ca7" id="fn-8cff7ca7" name="fn-8cff7ca7" title="倫理的な規範を美的な規範としてスライドさせてしまうことには注意しなければならない(cf. 「たとえ論法」)。人種、ジェンダー、個人の趣味などに対して差別せず、偏見を持たず、オープンマインドであることは道徳的な美徳である。しかじかの理由からそのことが十分に認められるとしても、「だから」美的生活における選択もオープンマインドであるべきだ、とは言えない。倫理的にオープンマインドでなければならない理由や、そうすることのベネフィットは、美的にオープンマインドであるべき理由やベネフィットとは一致しないかもしれないからだ。一言で言えば、〈リベラルであれ〉というのはあらゆる分野において妥当な規範とは限らないので、アナロジーには気をつけなければならない。(もちろん、美的にオープンマインドを心がけることには、倫理的なオープンマインドにつながるという道具的価値がある、という線で前者の利点を論じることはできる。)">*2</a></p>
<p> </p>
<h3 id="美的コミットメントの利点Cross-2021">美的コミットメントの利点:Cross (2021)</h3>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%AD%A5%B5%A5%B9%BD%A3">テキサス州</a>立大学の<strong>アン<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%A5%CB%A1%BC">ソニー</a>・クロス[Anthony Cross]</strong>は、2021年の論文「<a href="https://philpapers.org/rec/CROACA-4">美的コミットメントと美的義務</a>」にて、コミットメントを行うことの利点を次のように説明している。</p>
<p>クロスによれば、一般的にコミットメントとは、①「ある目標を追求するぞ」という意図と、②「①の意図を持ち続けるぞ」という二階の意図がセットになったものである。それは、将来的に欲求や状況が変化し、継続がいまより困難になったとしても、目標に向けて従事し続け、どうにか達成しようとすることである。</p>
<p>とりわけ、美的コミットメントは、能動的に自分自身に誓うタイプのコミットメントである。ちょっとテクニカルな話だが、コミットメントは、した後の行動に適合した態度を定める。芸術的野心から家族を捨てて<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BF%A5%D2%A5%C1">タヒチ</a>に移住した<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A1%BC%A5%AE%A5%E3%A5%F3">ゴーギャン</a>は、もしそうしていなかったら自分自身への怒りや罪悪感を感じていただろう。美的コミットメントをしているならば、自らが違反したときに、怒りや罪悪感といった感情的態度でもって反応することが適切であり、そう反応するだけの合理的理由があるのだ。<a href="#f-4ea6144c" id="fn-4ea6144c" name="fn-4ea6144c" title="Xなんか見ないとコミットしておいて、ついつい見てしまう/楽しんでしまうというのが、いわゆるやましい楽しみ(ギルティー・プレジャー)だ。">*3</a></p>
<p>さて、クロスの考えでは、<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を未来に向けて固定し、将来的な変化から身を守る術となる</strong>ことこそ、美的コミットメントの利点である。今はあるジャンル/作者/作品が好きでも、誘惑や気まぐれによって、将来はそれと引き裂かれてしまうかもしれない。そうならないために美的コミットメントを行うのだ。</p>
<p>しかし、こう述べるだけではたいした前進ではない。あるものを現在だけでなく将来も選び続けるようにすることのなにがうれしいのかが明らかではないからだ。クロスが挙げている三つのうれしさを要約しよう。</p>
<ol>
<li><strong>よい関係性の維持</strong>:当たり前だが、その対象との現在の関係がそれ自体良いものだとすれば、その関係を将来的にも維持できるし、その関係が自らの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>にとってどれだけ重要なのかが確認できる。</li>
<li><strong>より深い理解</strong>:コミットメントを行ったほうが、その対象をより良く鑑賞できる。長く時間をかければかけるほど、より深くそのジャンル/作者/作品の本質に迫れる。別の誘惑に負けて離れてしまうと、そこまで深く理解できないまま終わってしまう。</li>
<li><strong>時間の飼いならし</strong>:自らの未来をある方向へとコン<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%EB">トロール</a>し、飼いならし、予測可能にすることには快がある。<a href="https://philpapers.org/rec/SCHEAT-8">Scheffler (2010)</a>が述べるように、ルーティンを持って暮らすことには、そうでなければ未知で不安を抱かせる時間というものを飼いならしているという快適さがある。</li>
</ol>
<p>もちろん、これらは〈あらゆる美的コミットメントは良いものだ〉と言っているわけではないし、〈誰もがなんらかの美的コミットメントをすべきだ〉と言っているわけでもない。美的コミットメントには、こういった暫定的利点がありうる(こういった利点を伴った美的コミットメントがありうる)と述べているだけだ。予測できなさや新しさを好む人は決してコミットメントを行わない、というのはそれはそれで別の話である。<a href="#f-1cee22bc" id="fn-1cee22bc" name="fn-1cee22bc" title="ちなみに、クロス論文の後半では、このような美的コミットメントを使って、美的義務を説明しようとしている。芸術や美しいものを巡っては、誰がどこでなにをしようが全くの自由であり、「すべき[ought]」「しなければならない[must]」と言えるような義務などない、という見解は根強い。他方で、然るべき状況においては、美的に「すべき」「しなければならない」ことがある、という直観もなくはない。ある意味で(美的に見て)、ゴーギャンはタヒチに行くべきだったのだ。クロスは、美的コミットメントをしているからにはしかじかのことをしなければならない、という仕方で美的義務が確かに存在することを示そうとしている。少なくとも、そう誓った自分は自分に対してそれらの「すべき」「しなければならない」を引き受けることになるのだ。こちらはこちらで面白い話だが、ここでは割愛しよう。">*4</a></p>
<p> </p>
<p>クロスが正しければ、<strong>美的コミットメントには確かに利点がありうる</strong>。頑固にこだわりを持つことは、①価値ある経験を将来にも継続させ、②より深く鑑賞するきっかけを与え、③時間を飼いならす快適さを与えてくれる。</p>
<p>「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%B3%A5%E9%A5%B9%A1%A6%A5%B1%A5%A4%A5%B8">ニコラス・ケイジ</a>の出てるしょうもない<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/B%B5%E9%B1%C7%B2%E8">B級映画</a>なんて見ないぞ」といった拒絶のコミットメントに関しても似たような利点が指摘できる。すなわち、熟慮の上でのコミットメントであれば、しょうもないものに時間を無駄にするリスクを取り除いてくれるのだ。もちろん、ある種のものが将来から取り除かれれば、ここにも時間を飼いならす快適さがある。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>クロスの議論は少なくとも、〈美的にオープンマインドであれ〉というフォークな規範に反し、美的コミットメントを行うことにも利点がありうるんですよ、というのを示している。美的に閉じこもっていくことは、そのイメージに反し、全面的に悪いことではない。そこは、私も同意できる点だ。</p>
<p>しかし、挙げられている「利点」については、ちょっと苦しい部分があるように思う。とりわけ、利点①②③が合わさっても、なるべくオープンマインドであることを手放して、美的コミットメントを行うことの動機づけ理由としては弱いだろうと思う。</p>
<p>まず①の利点があることは、せいぜい結果的に言えるだけなのではないか。オープンマインドを徹底した結果別のなにかに誘惑され、現在の価値ある関係を断ってしまった、といった失敗は確かにある。美的コミットメントのおかげで関係を維持できた、という場面も確かにある。しかし同様に、美的コミットメントのせいで、より価値のある関係を構築する機会が失われることにもなりかねない。それこそ、美的コミットメントに対する最大の懸念だったはずだ。現在のその関係は、維持するに値する<strong>ほど</strong>価値あるものだなんて、分かりようがないではないか。</p>
<p>クロスは、よろしくない結果をもたらす「悪いコミットメント」については、私たちがコミットメントをすべきかどうか/し続けるべきかどうか、思慮深く、反省的な態度で合理的評価ができる限り、大きな問題ではないと考えている。しかし、コミットメントがもたらす美的利得の合理的評価は、やっぱり難しいんじゃないか、というのが私の懸念だ。平たく言えば、未来は予測できないというごく単純な事実から、私たちは個別の場面において、①に照らして美的コミットメントをすべきともオープンマインドであるべきとも判断できないのだ。よりよい美的生活を送るという課題に関して、未来に向けて選べる合理的戦略などないのだ。私たちはトライアルアンドエラーで、出会えた分だけ楽しみ、出会えなかった分だけ損していくしかない。</p>
<p>利点②に関して。集中して時間をかければより深く理解できるというのは確かだろうが、少数のものを深く理解する美的生活が、複数のものを浅く理解する美的生活よりも豊かだとは限らない<a href="#f-e4417b02" id="fn-e4417b02" name="fn-e4417b02" title="「限らない」と言いつつ、私個人は少数のものを深く理解する美的生活のほうが豊かだという直観を持っている。いまのところ説明は手元にない。">*5</a>。なので、利点①と同じく、未来に向けた合理的判断はそもそもできないかもしれない。また、利点②は目下のアイテムに時間をかけるだけの深みがあることをある程度前提しなければならない。「諦めずに『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E6%A5%EA%A5%B7%A1%BC%A5%BA">ユリシーズ</a>』を読むぞ」という美的コミットメントには利点②があるが、もっと大衆向けでちょけた作品には「深い理解」の余地がそもそもないのかもしれない。そういった作品にも私たちはコミットするのだが、少なくとも「深い理解」がその動機とは思われない。</p>
<p>すると、言えるのはせいぜい、未来を飼いならしているほうが快適と感じる類の人は、そうしてくれるという利点③から美的コミットメントを行いがち、ということぐらいだ。この気質を備えた人がどれだけ多いのか、私には定かではない。もしかすると、私たちは進化論的に多かれ少なかれこの気質を抱えているのかもしれない。だとしても、その場合私たちは美的コミットメントを<strong>してしまう</strong>のであり、熟慮の上で判断してコミットしているわけではないことになる。それが美的生活を豊かにするのかどうか分からないが、とにかく未来が未知なのは不安なのでなにかにコミットしてしまう。そのような描像は、もっともらしいかもしれないがちょっと残念だろう。<a href="#f-2a73ef4a" id="fn-2a73ef4a" name="fn-2a73ef4a" title="思うに、美的コミットメントにまつわるこれらの事情は、恋愛のそれとかなり似ている。言うまでもなく、交際という選択はひとつのコミットメントであり、おそらく美的コミットメントと同様、不合理な部分を少なからず伴っている。まぁ、スペックや条件を比較して合理的に恋愛できるような人も世の中にはいるのかもしれない。">*6</a></p>
<p> </p>
<p>結局、私たちはふんわりなんとなくあれこれより好みしてしまうのだろう。美的コミットメントが得なのか損なのかは結果論でしかない。とはいえ、美的コミットメントに大きな利点がないからといって、オープンマインドでいたほうが得だ、美的に閉じこもっていくことは損だ、とも言えない。オープンマインドを心がけたところで、得なのか損なのかは結果論でしかない。〈<strong>美的にオープンマインドであるべきとも、美的コミットメントを行うべきとも言えない</strong>〉というのがひとまず本稿の結論となる。</p>
<p>はじめに戻ると、私たちには依然として〈美的にオープンマインドであれ〉という規範があるように思われる。なぜなのか。ひとまずクロスが美的コミットメントの利点をいくつか示したからには、説明責任はオープンマインド派に投げかけられるはずだ。私のように前者の利点がたいした利点でないと示すだけでなく、後者には後者ならではの利点があるのだと示さなければならない。私はそもそも〈美的にオープンマインドであれ〉というフォークな規範をあまり共有していないので、この仕事はもっと強くオープンマインド派の人にまかせよう。</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-2bdccc10" id="f-2bdccc10" name="f-2bdccc10" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">美的にオープンマインドであることには、少なくとも二通りの解釈ができる。</p>
<ul>
<li><strong>選択におけるオープンマインド</strong>:特定のジャンル/作者/作品を、それであるがゆえに拒否せず、どんなものでも選択し鑑賞しようとする心構え。</li>
<li><strong>鑑賞におけるオープンマインド</strong>:なにかを選択した上で、特定のジャンル/作者/作品なのだ、といった分類上の先入観を捨てて、無垢の目で見ようとする心構え。</li>
</ul>
<p>オープンマインドに選択できる人でも、オープンマインドに鑑賞するとは限らないし、逆も然りである。鑑賞におけるオープンマインドさ、鑑賞と知識の問題は美学においては古典的問題だが、ここでは扱わず、もっぱら選択におけるオープンマインドだけを問題とする。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-8cff7ca7" id="f-8cff7ca7" name="f-8cff7ca7" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">倫理的な規範を美的な規範としてスライドさせてしまうことには注意しなければならない(cf. 「<a href="https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074">たとえ論法</a>」)。人種、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F3%A5%C0%A1%BC">ジェンダー</a>、個人の趣味などに対して差別せず、偏見を持たず、オープンマインドであることは道徳的な美徳である。しかじかの理由からそのことが十分に認められるとしても、「だから」美的生活における選択もオープンマインドであるべきだ、とは言えない。倫理的にオープンマインドでなければならない理由や、そうすることのベネフィットは、美的にオープンマインドであるべき理由やベネフィットとは一致しないかもしれないからだ。一言で言えば、〈リベラルであれ〉というのはあらゆる分野において妥当な規範とは限らないので、アナロ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>には気をつけなければならない。(もちろん、美的にオープンマインドを心がけることには、倫理的なオープンマインドにつながるという道具的価値がある、という線で前者の利点を論じることはできる。)</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-4ea6144c" id="f-4ea6144c" name="f-4ea6144c" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">Xなんか見ないとコミットしておいて、ついつい見てしまう/楽しんでしまうというのが、いわゆる<strong>やましい楽しみ(ギル<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>・プレジャー)</strong>だ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-1cee22bc" id="f-1cee22bc" name="f-1cee22bc" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ちなみに、クロス論文の後半では、このような美的コミットメントを使って、<strong>美的義務</strong>を説明しようとしている。芸術や美しいものを巡っては、誰がどこでなにをしようが全くの自由であり、「すべき[ought]」「しなければならない[must]」と言えるような義務などない、という見解は根強い。他方で、然るべき状況においては、美的に「すべき」「しなければならない」ことがある、という直観もなくはない。ある意味で(美的に見て)、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A1%BC%A5%AE%A5%E3%A5%F3">ゴーギャン</a>は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BF%A5%D2%A5%C1">タヒチ</a>に行くべきだったのだ。クロスは、美的コミットメントをしているからにはしかじかのことをしなければならない、という仕方で美的義務が確かに存在することを示そうとしている。少なくとも、そう誓った自分は自分に対してそれらの「すべき」「しなければならない」を引き受けることになるのだ。こちらはこちらで面白い話だが、ここでは割愛しよう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-e4417b02" id="f-e4417b02" name="f-e4417b02" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">「限らない」と言いつつ、私個人は少数のものを深く理解する美的生活のほうが豊かだという直観を持っている。いまのところ説明は手元にない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-2a73ef4a" id="f-2a73ef4a" name="f-2a73ef4a" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">思うに、美的コミットメントにまつわるこれらの事情は、恋愛のそれとかなり似ている。言うまでもなく、交際という選択はひとつのコミットメントであり、おそらく美的コミットメントと同様、不合理な部分を少なからず伴っている。まぁ、スペックや条件を比較して合理的に恋愛できるような人も世の中にはいるのかもしれない。</span></p>
</div>
psy22thou5
論文出ました+賞とりました🏆|芸術カテゴリーに関する制度説
hatenablog://entry/4207112889950095972
2023-01-01T20:08:20+09:00
2023-03-17T19:47:49+09:00 英語論文を書きました。イギリス美学会発行のオープンアクセスジャーナル『Debates in Aesthetics』18(1)に載っています。 アイデアはおおむね2021年5月に応用哲学会で発表した「駄作を愛でる/傑作を呪う」がベースですが、逆張り鑑賞の話はすっかり削り、芸術カテゴリーと制度の問題にしぼった感じです。学会でコメントを頂いた皆さまには改めて御礼申し上げます。 また、たいへん光栄なことですが、直近で刊行された数号のなかから最優秀論文としてDebates in Aesthetics Essay Prizeに選んでいただきました。とても励みになりますし、Grammarly有料プランのもと…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20230101/20230101130901.jpg" width="1200" height="846" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fdebatesinaesthetics.org%2Fdebates-in-aesthetics-vol-18-no-1%2F" title="Debates in Aesthetics, Vol. 18, No. 1 – Debates in Aesthetics" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilarchive.org%2Frec%2FSENAIT-2" title="Kiyohiro Sen, An Institutional Theory of Art Categories - PhilArchive" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>英語論文を書きました。イギリス<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%B3%D8%B2%F1">美学会</a>発行のオープンアクセスジャーナル『<em>Debates in Aesthetics</em>』18(1)に載っています。</p>
<p>ア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>はおおむね2021年5月に応用哲学会で発表した「<a href="https://researchmap.jp/senkiyohiro/presentations/32428082">駄作を愛でる/傑作を呪う</a>」がベースですが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>鑑賞の話はすっかり削り、芸術カテゴリーと制度の問題にしぼった感じです。学会でコメントを頂いた皆さまには改めて御礼申し上げます。</p>
<p>また、たいへん光栄なことですが、直近で刊行された数号のなかから最優秀論文として<a href="http://debatesinaesthetics.org/news/">Debates in Aesthetics Essay Prize</a>に選んでいただきました。とても励みになりますし、Grammarly有料プランのもとがとれました。</p>
<p>いろいろあって出版が遅れていたらしく、いつ世に出るのかハラハラしていましたが、2022年大<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%A2%C6%FC">晦日</a>にこっそり出てました。引用はSen (2022)でお願いします。</p>
<p> </p>
<p>以下、ごくかいつまんで論文の概要をご紹介。</p>
<p>芸術作品のカテゴリーに関する論文です。</p>
<p>広く認められているように、作品のカテゴリーは鑑賞に大きく影響を与えます。ホラーならこういう風に予期するし、SFならああいう風に解釈するし、ミュージカルならそういう風に評価する、といったように、カテゴリーはいろんな場面で役割を持っています。これらはジャンルの例ですが、芸術運動、様式、形式、伝統、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>なども同じような役割を果たします。</p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/hOlrxxPoyn4?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" title="4K/BD【予告編】『2001年宇宙の旅 HDデジタル・リマスター』"></iframe></p>
<p>作品はひとつでも、どのカテゴリーを踏まえるかで複数の見方ができる。しかし、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>ですね」というので終わりなのではなく、そのなかには適切な見方と不適切な見方がありそうだ、というのが問題の起点です。『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/2001%C7%AF%B1%A7%C3%E8%A4%CE%CE%B9">2001年宇宙の旅</a>』をSFとして鑑賞するのは的を射ていますが、恋愛映画として鑑賞するのは的外れです。これは極端な例ですが、批評的な解釈や評価の対立が生じる場面では、しばしば批評家によるカテゴライズの対立が背景にあります。どういうものとして見ようとしているかのレベルで齟齬があるからこそ、解釈や評価が対立するわけです。そして、芸術作品はどういうものとして見ても構わない、とはあまり思われません。</p>
<p>作品にはどうも「正しいカテゴリー」というのがあり、そのもとで鑑賞されるべきだ、と言えそうなのですが、では正しいカテゴリーとはなんなのか、どうやって決まるのか、という問題が生じます。</p>
<p>結論から述べれば、私の主張は、<strong>正しいカテゴリーがある種の制度的プロセスにおいて定着する</strong>、というもの。その過程で、根強く人気のある意図主義と戦ったり、カテゴリー所属の問題を観賞的ふるまいの問題として変換したり、最終的にフラン<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%A7%A5%B9%A5%B3">チェスコ</a>・グァラ[Francesco Guala]の制度=均衡したルール説を援用して、「正しいカテゴリー」を説明しています。あるカテゴリーが作品にとって「正しい」のは、そのカテゴリーと結びついた一連の観賞的ふるまいがあるコミュニティ内で均衡したルールになっている、すなわち、(1)均衡なので自分だけ離反してもうれしさがないし、(2)ルールなのでふるまいをガイドする規範的な力がある、そんな状態のことだ、という説です。最後の節では、だからなんだ話として、カテゴリーに関する制度説の帰結についても触れています。</p>
<p>鑑賞的ふるまいのうち、作品の意味内容に関する理解や解釈を巡っては、2022年6月の「作者の意図、再訪」ワークショップにて「<a href="https://researchmap.jp/senkiyohiro/presentations/37093031">制度は意図に取って代われるのか</a>」という発表をしました。キャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%EA%A5%F3">サリン</a>・エイベルの制度的アプローチを検討しつつ、別の制度的アプローチを提唱するという内容で、おおまかには今回のDiA論文と同じモデルを提示しています。論文版は、WS報告として<a href="https://amzn.asia/d/57W4f2a">『フィルカル』7(3)</a>に掲載されていますので、こちらもよろしければぜひ。</p>
<p> </p>
<p>ドラフトは指導教員のJohn O'Dea先生に見ていただきました。すごく頼りになりました。ありがとうございます。</p>
<p>英語論文かつpeer-reviewedかつ賞までいただいてハッピーで埋め尽くされていますが、この調子で博論もがんばります。かのSen, Amartyaと並べてSen, Kiyohiroもどしどし引用なさってください。</p>
psy22thou5
ホラーとはなにか|ノエル・キャロル『ホラーの哲学』、ジャンル定義論、不気味論
hatenablog://entry/4207112889921265574
2022-09-24T19:54:37+09:00
2022-09-26T14:20:17+09:00 ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の邦訳が出版され、訳者の高田敦史さん(@at_akada_phi)より一冊ご恵贈いただきました。ありがとうございます。大好きな本がまたひとつ日本語で読めるようになったということでたいへんうれしいです。内容としてもキャッチーで面白いので飛ぶように売れてほしいところですね。 ホラージャンルについての理解が深まるだけでなく、一般的に分析美学や、あるジャンルを哲学的に論じていくやり方について学べるよい本です。個人的には、ブログに載せたRed Velvet論や『ユリイカ』に書いたビリー・アイリッシュ論でも批評のとっかかりとして役立った本なので、「批評に使える分析美学」のレ…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20220924/20220924191642.png" width="1200" height="602" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=http%3A%2F%2Ffilmart.co.jp%2Fbooks%2Fjinbun%2Fthe-philosophy-of-horror%2F" title="ホラーの哲学 フィクションと感情をめぐるパラドックス" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><strong>ノエル・キャロル『ホラーの哲学』</strong>の邦訳が出版され、訳者の高田敦史さん(<a href="https://twitter.com/at_akada_phi">@at_akada_phi</a>)より一冊ご恵贈いただきました。ありがとうございます。大好きな本がまたひとつ日本語で読めるようになったということでたいへんうれしいです。内容としてもキャッチーで面白いので飛ぶように売れてほしいところですね。</p>
<p>ホ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A1%BC%A5%B8%A5%E3%A5%F3">ラージャン</a>ルについての理解が深まるだけでなく、一般的に分析美学や、あるジャンルを哲学的に論じていくやり方について学べるよい本です。個人的には、ブログに載せた<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/redvelvet_horror">Red Velvet論</a>や『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E6%A5%EA%A5%A4%A5%AB">ユリイカ</a>』に書いた<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4791703774/ref=cm_sw_r_tw_dp_XPWZWMMW8PJ0NB3AT52M">ビリー・アイリッシュ論</a>でも批評のとっかかりとして役立った本なので、「批評に使える分析美学」のレアな一例かもしれません。</p>
<p>かいつまんで論旨を確認した後、個人的に気になるふたつの論点についてかるく解説しましょう。ひとつはジャンル定義におけるキャロルのスタンスについて、もうひとつはより近年の展開としての「不気味なもの」論について。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#危険で不浄なモンスター">危険で不浄なモンスター</a></li>
<li><a href="#定義と反例と範例">定義と反例と範例</a></li>
<li><a href="#不気味なものとテイルズオブドレッド">不気味なものと「テイルズオブドレッド」</a><ul>
<li><a href="#トワイライトゾーンにおけるテイルズオブドレッド20220926追記">『トワイライト・ゾーン』における「テイルズオブドレッド」【2022/09/26追記】</a></li>
</ul>
</li>
<li><a href="#その他いろいろ">その他いろいろ</a></li>
</ul>
<h3 id="危険で不浄なモンスター">危険で不浄なモンスター</h3>
<p>キャロルは悲劇に関する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%C6%A5%EC%A5%B9">アリストテレス</a>の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%ED%B3%D8">詩学</a>に触発されていて、主には、<strong>(1)ホラー作品が典型的に喚起する特別な感情を特定し、(2)それを喚起するためにホラー作品が採用しがちな手段(キャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ターやプロットなど)を特定する</strong>、という二段階の課題に取り組んでいる<a href="#f-c5d29b0c" name="fn-c5d29b0c" title="ここでは、芸術作品にとって重要なのはその目的と手段である、というキャロルの芸術観が、ジャンルレベルでも敷衍されているのだと思う。もちろん、西部劇やミュージカルのように、このやり方に適しているわけではないジャンルがあることにキャロルは気づいている。キャロルの芸術観については、以下を参照。
">*1</a>。その上で、<strong>(3)フィクションの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C9%A5%C3%A5%AF%A5%B9">パラドックス</a>(現実じゃないのになぜ感情を抱くのか)、(4)ホラーの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C9%A5%C3%A5%AF%A5%B9">パラドックス</a>(怖いのになぜ見ようとするのか)</strong>といった哲学的問いに答え、ついでに、<strong>(5)いつどういうときになぜホラーが流行るのか</strong>といった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%B3%D8">社会学</a>的問題にも触れている。</p>
<p> </p>
<p>キャロルは、ある種の情動喚起を意図されていることから、ホラーを定義する。ここで、「ホラー作品に喚起される感情って、そりゃ恐怖でしょ」というのは容易だが、キャロルの説明はもうひと捻り加えられている。</p>
<blockquote>
<p>わたしが、何らかのモンスターX、例えばドラキュラによって顕在的にアートホラーをいだくのは、次の場合でありかつ次の場合にかぎられる。(1)わたしは何らかの異常な身体的興奮(震え、ぞくぞくすること、叫びなど)を感覚する状態にある。(2)それは次のような思考によって<strong>引き起こされている</strong>──(a)ドラキュラは存在することが可能である。また次のような評価的思考によって<strong>引き起こされている</strong>──(b)ドラキュラはフィクションで描かれている仕方で身体的に(おそらく道徳的にも社会的にも)危険であるという性質をもっている。(c)ドラキュラは不浄であるという性質をもっている。(3)この際、通常これらの思考にはドラキュラのようなものに触れることを避けたいという欲求が伴っている。(高田訳 p. 67, 原著 p. 27)</p>
</blockquote>
<p>「アートホラー」という<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%AF%A5%CB%A5%AB%A5%EB%A5%BF%A1%BC%A5%E0">テクニカルターム</a>はちょっとややこしい。キャロルにおいてこの語は、(1)ジャンルとしてのホラーのうちある種のものをカバーするサブグループの呼称と、(2)そういった作品たちが喚起する特殊な感情の呼称という、ふたつの役割を担っている(第1章の訳注1を参照)。上の定義に出てくる「アートホラー」は、(2)の意味で使われている。<a href="#f-75af84c7" name="fn-75af84c7" title="そもそも英語のhorrorに、ジャンル名としての用法だけでなく、fearやterrorと同様にある種の感情を表す用法(e.g.「ホラーを感じる」)があって、日本語の「ホラー」上では後者が見えにくい、という問題がある。">*2</a></p>
<p>ディテールは脇に置くとして、重要なのは、キャロルがモンスターの<strong>危険さ</strong>だけでなく、<strong>不浄さ</strong>を強調している点だ。死んでるのか生きているのか、人間なのか狼なのか、生物なのかロボットなのか不確かだったり、バラバラで不完全だったり、ドロドロの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%D4%C4%EA">不定</a>形だったりするものを、キャロルは<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480091866/ref=cm_sw_r_tw_dp_BBQSHM29FA15ZT8YGX9D">メアリー・ダグラスの文化人類学</a>を引きつつ「不浄[impure]」なものと呼ぶ。不浄な対象は、われわれが通常もっている事物のカテゴリーを逸脱したり、違反したり、混合させており、端的に言えば「キモイ」のだ。</p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="ja">スライドのハイライトです <a href="https://t.co/idRlp39S6B">pic.twitter.com/idRlp39S6B</a></p>
— sen kiyohiro (@obakeweb) <a href="https://twitter.com/obakeweb/status/1150327894809251840?ref_src=twsrc%5Etfw">2019年7月14日</a></blockquote>
<p>(👆昔つくったスライド)</p>
<p>ホラーのモンスターは、攻撃してきてアブナイだけでなく、その存在のあり方自体がキモイもの、嫌悪感[disgust]を抱かせるものとして提示される<a href="#f-b21cf87a" name="fn-b21cf87a" title="細かいところだが、「モンスター」の定義に危険さや不浄さが入っているわけではない。キャロルにおいて「モンスター」とは、ただ、その時代の自然科学では説明のつかないような、超科学的存在のことだ。この意味ではスーパーマンも「モンスター」になるわけだが、スーパーマンが他のキャラクターを怖がらせたりキモがらせることはないので、映画がホラー映画になるわけではない。
つまり、ホラーにとってはまずモンスターが出てくることが必要条件であり、モンスターがどういう感情を喚起するかがさらに別の必要条件となる。">*3</a>。こういったモンスターおよびそれが活躍(?)するストーリーを設計し、鑑賞者に上述の「アートホラー」感情を抱かせるよう意図されている作品こそが、ホラー作品だということになる。</p>
<p> </p>
<h3 id="定義と反例と範例">定義と反例と範例</h3>
<p>キャロルの定義に対し、「モンスターが出てこないホラーだってあるだろう」「危険だが不浄ではないモンスター/不浄だが危険ではないモンスター/危険でも不浄でもないモンスターしか出てこないホラーだってあるだろう」「危険で不浄なモンスターが出てくる非ホラーだってあるだろう」といった反論・反例がぎょうさん提出されてきた<a href="#f-a6180c8b" name="fn-a6180c8b" title="
ホラーの哲学全体のサーベイとしては、Smuts (2008)を参照。ちなみにAaron Smutsはキャロルの弟子で、キャロルと同じくマスアートの哲学で重要な仕事をたくさんしていた人なのだが、今年の3月に惜しくも亡くなっている。">*4</a>。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FLAESTP" title=" Brian Laetz, Still Two Problematic Theses in Carroll's Account of Horror:: A Response to " class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>こういった反例による反論は、実際のところ、あまり盛り上がりようがない。たとえば、Brian Laetzは「危険だが不浄ではないモンスターしか出てこないホラー」として<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%F4%A5%A3%A5%C3%A5%C9%A1%A6%A5%AF%A5%ED%A1%BC%A5%CD%A5%F3%A5%D0%A1%BC%A5%B0">デヴィッド・クローネンバーグ</a>の『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%AD%A5%E3%A5%CA%A1%BC%A5%BA">スキャナーズ</a>』(1981)を挙げている。念じるだけで人の頭を爆発させることもできる超能力をもった「スキャナー」たちは、危険だが、不浄とは限らない。特に、悪のスキャナーと戦うことになる主人公サイドのスキャナーに対し、鑑賞者が嫌悪感を抱くというのは変だ。</p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/UveLSA7Hoj8?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" title="Scanners (1981) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]" id="widget2"></iframe></p>
<p>こういった反例を挙げられても扱いに困るのは、以下のような事情による。</p>
<ul>
<li>実際のところ、それが反例なのかどうかは見方の問題かもしれない。キャロルは、主人公サイドのスキャナーに関してもその描かれ方は不浄なもののそれであり、鑑賞者は嫌悪感を抱くことになると、正面から応答している。リーツは更に真正面から、それでは不浄とはいえないと再反論しており、堂々巡りになっている。</li>
<li>そもそも、その例がホラーの範例であり、中心的なものとしてカバーできないことが理論の欠陥になるほど大事な例だとも言い切れず、論者ごとに評価が異なる。『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%AD%A5%E3%A5%CA%A1%BC%A5%BA">スキャナーズ</a>』は慣習的にホラーとしてカテゴライズされるというだけで、より理想的な・コアを捉えたホラーの定義においては、周辺に追いやられる・省かれるべきなのかもしれない。<a href="#f-5f1a8da9" name="fn-5f1a8da9" title="今日的な目線から言えば、『スキャナーズ』を見て怖がる人は(幼児を除いて)現代にはもはやいないだろう。">*5</a></li>
</ul>
<p>キャロルも、自身の「ホラーの定義」が、実践においてホラーとして扱われている作品すべてかつそれらだけをきっちりカバーするものだとは考えていない。なんの定義にせよ、誰もそんな厳密さを期待すべきではないだろう。例えば、『サイコ』や『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B6%A1%A6%A5%D5%A5%E9%A5%A4">ザ・フライ</a>』といった作品は、キャロルのホラー定義ではカバーしにくい。実践において、ある個別作品がホラーとして扱われるようになるかどうかは、ある程度まで偶然的だということにキャロルは自覚的であり、私も同意する。</p>
<p>キャロルのプロジェクトとは、ホ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A1%BC%A5%B8%A5%E3%A5%F3">ラージャン</a>ルの範例たちを(完全にではないにせよ)なるべく広くカバーし、さらなる探求や応用のためにジャンルの重要な特徴を捉えられる、言うなれば「芯を食った」枠組みを提示することである。実践において個別の作品を批評したり、創作の手引きとして使える、といった実用性を外延的な正確性よりも優先している点は、プラグ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%B9">マティス</a>ト的と言ってもいいだろう。キャロルはそれを一貫して「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%CD%D7%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">必要十分条件</a>」による「定義」と呼んでいるが、細かいことが気になる人は、別のプロジェクト名をあてて理解したほうがいいかもしれない。</p>
<p>個別事例が多様であることは誰でも認めているにもかかわらず、定義論の熱心なアンチはキャロルの「定義」に対してもすぐちゃぶ台を返したくなるかもしれない。そうする前に、まずは芯を食った説明とそうでない説明の違いを認めるべきだろう。キャロルの説明が芯を食っていないと(ちゃんと)言うのであれば、それはそれでひとつの定義論だ。芯を食っているのかどうか分からないようであれば、そもそも当該の実践に十分親しんでいない可能性が高い。</p>
<p>ジャンル論一般については、以下も参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fn8a5cbf65d0de" title="ジャンル研究の方法論|obakeweb|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p> </p>
<h3 id="不気味なものとテイルズオブドレッド">不気味なものと「テイルズオブドレッド」</h3>
<p>キャロルは、厳密に言えばホラーとは似て非なるジャンルとして<strong>「テイルズオブドレッド(不安の物語)[tales of dread]」</strong>にちょっとだけ言及している。他で使われているのは見たことがないので、たぶんキャロルが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BF%CC%BE">命名</a>したジャンルだ。</p>
<blockquote>
<p>こうしたストーリーの骨格となる不気味な出来事は、居心地の悪さと畏怖、おそらくはつかの間の不安と不吉な予感を引き起こす。(高田訳 p. 93, 原著 p. 42)</p>
</blockquote>
<p>キャロルによれば、ホラーは超自然科学的な<strong>対象</strong>(=モンスター)を中心としているのに対し、テイルズオブドレッドは超自然科学的な<strong>出来事</strong>を中心としている。化け物が出てきてキャーなのではなく、ちょっとゾッとするような不可解なことが起こる系の話のことだ。日本では、『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%A4%A4%CB%A4%E2%B4%F1%CC%AF%A4%CA%CA%AA%B8%EC">世にも奇妙な物語</a>』が典型例だろう。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fat-akada.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F04%2F13%2F222905" title="Mark Windsor「不安な話」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>こちらも訳者の高田さんによるまとめがあるが、このキャロルが軽く触れただけのジャンルをMark Windsorが取り上げて論じている。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>は<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4256983538/ref=cm_sw_r_tw_dp_VHWVRMCM3X44YNKNY01M">フロイトの「不気味なもの」</a>に立ち返ることで「不気味[uncanny]」という感情を定義しつつ、これを喚起するジャンルとして「テイルズオブドレッド」を論じている。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FWINWIT-10" title=" Mark Windsor, What is the Uncanny? - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>による、不気味さ感情の定義はこうだ。<cite class="hatena-citation"></cite></p>
<blockquote>
<p>私がxを不気味なものとして経験するのは、以下かつそのときに限る。</p>
<ol>
<li>具体的[concrete]な対象/出来事としてxを経験しており、</li>
<li>私は、自身が可能であると信じている事柄に調和しない[incongruous]ものとして、xを経験しており、</li>
<li>そのことが私に対し、xについての不確実性を生じさせ、</li>
<li>それによってxへの直接的な感情[feelings]として、不安が生じる。(Windsor, 2019, p. 60)</li>
</ol>
</blockquote>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>はキャロルにおける対象志向/出来事志向の区別は気にしておらず、大筋としては、ホラーとは<strong>身体的脅威</strong>なのに対し、ドレッドとは<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>脅威</strong>なのだと考えている。なにがなんだか整理がつかず、自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと不安になってしまう状態こそ「不気味さ」を感じている状態であり、これを感じさせるように設計されている作品が「テイルズオブドレッド」となる。</p>
<p> </p>
<p>しかし、今回『ホラーの哲学』を読み返していて再確認できたのは、そもそもキャロルがホラーにおける不浄さを論じるに当たって、それが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>脅威なのだと特徴づけていた点だ。</p>
<blockquote>
<p>モンスターは、自然に関する文化の概念図式に相対的に、自然に反している。モンスターは図式に合致せず、図式に侵犯する。このように、モンスターは物理的に危険であるだけではなく、認知的に危険なのである。(高田訳 p. 79, 原著 p. 34)</p>
</blockquote>
<p>なので、ホラーは身体的脅威/テイルズオブドレッドは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>脅威という対比はうまくいかない。不浄なものの、カテゴリー逸脱的なあり方は、それを見るものの世界認識を脅かし、世界や自己に関する不確実性を意識させ、不安を生じさせる。よって、上の定義で行くと、不気味なものは不浄なものとおおよそイコールになってしまう。<a href="#f-38425c16" name="fn-38425c16" title="
前にこの辺の不気味論を使って「Liminal Space」について論じたことがあるが、そこでも提示した代替的な「不気味さ」の定義は、認知的な抵抗によって特徴づけるという案である。ある不可解な対象/出来事に対して、自分の常識の範囲内で説明をつけようとし、それが絶えず失敗する時間こそ、不気味さを経験している時間として理解できるのではないか。この説明は、「テイルズオブドレッド」をホラーよりもサスペンスに接近させるものだと私は予想している。単に不浄なもの(排泄物、死体、虫)に対して、オエッという嫌悪感はあれども、それらを常識の範囲内で説明する切迫感が生じることはないだろう。">*6</a></p>
<p>改めて、「ホラー」とは異なる「テイルズオブドレッド」を特徴づけるために、対象志向/出来事志向の区別に立ち返るべきなのか。前者と後者には、それが喚起する感情において重要な違いがあるのか。これらはまだ未解決であり、興味深い問題圏をなしている。</p>
<p> </p>
<h4 id="トワイライトゾーンにおけるテイルズオブドレッド20220926追記"><strong>『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EF%A5%A4%A5%E9%A5%A4%A5%C8%A1%A6%A5%BE%A1%BC%A5%F3">トワイライト・ゾーン</a>』における「テイルズオブドレッド」【2022/09/26追記】</strong></h4>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FCARTOD-2" title=" Noël Carroll, Tales of Dread in the Twilight Zone - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>キャロルが『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EF%A5%A4%A5%E9%A5%A4%A5%C8%A1%A6%A5%BE%A1%BC%A5%F3">トワイライト・ゾーン</a>』を題材に「テイルズオブドレッド」を論じた論文を読んできたので、かんたんに紹介。</p>
<p>一言でまとめるならば、キャロルはこのジャンルを<strong>宇宙的な力による因果応報の物語</strong>として説明している。</p>
<blockquote>
<p>私がこれらの物語を「テイルズオブドレッド(不安の物語)」と呼ぶのは、それらが観客に偏執的あるいは不安な想像[paranoid or anxious imaginings]を抱くよう強いるからだ。とりわけ、〈宇宙は全知全能の知性によって支配されていて、悪魔的な機知において正義を下している〉と想像させる。(pp. 26-27)</p>
</blockquote>
<p>『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EF%A5%A4%A5%E9%A5%A4%A5%C8%A1%A6%A5%BE%A1%BC%A5%F3">トワイライト・ゾーン</a>』のなかでも、悪巧みをしていた人物が皮肉にも自分の企みによって破滅したり、罪を犯した人が呪われて、犯した罪にフィットした罰を永遠に受け続ける、みたいなエピソードをキャロルは「テイルズオブドレッド」の典型例として理解している。例えば<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/The_Four_of_Us_Are_Dying">「顔を盗む男」(1960)</a>というエピソードでは、他人の顔に変身できる男がギャングを騙して金儲けしようとするが、ある男に変身して逃げている最中に、家庭の事情でその男を憎んでいる父親に間違われて殺されてしまう。</p>
<p>ただの因果応報ではなく、<strong>なんらかの意味で罪にふさわしいと思われるような手段によって罰がくだされる</strong>、というのがポイントだ。キャロルはトーマス・ライマーの古典的な概念を引いて、これを<strong>「詩的正義[Poetic Justice]」</strong>と呼ぶ。罰は、象徴的・寓意的な仕方で罰せられる。わかりやすい例として、ダンテの『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%C0%B6%CA">神曲</a>』「地獄篇」で罰を受けている罪人たちが挙げられている。貪食だったものは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B1%A5%EB%A5%D9%A5%ED%A5%B9">ケルベロス</a>にかじられ、貪欲だったものは永遠に重い金貨の袋を運ばされる、などなど、それぞれ犯した罪に即した罰を受けているのだ。こういった罰には、どこかユーモラスで皮肉なところがあるとキャロルは述べる。</p>
<p>「テイルズオブドレッド」は露骨なまでに首尾一貫していて、全知全能の宇宙的知性が正義を執行するという感覚を与え、次は自分の番ではないかという不安を駆り立てる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1">自然主義</a>的な因果関係ではない、奇妙だが腑に落ちる因果関係を想像させる点は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BA%BF%C0%CA%AC%CE%F6%C9%C2">精神分裂病</a>や偏執病の患者が妄想する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>と似たような構造を持っており、また、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EA%A5%C3%A5%AF%A5%B9%A5%BF%A1%BC">トリックスター</a>な悪魔や妖精に騙される民話とも似ているとキャロルは言う。</p>
<p>どちらも超自然的な事物を扱う点でホラーと「テイルズオブドレッド」は似ているが、後者は前者のようには危険で不浄なモンスターをフィーチャーしない。この点で、キャロルは対象志向/出来事志向の区別を維持しているようだ(そんなには重視していないようにも読めるが)。「テイルズオブドレッド」において機知に富んだ正義を執行する宇宙的知性は、姿かたちを持たないので嫌悪感を喚起することもない。</p>
<p>また、ホラーはモンスターに襲われているキャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ターへの心配による<strong>利他的不安</strong>がメインだが、「テイルズオブドレッド」は宇宙的な正義の執行が自分にもくだされるのではないかという<strong>利己的不安</strong>がメインになるという。なので、登場人物との感情の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A5%E9%A1%BC%A5%EA%A5%F3%A5%B0">ミラーリング</a>といった議論は、「テイルズオブドレッド」については考えていないのだろう。ホラーは正面からモンスターがやってきてギャーだが、「テイルズオブドレッド」はいまに自分が裁かれるのではないかという後ろめたさと結びついている。</p>
<p>改めて、キャロルによる「テイルズオブドレッド」の定義はこうだ。</p>
<blockquote>
<ol>
<li>物語的ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>であり、</li>
<li>あるキャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ターが罰を受ける出来事に関するものであり、</li>
<li>罰は適切な仕方(罪に見合う仕方)でくだされ、また、</li>
<li>ちょっとだけユーモラスな仕方でくだされる(例えば、しばしば皮肉である)。(Carroll, 2009, p. 26)</li>
</ol>
</blockquote>
<p>こうして見てみると、キャロルの考えていた「テイルズオブドレッド」は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>が引き継いで論じたそれよりも関心においてずっと厳密だったことが分かる。神秘的で宇宙的な力による因果応報をフィーチャーしていることが必要条件なので、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>のように「<strong>不気味さを喚起する</strong>」というのでは広すぎるのだ。</p>
<p>ちなみにWindsor (2019)は因果応報を持ち出すのは狭すぎてあれやこれをカバーできないと反論しているが、そもそも外延のはっきりしたジャンルではないので、”あれやこれ”をカバーすべきだという前提が広く共有されている/されるべきとは思えない。上にも出てきた、どこまでを有効な範例・反例として扱うかという点での見解の違いなので、キャロル理論を狭すぎるというのは不当だと思う。</p>
<p>ちなみに、キャロルは「ホラーのパラドクス」と同様、裁かれるかもという不安にもかかわらず「テイルズオブドレッド」を見たがるのはなぜなのか、という問題についても答えているが、こちらの説明はあまり魅力的でないと思う。キャロルによれば、そういう不安はあるものの、悪人がちゃんと裁かれるという因果応報の物語はわれわれを満足させる。しばしば快が不快を上回るからこそ、われわれは「テイルズオブドレッド」を楽しめるというわけだ。この説明は、<strong>「不快だけど(快もあるから)見る」</strong>と言っているだけで、<strong>「不快だからこそ見る」</strong>という説明にはなっていない。「テイルズオブドレッド」がある種の不安喚起をコアとしたジャンルなのだとすれば、その種の不安が持つ利点にもっと焦点を当てた説明であるべきではないか、と個人的には思う(代案は思いつかないが)。</p>
<p> </p>
<h3 id="その他いろいろ">その他いろいろ</h3>
<p>ということで、読みやすく愉快な本なので、この機にホラーの哲学に入門しちゃいましょう。</p>
<ul>
<li>固有名詞がたくさん出てきますが、ひとつひとつ知らなくてもなんとかなります(私はホラー文学はさっぱり分かりません)。ホラー映画は『ドラキュラ』『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%E9%A5%F3%A5%B1%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">フランケンシュタイン</a>』『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A1%BC%A5%BA">ジョーズ</a>』『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%AF%A5%BD%A5%B7%A5%B9%A5%C8">エクソシスト</a>』『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%A4%A5%C8%A1%A6%A5%AA%A5%D6%A1%A6%A5%B6%A1%A6%A5%EA%A5%D3%A5%F3%A5%B0%A5%C7%A5%C3%A5%C9">ナイト・オブ・ザ・リビングデッド</a>』『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A1%BC%A5%E1%A5%F3">オーメン</a>』『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%F3%A5%B0%A5%B3%A5%F3%A5%B0">キングコング</a>』『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A1%BC%A5%BA%A5%DE%A5%EA%A1%BC%A4%CE%C0%D6%A4%C1%A4%E3%A4%F3">ローズマリーの赤ちゃん</a>』あたり見とけばいいんじゃないでしょうか。</li>
<li>500ページちょいで3200円+税は破格の安さです。北岡誠吾さん(<a href="https://twitter.com/kitaokatao">@kitaokatao</a>)による装丁もかっちょいい。</li>
<li>私のホラー映画マイベストは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%B8%A5%A7%A5%A4%A1%A6%A5%BA%A5%E9%A5%A6%A5%B9%A5%AD%A1%BC">アンジェイ・ズラウスキー</a>の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=cLrXOa85IHY">『ポゼッション』(1981)</a>ですが、思い返せば、キャロル的な意味で極めてホラーらしいホラーでした。はよどこかで配信and/or再上映してくれい。</li>
</ul>
<p> </p>
<p> </p>
<p>
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</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-c5d29b0c" name="f-c5d29b0c" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ここでは、芸術作品にとって重要なのはその目的と手段である、というキャロルの芸術観が、ジャンルレベルでも敷衍されているのだと思う。もちろん、西部劇やミュージカルのように、このやり方に適しているわけではないジャンルがあることにキャロルは気づいている。キャロルの芸術観については、以下を参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FCARAA-7" title="レジュメ|ノエル・キャロル「芸術鑑賞」(2016) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-75af84c7" name="f-75af84c7" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">そもそも英語のhorrorに、ジャンル名としての用法だけでなく、fearやterrorと同様にある種の感情を表す用法(e.g.「ホラーを感じる」)があって、日本語の「ホラー」上では後者が見えにくい、という問題がある。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-b21cf87a" name="f-b21cf87a" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">細かいところだが、「モンスター」の定義に危険さや不浄さが入っているわけではない。キャロルにおいて「モンスター」とは、ただ、その時代の自然科学では説明のつかないような、超科学的存在のことだ。この意味ではスー<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A1%BC%A5%DE%A5%F3">パーマン</a>も「モンスター」になるわけだが、スー<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A1%BC%A5%DE%A5%F3">パーマン</a>が他のキャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ターを怖がらせたりキモがらせることはないので、映画がホラー映画になるわけではない。</p>
<p>つまり、ホラーにとってはまずモンスターが出てくることが必要条件であり、モンスターがどういう感情を喚起するかがさらに別の必要条件となる。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-a6180c8b" name="f-a6180c8b" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FSMUH-2" title=" Aaron Smuts, Horror - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>ホラーの哲学全体の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A1%BC%A5%D9%A5%A4">サーベイ</a>としては、Smuts (2008)を参照。ちなみにAaron Smutsはキャロルの弟子で、キャロルと同じくマスアートの哲学で重要な仕事をたくさんしていた人なのだが、今年の3月に惜しくも亡くなっている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-5f1a8da9" name="f-5f1a8da9" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">今日的な目線から言えば、『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%AD%A5%E3%A5%CA%A1%BC%A5%BA">スキャナーズ</a>』を見て怖がる人は(幼児を除いて)現代にはもはやいないだろう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-38425c16" name="f-38425c16" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fliminalspace" title="Liminal Spaceのなにが不気味なのか - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>前にこの辺の不気味論を使って「Liminal Space」について論じたことがあるが、そこでも提示した代替的な「不気味さ」の定義は、<strong>認知的な抵抗</strong>によって特徴づけるという案である。ある不可解な対象/出来事に対して、自分の常識の範囲内で説明をつけようとし、それが絶えず失敗する時間こそ、不気味さを経験している時間として理解できるのではないか。この説明は、「テイルズオブドレッド」をホラーよりも<a href="https://www.cambridge.org/core/books/abs/beyond-aesthetics/paradox-of-suspense/0E077226972958F03F4054F14E50D174">サスペンス</a>に接近させるものだと私は予想している。単に不浄なもの(排泄物、死体、虫)に対して、オエッという嫌悪感はあれども、それらを常識の範囲内で説明する切迫感が生じることはないだろう。</span></p>
</div>
psy22thou5
ジェロルド・レヴィンソンと芸術に関する文脈主義
hatenablog://entry/4207112889905737839
2022-08-04T19:49:23+09:00
2022-09-24T19:14:51+09:00 ジェロルド・レヴィンソン[Jerrold Levinson]は現在メリーランド大学で卓越教授を務める美学研究者である。音楽の存在論における「指し示されたタイプ説」や、解釈と意図における「仮説意図主義」、芸術の意図的=歴史的定義など、さまざまなトピックにその後のスタンダードとなるような立場を提供しまくっている、キレキレの論者だ。
レヴィンソンの芸術哲学の中心をなすのは、「文脈主義[Contextualism]」という考えである。本稿では「美的文脈主義[Aesthetic Contextualism]」という2007年の論文をもとに、レヴィンソンという論者の思想的コアを手短に紹介する。いまや分析美学ではデフォルトといっていい立場である文脈主義の一般的なガイドでもある。
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20220924/20220924191123.png" width="1200" height="602" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<h3 id="1">1</h3>
<p><strong>ジェロルド・レヴィンソン[Jerrold Levinson]</strong>は現在<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%EA%A1%BC%A5%E9%A5%F3%A5%C9%C2%E7%B3%D8">メリーランド大学</a>で卓越教授を務める美学研究者である。音楽の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>における「指し示されたタイプ説」や、解釈と意図における「仮説意図主義」、芸術の意図的=歴史的定義など、さまざまなトピックにその後のスタンダードとなるような立場を提供しまくっている、キレキレの論者だ。<a href="#f-0bf8eaac" name="fn-0bf8eaac" title="ジェロルドかジェラルドかの表記ブレがあるが、いくつか見た動画ではジェロルドで紹介されているように聞こえるので、私=『分析美学入門』はジェロルドを推している。">*1</a></p>
<p>レヴィンソンの芸術哲学の中心をなすのは、<strong>「文脈主義[Contextualism]」</strong>という考えである。本稿では「美的文脈主義[Aesthetic Contextualism]」という2007年の論文をもとに、レヴィンソンという論者の思想的コアを手短に紹介する。いまや分析美学ではデフォルトといっていい立場である文脈主義の一般的なガイドでもある。</p>
<p> </p>
<p>Levinson (2007)は、次のように文脈主義を説明している。</p>
<blockquote>
<p>芸術作品とは特定の種類の人工物であり、特定の個人または個人たちによる、特定の時間と場所において人間が発明した産物たる物体または構造であり、その事実は、人が芸術作品を適切に経験し、理解し、評価する仕方に影響を与えるというテーゼ。<br />(Levinson, 2007, 4)</p>
</blockquote>
<p>「特定の〜」がいっぱい付いているのがポイントだ。レヴィンソンによれば芸術作品とは<strong>本質的に歴史に埋め込まれた対象[historically embedded objects]</strong>である。それが生成する特定の文脈と切り離してしまっては、芸術という地位も、確定な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>も、明確な美的性質も美的意味も持ちえない、と述べる。</p>
<p>レヴィンソンは、芸術作品のこのようなあり方を、発話や行為や達成とのアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>から説明する。ある発話や行為や達成の意味や価値が、それがなされる文脈次第で左右されるように、芸術作品の意味や価値もまた文脈次第なのだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="2">2</h3>
<p>文脈主義は、一方で①<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>、経験主義、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1">構造主義</a>と対立し、他方で②<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%A6%B9%BD%C3%DB">脱構築</a>主義と対立している。<a href="#f-b3b9d745" name="fn-b3b9d745" title="レヴィンソンの説明する立場が、いわゆるフランス現代思想における構造主義に相当するものなのかは、説明を見ただけでは定かではない。他方、あとに続く脱構築主義は明らかにデリダなどを念頭に置いている。">*2</a></p>
<p>前者との対立は明らかだろう。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>は作品の顕在的な形式[manifest form]だけが重要だと述べ、経験主義は作品を知覚することだけが肝心なのだと述べ、どちらも作品から外へ向かっていこうとしない。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1">構造主義</a>は、ある種の構造やパターンが時代を超えてある種の美的性質や力を持つ、という普遍主義にコミットする。</p>
<p>しかし、アーサー・C・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>が示したように、いまや日用品と見分けのつかない芸術作品はアートワールドにあふれている。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%C7%A5%A3%A5%E1%A5%A4%A5%C9">レディメイド</a>やポップ・アート以降、知覚だけでわかる形式や質ばかりに注目しても、その意味や価値はぜんぜん明らかにならない。端的な観察として、<strong>芸術の理解は見たり聴いたりするだけでは不十分なのだ</strong>。</p>
<p>レヴィンソンは、芸術作品の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を、特定の人物が特定の時代や場所において指し示したこととセットで理解する。つまり、文脈(作り手や作られた時代地域)が異なれば、視覚的・音響的には全く同一のものであっても、実際は違う作品なのだ。そういう、目に見えない文脈との結びつきを重視する点で、レヴィンソンによる芸術の定義・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>のそれを直接的に引き継いだものと見ていいだろう。<a href="#f-376786a0" name="fn-376786a0" title="Hans Maesのインタビュー集によれば、ダントーはレヴィンソンについて、「芸術の定義はおそらく正しいがあまりおもしろくない。音楽作品の論文は正しいかどうかはともかくとてもおもしろい」と述べているらしい。">*3</a></p>
<p>また、この事実が鑑賞や作品理解をも左右する、というア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>は、<a href="https://note.com/morinorihide/n/ned715fd23434">ケンダル・ウォルトンによる「芸術のカテゴリー」</a>を引き継いだものだと言えるだろう。レヴィンソンは1970年代に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>のもとで博士論文を書いていたので、ここには直接的な影響関係があると思っている。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>〜経験主義において、芸術作品が優美なのか繊細なのかけばけばしいのかはちゃんと見れば分かるとされてきたが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>によればどんな美的質を持つかはそもそも作品をどういうカテゴリー(ジャンル、形式、スタイル、メディアなど)のもとで見るか次第なのだ。レヴィンソンは、このような鑑賞上の制約を、芸術作品そのもののあり方として、定義・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>に敷衍した点がユニークだと言える。</p>
<p> </p>
<h3 id="3">3</h3>
<p>他方で、文脈主義は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%A6%B9%BD%C3%DB">脱構築</a>主義とも対立するものだった。文脈主義はわりと<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>と混同して理解されやすいので、この違いをはっきりさせておくことは有益だろう。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>によれば、意味や内容や価値は、個々の知覚者や知覚者の集団に相対的なものでしかない。「なにが好きかは人それぞれ」というやつだ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%A6%B9%BD%C3%DB">脱構築</a>主義はこれを一層過激化したものであり、あらゆる言説(ここにはテクストとしての芸術作品も入ってくる)には、安定した意味や一貫した意味が存在しないと述べる。</p>
<p>分析美学者らしく(?)、レヴィンソンはこれらの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%D2%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ニヒリズム</a>をほとんど相手にしておらず、文脈主義がうまくいく限り魅力のない立場だとして退ける。文脈主義は、「芸術かどうか、どう鑑賞すべきかは、人それぞれなので答えがない」という立場ではない。むしろ、特定の文脈を適切に踏まえて引き出される意味や内容を「正しい」ものとして認める、客観主義なのだ。</p>
<p> </p>
<p>これは、芸術教育としていたってまともで望ましい考えのように思われる。興味深いことに、レヴィンソンも文脈主義をとるうれしさのひとつを、前衛芸術への悪口を鎮火できる点に置いている。「この作品と同じことが、前にも散々やられてきただろ」というのは、違う文脈において違うことを試みている点を見逃しているかもしれない。「うちの弟にもできるわこんなん」というのは、その文脈でその人がやっているのと厳密に同じことはできない、というのを見逃しており、「正確な贋作はオリジナルに劣らず芸術的に優れている」という反エリート主義は、形式だけ見ていて文脈を無視している。</p>
<p>余談だが、実際にモダンアートを教えていると、この<strong>「ちゃんと調べて、ちゃんと見よう」</strong>の前半部分が敷居を高くしている場面もたしかにある。誰だって、芸術鑑賞の入り口は見たり聴いたりして楽しむことであって、見たり聴いたりできない文脈について調べたり考えたりすることは、時間的には二次的にならざるをえない。だからこそ、対話型鑑賞などでは「とりあえず見て、感想を言ってみよう」というやり方(民間<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>?)も推奨されるのかもしれない。これが悪い方向に突き進んだ先には、「芸術に関わる諸々に答えはなく、どう見るかは完全に自由、人それぞれだ」という開き直りがある。実際、ひとたびこういう思考のプリセットを形成した学生に、それとは別のものの見方を提示することは容易ではない。</p>
<p>レヴィンソンはほぼ間違いなく、<strong>「ちゃんと調べて、ちゃんと見る」経験が、「ただ見る」経験に対して質的・量的に上位、すなわちより大きく豊かな美的経験を与える</strong>と考えている。このような美的エリート主義に対して、私個人は賛成よりの中立だが、実践的に言って、これからアートワールドに入ろうとしている新参者にとって荷が重いのは間違いないだろう。芸術教育はその辺のバランスを取らなければならないので難しいとは思うが、そこにやりがいもあるのだと勝手に思っている。<a href="#f-aadcb77d" name="fn-aadcb77d" title="
趣味教育の問題はレヴィンソン自身が定式化している。森さんが前にロペスのネットワーク理論と照らしつつ検討されていた。
">*4</a></p>
<p> </p>
<h3 id="4">4</h3>
<p>レヴィンソンに戻ろう。以上の文脈主義は、レヴィンソンの主要な仕事にも通底している。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FLEVDAH" title=" Jerrold Levinson, Defining art historically - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>芸術の定義における影響は明らかだろう。最大限噛み砕くと、レヴィンソンにとって芸術作品であるものとは、<strong>「先立つ芸術作品が受けてきた扱い・みなし[regard]を受けるよう、意図されている人工物」</strong>である。ここでは、歴史的な連続を意図されていることがポイントとなっている。この定義に対しては、「じゃあ一番最初の芸術作品はどうなるんだ」という反論が定番だが、また別の話だ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FLEVWAM" title=" Jerrold Levinson, What a musical work is - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2F2018%2F07%2F08%2F001627" title="音楽作品の存在論まとめ:レヴィンソンvsドッド - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>芸術の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>に対する影響もかなり顕著なものとなっている。</p>
<p><strong>「t時点において-Xによって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造 (S/PM structure-as-indicated-by-X-at-t)」</strong>という奇怪な説明のポイントは、存在者としてのあり方のなかに時点や人物を組み込んでいる点だ。ハイフンによる連結は、文脈が作品と独立しつつ単に結びついているのではなく、文脈と作品がセットでひとつの存在者なのだと示す意図があるのだろう。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FLEVDHI" title=" Jerrold Levinson, Defending hypothetical intentionalism - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2F2018%2F05%2F20%2F145225" title="芸術作品の「最適」な解釈を求めて:ジェロルド・レヴィンソン「仮想意図主義」について - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>芸術解釈における仮説意図主義と文脈主義の関係性は意外と見えにくいかもしれない。レヴィンソンは、①作品の意味は現実の作者によって制約されるという立場(現実意図主義)を退けつつ、②作者はなんの関係もないから自由にテクストと戯れていいという立場とも距離をとるため、③仮説意図主義という中間的な立場を選ぶ。それによれば、<strong>芸術作品の正しい意味とは、文脈を適切に踏まえた鑑賞者が、合理的かつチャリタブルに作者へと帰属するような意図によって決まる</strong>。</p>
<p>ここで、芸術作品が歴史という公的な「場」=文脈に埋め込まれていることが前提として機能している。そのような公的文脈に出てこない限りで、レヴィンソンは解釈において現実の作者の私秘的な日記や手紙を証拠として利用することに反対しているのだ。仮説立てというのも、前述の「ちゃんと調べて、ちゃんと見よう」のいち作業となっているわけだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="5">5</h3>
<p>文脈主義という軸に沿ってさまざまなトピックが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%AD%B5%A1">有機</a>的にまとまっていく様はたいへんエレガントだと思う。日本ではわりと紹介されているほうの論者だが、こういった思想のコア部分を知ればもっと見通しがよくなるはずだ。</p>
<p>一般的に言って、文脈主義というものの見方は、前述した教育上の実践的困難がありつつもリターンの大きいものだと私は考えている。芸術作品を相手にすることは、美術史の一部を相手にすることにほかならず、(少なくとも個人的な手応えとして、)お勉強には確かに見返りがある。</p>
<p>私としては、そんなレヴィンソンが、芸術のカテゴライズという典型的な歴史化プロセスを語る段になって、カテゴリーの設定を現実の作者の意図に一任するくだりが相変わらず不可解でならない。</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-0bf8eaac" name="f-0bf8eaac" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ジェロルドかジェラルドかの表記ブレがあるが、いくつか見た動画ではジェロルドで紹介されているように聞こえるので、私=『分析美学入門』はジェロルドを推している。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-b3b9d745" name="f-b3b9d745" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">レヴィンソンの説明する立場が、いわゆるフランス<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%BB%D7%C1%DB">現代思想</a>における<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1">構造主義</a>に相当するものなのかは、説明を見ただけでは定かではない。他方、あとに続く<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%A6%B9%BD%C3%DB">脱構築</a>主義は明らかに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>などを念頭に置いている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-376786a0" name="f-376786a0" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a href="http://aesthetics-conversations.com/">Hans Maesのインタビュー集</a>によれば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>はレヴィンソンについて、「芸術の定義はおそらく正しいがあまりおもしろくない。音楽作品の論文は正しいかどうかはともかくとてもおもしろい」と述べているらしい。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-aadcb77d" name="f-aadcb77d" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FLEVHSO" title=" Jerrold Levinson, Hume's standard of taste: The real problem - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></p>
<p>趣味教育の問題はレヴィンソン自身が定式化している。森さんが前にロペスのネットワーク理論と照らしつつ検討されていた。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fmorinorihide%2Fpublished_papers%2F33578685" title="森 功次 (Norihide Mori) - われわれ凡人は批評文をどのように読むべきか :理想的観賞者と美的価値をめぐる近年の論争から考える - 論文 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe></span></p>
</div>
psy22thou5
Make me feel goodなもの
hatenablog://entry/13574176438100014189
2022-06-08T14:57:59+09:00
2023-05-13T15:25:49+09:00 いい気分だ 分かってんだぜ ──── I Got You (I Feel Good) - James Brown 先日の応用哲学会で、美的価値論に関わる発表をしてきた。 趣旨としてはこの文脈でモンロー・ビアズリーを読み直す、というものだったが、コメントの多くはその前提、既存の反快楽主義に対する私の懸念に対する懸念として集まった。アフターフォローのいくつかは日記に書いたのだが、こちらでも考えをまとめておこう。*1 *1:2022/05/28、2022/05/31などを参照。
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20220608/20220608145326.png" width="1200" height="601" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/pTdihu-mp90?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" allowfullscreen="" title="James Brown - I Got You (I Feel Good) (Visualizer) (Visualizer)"></iframe></p>
<blockquote>
<p><em>いい気分だ 分かってんだぜ</em></p>
<p>──── I Got You (I Feel Good) - <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/James%20Brown">James Brown</a></p>
</blockquote>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fsenkiyohiro.notion.site%2F20220528-7c355d5c89f240818e71f18d0d51b191" title="美的に良いものはなにゆえ良いのか:モンロー・ビアズリー再読[応用哲学会20220528]" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>先日の応用哲学会で、<a href="https://researchmap.jp/senkiyohiro/presentations/37042646">美的価値論に関わる発表</a>をしてきた。</p>
<p>趣旨としてはこの文脈でモンロー・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>を読み直す、というものだったが、コメントの多くはその前提、既存の反快楽主義に対する私の懸念に対する懸念として集まった。アフターフォローのいくつかは日記に書いたのだが、こちらでも考えをまとめておこう。<a href="#f-27890a5c" name="fn-27890a5c" title="2022/05/28、2022/05/31などを参照。">*1</a></p>
<h3 id="美的に良いものはなにゆえ良いのか">美的に良いものはなにゆえ良いのか</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fna0d660b74e3d" title="美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>問題はこうだ。美的に価値のあるものは、行為や信念形成に理由を与えるが、なにゆえそうなのか。<strong>美的に良いものはなにゆえ良いのか</strong>。</p>
<p>デフォルトの説明はこうだ。「快楽を与えるからさ。美しいものを見たり聞いたりするのは気持ちがいいからね」。これに対し、達成や自由や自律性に訴える反快楽主義が出てきている。美しいものに駆り立てられる人は、必ずしも快楽に駆り立てられているわけではない、というわけだ。</p>
<p>反快楽主義に対する私の懸念はこうだ。では、達成や自由や自律性が良いものだと言えるのは、なぜなのか。私の主張はこうだ。<strong>どれもつまるところ、快楽につながる(あるいは、そもそも快楽の一種である)からこそ、良いものだと言えるのではないか</strong>。<a href="#f-846630c3" name="fn-846630c3" title="これは高田さん(@at_akada_phi)から何度か指摘いただいたことだが、少なくともLopesの「達成」概念を、快楽の代替アイテムとして、目的論のもとで再構成することはいくらか不適切かもしれない。私の理解不足に基づく誤解がいくらかあるのは認めざるを得ないが、そうは言っても、それ以外の仕方でLopesの答えを規範的問いに対する答えとして構成する術が、私には思いつかない。広義の快楽がまったくない達成が、人を駆り立てることはあるのか。これに関しては、「○○分で分かるBeing for Beauty」を高田さんか森さんにお願いしたいところだ。">*2</a></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Faizilo.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F06%2F07%2F203713" title="幸福の手段にすぎない:美的価値の規範的源泉について - #EBF6F7" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>村山さん(<a href="https://twitter.com/Aizilo">@Aizilo</a>)からいただいたコメントはこうだ。では、快楽はなぜ望ましいのか。「<em>快楽を価値にするものは何か、なぜ快楽を追求すべきか</em>」。私が達成や自由や自律性に内在的価値を認めなかったのと同様に、村山さんは快楽にも内在的価値(究極的価値)は認められないのではないか、と懸念を示している。</p>
<p>村山さんによる代替案はこうだ。もし、なにか究極的価値が認められるアイテムがあるとすれば、それは快楽ではなく、形式的に定義された<strong>「幸福」</strong>にほかならないだろう。「<em>原初主義が適用される唯一の価値とは、この形式的定義の観点から理解された幸福だ</em>」「<em>美は幸福の手段にすぎない</em>」。</p>
<blockquote cite="https://aizilo.hatenablog.com/entry/2022/06/07/203713" data-uuid="13574176438099998725">
<p>美的価値を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である。</p>
<cite><a href="https://aizilo.hatenablog.com/entry/2022/06/07/203713">幸福の手段にすぎない:美的価値の規範的源泉について - #EBF6F7</a></cite></blockquote>
<p>ここでの幸福は、内在的価値として形式的に定義された述語なのだから、内在的価値を持つのは自明だ。「では、幸福はなぜ望ましいのか」と問い続けることは意味をなさない。それ以上「なぜ望ましいのか」問い続けることが意味をなさないものこそ、「幸福」なのだ。<a href="#f-de40dab4" name="fn-de40dab4" title="もちろん、テクニカルタームでない幸福に関しては、「では、幸福はなぜ望ましいのか」と問うことは意味をなす。例えば、「それは進化論的に有利だからだ」というのはひとつの仮説としてありうるだろう。">*3</a></p>
<p>村山さんは続いて、幸福による美的価値の定義は実のところinformativeではないことを認め、<strong>「<em>美的価値と幸福の具体的な結びつき方</em>」を示す、より個別の探求</strong>として、リグルのような反快楽主義を位置づけている。美的価値のあるものとは、幸福に寄与する能力のあるものであるが、美的自由へと至らせることは、幸福への寄与の一例というわけだ。</p>
<h3 id="快楽か幸福か">快楽か幸福か</h3>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/HyHNuVaZJ-k?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget4"></iframe></p>
<p>村山さんによる主張の後半、すなわち、さまざまな反快楽主義は、より個別的な仕方で「<em>美的価値と幸福の具体的な結びつき方</em>」を示すものであるという主張に関しては、私は9割がた支持できる。ただ、それらは私にとっては、「<strong>美的価値と快楽の</strong>具体的な結びつき方」を示すものになる。達成すれば気分がいいし、自由なのも気分がいい。反快楽主義者たちはパイを取り合って対立しているわけではなく、さまざまな幸福ないし快楽のあり方を、それぞれの言葉で語っていることになる。なので、私が「それって要は快楽のことじゃん」と述べるとしても、反快楽主義の意義を否定したいわけではない。</p>
<p>一方、村山さんによる主張の前半、すなわち、究極的価値が認められるものがあるとすれば、それは形式的に定義された「幸福」のことであるという主張は、無害な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A1%BC%A5%C8%A5%ED%A5%B8%A1%BC">トートロジー</a>のようなもので、反論の余地はない。異論があるとすれば、それを「幸福」と呼ぶかどうかの、用語上の好みでしかないだろう。しかし、「<em>美的価値を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である</em>」という主張が、「美的価値を価値にするものは何か、それは究極的価値そのものに寄与する能力である」という主張でしかないのであれば、それは問題を言い直しただけであり、答えたことにはならない。</p>
<p>私には村山さんがそこに留まっているようには思えない。幸福論との接点を問題にするとき、村山さんは単なる形式的定義を手放し、よりinformativeな実質的定義を引っ張り出しているようにも読める。そうでなければ、「幸福」という語を用いることすら冗長なだけだ。その辺りは改めてうかがってみたい。</p>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/iHm7uIC84YM?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget6"></iframe></p>
<p>私は快楽を究極的価値の一種だと考えているだけで、<strong>究極的価値のことを単に「快楽」と呼ぼうとしているわけではない</strong>。</p>
<p>私はこれまで、私から見た究極的価値のことを「快楽」と呼んできたが、これがややミ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%EA%A1%BC%A5%C9">スリード</a>で、心配されやすい表現であることを自覚しつつある。それはただちに、マッサージとかギャンブルとかセックス・ドラッグ・ロックンロールを連想させてしまうのだ。実際、私が念頭においている究極的価値は、そういった狭義の快楽(いわばエクスタシー)とのアナロ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>でしか理解できないようなものではない。pleasureとは単に、喜びや楽しみのことだ。</p>
<p>より無機質に「利得」などと呼んでしまうのもありだと思っていたが、この語はあまりにも広くて不正確かもしれない。私が訴えたいアイテムはあくまで、<strong>ポジティブな内的感覚</strong>のことだからだ<a href="#f-89e71033" name="fn-89e71033" title="これが、知覚のような末端レベルの感覚なのか、より高次の感覚なのか、限定する必要はない。そうしたければ、美的問いに応える場面で、なにかコメントすればいいだろう。">*4</a>。<strong>feel goodであること</strong>。これが、美的価値の規範的問いに対する、それ以上追及される筋合いのない説明項だと思っている。結局、この立場をもっとも端的に表現するのは「快楽主義」だろう。</p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/oHRNrgDIJfo?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget8"></iframe></p>
<p>快楽という語は幸福という語よりもいくぶんinformativeだと考えている。すなわち、私は形式的に究極的価値を指すだけの語として「快楽」を持ち出しているわけでは<strong>ない</strong>。</p>
<p>私の「快楽」は村山さんの「幸福」にはない、さらなるコミットメントがある。前述した、「ポジティブな内的感覚である」というのがそれだ<a href="#f-7a808b4c" name="fn-7a808b4c" title="もし、内的感覚に絞ることでカバーできない美的価値があると言われれば、私としては「それはもう美的価値ではないのでは」といういつもの応答をするだろう。そもそものはじめから、われわれはaisthētikósを主題としていたのではなかったのか。">*5</a>。幸福は、<strong>幸福感</strong>として理解される限りで、私の快楽主義と矛盾しない。feel goodであることは幸福感そのものであり、幸福感とはまさにfeel goodであることではないか。make me happyなものとは、make me feel goodなもののことだ。ここで私は、幸福の形式的定義を手放し、快楽説に踏み込もうとしている。</p>
<p>もし、①幸福とは快楽と別個の究極的価値であり、②いかなるポジティブな内的感覚もない幸福(幸福感のない幸福?)が、美的価値を価値たらしめるケースがある、というのを村山さんが認められるようであれば、もっと実質的な対立点があるということになる。のだが、私には具体例がちょっと思いつかない。</p>
<h3 id="快楽はおまけでしかないのか">快楽はおまけでしかないのか</h3>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/Hx_7H7qI4Wc?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget10"></iframe></p>
<p>美的行為の理由を与えているのは、快楽でも、ポジティブな内的感覚でもない。それらは、結果として伴うだけで、美的行為を駆り立てているわけではない、ただの副産物だ。というのが、私の理解では伊藤さん(<a href="https://twitter.com/eudaimon_richo">@eudaimon_richo</a>)の見解だ。<a href="#f-59edc36a" name="fn-59edc36a" title="伊藤さんは鋭く、独自の見解を持たれることが多いが、Twitterで断片的に表明されるより、ブログなり日記なりまとまった形で書いて欲しいなぁと思うことが多い。">*6</a></p>
<p>「個別の行為選択において、それがfeel goodにつながるかどうか、いちいち考えてない場面が多い」ということであれば、それなりに共有できる観察だと思う。</p>
<ul>
<li>例)アドリブソロを弾いている最中、私は「次に選ぶフレーズが私をfeel goodにしてくれるか」などと考える余裕もなく、曲やコード進行に即したフレーズをつなぎ続けるだろう。このような行為選択における理由は、快楽というより、達成で説明したほうがスムーズかもしれない。</li>
<li>例)バイト先に着ていく服を先週とは違うものにするよう塩梅するとき、私はそうすることでなにか快楽を得られるはずだと期待しているわけではない。このような行為選択における理由は、快楽というより、個性の発揮や対人関係の構築を持ち出して説明したほうがスムーズかもしれない。</li>
</ul>
<p>しかし、それらは<strong>微視的に見るか巨視的に見るかの違いでしかない</strong>ようにも思う。結局のところ、ビシッとハマったフレーズやおろしたてのシャツは私をfeel goodにするだろうし、失敗は私を内的に「蹴る」ことになる。そして、私はそのことを意識していない瞬間にも、理解はしている。行為選択に先立って、私には選好と信念があるのだ。巨視的に見れば、私がセッションに出向かいアドリブに挑むのも、服を買い込んだりアイロン掛けしておくのも、いつかどこかでポジティブな内的感覚を得たいからだ(あるいは幸福になりたいからだ)。当の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DA%A5%A4%A5%AA%A5%D5">ペイオフ</a>がまったくないと確信できるなら、私は楽器なんて弾かないし、服なんて着ないだろう。</p>
<p>あるいは、快楽がおまけだとしても、おまけが行為を駆り立てるというのはごくありそうな話だ。その場合、対象説に関して発表でちょっとコメントしたように、①美的価値がなんなのかという話は「対象側のこれこれです」でおしまい、②美的価値には規範性はなく、③付随する道具的価値(快楽もたらし価値など)に規範性が伴う、というのでも構わない。</p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/jLmJhjCzOTw?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget12"></iframe></p>
<p>たしかに、feel goodにさせる能力と美的価値の間に、単に因果的でない構成的関係を認めるのは、村山さんが述べるようにいくらか飛躍なのかもしれない。しかし、他の選択肢がもっともらしくないうちは、快楽主義にはやはり魅力がある。哲学者でもなければ、そもそも「喜びや楽しみは、なにゆえ良いものなのか」などと問うたりしないのだ。</p>
<p>「気分がいい」を最大化し、なるべく持続させること以外に、われわれを根源的に駆り立てる動機が、果たしてあるのだろうか。少なくとも、私を主語とした文のほとんどには、「to feel good」の副詞句を繋げてもらっても真理値は変わらない。<a href="#f-11685531" name="fn-11685531" title="もちろん、「怪我をした」みたいなのは除かないと変な話になる。">*7</a></p>
<p> </p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-27890a5c" name="f-27890a5c" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a href="https://www.senkiyohiro.com/diary#:~:text=%E6%84%9F%E3%81%98%E3%81%8C%E5%BE%85%E3%81%A1%E9%81%A0%E3%81%97%E3%81%84%E3%80%82-,2022/05/28,-%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F">2022/05/28</a>、<a href="https://www.senkiyohiro.com/diary#:~:text=%E4%BA%88%E5%AE%9A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82-,2022/05/31,-%E7%BE%8E%E7%9A%84%E8%87%AA%E7%94%B1">2022/05/31</a>などを参照。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-846630c3" name="f-846630c3" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">これは高田さん(<a href="https://twitter.com/at_akada_phi">@at_akada_phi</a>)から何度か指摘いただいたことだが、少なくともLopesの「達成」概念を、快楽の代替アイテムとして、目的論のもとで再構成することはいくらか不適切かもしれない。私の理解不足に基づく誤解がいくらかあるのは認めざるを得ないが、そうは言っても、それ以外の仕方でLopesの答えを規範的問いに対する答えとして構成する術が、私には思いつかない。広義の快楽がまったくない達成が、人を駆り立てることはあるのか。これに関しては、「○○分で分かる<em>Being for Beauty</em>」を高田さんか森さんにお願いしたいところだ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-de40dab4" name="f-de40dab4" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もちろん、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%AF%A5%CB%A5%AB%A5%EB%A5%BF%A1%BC%A5%E0">テクニカルターム</a>でない幸福に関しては、「では、幸福はなぜ望ましいのか」と問うことは意味をなす。例えば、「それは進化論的に有利だからだ」というのはひとつの仮説としてありうるだろう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-89e71033" name="f-89e71033" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">これが、知覚のような末端レベルの感覚なのか、より高次の感覚なのか、限定する必要はない。そうしたければ、美的問いに応える場面で、なにかコメントすればいいだろう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7a808b4c" name="f-7a808b4c" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もし、内的感覚に絞ることでカバーできない美的価値があると言われれば、私としては「それはもう美的価値ではないのでは」といういつもの応答をするだろう。そもそものはじめから、われわれはaisthētikósを主題としていたのではなかったのか。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-59edc36a" name="f-59edc36a" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">伊藤さんは鋭く、独自の見解を持たれることが多いが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Twitter">Twitter</a>で断片的に表明されるより、ブログなり日記なりまとまった形で書いて欲しいなぁと思うことが多い。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-11685531" name="f-11685531" class="footnote-number">*7</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もちろん、「怪我をした」みたいなのは除かないと変な話になる。</span></p>
</div>
psy22thou5
グルーヴとはなにか
hatenablog://entry/13574176438084808112
2022-04-21T00:09:34+09:00
2022-04-21T12:26:10+09:00 「グルーヴ[groove]」という音楽用語がある。ファンクやソウルを聞く人ならお馴染み、EWFの「Let's Groove」やFunkadelicの「One Nation Under A Groove」で歌われているアレや、JBの『In the Jungle Groove』やMaceo Parkerの『Life on Planet Groove』に掲げられているアレのことだ。 ヒップホップでサンプリングするためにdigられる、あまり知られていないファンクやソウルのレコードなんかはレア・グルーヴ[Rare groove]とも呼ばれる。スウィング[swing]と並んで、ジャズ発の用語らしいが、ブラ…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20220421/20220421000817.png" width="1200" height="602" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><strong>「グルーヴ[groove]」</strong>という音楽用語がある。ファンクやソウルを聞く人ならお馴染み、EWFの「Let's Groove」や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Funkadelic">Funkadelic</a>の「One Nation Under A Groove」で歌われているアレや、JBの『In the Jungle Groove』や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Maceo%20Parker">Maceo Parker</a>の『Life on Planet Groove』に掲げられているアレのことだ。</p>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/Lrle0x_DHBM?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/3WOZwwRH6XU?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p>ヒップホップでサンプリングするためにdigられる、あまり知られていないファンクやソウルのレコードなんかはレア・グルーヴ[Rare groove]とも呼ばれる。スウィング[swing]と並んで、ジャズ発の用語らしいが、ブラックミュージックに限らず、ロックやパンクの楽曲・演奏に対しても使われる用語だ。</p>
<p>グルーヴとはなにか。無難な前提として、グルーヴとは音楽作品(楽曲、演奏、録音)の持つ特定の性質である。問題は、グルーヴィーな音楽とはどういう音楽なのかだ。</p>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FMALTCO-26" title=" Evan Malone, Two Concepts of Groove: Musical Nuances, Rhythm, and Genre - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><a href="https://ja-bra-af-cu.hatenablog.com/entry/2014/02/28/021143">グルーヴはなかなか実態のはっきりしない概念であり</a>、その用法も人によってかなりブレがあるように思われるが、大きくふたつのかなり異なる意味がありそうだというのはなんとなく直感していた。最近、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%F4%A5%A1">エヴァ</a>ン・マローン[Evan Malone]による論文「<strong>Two Concepts of Groove: Musical Nuances, Rhythm, and Genre</strong>」のドラフトを読んで、これに相当する区別を見つけたので、紹介しておきたい。</p>
<h3>ふたつの「グルーヴ」概念</h3>
<p>マローンは「フィールとしてのグルーヴ」「ムーブメントとしてのグルーヴ」と呼び分けている。</p>
<ul>
<li><strong>「フィールとしてのグルーヴ[groove-as-feel]」</strong>:音楽が、マイクロタイミングにおける絶妙なニュアンスを持っていること。例えば、ほんの少し打点の早いパンクのドラムが「プッシュ[push]」していると言われたり、ほんの少し打点の遅いファンクのドラムが「レイドバック[laid-back]」していると言われたりするアレのこと。楽曲やプレイヤーごとに独特な「フィール」。</li>
<li><strong>「ムーブメントとしてのグルーヴ[groove-as-movement]」</strong>:リスナーに対し、踊りたくなるような情動・欲求・気分を喚起する性質を、音楽が持っていること。いわゆるノリ。</li>
</ul>
<p>マローンによれば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%CD%FD%CF%C0">音楽理論</a>家や哲学者や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%B3%D8">音楽学</a>者が好んで論じてきたのは前者であるのに対し、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%BF%B4%CD%FD%B3%D8">音楽心理学</a>者が実験を通して探求してきたのはもっぱら後者である。順を追って説明しよう。</p>
<p> </p>
<h4>フィールとしてのグルーヴ</h4>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.bloomsbury.com%2Fus%2Fgroove-9781441166272%2F" title="Groove" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>分析美学におけるグルーヴの研究はそんなに多くないが、まとまった著作としては2014年に出版されたタイガー・C・ロホルト[<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Tiger">Tiger</a> C. Roholt]の<strong><em>Groove A Phenomenology of Rhythmic Nuance</em></strong>がある。ロホルトは、前述したようなマイクロタイミングにおけるニュアンスとしてグルーヴを定義しつつ、その聴取(グルーヴを掴む[get]こと)においては、実際に身体を動かし音楽と相互作用する必要があることを、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%EB%A5%ED%A1%E1%A5%DD%A5%F3%A5%C6%A5%A3">メルロ=ポンティ</a>の「運動志向性[motor intentionality]」を援用しつつ論じている。</p>
<p>マローンは他にも、このような「マイクロタイミングにおけるニュアンス(=フィール)」としてグルーヴを定義している研究として、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%CD%FD%CF%C0">音楽理論</a>家による<a href="https://doi.org/10.1525/mp.2002.19.3.387">Iyer (2003)</a>や、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B1%C2%B2%B2%BB%B3%DA%B3%D8">民族音楽学</a>者による<a href="https://doi.org/10.2307/852198">Keil (1995)</a>を挙げている。いずれも、楽譜では表せない、絶妙な打点の早さ・遅さを指している。</p>
<p>実際、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%CD%FD%CF%C0">音楽理論</a>としてしばしば言及されるような「グルーヴ」とは、この意味でのマイクロタイミングにおけるニュアンスのことだ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/YouTube">YouTube</a>でぱっと「What is groove?」で調べても、この意味での「打点をやや早くしたり遅くすること」としてグルーヴを説明している動画がたくさん見つかる。[<a href="https://youtu.be/c3wDzfFhnag">例1</a>][<a href="https://youtu.be/Ldig21Lh-MY">例2</a>]</p>
<p>「<a href="https://youtu.be/AoQ4AtsFWVM">クライド・スタブルフィールドのドラム</a>はグルーヴィーだ」とか言われるときのgroovyは、まさしくこういったニュアンスを肯定的に評価していることになるのだろう。一方で、EWFが誘っているような「Let's Groove」は、明らかにこのマイクロタイミングにおけるニュアンスのことではない。それは、基本的に「ダンス」のことだ。</p>
<p> </p>
<h4>ムーブメントとしてのグルーヴ</h4>
<p>マローンによれば、心理学者はどんな楽曲がグルーヴの感覚を与えるのか調べる上で、グルーヴをあらかじめ理論的に決めておくことはほとんどない。むしろ、マイクロタイミングにおけるニュアンスも含め、音楽が持つどのような性質が「グルーヴ」という高次の性質を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%CF%C8%AF">創発</a>するのかに関心がある。</p>
<p>そこでは、調査されるグルーヴというのは単に「身体動作を誘発する感覚」と定義し、話を進めることが多い。これがふたつ目の「ムーブメントとしてのグルーヴ」だ。具体的な実験としては、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%F3%A5%B3%A5%DA%A1%BC%A5%B7%A5%E7%A5%F3">シンコペーション</a>の異なるメロディパターンを用意し、「身体を動かしたくなる感覚の有無」を質問した<a href="https://dx.doi.org/10.3389%2Ffpsyg.2014.01036">Sioros et al. (2014)</a>や、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/BPM">BPM</a>の異なる複数のドラムパターンを使って同じような質問をした<a href="https://doi.org/10.3389/fpsyg.2018.00462">Etani et al. (2018)</a>、ジャンルの異なるさまざまな音楽を聞かせて、「踊りたければ踊ってもらっていい」と指示した<a href="http://icmpc-escom2012.web.auth.gr/files/papers/183_Proc.pdf">Burger et al. (2012)</a>などが挙げられている。それぞれの結果として、適度な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%F3%A5%B3%A5%DA%A1%BC%A5%B7%A5%E7%A5%F3">シンコペーション</a>を含み、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/BPM">BPM</a>が100~120で、とりわけ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%E3%BC%FE%C7%C8">低周波</a>数の拍が明瞭で、パーカッシヴ度合いの強い音楽が、とりわけ「グルーヴを感じる=踊りたくなる」と報告されている。</p>
<p>また、ロホルトらの論じたマイクロタイミングにおけるニュアンスは、この意味での「グルーヴ=踊りたくなる感覚」にほとんど影響しないか、むしろ低減させることを<a href="https://doi.org/10.1525/mp.2013.30.5.497">Davies et al. (2013)</a>や<a href="https://doi.org/10.1037/a0024208">Janata, Tomic, and Haberman (2011)</a>らが報告している。</p>
<p>実際、第二の意味でのgroovyは、ダンサブル[danceable]であることとほとんど同義だ。ところで、第一の意味でのグルーヴが第二の意味でのグルーヴ(ダンサブルさ)を必ずしももたらさないというのは、結構気がかりな話だ。とはいえ、マローンによれば、それは「心理学的なグルーヴの研究が、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%CD%FD%CF%C0">音楽理論</a>や哲学におけるグルーヴを否定した」ことにはならず、両分野は異なる意味で「グルーヴ」という語を用いているだけなのだ。</p>
<p> </p>
<h4>ジャンルごとの「グルーヴ」の違い</h4>
<p>ジャンル(どちらかというと「界隈」)による用法の違いについても、マローンは面白い指摘をしている。前述のDavies et al. (2013)によれば、マイクロタイミングにおけるニュアンスの導入は、ほとんどのジャンルにおいて「グルーヴ=ダンサブルさ」の報告に影響しないか否定的な影響を与えたが、唯一、ジャズは例外だったらしい。このことを、マローンは、ジャズが演奏を主体とした音楽ジャンルであり、その参与者は理論的な術語としての「グルーヴ=マイクロタイミングにおけるニュアンス」概念に精通していたからだと解釈している。すなわち、ジャズをジャズとして鑑賞する上での「グルーヴ」とは「フィールとしてのグルーヴ」であり、そのほか、ポピュラー音楽などの鑑賞で気にされる「グルーヴ」とはもっぱら「ムーブメントとしてのグルーヴ」なのだ。<a href="#f-fb197c14" name="fn-fb197c14" title="ファンクはポピュラー音楽に括られているが、私の実感ではジャズ寄りの意味で「グルーヴ」をとるプレイヤーがかなり多い。もっとも、これは私がセッションなどに出入りしていて、ジャズ的なファンクをやる人に囲まれていたというだけの話かもしれない。">*1</a></p>
<p>「グルーヴ」という美的概念がジャンル次第で異なる内実を持ちうる。このことを根拠として、マローンは最後に、美的概念に関する説明はコミュニティごとの美的実践における機能・役割に注意を払うべきだと述べ、<a href="https://doi.org/10.1093/jaac/kpab060">Riggle (2022)</a>や<a href="https://doi.org/10.1093/mind/fzz054">Nguyen (2019)</a>や<a href="https://doi.org/10.1111/phpr.12727">Kubala (2021)</a>の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%C6%B1%C2%CE%BC%E7%B5%C1">共同体主義</a>的な理論がふさわしいという話に持っていくのだが、当初の目的からするとやや唐突な話運びで、ちょっとイマイチなオチではある。それはともかく。</p>
<p> </p>
<p>ちなみに、「グルーヴ」の用法としては、上に挙げたふたつのほかにも、ドラムパートの一部分を指す「グルーヴ」(ギターの“あるリフ”や、歌の“あるフレーズ”に相当する)や、没入しフロー状態にあるプレイヤーを指して言う「in a groove」がある。このように、概念は多義的であり、文脈ごとに異なる意味で使われやすく、界隈ごとに定番の用法がある、というぐらいの話であればマローンの結論はかなり説得的だ。</p>
<p> </p>
<h3>✂ コメント</h3>
<p>最後に読後感をいくつか。</p>
<p>まず、心理学研究におけるグルーヴが実のところダンサブルさのことでしかないのであれば、はじめから「踊りたくなる感覚」「ダンサブルな質」などと言えばよいのであって、そこにグルーヴという概念を介在させる必然性がほとんどないのではないか、と思った。グルーヴという現象にならではの話をするなら、まずは一旦「マイクロタイミングによるニュアンス」みたいな定義(別のものでもよいが)を事象に対して認めた上で、それに対するリスナーの反応を調べるという順序がもっともらしいように思われる。紹介されているDavies et al. (2013)なんかはこの手順を踏んでいるように(紹介では)読めるし、結論として「グルーヴはそんなに楽曲をダンサブルにしない」というのが出てくるのも含めて面白そうだった。</p>
<p>これは、事象の定義をする役割を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%CD%FD%CF%C0">音楽理論</a>家や哲学者に認める点で、少なからずそちらを贔屓するものだが、「踊りたくなる感覚」を「グルーヴ」と呼んで探求するのは、たとえそのような用法が日常的に広く見られるとしても、グルーヴにならではの話になりようがないだろう。<a href="#f-b7bd5a85" name="fn-b7bd5a85" title="いや、むしろ「グルーヴ」の第一義として生き残っていくべきなのはダンサブルさと常に交換可能なほうの意味であって、音楽理論家や哲学者のほうこそ、実はプロパーなグルーヴの話をしていないのだ、というのはかなり無理があるように思う。しかし自信はない。概念は棲み分けるべきだという前提を、私が強く取りすぎているだけかもしれない。">*2</a></p>
<p>とはいえ、「グルーヴはそんなに楽曲をダンサブルにしない」という結論は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%CD%FD%CF%C0">音楽理論</a>や哲学のほうにも一定の見直しを促すはずだ。というのも、グルーヴ=マイクロタイミングにおけるニュアンスの導入は、傾向的には、曲をダンサブルにしようという意図(リスナーの身体運動を喚起しようという意図)と結びついているように思われるからだ。「クライド・スタブルフィールドのドラムはマイクロタイミングにおけるニュアンスが絶妙でグルーヴィーだが、オンタイムで叩いたほうがよりダンサブルになっただろう」というのは、なんだか倒錯した記述のように思われる。JBにせよ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/P-Funk">P-Funk</a>にせよMetersにせよ、ファンクにおけるグルーヴと身体動作の喚起は、ほとんど常に正比例で理解されてしかるべきだとさえ思う。マイクロタイミングにおけるニュアンスという定義が、この正比例を捉えられないのだとしたら、それは「グルーヴ」の定義が不十分であることをいくらか示しているように思う。これはマローンのように「両分野が単に異なる意味で語を用いている」というので済ませるのではなく、心理学的探求が理論的・哲学的探求をいくらか導く可能性を認めるものだ。</p>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/0wBqWb43y6I?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/FgBrPQCSdW4?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/8bztE5IbQOo?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p>例えば、「適度な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%F3%A5%B3%A5%DA%A1%BC%A5%B7%A5%E7%A5%F3">シンコペーション</a>を含み、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/BPM">BPM</a>が100~120で、とりわけ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%E3%BC%FE%C7%C8">低周波</a>数の拍が明瞭で、パーカッシヴ度合いの強い」楽曲に対して人は身体を動かしたくなる、という実験結果は、理論的・哲学的定義を見直す場面でも役に立つだろう。というのも、私が(願わくばほとんどの人が)groovyだと感じている楽曲は、これらの特徴にそれほど矛盾するものでもないからだ。だとすれば、十全な定義によってカバーすべき事例は、上記の要件にマイクロタイミングにおけるニュアンスという要件を加えたり加えなかったりして得られる、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%E9%A5%B9%A5%BF">クラスタ</a>ーによってカバーするしかないだろう。結局、「この曲に感じるグルーヴの正体はなんだろう」という問いに対しては、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%E9%A5%B9%A5%BF">クラスタ</a>ーを提示することで答えるのが、もっとも適切なように感じられる。</p>
<p>ところで、ロホルトのグルーヴ本にはまだ当たれていないが、グルーヴと身体の相互作用なんかはかなり面白そうな話だ。一般的に、美的経験の議論はもっと身体を気にするべきだろうとは思っていたので、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%EB%A5%ED%A1%E1%A5%DD%A5%F3%A5%C6%A5%A3">メルロ=ポンティ</a>を使っている箇所も気になる。これはそのうち読もう。</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-fb197c14" name="f-fb197c14" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ファンクはポピュラー音楽に括られているが、私の実感ではジャズ寄りの意味で「グルーヴ」をとるプレイヤーがかなり多い。もっとも、これは私がセッションなどに出入りしていて、ジャズ的なファンクをやる人に囲まれていたというだけの話かもしれない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-b7bd5a85" name="f-b7bd5a85" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">いや、むしろ「グルーヴ」の第一義として生き残っていくべきなのはダンサブルさと常に交換可能なほうの意味であって、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BB%B3%DA%CD%FD%CF%C0">音楽理論</a>家や哲学者のほうこそ、実はプロパーなグルーヴの話をしていないのだ、というのはかなり無理があるように思う。しかし自信はない。概念は棲み分けるべきだという前提を、私が強く取りすぎているだけかもしれない。</span></p>
</div>
psy22thou5
面白かった映画選2021
hatenablog://entry/13574176438048112615
2022-01-01T20:00:00+09:00
2023-04-28T20:35:49+09:00 今年は134本見た。ドラマもけっこう見たので、合わせて映像作品に触れていた時間はここ数年間でいちばん長いかもしれない。 Tumblr時代から毎年恒例の「面白かった映画選」も今回で8回目。大学に入ってから8年近く経ったということでもある。 以下、2021年の面白かった7作品をご紹介。 小林正樹『切腹』(1962) ★4.8 マーティン・スコセッシ『シャッターアイランド』(2009) ★4.6 ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』(2003) ★4.5 コーエン兄弟『ノーカントリー』(2007) ★4.5 ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺のオペラ』(1970) ★4.7 勅使河原宏『他人の顔』(…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20220101/20220101192024.png" alt="f:id:psy22thou5:20220101192024p:plain" width="1200" height="600" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p>今年は<strong>134本</strong>見た。ドラマもけっこう見たので、合わせて映像作品に触れていた時間はここ数年間でいちばん長いかもしれない。</p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Tumblr">Tumblr</a>時代から毎年恒例の「面白かった映画選」も今回で8回目。大学に入ってから8年近く経ったということでもある。</p>
<p>以下、2021年の面白かった7作品をご紹介。</p>
<p> </p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#小林正樹切腹1962-48">小林正樹『切腹』(1962) ★4.8</a></li>
<li><a href="#マーティンスコセッシシャッターアイランド2009-46">マーティン・スコセッシ『シャッターアイランド』(2009) ★4.6</a></li>
<li><a href="#ラースフォントリアードッグヴィル2003-45">ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』(2003) ★4.5</a></li>
<li><a href="#コーエン兄弟ノーカントリー2007-45">コーエン兄弟『ノーカントリー』(2007) ★4.5</a></li>
<li><a href="#ベルナルドベルトルッチ暗殺のオペラ1970-47">ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺のオペラ』(1970) ★4.7</a></li>
<li><a href="#勅使河原宏他人の顔1966-48">勅使河原宏『他人の顔』(1966) ★4.8</a></li>
<li><a href="#シャンタルアケルマンブリュッセル1080コメルス河畔通り23番地ジャンヌディエルマン1975-50">シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』(1975) ★5.0</a><ul>
<li><a href="#その他思い出">その他、思い出</a></li>
<li><a href="#面白かった映画選バックナンバー">「面白かった映画選」バックナンバー</a></li>
</ul>
</li>
</ul>
<h3 id="小林正樹切腹1962-48"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%AE%CE%D3%C0%B5%BC%F9">小林正樹</a>『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DA%CA%A2">切腹</a>』(1962) ★4.8</h3>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/5_0v1fFOhYY?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget2"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ffilmarks.com%2Fmovies%2F1507%2Freviews%2F104828117" title="映画『切腹』の1000さんの感想・レビュー | Filmarks" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>おっさんたちがハラキリしたりしなかったりする。</p>
<p>まずもって主題となるのが世界に名だたるニッポンの奇習なだけに、避けがたい緊張感がある。腹に食い込む刃の重みが触感的に伝わってきて、始終ハラハラする映像だ。前後移動や水平移動を繰り返すカメラも、突き刺し、切り裂く運動をなぞっており、サブリミナルなレベルで鑑賞者をヒヤヒヤさせる。</p>
<p>「腹切るだけで2時間ちょいもかかるのかよ」と思っていたが、プロットも目が離せない。『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%E5%C0%B8%CC%E7">羅生門</a></strong>』(1950)的なミ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%EA%A1%BC%A5%C9">スリード</a>の連鎖は力強いし、回想を通して多くの動きがあるので、中だるみがぜんぜんない。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C2%E5%C3%A3%CC%F0">仲代達矢</a>がずっと「はて?」みたいな顔をしているので私はすっかり騙され、後で「実は知り合いでござる」となったときにはぶったまげた。なによりこの映画の魅力は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C2%E5%C3%A3%CC%F0">仲代達矢</a>と<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%D4%A2%CF%A2%C2%C0%CF%BA">三國連太郎</a>の小気味よい掛け合いだろう。この口喧嘩の熾烈さに比べたら終盤のちゃんばらは冗長なぐらいだ。</p>
<p>やがて明らかになるように、本作は一貫して武士道的な精神性への攻撃に費やされている。そして、その批判のための方法として選ばれている主題が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DA%CA%A2">切腹</a>という点<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>て、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%C0%A5%CB%A5%BA%A5%E0">モダニズム</a>的な構造を持った作品だ。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A1%E1%A5%D4%A5%A8%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%E1%A5%EB%A5%F4%A5%A3%A5%EB">ジャン=ピエール・メルヴィル</a>の『<strong>サムライ</strong>』(1967)もかっこよくて感じの良い映画だが、武士道の扱い方はあまり気が利いていないので、相対化させるのに本作はもってこいだろう。</p>
<p> </p>
<h3 id="マーティンスコセッシシャッターアイランド2009-46"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A1%BC%A5%C6%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A5%B9%A5%B3%A5%BB%A5%C3%A5%B7">マーティン・スコセッシ</a>『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%C3%A5%BF%A1%BC%A5%A2%A5%A4%A5%E9%A5%F3%A5%C9">シャッターアイランド</a>』(2009) ★4.6</h3>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/C2QHD98f-wg?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget4"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ffilmarks.com%2Fmovies%2F17452%2Freviews%2F107137656" title="映画『シャッター アイランド』の1000さんの感想・レビュー | Filmarks" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>ディカプリオという役者は、情緒不安定な役が似合う。『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BF%A5%A4%A5%BF%A5%CB%A5%C3%A5%AF">タイタニック</a></strong>』(1997)における王子様キャラはいわば前フリであり、理不尽な目に遭い、眉間にシワを寄せ、半泣きになる演技こそ彼の真骨頂だろう。『<strong>ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド</strong>』(2019)はそんなに特筆すべき傑作でもないのだが、ディカプリオが女の子の前でなんか泣いちゃうところは、抜群に良かった。『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%F3%A5%BB%A5%D7%A5%B7%A5%E7%A5%F3">インセプション</a></strong>』(2010)も、ディカプリオによる内省という主題がなければ、はるかに凡庸な作品となっていただろう。</p>
<p>本作では、犯罪捜査で監獄島にやってきたディカプリオが、ひどい目に遭う。「信用できない語り手」の教科書的な作品で、関係者が揃いも揃ってきな臭い。看守は協力的でないし、患者たちは文字通りに精神異常者で、話せど話せどらちがあかない。細かい伏線まで丁寧に配置された、優れたミステリーだ。この後挙げる『<strong>暗殺のオペラ</strong>』みたいに、遊びのあるミステリーも楽しいが、本作のようにどストレートなミステリーもうれしさがある。ジャンルものは、沿っても逸れても面白いので大好きだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="ラースフォントリアードッグヴィル2003-45"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A1%BC%A5%B9%A1%A6%A5%D5%A5%A9%A5%F3%A1%A6%A5%C8%A5%EA%A5%A2%A1%BC">ラース・フォン・トリアー</a>『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%C3%A5%B0%A5%F4%A5%A3%A5%EB">ドッグヴィル</a>』(2003) ★4.5</h3>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/z6HuRqABNBs?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget6"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ffilmarks.com%2Fmovies%2F38682%2Freviews%2F114990305" title="映画『ドッグヴィル』の1000さんの感想・レビュー | Filmarks" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>前期の講義の打ち上げで「どういう映画を面白がるのか」という話になったときに、「極端なものが好きだ」という話をした。極端に怖いとか極端にグロいとかなんでもいいが、ある感情の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%EF%E7%C3%CD">閾値</a>のずっとずっと向こうにぶっ飛ばされて戻ってこれなくなるような、そんな映画が好きなのだ。</p>
<p>『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%C3%A5%B0%A5%F4%A5%A3%A5%EB">ドッグヴィル</a></strong>』も極端な映画だ。極端に嫌な気持ちにさせられる。クソ田舎の村に逃げ込んできた<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%B3%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%AD%A5%C3%A5%C9%A5%DE%A5%F3">ニコール・キッドマン</a>が受けるOMOTENASHI。人はここまで醜悪になれるのかというエピソードの連続で、フォン・トリアーらしく極端に人間不信な物語だ。「愛は負けても親切は勝つ」と書いたのは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%C8%A1%A6%A5%F4%A5%A9%A5%CD%A5%AC%A5%C3%A5%C8">カート・ヴォネガット</a>だったはずだが、親切はひと押しさえすれば搾取に転じる。そんなこと知りたくなかったし、そんなことを物知り顔で語る人はよほど意地が悪いと思うのだが、それも含めてフォン・トリアー映画の極端さは癖になる。</p>
<p>舞台に白線を引いて、その上に家や公共施設があるテイで演じるという形式も、よほどクセなので見ていて面白い。</p>
<p> </p>
<h3 id="コーエン兄弟ノーカントリー2007-45"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A1%BC%A5%A8%A5%F3%B7%BB%C4%EF">コーエン兄弟</a>『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A1%BC%A5%AB%A5%F3%A5%C8%A5%EA%A1%BC">ノーカントリー</a>』(2007) ★4.5</h3>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/qhG81HNy67k?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget8"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ffilmarks.com%2Fmovies%2F9601%2Freviews%2F115917455" title="映画『ノーカントリー』の1000さんの感想・レビュー | Filmarks" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>2021年でもっとも記憶にこびりついたダークヒーローといえば、『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A1%BC%A5%AB%A5%F3%A5%C8%A5%EA%A1%BC">ノーカントリー</a></strong>』の殺し屋シガーだろう。改造エアガンとサプレッサー付きのショットガンを携え、縦横無尽の大立ち回りを見せる。よくよく考えれば、この殺し屋の行動原理に一貫したものはほとんどなく、平気で人を殺すかと思いきや、自分なんていつ死んでも構わないと言わんばかりに体を張る。怪我ひとつせず仕事を全うするタイプの殺し屋より、自分なんてどうなってもいいのでありとあらゆる手を尽くして殺す工夫をしてくる<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%A4%A5%B3%A5%D1%A5%B9">サイコパス</a>のほうがずっと怖いのをよく分かっている。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%CB%A1%BC%A1%A6%A5%B0%A5%EA%A1%BC%A5%F3%A5%A6%A5%C3%A5%C9">ジョニー・グリーンウッド</a>みたいな髪型もいい。</p>
<p>主人公は主人公で、人からくすねた大金を意地でも返さず、危険度が上がれば上がるほど闘争心を燃やしていく性分が、すごくマッチョでグロテスクだ。どいつもこいつも本気で傷つけ合うが、ほんとうはそうする必要がほとんどないような闘争でしかなく、そこに直接的な暴力とは別の痛ましさがある。あれだけ血が流れても、荒野ではものの数時間でカラッと乾いてしまう。</p>
<p> </p>
<h3 id="ベルナルドベルトルッチ暗殺のオペラ1970-47"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%EB%A5%CA%A5%EB%A5%C9%A1%A6%A5%D9%A5%EB%A5%C8%A5%EB%A5%C3%A5%C1">ベルナルド・ベルトルッチ</a>『暗殺のオペラ』(1970) ★4.7</h3>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/LafyiFxwK_4?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget10"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ffilmarks.com%2Fmovies%2F33247%2Freviews%2F117725995" title="映画『暗殺のオペラ』の1000さんの感想・レビュー | Filmarks" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%EB%A5%C8%A5%EB%A5%C3%A5%C1">ベルトルッチ</a>のことはまだなにも分からない。どの映画も細部までバッチリ詰められているのだが、主題的にも方法的にも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%EB%A5%C8%A5%EB%A5%C3%A5%C1">ベルトルッチ</a>らしさというものが理解できていない。あるいは、そうやって作者性を持ち出して批評することに困難があるような、ドライヤー的な監督なのかもしれない。作品ごとに、目指しているものがかなり違うように思えてならないのだ。</p>
<p>『<strong>暗殺のオペラ</strong>』は、謎の死を遂げた父の故郷に、同じ名前を持つ息子が訪ねてくる話。迷宮的なプロットはなんだか<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%B8%A5%C3%A5%AF%A5%EA%A5%A2%A5%EA%A5%BA%A5%E0">マジックリアリズム</a>な口当たりで、ジャンルもの(whodunit)のフォーマットをとりつつも、そのお約束が歪んでいくさまは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%AA%A1%BC%A5%B9%A5%BF%A1%BC">ポール・オースター</a>の小説みたいでもある。原作は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DC%A5%EB%A5%D8%A5%B9">ボルヘス</a>らしい。画面は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%C1%A5%D0%A5%C1">バチバチ</a>でいけてるのだが、いい意味でやたらとわざとらしく、そのわざとらしさも含めて問題としているような、そういう意味で<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3">ポストモダン</a>な光沢を持っている。真実を真実として取り上げることが困難なのは、映画においてそうなのではなく、現実においてすでにそうなのだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="勅使河原宏他人の顔1966-48"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%BC%BB%C8%B2%CF%B8%B6%B9%A8">勅使河原宏</a>『他人の顔』(1966) ★4.8</h3>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/fiz7mmQspsE?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget12"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ffilmarks.com%2Fmovies%2F30307%2Freviews%2F124047240" title="映画『他人の顔』の1000さんの感想・レビュー | Filmarks" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%C2%C9%F4%B8%F8%CB%BC">安部公房</a>原作。『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%BD%A4%CE%BD%F7">砂の女</a></strong>』(1964)もいい映画だったが、『<strong>他人の顔</strong>』はもう一段と気合の入ったホラーだ。そのおぞましさはレビューでも書いた通り、身体のホラーにフォーカスしているからだろう。映画における肉体的なものの力強さについては<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%EC%A5%C9%A5%EA%A5%C3%A5%AF%A1%A6%A5%B8%A5%A7%A5%A4%A5%E0%A5%BD%A5%F3">フレドリック・ジェイムソン</a>も書いていたはずで、あれはジェイムソンの主張のうちでもとりわけイメージしやすいものだった。映画は、愛を語るよりも身体について語るのに向いている。</p>
<p>顔のない男が、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C3%A5%C9%A5%B5%A5%A4%A5%A8%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%B9%A5%C8">マッドサイエンティスト</a>作の顔面シートを貼り付けて、自分の妻を誘惑しようとする話。その実存に関わるしゃらくさい哲学的思弁はわれわれ見る側が云々言わずとも、主人公と医者がこれでもかと雄弁にしゃべってくれる。とはいえ、そういうコンセプチュアルな部分を拾わずとも、ホイッスラーを思わせる構図の妙はそれだけで気持ちのいいのものだ。サーカス的な映画はやる側に少しでも恥じらいがあるととても見てられないのだが、本作は振り切った「見世物」で清々しい。</p>
<p> </p>
<h3 id="シャンタルアケルマンブリュッセル1080コメルス河畔通り23番地ジャンヌディエルマン1975-50"><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%F3%A5%BF%A5%EB%A1%A6%A5%A2%A5%B1%A5%EB%A5%DE%A5%F3">シャンタル・アケルマン</a>『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%EA%A5%E5%A5%C3%A5%BB%A5%EB">ブリュッセル</a>1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』(1975) ★5.0</h3>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/gXG4PG55q_Y?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget14"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ffilmarks.com%2Fmovies%2F5500%2Freviews%2F124161514" title="映画『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマン』の1000さんの感想・レビュー | Filmarks" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>2021年は『<strong>ジャンヌ・ディエルマン</strong>』が見れただけで大満足だ。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%F3%A5%BF%A5%EB%A1%A6%A5%A2%A5%B1%A5%EB%A5%DE%A5%F3">シャンタル・アケルマン</a>の代表作にして、スローシネマや<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%DF%A5%CB%A5%BA%A5%E0">フェミニズム</a>映画の先駆的作品。</p>
<p>延々と家事に取り組む女性の姿を通して反省を促されるのは、生活そのものの不可能性であり、救いのなさだ。スローシネマを、その名称にもかかわらず<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%ED%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A5%C9">スローフード</a>やらスローファッションと異質な運動にしているのは、貧困やマイノリティであることの緊迫感であり、にもかかわらずなすすべのないやるせなさである。せわしない後期資本主義社会におけるリ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ゼーションという側面は、この著しく退屈な映像を矮小化して価値づけるものでしかない。</p>
<p>ジャンヌ・ディエルマンは、すでに屈辱的で非人間的な境遇に置かれているが、それでもなお日々のディテールにおける「ささやかな幸せ」を感じている。具体的には、朝に淹れたてのコーヒーを飲むとか、喫<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E3%C5%B9">茶店</a>でお気に入りの席に座るといったディテールだ。この映画では、しかし、そんな最後の防波堤までがひび割れ、崩れていくのだが、それも誰かのせいというわけでもなく、生活そのものの引力として自壊していくのだ。本作における受難は「丁寧な暮らし」を木っ端微塵にするほどショッキングなものであり、「考えさせられる」というにはあまりに救いがない。その味わいは『<strong>牯嶺街少年殺人事件</strong>』(1991)にも似たもので、私が物語映画にもっとも求めているものなのかもしれない。</p>
<p> </p>
<h4 id="その他思い出">その他、思い出</h4>
<p>冒頭にも書いたが、2021年はけっこうドラマを見た。『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C4%A5%A4%A5%F3%A1%A6%A5%D4%A1%BC%A5%AF%A5%B9">ツイン・ピークス</a></strong>』と『<strong>クイーンズ・ギャンビット</strong>』と『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%AB">イカ</a>ゲーム</strong>』は通して見たし、『<strong>DARK</strong>』はシーズン1まで、『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C8%A5%EC%A5%F3%A5%B8%A5%E3%A1%BC">ストレンジャー</a>・シングス</strong>』はシーズン2まで見た。『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C4%A5%A4%A5%F3%A1%A6%A5%D4%A1%BC%A5%AF%A5%B9">ツイン・ピークス</a>』と『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C8%A5%EC%A5%F3%A5%B8%A5%E3%A1%BC">ストレンジャー</a>・シングス』は途中から惰性で見ていたので、別の映画でも見とけばよかった。『DARK』はシーズン1の途中までめっぽう面白かったが、途中からだらけてきたので中断する決心ができてよかった。『クイーンズ・ギャンビット』はアニャが可愛かっただけでなく、ドラマとしてふつうに面白かった。『<strong>ラストナイト・イン・ソーホー</strong>』はアニャが可愛いだけだったが。</p>
<p>見なかった映画の話:『<strong>ドライブ・マイ・カー</strong>』は完全に乗り遅れてとやかく言うタイミングを逃したのがきびしい(が、1月中には見る予定である)。ケリー・ラ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%AB">イカ</a>ート特集もよほど行きたかったが見逃してしまった。『<strong>やさしい女</strong>』の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D0%A5%A4%A5%D0%A5%EB">リバイバル</a>をすっかり見逃したのはかなり悔しいので、ジャック&ベティでどうにかキャッチするつもりだ。『<strong>DUNE</strong>』は楽しみだったが、2時間半もあるのにまだまだ続編があることに萎えたのと、そんなに評判よくないということで見なかった。</p>
<p>見たい映画:今年は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BF%A5%EB%A1%A6%A5%D9%A1%BC%A5%E9">タル・ベーラ</a>の初期作品特集を忘れずに見に行きたいのと、(予告編が目の錯覚でなければ)これも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%E1%A1%BC%A5%B8%A5%D5%A5%A9%A1%BC%A5%E9%A5%E0">イメージフォーラム</a>でやるらしい『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%B1%A1%BC">マルケー</a>タ・ラザロヴァー</strong>』を見に行きたい。すごく忘れそうだが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%EC%A5%C3%A5%BD%A5%F3">ブレッソン</a>の『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%D0%A4%CE%A5%E9%A5%F3%A5%B9%A5%ED">湖のランスロ</a></strong>』『<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%BF%A4%D6%A4%F3%B0%AD%CB%E2%A4%AC">たぶん悪魔が</a></strong>』も劇場初公開するらしいので、どうにかして行きたい。</p>
<p> </p>
<h4 id="面白かった映画選バックナンバー">「面白かった映画選」バックナンバー</h4>
<p><a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/movie2020">2020</a>|<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/movie2019">2019</a>|<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/movie2018">2018</a>|<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/2018/01/01/131611">2017</a>|<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/2017/01/01/124610">2016</a>|<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/2015/12/27/095410">2015</a>|<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/2015/01/01/170600">2014</a></p>
psy22thou5
客観的な批評のひとつのやり方|ノエル・キャロル『批評について』
hatenablog://entry/13574176438042368925
2021-12-13T20:47:53+09:00
2022-02-21T20:46:31+09:00 ">ノエル・キャロル『批評について』は、分析美学の事実上のルーツであり、現在ではサブ分野とみなされている「批評の哲学[philosophy of criticism]」の優れた入門書である。 ">この本については、勉強したての頃にすでにレビューを書いたことがあるのだが、いま読むとかなり不満が多いため、改めてちゃんと書いてみたい。 とりあえず、本書におけるキャロルの主張の構造をまとめよう。キャロルの言っていることはかなりすっきりしているのだが、本の単位だとなかなか全体像が見えないかもしれない。逆に、議論の大筋さえ掴めれば、細部でなんの話をしているのかもすっきり理解しやすい。 キャロルの主張の構造…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20211213/20211213205024.png" alt="f:id:psy22thou5:20211213205024p:plain" width="1200" height="904" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p id="a2ee49bd-d1a8-47fc-bcab-ac6232597b8a" data-pm-slice="0 0 <span data-unlink>">ノエル・キャロル『批評について』は、分析美学の事実上のルーツであり、現在ではサブ分野とみなされている<strong>「批評の哲学[philosophy of criticism]」</strong>の優れた入門書である。</p>
<p data-pm-slice="0 0 </span>">この本については、勉強したての頃にすでに<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/2018/02/10/215736">レビューを書いた</a>ことがあるのだが、いま読むとかなり不満が多いため、改めてちゃんと書いてみたい。</p>
<p data-pm-slice="0 0 []">とりあえず、本書におけるキャロルの主張の構造をまとめよう。キャロルの言っていることはかなりすっきりしているのだが、本の単位だとなかなか全体像が見えないかもしれない。逆に、議論の大筋さえ掴めれば、細部でなんの話をしているのかもすっきり理解しやすい。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#f39ac98a-24a0-4ee3-b632-dc5e4d863a3f">キャロルの主張の構造</a><ul>
<li><a href="#主張1批評とは作品に対する理由づけられた評価である">【主張1】批評とは、作品に対する理由づけられた評価である。</a></li>
<li><a href="#主張2理由づけられた評価は客観的なものになりうる">【主張2】理由づけられた評価は、客観的なものになりうる。</a></li>
<li><a href="#主張3客観的な理由づけられた評価とは作品作者の客観的な目的と達成を踏まえた評価である">【主張3】客観的な理由づけられた評価とは、作品作者の客観的な目的と達成を踏まえた評価である。</a></li>
<li><a href="#主張4作品の客観的な目的は作品の客観的なカテゴリーによって知りうる">【主張4】作品の客観的な目的は、作品の客観的なカテゴリーによって知りうる。</a></li>
<li><a href="#主張5作品の客観的なカテゴリーは客観的な諸要因構造文脈意図によって知りうる">【主張5】作品の客観的なカテゴリーは、客観的な諸要因(構造、文脈、意図)によって知りうる。</a></li>
</ul>
</li>
<li><a href="#41b48f60-c810-4743-b33c-59b815a17df8">客観的な批評の手順</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a></li>
</ul>
<h3 id="f39ac98a-24a0-4ee3-b632-dc5e4d863a3f">キャロルの主張の構造</h3>
<h4 id="主張1批評とは作品に対する理由づけられた評価である"><strong>【主張1】批評とは、作品に対する理由づけられた評価である。</strong></h4>
<p id="4aca907e-4869-484d-a5c6-9bd8539fdfd0">第一章では、批評という営みの中心に、<strong>「評価=価値づけ[evaluation]」</strong>を位置づけている。これは、解釈[interpretation]を批評の中心とする批評観と対立するものであり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%B7%A4%E7%A4%C3%A4%D1%A4%CA%A4%AB%A4%E9">しょっぱなから</a>エキサイティングなところだ。</p>
<p>キャロルにおいて、明示的にせよ暗黙的にせよ、批評は作品の良し悪しを語ることと切り離せない。あるいは、もっと穏当な主張として読むならば、少なくとも作品の良し悪しに関わる「批評」が存在し、キャロルによればそれは批評と呼ばれている営みの大部分を占め、とりわけ重要なものなので、本書ではそういった「批評」しか扱うつもりがない。こうして、本書の焦点は「批評の哲学」から、実質的に「評価の哲学」へと絞られる。</p>
<p>さて、作品評価の話ということでただちに飛んでくる批判であり、キャロルが本書を通して立ち向かおうとしている見解とは、<strong>「評価なんて人それぞれ、主観、趣味だろ!」</strong>という見解である。蓼食う虫も好き好きで、趣味については議論できないのであれば、評価を試みる限り批評はしょうもない、ということになる。こういった見解に対し、キャロルは次のように主張する。</p>
<h4 id="主張2理由づけられた評価は客観的なものになりうる"><strong>【主張2】理由づけられた評価は、客観的なものになりうる。</strong></h4>
<p id="bc042ed5-4722-48b7-bfb3-127eec139cd7">もちろん、キャロルはあらゆる批評が客観的だと言いたいのではなく、ちゃんとした手続きさえ踏めば、客観的な批評は<strong>ありうる</strong>といいたいのだ。これは包括的な主観主義に対する応答になる。</p>
<p>キャロルによれば、客観的な批評とは、正当な理由に基づいた批評である。すなわち、<strong>「作品Xは、理由Rゆえに価値Vを持つ」</strong>のような形式をもち、かつ理由付けがちゃんとしている言明は、作品の価値に関して客観的に正しい言明なのだ。</p>
<p>客観的な批評があることは、キャロルにおいて、規範的な批評があることをも意味する。評価的言明の一部は正しいものなので、われわれもそう評価すべきなのであって、とんちんかんな評価はすべきでない。たとえば、『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%F39">プラン9</a>・フロム・アウタースペース』みたいなダメダメな作品を、深読みしてやたらと褒めるのは、キャロルによれば不適切な批評である。私の考えでは、これは実は見た目ほど<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%A2%B0%D2%BC%E7%B5%C1">権威主義</a>的な主張ではないのだが、それでも「自由な鑑賞」の規範と衝突するものだろう。本書を読む上では、考えてみる価値のあるトピックだし、近年盛り上がっている「<a href="https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/phc3.12712">美的義務</a>」の問題にも繋がる重要トピックだ。</p>
<p id="aa4c86aa-d556-49b2-842f-1218b9ea4c92">ともあれ、客観的な批評はありうる、という主張に戻ろう。すると、続いてぶつけられるのは、<strong>「評価の一般的な原理なんてないだろ!」</strong>という批判である。「ある性質Fを持っているから作品Xは良い/悪い」みたいな、価値に関する一般的公式は存在しない。これは、理由に基づいた評価にとって気がかりである。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FBEAOTG" title="レジュメ|モンロー・ビアズリー「批評的理由の一般性について」(1962) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>歴史的な話をするなら、批評的理由の一般性は、50〜60年代の初期分析美学においてとりわけ重要視されていたトピックであり、一般性を擁護する立場としてモンロー・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>が出てきたりしている。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は、三つの特別な性質(統一性、強度、複雑性)のある作品は一般的に言ってより良い作品だ、という立場を突き通すのだが、キャロルはもう少しひねった応答を試みている。</p>
<h4 id="主張3客観的な理由づけられた評価とは作品作者の客観的な目的と達成を踏まえた評価である"><strong>【主張3】客観的な理由づけられた評価とは、作品作者の客観的な目的と達成を踏まえた評価である。</strong></h4>
<p id="c06e0a14-9e22-4cbc-a539-83195dc8f2c9">これは批評の対象に関する制限であり、主に第二章で論じられる。キャロルによれば、批評の対象とは、作品を通して作者が成し遂げたこと(成功)であり、作品を用いて鑑賞者が自由に受容できるような価値ではない。形式的には、「作品Xは、作者の目的Pを手段Wによって達成している」ならば「作品Xは価値づけられる理由Rを持つ」と言えるし、ここから「作品Xは、理由Rゆえに価値Vを持つ」というのがスムーズに繋がるわけだ。</p>
<p>「目的」概念は、どの本や論文を読んでも、キャロル的な批評観において中心となる概念である。作品は、なんらかの手段を通して、なんらかの目的を体現したものである。その試みの成否は、そのまま作品の価値だとされる。そして、常識的に考えれば、作品の目的とは作者の目的である。</p>
<p id="064a6a7c-b000-4921-8a7d-ce14a82365d2">私の考えでは、ここにひとつ反論の余地がある。キャロルが切り落とそうとしている受容価値評価には、鑑賞者ごとのいい加減な快楽を引数としたものだけでなく、ある種の「場の目的」を踏まえた価値評価も含まれているはずだ。具体的には、芸術史的に重要だったり、時代地域文化的に重要だとされる芸術の「目的」が、芸術家の意図とは独立に存在しており、それを作者が意図しなかったにせよおおきく達成していることは、作品の価値だと言いたいはずだ。実際、次に出てくる重要概念の「カテゴリー」とは、このような場の目的を結晶化したものとしても考えられるはずだ。いずれにせよ、これはもう少し練りたい話なので、論点として示唆するにとどめておこう。</p>
<p>さて、作品には目的があり、適切な手段においてこれを達成した作品は、価値の高い、いい作品である。しかしそうなると、<strong>「作品の目的がなんなのかはっきりしないだろ!」</strong>という反論が出てくる。作品を通して作者がやりたいことなんて、読心術でもできなければ知りようがない。こういった反意図主義に対し、キャロルが取る立場は楽観的なものだ。われわれは日常的に他人の意図を察している。芸術になると事情が異なるなどとどうして考える必要があるのか。とりわけ、キャロルは次の道筋において、作品の目的を特定できると主張する。</p>
<h4 id="主張4作品の客観的な目的は作品の客観的なカテゴリーによって知りうる"><strong>【主張4】作品の客観的な目的は、作品の客観的なカテゴリーによって知りうる。</strong></h4>
<p>これが第四章の主な主張になる。</p>
<p>作品のカテゴリーが特定できるならば、作品の目的もはっきりするかもしれない。ジャンルや運動や伝統といったカテゴリーは、しばしば特定の目的と結びついているからだ。すなわち、「作品Xは、カテゴリーCに属する」ならば「作品Xは、目的Pを持つ」と言えるかもしれないのだ。例えば、作品がホラーならば、常識的に考えて「鑑賞者を怖がらせること」がその目的であり、より効果的に怖がらせることに成功している作品は、よりよい作品なのだ。</p>
<p>そうだとしても反意図主義は、<strong>「カテゴリーがなんなのかはっきりしないだろ!」</strong>と反論するはずだ。ある人が作品をC1としてカテゴライズし、目的P(C1)を達成しているから傑作だと述べても、別の人は作品をC2としてカテゴライズし、目的P(C2)を達成できていないから駄作だと述べるかもしれない。キャロルは次のように主張する。</p>
<h4 id="主張5作品の客観的なカテゴリーは客観的な諸要因構造文脈意図によって知りうる"><strong>【主張5】作品の客観的なカテゴリーは、客観的な諸要因(構造、文脈、意図)によって知りうる。</strong></h4>
<p>これは、芸術のカテゴリー問題について先鞭をつけた<a href="https://note.com/morinorihide/n/ned715fd23434">ケンダル・ウォルトンの論文</a>にならうものだ。作品のカテゴリーに関しては、さまざまな客観的ヒントがある。多くのケースにおいて、「作品Xは、構造Sを持ち、文脈Tに置かれ、意図Iされている」ならば「作品Xは、カテゴリーCに属する」と言えるのだ<a href="#f-84a5afc2" name="fn-84a5afc2" title="私は作品の「正しいカテゴリー」に関して、ウォルトン=キャロルとはやや違うことを考えている。前にやった発表の資料と、今度出る予定の論文を参照。
">*1</a>。関連する周辺情報を調査し、作品の位置づけがはっきりすれば、どのカテゴリーのメンバーなのかもはっきりする。この点で、キャロルの枠組みは少なからず文脈主義的な性格を持つ。これは前述の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>とは対照的なところだろう。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FCARAA-7" title="レジュメ|ノエル・キャロル「芸術鑑賞」(2016) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p id="51E6CC50-2966-4498-AC09-4D5FEF4F34D8">ちなみに、Carroll (2016)では、【主張4】と【主張5】がもっとミニマルにまとめられており、<strong>「客観的な諸要因(構造、文脈、意図)を踏まえれば、作品の目的が分かる」</strong>という仕方で、カテゴリーの問題がスキップされている。『批評について』はかなりカテゴリーを重視した枠組みだったが、これが後に修正されていることは知っておいてもいいだろう。</p>
<p>最後に、前述の諸要因も、ほんとうのところ客観的なのかという反論があるだろう。しかし、作品がほんとうにある構造を持つのか、ある文脈に置かれているのか、ある仕方で意図されていたのかといった事柄は、おおむね歴史的な調査によって決着が付けられる事柄であり、ゆえに論争の余地があるとしても客観的な事柄だ。ゆえに、反論はひとまずせき止められることになる。</p>
<h3 id="41b48f60-c810-4743-b33c-59b815a17df8">客観的な批評の手順</h3>
<p>こうして、キャロルは客観的な批評の可能性を擁護したわけだが、そのやり方は、五つの主張を遡る仕方で次のようにマニュアル化できる。(第三章)</p>
<ol>
<li id="06E2925A-8F71-4CBA-9C28-6F0B7DCE2F72"><strong>記述&文脈づけ&解明</strong>:作品の構造、文脈、意図を踏まえる。</li>
<li id="AF52E0CD-4430-4B8C-A606-ED953EF01286"><strong>分類</strong>:作品のカテゴリーを特定する。</li>
<li id="C20A7B23-124E-4021-B631-F46977EAB40E"><strong>解釈</strong>:カテゴリーを踏まえ、作者の目的を特定する。</li>
<li id="DD5DBB2E-CEF1-472F-B81E-CAF43C1D7258"><strong>分析</strong>:作者の目的を踏まえ、その手段と達成度を測定する。</li>
<li id="FA20BF23-AE09-40AA-B0E2-AC919613AE8C"><strong>評価</strong>:達成度に従って、価値を定める。</li>
</ol>
<p>実際には、かっちりとこの手順をとる必要はなく、反省的均衡のなかで達成されればよい。例えば、記述できなければ分類できないし分類できなければ記述できないといった問題は、記述と分類が相互調整によって、トライアルアンドエラーで進行することを認めれば問題にならない(p.142)。これは私が気に入っている主張のひとつだ。</p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>ここまで見てきた通り、かなり慎重で強固な主張をしている本だ。テーマも馴染み深いものなので、いま出ている分析美学系の本でどれかひとつと言われたら、これから始めるのがかなりオススメである。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%A4%BB%CE">修士</a>入りたての私みたいに反意図主義的な傾向の強い読み手であれば、各所でむかつき、いらだち、反論したくなるはずだが、それも含めて分析美学のなんたるかを教えてくれる、よいガイドとなるだろう。</p>
<p>キャロルの枠組みに対する現在の私の見解は、前述した「場の目的」の論点も含め、「その手続きは客観的で気の利いた批評のひとつにほかならないが、それだけとは言えない」というものだ。すなわち、キャロルは、意図を踏まえたり、目的を特定したり、手段を評価したり、といった<strong>ある</strong>批評ゲームについて、その正当性をかなりの精度で擁護できているわけだが、その他のゲームを不当なものとして切り落とすことには十分成功していない、というのが私の評価だ。もちろん、そんなことをする必要はなく、たいていいつもそうであるように、<strong>アプローチの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BF%B8%B5%BC%E7%B5%C1">多元主義</a></strong>こそが穏当かつ妥当なものであると思われる。また、キャロル的な批評ゲームをもっとやるべきだ、という規範的な主張があるとしても、私としては反対する理由がないように思われる。それは、初学者にも参入しやすく、円滑な批評的コミュニケーションをもたらす程度には、クリアカットな枠組みだと思われるからだ。もっとも、そのやり方だけを制度的に中心化するべきだ(他のやり方は控えるべきだ)とまで主張されるならば、もう少し慎重な検討が必要だろうとは思う。</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-84a5afc2" name="f-84a5afc2" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">私は作品の「正しいカテゴリー」に関して、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>=キャロルとはやや違うことを考えている。前にやった発表の資料と、今度出る予定の論文を参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Foutetsu2021" title="発表「駄作を愛でる/傑作を呪う」|応用哲学会年次大会あとがき - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></span></p>
</div>
psy22thou5
ノエル・キャロル『芸術哲学』:目次とリーディングリスト
hatenablog://entry/13574176438026199760
2021-10-25T20:28:38+09:00
2021-10-25T20:28:38+09:00 Carroll, Noel (1999). Philosophy of Art: A Contemporary Introduction. Routledge. 最近読んだ、ノエル・キャロル[Noël Carroll]による分析美学の教科書『Philosophy of Art: A Contemporary Introduction』(1999)が、入門としてかなりよさげだったので、紹介記事を書いておこう。 ロバート・ステッカー[Robert Stecker]の『Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction』(『分析美学入門』)が2…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20211025/20211025191249.png" alt="f:id:psy22thou5:20211025191249p:plain" width="1200" height="600" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Carroll, Noel (1999). <em><a href="https://www.routledge.com/Philosophy-of-Art-A-Contemporary-Introduction/Carroll/p/book/9780415159647">Philosophy of Art: A Contemporary Introduction</a></em>. Routledge.</span></p>
<p> </p>
<p>最近読んだ、ノエル・キャロル[Noël Carroll]による分析美学の教科書<strong>『Philosophy of Art: A Contemporary Introduction』</strong>(1999)が、入門としてかなりよさげだったので、紹介記事を書いておこう。</p>
<p>ロバート・ステッカー[Robert Stecker]の『Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction』(『<a href="https://www.keisoshobo.co.jp/book/b109885.html">分析美学入門</a>』)が2010年(初版は2005年)なので、本書は一昔前の教科書になる。ステッカーが幅広いトピックを扱っているのに対し、キャロルが扱うのは基本的に「芸術の定義」だけだ。環境美学、フィクション論、芸術の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>、作品解釈といったホットトピックは取り上げられていないし、美的なものや芸術の価値に関してもそんなには踏み込まない。かわりにキャロルがやるのは、「表象[representation]」「表出[expression]」「形式[form]」「美的経験[aesthetic experience]」といった概念を通して、芸術の定義がいかに試みられてきたかの概説である。ということで、厳密には分析美学ではなく「芸術の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AC%C0%CF%C5%AF%B3%D8">分析哲学</a>」の入門書だ(美学と芸術哲学の関係についても、第4章で触れられている)。</p>
<p>難易度としてはステッカーのそれよりだいぶと易しいので、あちらが入門(といいつつ結構むずい)ならば、こちらは超入門といったところか。教養課程の学部生向けといった趣だ。イントロダクションでも掲げられている通り、本書の目的は、第一に芸術哲学の諸問題を導入することだが、第二に、この手の議論一般を扱う基礎体力として、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AC%C0%CF%C5%AF%B3%D8">分析哲学</a>的な手法を導入する点にもある。よって、イントロダクションは「哲学とはなにか?」から始まり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AC%C0%CF%C5%AF%B3%D8">分析哲学</a>の概要や、概念分析という手法(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%CD%D7%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">必要十分条件</a>とはなにか)、直観をデータとすることの是非などを説明しており、手取り足取りで進む。</p>
<p>細かい目次は以下。</p>
<blockquote>
<p><span style="font-size: 150%;"><strong>はじめに</strong></span></p>
<p>哲学とはなにか?/芸術の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AC%C0%CF%C5%AF%B3%D8">分析哲学</a>/概念を分析する/哲学的研究の特殊性/本書の構成/本書の目的</p>
<p><span style="font-size: 150%;"><strong>第1章「芸術と表象」</strong></span></p>
<p><strong>パートⅠ「表象としての芸術」</strong></p>
<p>芸術、模倣、表象/芸術の新表象説</p>
<p><strong>パートⅡ「表象とはなにか?」</strong></p>
<p>画像表象/画像表象に対する伝統的アプローチ/絵画表象の慣習主義理論/画像表象の新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1">自然主義</a>理論/諸芸術における表象</p>
<p><span style="font-size: 150%;"><strong>第2章「芸術と表出」</strong></span></p>
<p><strong>パートⅠ「表出としての芸術」</strong></p>
<p>芸術の表出説/芸術の表出説への反論</p>
<p><strong>パートⅡ「表出の理論」</strong></p>
<p>表出とはなにか?/表出、例示、メタファー/隠喩的例示理論のいくつかの問題点/表出はつねに比喩的なのか?</p>
<p><span style="font-size: 150%;"><strong>第3章「芸術と形式」</strong></span></p>
<p><strong>パートⅠ「形式としての芸術」</strong></p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>/<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>への反論/新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a></p>
<p><strong>パートⅡ「芸術の形式とはなにか?」</strong></p>
<p>芸術の形式に対するさまざまな見解/形式と機能/形式と鑑賞</p>
<p><span style="font-size: 150%;"><strong>第4章「芸術と美的経験」</strong></span></p>
<p><strong>パートⅠ「芸術の美的理論」</strong></p>
<p>芸術と美学/芸術の美的定義/美的経験の2つのバージョン/芸術の美的定義への反論</p>
<p><strong>パートⅡ「美的次元」</strong></p>
<p>美的経験の再検討/美的性質/検出か投影か?/美的経験と芸術の経験</p>
<p><span style="font-size: 150%;"><strong>第5章「芸術、定義、識別」</strong></span></p>
<p><strong>パートⅠ「定義に反して」</strong></p>
<p>ネオ・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>主義:開かれた概念としての芸術/ネオ・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>主義への反論</p>
<p><strong>パートⅡ「現代におけるふたつの芸術の定義」</strong></p>
<p>芸術の制度説/芸術を歴史的に定義する</p>
<p><strong>パートⅢ「芸術を識別する」</strong></p>
<p>定義と識別/識別と歴史的物語り/歴史的物語り:その強みと弱み</p>
</blockquote>
<p> </p>
<p>これはいいなと思ったのは本の構成だ。第1章から第4章までは、それぞれのパートⅠで各概念による芸術の定義が概説され、その利点と欠点が評価される。</p>
<ul>
<li>表象説:芸術とは、なんらかの事物を表象したものである。</li>
<li>表出説:芸術とは、感情などを表出したものである。</li>
<li>形式説:芸術とは、重要な形式を持つものである。</li>
<li>美的経験説:芸術とは、美的経験を与えるよう意図されたものである。</li>
</ul>
<p>これらはごく大雑把な出発点であり、それぞれ直ちに反例が思いつく。例えば、芸術に表象は必要ない(抽象画は表象しない)。表出するからといって芸術とは限らない(私が怒って人を殴るのはパフォーマンスアートではない)。「重要な形式」概念はあいまいで役に立たない(《泉》の形式とは?)。美的経験を与えるよう意図された作品ばかりではない(部族のお面は見るものを怖がらせるよう意図されている)。このような反論に対し、どのような応答がなされ、理論がどのように修正されてきたか。「芸術とはなにか」、というシンプルな問いが、どれだけ人々を悩ませ熱狂させてきたのかがよく分かる概説だ。</p>
<p>いろいろあって、結局どの概念も芸術全般を定義するには不足であることが発覚するのだが、それぞれのパートⅡでは、概念ごとの各論が設けられている。芸術の定義としては失敗するにせよ、「表象」「表出」「形式」「美的経験」といった概念は芸術史・美学史的に重要であり、それぞれのための理論が必要なのだ。表象とはなにか。美的経験とはどういうものか。</p>
<p>本書の欠点のひとつとして、本文中に参照文献が示されず、誰のなんていう理論が検討されているのか分かりにくいというのがある(注が一切ないのは初学者にとっても私にとってもかなりうれしいのだが)。大雑把にまとめると、</p>
<ol>
<li><strong>「表象」</strong>
<ul>
<li>パートⅠは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%C8%A5%F3">プラトン</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%C6%A5%EC%A5%B9">アリストテレス</a>の表象論から<a href="https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766424843/">アーサー・ダントー</a>[Arthur Danto]の新表象主義(「なにかについてものである」)まで。</li>
<li>パートⅡでは<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/depiction">画像表象=描写の哲学</a>。<a href="https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766422245/">ネルソン・グッドマン</a>[Nelson Goodman]の類似説批判から、キャロルが「新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1">自然主義</a>理論」と呼ぶところの再認説(フリント・シアー[Flint Schier])まで。</li>
</ul>
</li>
<li><strong>「表出」</strong>
<ul>
<li>パートⅠは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EB%A5%B9%A5%C8%A5%A4">トルストイ</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%EA%A5%F3%A5%B0%A5%A6%A5%C3%A5%C9">コリングウッド</a>らによる古典的な芸術表出説。</li>
<li>パートⅡではグッドマンの「隠喩的例示」としての表出理論が検討される。</li>
</ul>
</li>
<li><strong>「形式」</strong>
<ul>
<li>パートⅠではベルの「重要な形式」および<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>の新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>を検討。</li>
<li>パートⅡではモンロー・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>[Monroe Beardsley]の記述的説明(unity, intensity, complexity)に対抗し、キャロル自身の機能的説明を突きつける。</li>
</ul>
</li>
<li><strong>「美的経験」</strong>
<ul>
<li>パートⅠは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>による機能主義的な美的定義を検討。</li>
<li>パートⅡではジェ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A1%BC%A5%E0">ローム</a>・ストルニッツ[Jerome Stolnitz]の定義に対するジョージ・ディッキー[George Dickie]の批判および、美的性質の実在性をめぐるアラン・ゴールドマン[<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Alan">Alan</a> Goldoman]周辺の議論が取り上げられる。</li>
</ul>
</li>
</ol>
<p>最後の第5章では、失敗続きの「芸術の定義」なんてそもそも無理なんじゃないか、という立場が紹介される(パートⅠ)。ちなみに本書でそう説明されているわけではないが、歴史的にみて面白いのは、1950年代にこの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>者たち(<a href="https://note.com/zmz/n/n397f021fb7e9">ワイツ</a>、ジフ、ケニック)が幅を利かせたからこそ、分野ないし学統としての「分析美学」が成立しているという側面だ。本書は芸術の定義論とその一旦の挫折において、最後の最後で分析美学の誕生に戻ってきたとも言える。</p>
<p>芸術なんて定義できない、とするネオ・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>主義者の影響力は大きかったが、<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/MANFRA">モーリス・マンデルバウム</a>[Maurice Mandelbaum]によるクリティカルな反撃に続き、アプローチを刷新しつつ定義論が再興する(パートⅡ)。代表的なものとして紹介されているのは、ジョージ・ディッキーの制度説と、ジェロルド・レヴィンソン[Jerrold Levinson]の歴史説だ。</p>
<ul>
<li>制度説:芸術とは、アートワールドの代表によって鑑賞候補の身分を付与されたものである。</li>
<li>歴史説:芸術とは、歴史的になされてきた芸術扱いをされるよう意図されたものである。</li>
</ul>
<p>どちらも、作品に内的な性質ではなく、外的な要因に訴えることで、幅広い芸術実践をカバーできる点にうれしさがある。もちろん、それぞれに伴う懸念についても触れられている。</p>
<p>最後の最後にあたる第5章パートⅢでは、「芸術の定義」に関するキャロル自身のアプローチとして、「歴史的物語り[historical narrative]」が紹介されている。これは<a href="https://doi.org/10.2307/431506">1993年にJAACに載った論文</a>がもとになっているが、ア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>としては<a href="https://doi.org/10.5840/monist198871212">1988年にMonistに載った論文</a>からあったらしい。芸術の定義は重要だが、その理由のひとつはわれわれが芸術と非芸術を識別[identifying]したいからだ。識別できなければ、どの人工物に芸術助成を出すか決めがたいし、どれを美術館におけばいいのか決められないし、解釈・評価すべきか態度を決めることもできない。しかし、識別できればいいのであれば、あらゆる事例をきっちりカバーできるような定義(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%CD%D7%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">必要十分条件</a>)はなくてもいいのかもしれない。ということで、識別法としてキャロルの提案する「歴史的物語り」は、あるものの芸術性にとって、芸術史上の先例に関する知識を踏まえた語りが重要だというものだ。われわれが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%B7%A5%E3%A5%F3">デュシャン</a>の《泉》やケージの《<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/4%CA%AC33%C9%C3">4分33秒</a>》を芸術とみなすようになったのは、それらを先例と結びつけ、その目的や挑戦や達成を説明してきた無数の批評的語りがあったおかげである。芸術の制作と鑑賞を、このような批評的コミュニケーションの場に位置づけることで、なにかが芸術になったりなりそびれたりする空間を特徴づける、それがキャロルの「歴史的物語り」の大筋である。芸術の歴史を重視する点でキャロルの立場も歴史説のバリエーションだと言えそうなのだが、「歴史的物語り」は必要条件ではなく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>のひとつとして、ごく穏当に提出されているのがポイントだ。</p>
<p>前述した通り、手取り足取りで進む(英語も易しい)本なので学部生などにはかなりおすすめなのだが、丁寧すぎるのがたまにきずでもある。『<a href="https://www.keisoshobo.co.jp/book/b324574.html">批評について</a>』もそうだったが、キャロルの書きぶりは丁寧な分やや冗長で、ずっと同じ話を繰り返しているように思われるときすらある。「xはこういう主張だ、それにはこういう反例がある、なのでxはだめだ」と論駁したあとで、「あと、こういう反論もできる、のでやっぱりxはだめだ」というのが続き、さらに「そうそう、こういう反例もある、のでxはぜんぜんだめだ」と続いていく。しかしこう、しつこいぐらいひとつの主張を検討するというのも、早めのうちに養っておきたい体力のひとつであることは言うまでもない(向き不向きのふるいでもある)。議論の構造はきわめて明快であり、いまなんのためになんの話をしているのか迷子になることがまったくない。これは大いに学ぶべき文体だろう。</p>
<p>調べてみたら、『<a href="https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26663.html">言語哲学―入門から中級まで</a>』の題で邦訳されているウィリアム・ラ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%AB">イカ</a>ンの『Philosophy of Language: A Contemporary Introduction』(1999)と同じRoutledgeのシリーズだった。あちらもかなり読みやすくてためになる入門書だったので、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AC%C0%CF%C5%AF%B3%D8">分析哲学</a>をやろうという人にはあわせておすすめだ。キャロルの教科書も『芸術哲学―入門から中級まで』で邦訳があればよいのにとは思うのだが、刊行年がやや古いのと、すでに『分析美学入門』が出ている手前『分析美学入門の入門』というわけにもいかないのだろう。</p>
<p>とはいえ、世紀末に刊行されたからこそ(?)、キャロルの教科書には20世紀を通して発展してきた分析美学を、一旦総括するという趣がある。さまざまなトピックに触れつつ関心を広げるのはもちろんよいことなのだが、「芸術の定義」というコア問題に短期集中で取り組むのも、入り方としてはかなりいいだろう。このト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A1%BC%A5%CB%A5%F3">レーニン</a>グは、ほとんど任意のxに関して「xとはなにか」という哲学的問いを立てたり、答えたり、反論したり、修正したりするのに役立つものだ。</p>
<p> </p>
<p>各章のリーディングリストをまとめて、おしまい。</p>
<p> </p>
<p><strong>第1章「芸術と表象」</strong></p>
<ul>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%C8%A5%F3">プラトン</a>『国家』2巻、3巻、10巻:古典的な芸術の表象理論</li>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%C6%A5%EC%A5%B9">アリストテレス</a>『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%ED%B3%D8">詩学</a>』:古典的な芸術の表象理論</li>
<li>Paul Oskar Kristeller「The Modern System of the Arts」:ファインアートのシステムについて</li>
<li>Arthur Danto『The Transfiguration of the Commonplace』(『ありふれたものの変容』):新表象理論</li>
<li>Peter Kivy『Philosophies of Arts: An Essay in Differences』:2章で新表象理論への批判</li>
<li>Monroe Beardsley『Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism』:6章で画像表象について</li>
<li>Nelson Goodman『Languages of Art』(『芸術の言語』):1章で芸術表象について/慣習主義理論</li>
<li>Flint Schier『Deeper Into Pictures: An Essay on Pictorial Representation』:画像表象に関する新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1">自然主義</a></li>
<li>Peter Kivy『Sound and Semblance』:芸術全般にわたる表象について/とくに2章</li>
<li>Kendall <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a>『Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts』(『フィクションとは何か―<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%B4%A4%C3%A4%B3">ごっこ</a>遊びと芸術―』):虚構的な事物を描く画像表象について</li>
</ul>
<p><strong>第2章「芸術と表出」</strong></p>
<ul>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%D5%A1%A6%A5%C8%A5%EB%A5%B9%A5%C8%A5%A4">レフ・トルストイ</a>『芸術とは何か』:表出説(伝達説)の代表</li>
<li>R.G.<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%EA%A5%F3%A5%B0%A5%A6%A5%C3%A5%C9">コリングウッド</a>『芸術の原理』:表出説(単独表出説)の代表</li>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%B6%A5%F3%A5%CC">スザンヌ</a>・ランガー『感情と形式』:表出説の古典</li>
<li>M.H.Abrams『A Glossary of Literary Terms, 6th edition』:<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A5%DE%A5%F3%BC%E7%B5%C1">ロマン主義</a>について</li>
<li>Aidan Day『Romanticism』:<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A5%DE%A5%F3%BC%E7%B5%C1">ロマン主義</a>について</li>
<li>Monroe Beardsley『Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism』:7章で表出説について紹介</li>
<li>Nelson Goodman『Languages of Art』(『芸術の言語』):2章で隠喩的例示としての表出理論を展開</li>
<li>Guy Sircello『Mind and Art: An Essay on the Varieties of Expression』:表出の隠喩的例示説への批判</li>
<li>Peter Kivy『Sound Sentiment: An Essay on the Musical Emotions』:表出の隠喩的例示説への批判</li>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Alan">Alan</a> Tormey『The Concept of Expression』:芸術的表出について</li>
<li>Robert Stecker「Expression of Emotion in (Some of) the Arts」:表出に関する哲学文献</li>
<li>Bruce Vermazen「Expression as Expression」:表出に関する哲学文献</li>
<li>Ismay Barwell「How Does Art Express Emotion?」:表出に関する哲学文献</li>
</ul>
<p><strong>第3章「芸術と形式」</strong></p>
<ul>
<li>ライヴ・ベル『芸術』:<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>の古典/絵画の鑑賞法を大きく変化させた</li>
<li>ロジャー・フライ『ヴィジョンとデザイン』:視覚芸術に関する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>の実</li>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9">エド</a>ゥアルト・ハンスリック『音楽美論』:音楽に関する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a></li>
<li>Ladislav Matejka and Krystyna Pomorska (eds.)『Readings in Russian Poetics: Formalist and Structuralist Views』:文学に関するロシア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a></li>
<li>Victor Erlich『Russian Formalism: A <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/History">History</a>』文学に関するロシア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a></li>
<li>Richard Eldridge『Form and Content: An Aesthetic Theory of Art』:新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a></li>
<li>Arthur Danto『After the End of Art』(『芸術の終焉のあと: 現代芸術と歴史の境界』):新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a></li>
<li>Noël Carroll「Danto’s New Definition of Art and the Problem of Art Theories」:<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>の新<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>への批判</li>
<li>A.C.Bradley「Poetry for Poetry’s Sake」:形式と内容が同一であるという主張の古典</li>
<li>Peter Kivy『Philosophies of Arts』:4章でBradleyの批判</li>
<li>Monroe Beardsley『Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism』:4章で形式に関する記述的説明</li>
<li>Berel Lang (ed.)『The Concept of Style』:「様式」に関するアンソロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>/Richard Wollheim, “Pictorial Style: Two Views"がおすすめ</li>
<li>Paul Ziff『Semantic Analysis』:6章で「測定としての鑑賞」を擁護</li>
</ul>
<p><strong>第4章「芸術と美的経験」</strong></p>
<ul>
<li>George Dickie『Art and the Aesthetic』:美的なものに関する議論の概説</li>
<li>Noël Carroll「Beauty and the Genealogy of Art Theory」:美的なものと芸術哲学の関係について</li>
<li>Monroe Beardsley「An Aesthetic Definition of Art」:美的なものによる芸術の定義</li>
<li>Harold Osborne「What is a Work of Art?」:美的なものによる芸術の定義</li>
<li>William Tolhurst「Toward an Aesthetic Account of the Nature of Art」:美的なものによる芸術の定義</li>
<li>Bohdan Dziemidok「Controversy about the Aesthetic Nature of Art 」:美的なものによる芸術の定義</li>
<li>Monroe Beardsley『The Aesthetic Point of View: Selected Essays』:美的経験について<br />Jerome Stolnitz『Aesthetics and the Philosophy of Art Criticism』:美的経験の感情重視の説明</li>
<li>George Dickie「The Myth of the Aesthetic Attitude」:美的な「無関心性」への古典的批判</li>
<li>Noël Carroll「Art and Interaction」:無関心性への批判</li>
<li>Göran Hermerén『The Nature of Aesthetic Qualities』:美的性質に関する概説</li>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Alan">Alan</a> H. Goldman「Realism about Aesthetic Properties」:美的性質の客観性に関する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a></li>
<li>Philip Pettit「The <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Possibility">Possibility</a> of Aesthetic Realism」:美的性質の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%C2%BA%DF%CF%C0">実在論</a></li>
<li>Eddy M.Zemach『Real Beauty』:美的性質の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%C2%BA%DF%CF%C0">実在論</a></li>
<li>Frank Sibley「Aesthetic Concepts」(「美的概念」):美的概念が条件に支配されているかどうか</li>
<li>Frank Sibley「Aesthetic and Non-Aesthetic」:美的概念が条件に支配されているかどうか</li>
<li>Peter Kivy『Speaking of Art』:シブリーへの批判</li>
</ul>
<p><strong>第5章「芸術、定義、識別」</strong></p>
<ul>
<li>Stephen Davies『Definitions of Art』:芸術の定義に関する包括的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A1%BC%A5%D9%A5%A4">サーベイ</a></li>
<li>Morris Weitz 「The Role of Theory in Aesthetics」(「美学における理論の役割」):ネオ・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>主義として最もよく引かれる</li>
<li>Morris Weitz『The Opening Mind』芸術の定義不可能性</li>
<li>Paul Ziff「The Task of Defining a Work of Art」:芸術の定義不可能性</li>
<li>William Kennick「Does Traditional Aesthetics Rest on a Mistake?」:芸術の定義不可能性</li>
<li>Maurice Mandelbaum「Family Resemblances and Generalizations concerning the Arts」:ワイツへの有名な批判</li>
<li>George Dickie『Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis』:芸術の制度的定義(初期ヴァージョン)</li>
<li>George Dickie『The Art Circle』:芸術の制度的定義(後期ヴァージョン)</li>
<li>Jerrold Levinson「Defining Art Historically」:芸術の歴史的定義</li>
<li>Jerrold Levinson「Refining Art Historically」:芸術の歴史的定義</li>
<li>Jerrold Levinson「Extending Art Historically」:芸術の歴史的定義</li>
<li>Noël Carroll「Art, Practice and Narrative」:芸術識別のための歴史的物語りアプローチ</li>
<li>Noël Carroll「Historical Narratives and the Philosophy of Art」:芸術識別のための歴史的物語りアプローチ</li>
<li>Noël Carroll「Identifying Art」:芸術識別のための歴史的物語りアプローチ</li>
<li>Peter Kivy『Philosophies of Arts』:1章で物語りアプローチを用いて<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%E4%C2%D0%B2%BB%B3%DA">絶対音楽</a>を擁護</li>
<li>Jeffrey Wieand「Putting Forward A Work of Art」:会話としての芸術</li>
<li>Arthur Danto『The Transfiguration of the Commonplace(『ありふれたものの変容』)』:現代的アプローチの一つ</li>
<li>Robert Stecker『Artworks: Definition, Meaning, <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Value">Value</a>』:現代的アプローチの一つ</li>
<li>Noël Carroll (ed.)『Theories of Art』芸術の定義および識別に関する最近のアンソロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a></li>
</ul>
psy22thou5
Liminal Spaceのなにが不気味なのか
hatenablog://entry/13574176438019850773
2021-10-07T19:00:00+09:00
2023-03-22T23:54:44+09:00 リミナル・スペース[Liminal Space(s)]は2019年ごろに4chanからTwitterやReddit経由で広まった、インターネット・ミームである。Fandomの「Aesthetics Wiki」によれば、 Liminal Spaceの美学は、広くてなにもない、薄気味悪く不穏な雰囲気[eerie and unsettling vibe]のある部屋、廊下、ホールなどから成る。 Liminal Space | Aesthetics Wiki | Fandom ミームとして拡散された経緯はknow your memesなどを読んでもらえばよい。 Twitterでは「@SpaceLimin…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20211007/20211007154007.png" alt="f:id:psy22thou5:20211007154007p:plain" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><strong>リミナル・スペース[Liminal Space(s)]</strong>は2019年ごろに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/4chan">4chan</a>から<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Twitter">Twitter</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Reddit">Reddit</a>経由で広まった、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%F3%A5%BF%A1%BC%A5%CD%A5%C3%A5%C8%A1%A6%A5%DF%A1%BC%A5%E0">インターネット・ミーム</a>である。Fandomの「Aesthetics <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Wiki">Wiki</a>」によれば、</p>
<blockquote>
<p>Liminal Spaceの美学は、広くてなにもない、薄気味悪く不穏な雰囲気[eerie and unsettling vibe]のある部屋、廊下、ホールなどから成る。</p>
<p><a href="https://aesthetics.fandom.com/wiki/Liminal_Space">Liminal Space | Aesthetics Wiki | Fandom</a></p>
</blockquote>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>として拡散された経緯はknow your memesなどを読んでもらえばよい。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fknowyourmeme.com%2Fmemes%2Fcultures%2Fliminal-spaces-images-with-elegiac-auras" title="Liminal Spaces / Images With Elegiac Auras" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Twitter">Twitter</a>では「<a href="https://twitter.com/SpaceLiminalBot">@SpaceLiminalBot</a>」なるアカウントが精力的(?)にリミナルな画像を拡散しており、2021年10月現在約42万人のフォロワーがいる。</p>
<p>9月にはtogetterのまとめが注目されていたので、日本における<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CE%CC%BE%C5%D9">知名度</a>も徐々に上がってきたようだ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftogetter.com%2Fli%2F1771323" title="海外で流行りの「liminal space」と呼ばれる写真の構図の空虚さが素敵…「日本における『女神転生』」「backroomのこと?」など" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p> </p>
<p>基本的には、「3回見たら死ぬ絵」的なネット都市伝説のノリ(いわゆる<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Creepypasta">Creepypasta</a>)と、Vaporwave的なジャンクを愛でるカルチャーが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%AD%CB%E2%B9%E7%C2%CE">悪魔合体</a>した画像<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>だが、不気味な音楽に合わせるとなおのこと怖い。「あなたが悪夢で見た場所」とかいうタイトルで延々とリミナルな空間をスライドショーする動画なんて、たいそう怖くて見てられない。</p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/VqZEfqoTA7M?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/2KykU-X5jYs?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p> </p>
<p>情動的な部分をくすぐる性質を持ち、事例の供給にも事欠かないなど、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>としてバズる要因がたくさんあるのだが、そういった分析もここでは脇に置こう。</p>
<p>問いはごく基本的なものだが、おそらくもっとも気になるものだ。すなわち、</p>
<p><strong>Liminal Spaceのなにが不気味なのか。</strong></p>
<p>この問いには何通りもの答えがあるだろう。本記事ではそのうちのいくつかを取り上げる。</p>
<p> </p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#不気味さとはなにか">不気味さとはなにか</a></li>
<li><a href="#痕跡としての写真">痕跡としての写真</a></li>
<li><a href="#人のいない空間と人-不在空間">人のいない空間と人-不在空間</a></li>
<li><a href="#まとめLiminal-Spaceのなにが不気味なのか">まとめ:Liminal Spaceのなにが不気味なのか</a></li>
</ul>
<h3 id="不気味さとはなにか">不気味さとはなにか</h3>
<p>ここで問題にしているのは、美的用語の適用をめぐる問題だ。Liminal Spaceはさまざまなネガティブな美的性質を持つ(怖い、不気味、薄気味悪い、不穏、etc.)のだが、そのうち私が問題にしたいのは、<strong>不気味[uncanny]</strong>という特定の性質・用語である。</p>
<p>まず明らかに、Liminal Spaceは狭い意味で理解された恐怖[fear]を喚起するものではない。狭義の恐怖は、身体的危機の認知、すなわち「危ない」「危険だ」といった認知に由来している<a href="#f-6dc77fb9" name="fn-6dc77fb9" title="これは情動の哲学における認知主義[cognitivism]という立場を前提している(キャロルなど)。そうでないという人もいる(プリンツなど)。">*1</a>。昼間の山でくまに出会う経験は怖いが、おそらく不気味ではないだろう。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.heibonsha.co.jp%2Fbook%2Fb213902.html" title="笑い/不気味なもの - 平凡社 " class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>では「uncanny」とはどのような情動なのか。これについては、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%ED%A5%A4%A5%C8">フロイト</a>の古典的な研究があるが、その説明は「克服された原初の信念が回帰する」みたいな<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%ED%A5%A4%A5%C8">フロイト</a>節全開で、らちが明かないのでもう少し気の利いた説明に頼ろう。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FWINWIT-10" title=" Mark Windsor, What is the Uncanny? - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>マーク・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>[Mark Windsor]「不気味さとはなにか?」(2019)は、「一見したところの不可能性[an apparent impossibility]」に注目して不気味さを定義している<a href="#f-5b7b788b" name="fn-5b7b788b" title="本論文はFinnish Society for Aestheticsのアワードをとっているほか、BJAの2018年ベストにも選出されているので、頼るには十分な肩書だろう。">*2</a>。</p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>によれば、</p>
<blockquote>
<p class="p1">私がxを不気味なものとして経験するのは</p>
<ol>
<li>具体的な[concrete]対象/出来事としてxを経験しており、</li>
<li>私は、自身が可能であると信じている事柄に調和しない[incongruous]ものとして、xを経験しており、</li>
<li>そのことが私に対し、xについての不確実性を生じさせ、</li>
<li>それによってxへの直接的な感情[feelings]として、不安が生じるとき、かつそのときに限る。(Windsor 2019: 60)</li>
</ol>
</blockquote>
<p>重要なのは二番目の条件だ。不気味なものは、私が可能だと信じている事柄に調和せず、そこから逸脱し、私の世界認識を脅かすようなものとして立ち現れる。恐怖が身体的な脅威だったのだとすれば、不気味さは認識的な脅威だと言ってもいいだろう。世界が自分の知っている世界ではなくなってしまったかのような、あるいは自分の頭がおかしくなってしまったかのような、そんなとまどい・無力感が、不気味さには伴う。玄関先に、知らぬうちに置かれているくまのぬいぐるみは、恐怖よりも不気味さを喚起する(もっとも、ヤバイやつが部屋に入ってきた証拠だと考えればただちに恐怖も喚起するのだが)。</p>
<p>他にも例えば、</p>
<ul>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%C3%A5%DA%A5%EB%A5%B2%A5%F3%A5%AC%A1%BC">ドッペルゲンガー</a>:私とまったく同じ人間が、もうひとり実在するのかも知れない。</li>
<li>双子:まったく同じ人間が、ふたり存在するのかもしれない。</li>
<li>蝋人形:生きていない無生物が、実は生きているのかもしれない。</li>
<li>一日に何度も同じ数字を見かける:神的ななにかが、裏で世界の糸を引いているのかもしれない。</li>
</ul>
<p>不気味さを喚起される対象/場面には共通して、現実に関する私の認識フレームを脅かすという性質がある。</p>
<p> </p>
<p>情動は行動の動機づけになる。くまを見つけて恐怖を感じれば、逃げるなり死んだふりをするなり、なんらかのう行動をしたくなるだろう。同様に、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>はこのような不気味さの感覚が動機づける行動について触れているが、それは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%F3%A5%B6%A1%BC">ウィンザー</a>が考えている以上に重要な事柄だと思われる。便宜的に、次のように名付けよう。</p>
<ul>
<li>(A)フレームの修正による<strong>解決[resolution]</strong>:現実に関する自分の認識フレームを修正し、xを矛盾しないものとしてカバーする。例えば、ぬいぐるみは友人のサプライズだとして納得する。</li>
<li>(B)経験の否定による<strong>解消[dissolution]</strong>:現実に関する自分の認識フレームを維持し、xの経験を錯覚とみなす。例えば、ぬいぐるみを見たのは目の錯覚だとして、なにも見なかったことにする。</li>
</ul>
<p>上述の不気味さの定義と照らし合わせれば、(A)は条件2の否定、(B)は条件1の否定だと言えよう。ふたつ合わせて、不気味さに対する<strong>心的抵抗</strong>と呼んでおこう。</p>
<p>解決か解消が首尾よくなされる限りで不気味さは消滅するので、不気味さが持続するには、それが動機づける(A)ないし(B)という心的抵抗が絶えず失敗する、という条件が必要だ。すなわち、不気味さとは、<strong>ある種の逸脱に関する認知と、それを規定範囲内に収めようとする心的抵抗の連続的失敗</strong>、その動的プロセスにおいて立ち上がるネガティブな情動だと言える。不気味さには宙吊り=サスペンス[suspense]の感覚が伴う、といってもいいかもしれない。<a href="#f-d11cefb7" name="fn-d11cefb7" title="用語が微妙に異なるが、数年前の発表で作ったスライドは以下。
">*3</a></p>
<p> </p>
<p>ということで、それなりによさそうな「不気味さ」の定義が得られた。本題に入ろう。</p>
<p> </p>
<h3 id="痕跡としての写真">痕跡としての写真</h3>
<p>Liminal Spaceにおける不気味さの一因は、とっぴな話かもしれないが、<strong>写真というメディアに一般的な不気味さ</strong>であるかもしれない。Liminal Spaceは写真ばかりではなくイラストや3Dモデルのものもあるが、ここではひとまず写真のものに限定しよう。</p>
<p>写真特有の不気味さについては数年前に発表したことがある。(本節の元ネタは基本的にこの発表資料だ)<a href="#f-4134e778" name="fn-4134e778" title="そもそも本記事を書こうとしたきっかけは、Twitterのほうで応用の可能性をご指摘いただいたからだ。ありがとうございます。">*4</a></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fsenkiyohiro%2Fpresentations%2F12083733" title="銭 清弘 (Kiyohiro Sen) - 不気味な写真の美学 - 講演・口頭発表等 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>他の条件が等しいときに、絵画ではなく写真なんですと伝えられること自体に、不気味さを増すなにかが含まれている、というのはむしろありふれた直観ではないだろうか。心霊写真や呪いのビデオが一大カルチャーを築いているのも、文化的に根深いところでメディアと結びついた不気味さの感覚があるからだろう。「写ってはいけないものが写ってしまう」不気味さは、写真メディアに特有であって、手描きの画像にはなかなかないものだ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Ftransparent_pictures" title="レジュメ|ケンダル・ウォルトン「透明な画像」(1984) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>では、写真に特有の不気味さは、写真のいかなる性質に由来するのか。例えば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a> (<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1984">1984</a>)の「透明性テーゼ」が正しければ、われわれは写真を通して文字通りに被写体を見ていることになる。不気味なものを直に目にしているのだから、そりゃ不気味さを感じるだろう、と言えそうだが、残念ながら<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>のテーゼには多くの反論があり、あまり頼りがいがない。また、仮に透明だったとしても、経験における不気味さはただちに被写体の不気味さとしてバックパスされるので、写真というメディアに特有の不気味さについては、説明上あまり役に立たない。とりわけ、Liminal Spaceは、ものにもよるが、被写体としては多少薄暗いだけの部屋や廊下やホールであることが多い。おそらく、実際にその場にいるときに喚起される不気味さは、写真を通して見る不気味さほどではないだろう。写真メディアが、その不気味さを増しているのだとすれば、われわれにはその説明が必要だ。</p>
<p>このトピック(写真による特権的な情動喚起)に関して私が気に入っている説明は、これまたある意味では平凡な決り文句であるところの、<strong>「写真は痕跡[trace]である」</strong>という説だ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FPETDTO-2" title=" Mikael Pettersson, Depictive Traces: On the Phenomenology of Photography - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>バザンや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%A5%F3%A5%BF%A5%B0">ソンタグ</a>も痕跡としての写真について書いていたわけだが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>に対する対抗案としてこの考えを復活させたのはPettersson (2011)だ。</p>
<p>痕跡は、対象との物理的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>の結果として生じる。これを踏まえれば、恋人が座った後のクッションに親密さを感じることはスムーズに説明できる。その凹みが恋人の座った痕跡であることは、そこに特別な親密さを感じるのに十分な条件となりうるからだ。その凹みのうちに、文字通り恋人を見ているわけではない。同様に、写真が与える被写体との「結びつきの感覚」も、文字通り被写体を見ているのだと言わずとも、それが被写体の痕跡であると言えば十分なのではないか。ペテルソンの説明は穏健かつ直観的なところを攻めている。</p>
<p> </p>
<p>ということで写真は被写体の痕跡であるとして、その事実が不気味さの喚起とどう結びつくのか。これはおそらく、二つの事実の組み合わせとして説明できる。</p>
<ul>
<li>一般的に言って、写真は、被写体をもとの文脈から切り離して提示する。</li>
<li>一般的に言って、写真には、非写真的な画像としての次元があり、これは再文脈化に対して無防備である。</li>
</ul>
<p>第一の事実は、不気味さの阻却要因であった心的抵抗にとって重要である。前述の通り、認識的に齟齬をきたす経験をしても、フレームを修正できたり経験を錯覚として否定できれば、不気味さは消える。しかし、そのためには、さまざまな角度から時間を掛けて、対象や出来事を観察することが必要である。写真は、被写体の持つ情報を時間的・空間的に凍結することで、これを困難にする。もうちょっと情報が欲しいのに、写真は絶妙なところでさらなる情報を与えてくれないのだ。これは低解像度のビデオ映像で、なにかがうごめいているタイプの不気味さにも通ずる。</p>
<p>Liminal Spaceの周囲にもきっと<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%AD%B5%A1">有機</a>的な家具なり置物があり、別の時間帯にはちゃんと人が利用するような空間なのだろう。写真は、一定の枠内でそれを切り取り、枠の外でなにが起きているのかを分からなくする。</p>
<p>第二の事実として、写真のうちに見られるものは被写体ばかりではない。端的に言えば、写真のうちには被写体以外にも、いろんなものが見て取れる<a href="#f-c5635d3e" name="fn-c5635d3e" title="ペテルソンはこのような写真の二面性を「描写的な痕跡[depictive traces]」と呼んで特徴づけているが、同様の二面性はすでにウォルトンにおいても指摘されていた。その枠組みを見直そう、という話については修論で書いた。
">*5</a>。<a href="https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766426847/">Wollheim (1980)</a>がうちに見る[seeing-in]と呼んだ経験において、(ウォルハイムは必ずしも認めないだろうが)画像との視覚的類似性が成り立つものは、たいていの場合画像のうちに見て取ることができる。<a href="https://www.artpedia.asia/diane-arbus/">ダイアン・アーバスによる双子の写真</a>は、実はまったく同じ人間がふたり存在する痕跡なのかもしれない。いや、実は二人とも生身の人間なのではなく、ハリボテなのかもしれない。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Farchive.4plebs.org%2Fx%2Fthread%2F22661164%2F%23q22662718" title="/x/ - Paranormal » Thread #22661164" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>Liminal Spaceという抽象的な空間に対しては、その場所や用途や目的や秘密について、あることないこと想像しながら、写真を見ることになる。実際、Liminal Spaceを<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>として成長させた要因の一つは、それと結びついた二次創作的な物語である。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/4chan">4chan</a>のある匿名ユーザーは以下のように語る。</p>
<blockquote>
<p>気をつけないと、間違ったところで現実から抜け出してしまい、Backrooms<a href="#f-899adfc1" name="fn-899adfc1" title="Liminal Spacesの前身となったミーム。">*6</a>に行き着いてしまうよ。そこには、古い湿ったカーペットの悪臭、モノイエローの狂気、最大限のハム音を放つ蛍光灯の無限に続く背景ノイズ、そして約6億平方マイルのランダムに分割された空っぽの部屋しかなく、閉じ込められてしまうのだ。</p>
<p><a href="https://archive.4plebs.org/x/thread/22661164/#q22662718">/x/ - Paranormal » Thread #22661164</a></p>
</blockquote>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%F3%A5%BF%A1%BC%A5%CD%A5%C3%A5%C8%A1%A6%A5%DF%A1%BC%A5%E0">インターネット・ミーム</a>において、この手の再文脈化はお手の物だ。画像<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>が、もとの文脈とは異なる文脈において、異なる意味内容を担う経緯についても、論文を書いたことがあるのでそちらを参照。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fkirihari" title="「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか」|投稿論文あとがき|参照ミーム一覧 - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fsenkiyohiro%2Fpresentations%2F24504730" title="銭 清弘 (Kiyohiro Sen) - イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか:インターネットのミーム文化における画像使用を中心に - 講演・口頭発表等 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p> </p>
<p>こうして、写真は間違いなくなにかの痕跡でありつつ、別のなにかにも見えてしまうという性質があり、また、その被写体に関して確証を得るには、脱文脈化によって情報が欠けてしまっているという事情がある。写真を通してなにかを見る経験は、そこで見られるなにかが、写真を痕跡として生じさせた実在するなにかであるかどうか不確定であり、観者はある種のサスペンスに置かれる。これは、不気味さを生じさせる動的プロセスと、不運にも親和的である。そもそも痕跡としてみなされず、その描写内容が一面的な水準で展開される絵画には、このような不気味さをもたらす構造はない。</p>
<p> </p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="und"><a href="https://t.co/nJ9qUsctJa">pic.twitter.com/nJ9qUsctJa</a></p>
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) <a href="https://twitter.com/SpaceLiminalBot/status/1398077420847181826?ref_src=twsrc%5Etfw">2021年5月28日</a></blockquote>
<p>
<script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
</p>
<p>Liminal Spaceと、痕跡としての写真の結びつきを踏まえれば、前者における<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%ED%B3%D8">詩学</a>のひとつが見えてくる。Liminal Spaceの事例は、しばしば<strong>水平のとれていない構図</strong>や、<strong>フラッシュを焚いた暗室</strong>の写真から選ばれている。これが、事件現場の鑑識写真を連想させることは言うまでもないだろう。なにか恐ろしいことが起きた痕跡を捉えた写真は、二重の意味で不気味な痕跡となる。Liminal Spaceの不気味さは、部分的にはそのような様式美に乗っかっているわけだ。<a href="#f-4e352172" name="fn-4e352172" title="もちろん、事例の中にはキューブリック映画のような、バチッと構図のキマったケースもある。その異様にストイックで無機質な構図が喚起する不気味さは、また別の様式美であろう。
">*7</a></p>
<p> </p>
<h3 id="人のいない空間と人-不在空間">人のいない空間と人-不在空間</h3>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>の名称となる以前の「Liminal Spaces」は、ある場所から別の場所へと移動する際の境界となる、廊下や通路を指す建築用語である。ふつうはそこで立ち止まってなにかをすることなく、さっさと歩いて通り過ぎるだけの空間にあたる。</p>
<p>そういった場所には、しばしば階段のように反復的な造形物が置かれていたり、窓がなかったり、薄暗かったりと、閉所恐怖症的な強迫観念を刺激する。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>としてのLiminal Spacesは、そういった潜在意識下でひろく共有されているぞわぞわを、前景化させる狙いがあるのだろう。だからこそ、Vaporwaveと同じように、ただ奇怪なだけでなく、奇怪にもかかわらずある種のノスタル<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>と紐付けられる。そこは、夢やサブリミナルにおいて、行ったことのある場所なのだ。<a href="#f-01d44c07" name="fn-01d44c07" title="さらに言えば、これもVaporwave経由なのだろうが、「ニンテンドー64的な、カクカクしつつものっぺりとしたバーチャル空間」など、ゲーム文脈から来ている美意識は少なからずあるだろう。『ゴールデンアイ 007』なんて、どこをキャプチャーしてもLiminal Spaceだ。そこは、ゲームで行ったことのある場所なのだ。">*8</a></p>
<p> </p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="und"><a href="https://t.co/zBfQr8YX0v">pic.twitter.com/zBfQr8YX0v</a></p>
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) <a href="https://twitter.com/SpaceLiminalBot/status/1425933661199904770?ref_src=twsrc%5Etfw">2021年8月12日</a></blockquote>
<p>
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</p>
<p>そういった不気味さを強化している要因のひとつは、Liminal Spacesにおいてはほとんどつねに<strong>人が写っていない</strong>ことだ。一方では典型的な人工的空間であるにもa</p>
<p>わらず、そこにいるはずの人々がいない。閉店後の薄暗いフードコートや、誰も使っていないプール、ドアの閉め切られたホテルの廊下など、他の時間においては間違いなく誰かがいた/いるだろうはずなのに、今は誰もいない、という感覚がミソなのだろう。</p>
<p>では、画像において人がいないとはどういうことか。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fglobal.oup.com%2Facademic%2Fproduct%2Fevaluative-perception-9780198786054%3Fcc%3Djp%26lang%3Den%26" title="Evaluative Perception" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>こちらも前述のペテルソンが熱心に取り組んでいたトピックであるため、出発点についてはおんぶにだっこでお願いしよう。</p>
<p>一般的に、画像は、直接的には否定的な性質を描写することはないと言われる。あるりんごが〈赤い〉ことは描写できるが、〈赤くない〉ことは描写できない。赤さという性質は、赤い絵の具を塗りつけることによって例化されており、画像表面が赤さを所有するとともに、その描写対象が赤いことを伝達できる。一方、〈赤くない〉は間接的にしか伝達されない。具体的には、例えば、画像は〈緑である〉を描写することで、間接的に〈赤くない〉を伝達することになる。</p>
<p>だとすれば、「なにもない空間[empty space]」を画像のうちに見るとはどういうことか。物理的な事物とは異なり、なにもない空間には姿[look]がないにもかかわらず、それを描くとはどういうことか。</p>
<p>Pettersson (2018)の説明は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%BE%DD%B3%D8">現象学</a>的なものであり、なにもない空間を画像のうちに見るとは、まずもって画像のうちに<strong>なにかを探す[looking for things]</strong>ことの結果である、とされる。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FWALMIO5" title="レジュメ|ケンダル・ウォルトン「画像とおもちゃの馬」(2008) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>描写の理論として、ここでペテルソンが参照するのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の想像説だ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>において、画像のうちになにかを見る経験とは、知覚と想像力の両方を動員する経験である。われわれが実際に目で知覚しているのは二次元の画像表面なのだが、そのうちに三次元の描写空間を見るような想像力が加わることによって、「画像のうちになにかを見る」という経験が成立する。知覚されたものが、想像によって彩られる[colored]ことで、同時に別のものを見るかのような経験に変容するのだ。</p>
<p>ペテルソンは、ここに<a href="https://philpapers.org/rec/RICSES">Richardson (2009)</a>や<a href="https://philpapers.org/rec/SORSDT">Sorensen (2008)</a>の説明を組み合わせる。対面においてなにもない空間を見ることは、たんに「なにも見ない」のではなく、特定の反事実的条件を満たすような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>空間を見ることである。すなわち、「もしそこになにかがあれば、そのなにかを見ることになるだろう」という性質を伴う空間が、そこでは(広い意味で)知覚されている。</p>
<blockquote>
<p>われわれは、なにもない空間が視覚的対象の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>な場所であるという、想像された意識[imagined awareness]を経験している。もし画像空間内にものがあれば、それを見ることになるだろう、ということが、想像的に意識されるのだ。(Pettersson 2018: 137)</p>
</blockquote>
<p> </p>
<p>ここでも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の想像説にはいろいろとツッコミどころがあるのだが、ペテルソンのおおまかな枠組みは、Liminal Spaceの不気味さを説明するのに十分役立つものだ。前述の通り、Liminal Spaceにおいてとりわけ重要だと思われる不在は、<strong>人</strong>の不在であるため、以下では「画像のうちに、人がいない空間を見て取る」経験として置き換えつつ敷衍していこう。</p>
<p>さしあたり、本記事の目的においては、描写される空間の性質として「人がいない」ことと「人-不在である」ことの違いを踏まえておくことが有用だろう。</p>
<ul>
<li><strong>「人のいない空間」の画像</strong>:人を描写する画像ではないあらゆる画像。</li>
<li><strong>「人-不在空間」の画像</strong>:人のための<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>な場所であることを想像的に意識させる画像。</li>
</ul>
<p>私の持っている『世界の犬図鑑』には、いろんな場所を駆け回る犬たちが描写されているが、どのページにも人は描写されていない。しかし、そのことは犬図鑑内の画像にLiminal Spaceのような不気味さを付与する事実ではない。「人のいない空間」の画像はありふれているのだ。</p>
<p>「人のいない空間」のサブクラスである「人-不在空間」は、たんに〈人がいない〉という否定的性質を間接的に伴うのではなく、<strong>〈人-不在である〉という肯定的性質を直接伴うような空間</strong>である。ペテルソンの枠組みに従えば、それは「もしそこに人がいたとしたら、われわれは画像のうちにその人を見ていただろう」という反事実条件とともに、それが人のための<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>な場所であることを、想像を介して意識させるような空間の描写である。<a href="#f-78c70d7a" name="fn-78c70d7a" title="たんなる「人のいない空間」ではなく「人-不在空間」であるかどうかは、おおむね知覚者の期待や態度に基づいて区別されるし、たんなる「人のいない空間」の画像ではなく「人-不在空間」の画像であるかどうかは、おおむね画像が提示される文脈や出自に関する情報(作者の意図など)で区別されるだろう。これを厳密に切り出す条件を見つける必要は、とくにないと思われる。">*9</a></p>
<p> </p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="und"><a href="https://t.co/E1ZLqXNvGR">pic.twitter.com/E1ZLqXNvGR</a></p>
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) <a href="https://twitter.com/SpaceLiminalBot/status/1408156175997284352?ref_src=twsrc%5Etfw">2021年6月24日</a></blockquote>
<p>
<script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
</p>
<p>Liminal Spaceは、明らかに単なる「人のいない空間」ではない。前述の通り、それは他の時間においては間違いなく誰かがいた/いるだろうはずなのに、今は誰もいない人工的空間なのである。このような空間は、そのうちに人の姿を探すことを促し、同時に〈人-不在である〉ことを意識させる。これを捉えた写真は、前節で見たような脱文脈化と再文脈化も加わり、<strong>観者の心的関与(想像、連想、推測)を動員しつつも、それを挫くような画像</strong>として成立する。こうして、Liminal Spaceのうちに人の姿を探すわれわれは、再び、前述した不気味さの動的プロセスに置かれるわけだ。</p>
<p>ここからも、より不気味なLiminal Spaceを見つけたり分析するためのtipが得られる。すなわち、単に人がいないのではなく、人-不在であることをなんらかの手段で効果的に前景化させた事例は、より不気味であり、ひとつの基準においてはよりよいLiminal Spaceなのだ。事例の分析は、空間やアングルの選択を通して、いかにこの性質を強調しているかが、ひとつの切り口となるだろう。</p>
<p> </p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/_4gl-FX2RvI?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p>なにもない空間をなにもない空間として理解すること(そして、そこに不気味さを感じること)は、心的な働きかけによって支えられている点で、ペテルソンが述べるように頭の中から出てくる[coming out of our heads]経験だ。</p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%A4%A5%A2%A5%CA%A1%A6%A5%ED%A5%B9">ダイアナ・ロス</a>が歌ったように「すべてはあなたの手の中にある[it's all in your hands]」のではなく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/MACINTOSH">MACINTOSH</a> PLUSが歌わせたように「すべてはあなたの頭の中にある[it's all in your head]」のかもしれない。</p>
<p> </p>
<h3 id="まとめLiminal-Spaceのなにが不気味なのか">まとめ:Liminal Spaceのなにが不気味なのか</h3>
<p>以上、Liminal Spaceという画像<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>が不気味さを喚起する理由の、少なくとも二つを説明してきた。言うまでもなく、理由はほかにもあるだろうが、この二つはLiminal Spaceの不気味さに関して、それなりに主要な部分を捉えているように、私には思われる。</p>
<ol>
<li><strong>痕跡としての不気味さ</strong>:写真は被写体を脱文脈化し、使用者によって再文脈化を施される。このことは、紛れもなく実在したなにかの痕跡でありつつ、それがなんの痕跡であるのか不確定であるというサスペンスにおいて、写真を不気味なものにする。Liminal Spaceもまた、超自然的で奇怪な空間であるという物語とともに、その痕跡なのではないかという認知から、不気味さを喚起する。</li>
<li><strong>人-不在画像としての不気味さ</strong>:たんに人が描かれていないのではなく、それが人のための<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>な場所であるにもかかわらず、今は人がいないことを想像的に意識させるような「人-不在画像」がある。Liminal Spaceもまたその一例であり、われわれはそのうちに人の姿を探しつつも、その心的関与が繰り返し挫かれることで、不気味さの動的プロセスに置かれる。</li>
</ol>
<p>もちろん、Liminal Spaceが喚起する情動は不気味さだけとは思われないし、ちらっと触れたとおり、ある種のノスタル<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>も重要なエレメントになる。別の切り口からの分析はまた別の人がやるというものだろう。</p>
<p> </p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-6dc77fb9" name="f-6dc77fb9" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">これは情動の哲学における認知主義[cognitivism]という立場を前提している(キャロルなど)。そうでないという人もいる(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%EA%A5%F3%A5%C4">プリンツ</a>など)。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-5b7b788b" name="f-5b7b788b" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">本論文はFinnish Society for Aestheticsのアワードをとっているほか、BJAの2018年ベストにも選出されているので、頼るには十分な肩書だろう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-d11cefb7" name="f-d11cefb7" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">用語が微妙に異なるが、数年前の発表で作ったスライドは以下。</p>
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20211007/20211007024047.png" alt="f:id:psy22thou5:20211007024047p:plain" width="627" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-4134e778" name="f-4134e778" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">そもそも本記事を書こうとしたきっかけは、<a href="https://twitter.com/bondbondoo/status/1407550323837726726">Twitterのほうで応用の可能性をご指摘いただいた</a>からだ。ありがとうございます。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-c5635d3e" name="f-c5635d3e" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ペテルソンはこのような写真の二面性を「描写的な痕跡[depictive traces]」と呼んで特徴づけているが、同様の二面性はすでに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>においても指摘されていた。その枠組みを見直そう、という話については<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%A4%CF%C0">修論</a>で書いた。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fmthesis" title="「写真を見ること、写真を通して見ること」を通して見ること|修士論文あとがき - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-899adfc1" name="f-899adfc1" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">Liminal Spacesの前身となった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-4e352172" name="f-4e352172" class="footnote-number">*7</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もちろん、事例の中には<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E5%A1%BC%A5%D6%A5%EA%A5%C3%A5%AF">キューブリック</a>映画のような、バチッと構図のキマったケースもある。その異様にストイックで無機質な構図が喚起する不気味さは、また別の様式美であろう。</p>
<p><iframe src="https://player.vimeo.com/video/48425421?h=9e8f70e3c4&app_id=122963" width="480" height="270" frameborder="0" allow="autoplay; fullscreen; picture-in-picture" allowfullscreen="" title="Kubrick // One-Point Perspective"></iframe></p>
<p></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-01d44c07" name="f-01d44c07" class="footnote-number">*8</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">さらに言えば、これもVaporwave経由なのだろうが、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%F3%A5%C6%A5%F3%A5%C9%A1%BC64">ニンテンドー64</a>的な、カクカクしつつものっぺりとしたバーチャル空間」など、ゲーム文脈から来ている美意識は少なからずあるだろう。『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A1%BC%A5%EB%A5%C7%A5%F3%A5%A2%A5%A4%20007">ゴールデンアイ 007</a>』なんて、どこをキャプチャーしてもLiminal Spaceだ。そこは、ゲームで行ったことのある場所なのだ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-78c70d7a" name="f-78c70d7a" class="footnote-number">*9</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">たんなる「人のいない空間」ではなく「人-不在空間」であるかどうかは、おおむね知覚者の期待や態度に基づいて区別されるし、たんなる「人のいない空間」の画像ではなく「人-不在空間」の画像であるかどうかは、おおむね画像が提示される文脈や出自に関する情報(作者の意図など)で区別されるだろう。これを厳密に切り出す条件を見つける必要は、とくにないと思われる。</span></p>
</div>
psy22thou5
美的に画一的な世界
hatenablog://entry/13574176438011002732
2021-09-13T20:31:07+09:00
2023-04-28T20:28:59+09:00 1.ネハマスの悪夢 ネハマスの悪夢という、分析美学では有名な話がある。*1 もし美的判断が普遍的同意を要求するのであれば、理想的には、皆があらゆる正しい判断を受け入れるだろう。つまり、完璧な世界では、われわれはみなまったく同じ場所に美を見出すことになるだろう。だが、そのような夢は、悪夢だ……。もしできるようであれば、次のような世界を想像してみよう。皆がまったく同じものを好み(もしくは愛し)、美に関するあらゆる意見の不一致が解消されうるような世界を、そのような世界は、悲惨(desolate)で、絶望的(desperate)だろう。(Nehamas 2007, 83. 訳文は森 2021より) ネ…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210913/20210913154219.png" alt="f:id:psy22thou5:20210913154219p:plain" width="1200" height="600" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<h3 id="1ネハマスの悪夢">1.ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢</h3>
<p>ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢という、分析美学では有名な話がある。<a href="#f-1ebf360b" name="fn-1ebf360b" title="紹介としては、森 (2021): 368-9を参照。森さんは、レヴィンソンの理想的鑑賞者説から、ロペスのネットワーク説へと移るつなぎとしてこの話に触れているが、「よくよく考えてみると、そのような世界の何が悪いのだろうか」という問題には答えきれていないように思う。というのも、「美的価値の規範性(理由付与性)があらゆる人にとって共通のものになってしまう」、「美的判断の理由の多様性」が失われてしまうことは、わるいので回避すべきだとあらかじめ想定できるようなことでもないだろうからだ。まず、現在の多様な美的実践を正確に記述できる、というのはたしかにネットワーク説の利点だが、もちろん、ここで問題となっているのは記述の正確さではない。また、ロペスが、「理想的な世界においても美的実践の多様性は失われていない」ことを暗に想定しているのであれば、それは一旦取り外して考えるべき想定なように思われる(ので、本稿のFAOはこれを取り外すためのアイテムになっている)。ロペスがなんらかの理由から「どれだけ理想的な世界においても美的実践の多様性は失われ得ない」と考えているのなら、その理由を示すことが必要だろう。結局のところ、美的多様性が消え去り、理想的鑑賞者しかいない世界の「何が悪いのだろうか」という問いは、いまだ未解決であるように思われる。
つまりは、「ネハマスの悪夢は悪夢ではない」という人がいたとして、彼がより言いそうなのは「そんな世界においても美的多様性が残りうる」ではなく、「その世界に美的多様性はないが、それでいいのだ」であるはずで、後者の開き直りに対する応答も必要だろう、ということだ。(ポリコレ下で堂々と主張できるような内容ではないだろうが、それはまた別の話だ。)
ところで私は原典のNehamas (2007)をまったく読んでいないので、以下の議論を、引用した箇所以外に関してネハマスに差し向けるつもりはまったくない。">*1</a></p>
<p> </p>
<blockquote>
<p>もし美的判断が普遍的同意を要求するのであれば、理想的には、皆があらゆる正しい判断を受け入れるだろう。つまり、完璧な世界では、われわれはみなまったく同じ場所に美を見出すことになるだろう。だが、そのような夢は、悪夢だ……。もしできるようであれば、次のような世界を想像してみよう。皆がまったく同じものを好み(もしくは愛し)、美に関するあらゆる意見の不一致が解消されうるような世界を、そのような世界は、悲惨(desolate)で、絶望的(desperate)だろう。(Nehamas 2007, 83. 訳文は<a href="http://journal.otsuma.ac.jp/2021no31/2021_365.pdf">森 2021</a>より)</p>
</blockquote>
<p> </p>
<p>ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>は、それを理想的鑑賞者説、とりわけ美的普遍性を要求するヒュームやカントに対する、直観的な拒絶感を示すものとして語っているように思われる。われわれの(理想的ではない)世界では美的な多様性があり、だからこそ豊かなのだが、たったひとつの普遍的な美的感性だけがある理想的な世界があったとしよう。気味悪いでしょう?というわけだ。</p>
<p>ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>はそのような世界を「悪夢」「悲惨」「絶望的」と語るが、ほんとうだろうか。実際のところ、ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の記述はあまり豊かなものではない。古典的な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%A3%A5%B9%A5%C8%A5%D4%A5%A2">ディストピア</a>に類似した世界を設定し、それがとにかく「悪夢」「悲惨」「絶望的」なのだと印象づけているだけなようにも思われる。しかし、小説や映画に出てくるこのような世界が、しばしば<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%A3%A5%B9%A5%C8%A5%D4%A5%A2">ディストピア</a>として描かれているからといって、実際に実現された場合に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%A3%A5%B9%A5%C8%A5%D4%A5%A2">ディストピア</a>であるとは限らない。<a href="#f-22db3e7d" name="fn-22db3e7d" title="ここには、(私がごくずさんな仕方で理解している)SFプロトタイピングの根本的困難のひとつがあると思っている。すなわち、あるイマジナリーな事物なり状況から逆算し、現在においてなにかしらの行動を起こすとき、前者に対する価値判断が必ずしも後者に対する行動の理由づけにならないのではないか、という困難だ。ことによると、可能な状況のひとつを前景化させることで、行動をナッジすること自体が目的なのかもしれない。(それがフォア向きの予測に比べてどれだけ気が利いているのかは素人には分からない。)">*2</a></p>
<p>よって、<strong>ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の取り上げるような画一的な世界は、よくよく考えれば、理想的鑑賞者説や美的普遍性を拒絶する動機や理由にならない</strong>、というのが私の主張だ。取り急ぎ付け加えるなら、私はそれら理論を支持したいわけではないし、世界は美的に画一的であるべきだと言いたいわけでもない。理想的鑑賞者説や美的普遍性に関する議論において、そのような思考実験は実際のところ冗長でしかないのかもしれない、と言いたいのだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="2世界Zと最後の美的対象">2.世界Zと最後の美的対象</h3>
<p>前述の通り、上に引用したネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の記述はあまり豊かなものではないため、こちらで改めて語り直してみよう。変な話だが、それが冗長であることを示すために、さらにもう一度(より冗長に)語り直してみるのだ。</p>
<p>いま、ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢を少しアレンジして、次のようなアイテムを考えてみよう。それは、至高の美的経験を与えてくれる。すなわち、低次から高次までさまざまなレベルにおいて、これ以上ない快楽を与えてくれる。これを<strong>「最後の美的対象(FAO: final aesthetic object)」</strong>と呼んでおこう。これまで、美的経験に関連して論じられてきたもの(あらゆる芸術作品、あらゆる自然の景観、etc.)で、快という点においてFAOに勝るものはない。FAOを見た者は、ほとばしる感動と強烈な満足感を覚え、森羅万象に対する感謝と敬愛の念で胸が一杯になる<a href="#f-af31d661" name="fn-af31d661" title="ことによると、薬物を用いたトリップ体験というのはまさにこのような美的経験を伴うのかもしれない。であるとすれば、FAOはそんなに空想的なアイテムでもないということになる。">*3</a>。</p>
<p>ただし、FAOを用いてこのような経験をするには、ひとつだけ条件がある。それは、ヒュームが求めるような理想的鑑賞者であることだ。実際のところ、FAOは難解な美的対象であり、かなりの鑑賞的スキルがないとまともに理解できないものである。繊細さと経験があり、偏見がなく良識のある優れた鑑賞者だけが、FAOによる至極の美的経験を味わえる。</p>
<p>もちろん、FAOは合法であり、なんら健康上の副作用もなく、また、その<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A1%BC%A5%AF">トーク</a>ンは無限かつ容易に手に入るとしよう。つまり、そうしたければ誰でもいつでもFAOを“鑑賞”できる、としよう。</p>
<p>ここで、理想的鑑賞者だけから構成された<strong>世界Z</strong>があるとしよう。世界Zでは、あらゆる人間は、ヒュームが求めるような鑑賞上の能力を兼ね備えている。そして、世界Zのあらゆる人はFAOに至高の美的経験を認め、また、FAOを日常的に嗜んでいる。世界Zはネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢よりも一層、美的個性が失われている。というのも、ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢の世界では、いくつかの美的対象に関して、あらゆる人がそれらを好み、評価することもありうる(つまり、FAOのようなものが何種類かある)が、世界ZではFAOこそ唯一かつ至上の美的対象だと評価され、誰もがそれを最も好んでいるからだ。</p>
<p>もちろん、世界Zにおいても、《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%CA%A5%EA%A5%B6">モナリザ</a>》を見たり<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%A7%A5%A4%A5%AF%A5%B9%A5%D4%A5%A2">シェイクスピア</a>を読んだりベートーベンを聞く人はいる。しかし、彼らは純粋に歴史的価値を求めてそれらを調査するのであって、こと美的価値に関してはそれらがFAOに遠く及ばないことを認めている。美的経験のためであったら、誰もが《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%CA%A5%EA%A5%B6">モナリザ</a>》よりもFAOにアクセスすることを選ぶ。世界Zでは、「美的価値においては、FAOという至上のものがただ一つあるだけで、その他のあらゆるものは大した美的価値を持たない」ということで誰もが合意している。よって世界Zでは、美的な事柄に関して対立はもはや生じない。《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%CA%A5%EA%A5%B6">モナリザ</a>》と《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>》のどっちが優れているのかなんていうのはどんぐりの背比べであって、誰もそんなことを問題にしようとはしない。そんな暇があったらみんなFAOを見に行く。</p>
<p>世界Zにおいては、従来の美的営みをあえてしようとする者はいない。映画館、ギャラリー、ダンス教室はすべてFAOステーションに置き換えられ、画家、バンドマン、キュレーター、広告デザイナーは、その大半がFAO工場の従業員に転職した。もちろん、昔ながらの芸術作品を作り続ける人はいるが、それはもはや美的営みではなく、純粋に儀式的な営みでしかない。</p>
<p>さて、世界Zの構成員は、誰もがその美的生活に満足している。美的個性があったほうがいいのになぁ、と考える人は一人もいない。そこは美的には完全に没個性で、画一的で、しかし幸福とも言える世界だ。</p>
<p> </p>
<p>われわれの<strong>世界A</strong>にはFAOはない。ので、たったいま、たまたま宇宙の果てから最初のFAOが飛来してきた<strong>世界B</strong>を想定しよう。限りなく理想的鑑賞者に近いある批評家がいて、FAOの尋常ではない美的価値に気づいたとする。それを友人である優れた批評家らに広め、そうこうしているうちに世界中のニュースで大々的に取り上げられ、FAO旋風が巻き起こる。名だたる批評家は口を揃えてFAOを礼賛し、その良さが分からず自己嫌悪に陥ってしまう人でも、訓練さえ積めばFAOを理解できることが明らかになったため、市民向けの鑑賞講座が大流行する。しかしまだ、その一線を超えることが、「なんか嫌だ」という芸術愛好家はたくさんいる。FAOは素人目には意味不明だし、鑑賞講座もうさんくさい。でも、知人でそっち側にいった人は日に日に増えている……。</p>
<p> </p>
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210913/20210913144750.png" alt="f:id:psy22thou5:20210913144750p:plain" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif;" /></p>
<p> </p>
<h3 id="3美的に画一的な世界は悪夢なのか">3.美的に画一的な世界は悪夢なのか</h3>
<p>さて、全人類が理想的鑑賞者を目指し、やがてFAO以外の対象を美的経験の対象とすることをやめることは、なんらかの点においてわるいことなのか。すなわち、世界Bは世界Zに向かってはならないのか。それは悪夢であり、悲惨で絶望的だと言われなきゃならないことなのか。</p>
<p>私はここまで、それを反語的に問うてきたが、実際は直観的にもよく分からない。世界Zでは美的に重要ななにかが確かに損なわれている気もするし、世界Zでいいじゃないかという気もする。このような極端な世界に対して、はっきりとした直観を持った人は、世界Aにはほとんどいないのではないか、とすら思っている。</p>
<p>私はここで立ち止まって逡巡するかわりに、しれっと「そのような夢は、悪夢だ……」と語ることもできた。それこそネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>のしていることだと思うのだが、そうやって印象づけるのはフェアではない、というのが私の主張だ。</p>
<p> </p>
<p>もう少しだけ逡巡しよう。</p>
<p>まず、画一化された幸福な世界Zに対して、「画一的だからダメだ」「多様性がないからダメだ」というのはほとんど情報量のない批判だ。それは、つまるところ「多様性があったほうがよく、画一的であるほうがわるい」という、今日の(相対的に言ってリベラルなサークルにいる)われわれの価値観を思考実験上の極端な世界にも延長しているに過ぎない。世界Zがわれわれから見て気味悪いのは、言うまでもない。しかし、今日のわれわれが平然とやっていることのうち、20世紀初頭の人に伝えて気味悪がられることは少なくない。</p>
<p>「そういった世界では、執政者による影の搾取が行われており……」みたいなのは的を外した批判だ。世界Zではそういうことが起きていない、というふうに仮定するのは容易であるし、少なくとも美的生活に関して隙がないことはあらかじめ仮定されている。理想的な世界は徹底的に理想的なのだ。その上で、美的に拒絶する理由を探さなければならない。</p>
<p>理想的鑑賞者説のもとでは、誰もが同じ理想を目指して、自らの鑑賞スキルを磨いていく。その終着として訪れるのが世界Zであるとして、そのなにがわるいのか。これが反語として多少なりとも説得的なのであれば、ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢はもはや理想的鑑賞者説に反対する直観的な下支えにはなっていないのだろう。</p>
<p> </p>
<p>とはいえ、この思考実験が示唆する別の側面に注目することで、理想的鑑賞者説への<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EB%A5%BF%A5%CA%A5%C6%A5%A3%A5%D6">オルタナティブ</a>な批判が立ち上がる可能性もある。</p>
<p>それは、①多様性に満ちたわれわれの世界Aから、画一化された世界Zへと向かう過程で、多くの美的個性が本人の意思に依らず失われること、それ自体を大きなコストとして強調すること、②そのようなコストに対し、謳われている理想の世界が実現される見込みがかなり低いか、ほとんど実現不可能だと主張すること、だ。</p>
<p>おそらくは歴史上、少なくない政治社会的思想が、ある種の究極の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%FD%C1%DB%BC%D2">理想社</a>会を語ってきた。その理想の社会においては、画一化された人民が、苦悩もなく幸福に暮らしているとされる。しかし、それを夢見てさまざまな改革を押し進めるなかで、ろくでもないことが多く生じてきたのは歴史が示す通りだ。すなわち、理想化された世界ではなくそこに向かう過程こそが、悲惨で絶望的である見込みが高い。<a href="#f-90bb8136" name="fn-90bb8136" title="もちろん、過程ではなく理想的な結果が重要なのだ、という革命主義者もいるだろう。そこまで来られたら私にはなんとも言えない。">*4</a></p>
<p>理想的鑑賞者説に関しても同様である。現在、われわれの世界Aにおいては、さまざまな美的エキスパートが、それぞれの達成基準において豊かな美的生活を送っている。FAOがあろうがなかろうが、理想的鑑賞者を普遍的目標として掲げることは短期的中期的に悲惨で絶望的な出来事を引き起こす恐れがある。もちろん、その最後の最後には美的に完成された世界Zが待っているのかもしれないが、その過程で生じる強制・差別・迫害が正当化されるとは思われない。</p>
<p>また、ちゃんと世界Zにたどり着くかどうかも疑わしい。おそらくは世界Dぐらいでさっそく<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%C4%CD%F8%B4%EB%B6%C8">営利企業</a>がFAOを独占し、各地で美的<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%C7%B0%D7%CB%E0%BB%A4">貿易摩擦</a>や美的南北問題が生じたり、ペテン師がオンラインサロンで高額だが効果の低い鑑賞講座を開いたり、飲めばただちに理想的鑑賞者になれる(?)錠剤ICが売られたりするのだろう。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%FD%C1%DB%BC%D2">理想社</a>会を謳う集団が不正と<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%F8%BF%A6">汚職</a>にまみれたように、さまざまな事情(経済システム、政治状況、人間本性の欲望、etc.)によって、世界Zというのは決してたどり着けないのかもしれない。</p>
<p>これらは、経験則的な拒絶にしかならないが、より地に足のついた拒絶であろう。</p>
<p> </p>
<h3 id="4まとめ">4.まとめ</h3>
<h4 id="本稿が言っていること">本稿が言っていること</h4>
<ul>
<li><span style="color: #0000cc;">思考実験として、美的に画一化された世界を思い浮かべることは、理想的鑑賞者説や美的普遍性を拒絶する上でほとんど助けにならない。なぜなら、理想的鑑賞者説は「美的に画一化された世界でなにがわるい」と開き直る可能性があるからだ。</span></li>
<li><span style="color: #0000cc;">強いて言えば、画一化された世界が美的にわるいというよりも、そこに向かう過程が美的にわるい、とは言えるかもしれない。</span></li>
</ul>
<p> </p>
<h4 id="本稿が言っていないこと">本稿が言っていないこと</h4>
<ul>
<li><span style="color: #ff0000;">理想的鑑賞者説は正しい。</span></li>
<li><span style="color: #ff0000;">理想的鑑賞者説は間違っている。</span></li>
<li><span style="color: #ff0000;">ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢の世界や世界Zは、悪夢でも悲惨でも絶望的でもない。</span></li>
<li><span style="color: #ff0000;">美的に画一的な世界は必ずや豊かなので、美的多様性を捨ててでも、みんなで理想的鑑賞者を目指すべきである。</span></li>
<li><span style="color: #ff0000;">美学において思考実験はつねに冗長で無意味である。</span></li>
</ul><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-1ebf360b" name="f-1ebf360b" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">紹介としては、<a href="http://journal.otsuma.ac.jp/2021no31/2021_365.pdf">森 (2021): 368-9</a>を参照。森さんは、レヴィンソンの理想的鑑賞者説から、ロペスのネットワーク説へと移るつなぎとしてこの話に触れているが、「よくよく考えてみると、そのような世界の何が悪いのだろうか」という問題には答えきれていないように思う。というのも、「美的価値の規範性(理由付与性)があらゆる人にとって共通のものになってしまう」、「美的判断の理由の多様性」が失われてしまうことは、わるいので回避すべきだとあらかじめ想定できるようなことでもないだろうからだ。まず、現在の多様な美的実践を正確に記述できる、というのはたしかにネットワーク説の利点だが、もちろん、ここで問題となっているのは記述の正確さではない。また、ロペスが、「理想的な世界においても美的実践の多様性は失われていない」ことを暗に想定しているのであれば、それは一旦取り外して考えるべき想定なように思われる(ので、本稿のFAOはこれを取り外すためのアイテムになっている)。ロペスがなんらかの理由から「どれだけ理想的な世界においても美的実践の多様性は失われ得ない」と考えているのなら、その理由を示すことが必要だろう。結局のところ、美的多様性が消え去り、理想的鑑賞者しかいない世界の「何が悪いのだろうか」という問いは、いまだ未解決であるように思われる。</p>
<p>つまりは、「ネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>の悪夢は悪夢ではない」という人がいたとして、彼がより言いそうなのは「そんな世界においても美的多様性が残りうる」ではなく、「その世界に美的多様性はないが、それでいいのだ」であるはずで、後者の開き直りに対する応答も必要だろう、ということだ。(ポリコレ下で堂々と主張できるような内容ではないだろうが、それはまた別の話だ。)</p>
<p>ところで私は原典の<a href="https://philpapers.org/rec/NEHOAP-2">Nehamas (2007)</a>をまったく読んでいないので、以下の議論を、引用した箇所以外に関してネ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%DE%A5%B9">ハマス</a>に差し向けるつもりはまったくない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-22db3e7d" name="f-22db3e7d" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ここには、(私がごくずさんな仕方で理解している)SFプロトタイピングの根本的困難のひとつがあると思っている。すなわち、あるイマジナリーな事物なり状況から逆算し、現在においてなにかしらの行動を起こすとき、前者に対する価値判断が必ずしも後者に対する行動の理由づけにならないのではないか、という困難だ。ことによると、可能な状況のひとつを前景化させることで、行動をナッジすること自体が目的なのかもしれない。(それがフォア向きの予測に比べてどれだけ気が利いているのかは素人には分からない。)</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-af31d661" name="f-af31d661" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ことによると、薬物を用いたトリップ体験というのはまさにこのような美的経験を伴うのかもしれない。であるとすれば、FAOはそんなに空想的なアイテムでもないということになる。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-90bb8136" name="f-90bb8136" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もちろん、過程ではなく理想的な結果が重要なのだ、という革命主義者もいるだろう。そこまで来られたら私にはなんとも言えない。</span></p>
</div>
psy22thou5
モンロー・ビアズリー「美的観点」(1970)を翻訳しました
hatenablog://entry/26006613790446817
2021-08-30T20:24:21+09:00
2023-04-28T20:28:59+09:00 モンロー・ビアズリーの「美的観点」という論文を翻訳しました。最新号のフィルカル6(2)に載っています。論文の中身や背景については訳者解説も付けているので、そちらをどうぞ。 20世紀分析美学の礎を築いた巨人を三人挙げるとすれば、ビアズリー、シブリーはほぼ確定として、個人的に3人目はディッキーだと思っているが、ウォルハイムでしょ(美術批評の人じゃん)、いやいやグッドマンだ(なにをいう奴は言語哲学者だ)、ダントーに決まっている(ヘーゲリアンはNG)などと揉めるところか。ともかく、ビアズリーの功績は満場一致で認める(べき)ところだろう。 「美的観点」は1970年に出版された論文。主著の『美学』が195…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210830/20210830153729.png" alt="f:id:psy22thou5:20210830153729p:plain" width="1200" height="675" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p>モンロー・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>の「<a href="https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1467-9973.1970.tb00784.x">美的観点</a>」という論文を翻訳しました。最新号の<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4943995292/ref=cm_sw_r_tw_dp_ZVGT5J2K1XNX10MT68ZT">フィルカル6(2)</a>に載っています。論文の中身や背景については訳者解説も付けているので、そちらをどうぞ。</p>
<p> </p>
<p>20世紀分析美学の礎を築いた巨人を三人挙げるとすれば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>、シブリーはほぼ確定として、個人的に3人目はディッキーだと思っているが、ウォルハイムでしょ(美術批評の人じゃん)、いやいやグッドマンだ(なにをいう奴は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%C5%AF%B3%D8">言語哲学</a>者だ)、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>に決まっている(ヘーゲリアンはNG)などと揉めるところか。ともかく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>の功績は満場一致で認める(べき)ところだろう。</p>
<p>「美的観点」は1970年に出版された論文。主著の『美学』が1958年出版なので、ひとしきり批判や応答が終わったあとで、自説を整理するような内容になっている。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>の理論を概観するのに便利なテキストであり、1982年の同名論集『美的観点』でも筆頭論文として収録されている。</p>
<p> </p>
<p>読んでいただければ分かるように、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>の立場は結構トガッたものである。賛同するにせよ批判するにせよ、こういう立場が分析美学の歴史において重要な位置を占めてきたことは知っておきたい。 </p>
<p>ともすれば「分析美学」は、ある種のやり方において芸術や美的経験を考える手法として理解されており、("ある種のやり方"が曲解されていない限り)それはそれでよいことなのだが、学統としての分析美学を知るためにその歴史をあたるのもよいことだろう。とくに、日本語でアクセスできる情報はまだ多くないので、その助けになったとしたら幸いだ。</p>
<p> </p>
<p>訳は「<a href="https://www.senkiyohiro.com/research/aesthetics/chandoku">分析美学第一世代をちゃんと読む会</a>」にて検討いただいた。とりわけ、高田敦史さん、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%B8%F9">森功</a>次さんには通しでコメントをつけていただいた。また、一度<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BB%CE%BB">校了</a>となった後で重大なものを含む誤植がぽんぽんと見つかり、フィルカル制作部さまにはたいへんなご迷惑をおかけした。皆さまのおかげで多くの醜態を回避できました。ありがとうございます。</p>
<p> </p>
<h3>余談(A)アントニオーニの『欲望』</h3>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/TrJ9U75OZOw?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget2"></iframe></p>
<p>論文の終盤で<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A5%B1%A5%E9%A5%F3%A5%B8%A5%A7%A5%ED%A1%A6%A5%A2%A5%F3%A5%C8%A5%CB%A5%AA%A1%BC%A5%CB">ミケランジェロ・アントニオーニ</a>の『欲望』(1966)に触れている。ほかの観点をないがしろにしてまで美的観点ばかりとってしまうことの弊害を語っている箇所であり、『欲望』もまたこれを主題とした映画だと語っている。</p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は「泥沼にはまるのは嫌なので、こう述べるのはかなり気が引ける」と自信なさげだが、実際、私はこのような仕方で『欲望』を要約してしまうのはいくらか的外れだと思っている。</p>
<p>たしかに、主人公の若手写真家は仕事に貪欲で、モデルに対して横柄であり、通行人でも平気で盗撮するという意味では、モラルの欠けたヤバいやつだ。そういう意味では、道徳的観点よりも美的観点を優先する人物のように思われるかもしれない。しかし、この話には一捻りある。主人公の本業はコマーシャル写真なのだが、モデルを撮影する仕事にはうんざりしており、自分としてはもっと生々しい現実を切り取った報道写真がやりたいと思っている(し、ウォーカー・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%D0">エバ</a>ンス風の写真を編集者?に売り込む場面もある)。やがて、偶然撮影してしまったなにかに取り憑かれて、真相究明へと奔放するのも、こういったジャーナリスティックな意欲があってのことだ。</p>
<p>すなわち、『欲望』の中心となる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%CE%A5%A4%A5%A2">パラノイア</a>は、認識論的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%CE%A5%A4%A5%A2">パラノイア</a>ではあるが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>が述べたような美的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%CE%A5%A4%A5%A2">パラノイア</a>ではない。もちろん、芸術写真という分野において認識論的なものと美的なものは容易には切り離せない、という事情はあるだろう。それでも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>が厳密に定義したところの「美的観点」(事物の形式的統一性や領域的質の強度にフォーカスするもの)が前景に来るような話とは思われない。</p>
<p>あるいは、なんの脈略もなく巨大なプロペラを購入するくだりを踏まえて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は「あんなガ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>タまで美的観点で見ちゃう写真家」だと考えたのかもしれない。その解釈もいまいちな気がするが、プロペラに関してはなんにも分からない。作品を見てもらえれば分かるが、プロペラは物語の筋にはまったくと言っていいほど絡んでこない。端的に言って意味不明なのだ。</p>
<p><a href="https://filmarks.com/movies/7754/reviews/113901187">『欲望』はかなりいい映画だと思う</a>のだが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>的な意味での統一性(一貫性、完全性)に反する要素がかなりある。残念ながら、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>が『欲望』を気に入ったのか気に食わなかったのかは分からない。</p>
<p> </p>
<h3>余談(B)「翻訳と裏切り」</h3>
<p>アーサー・C・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>に、「<a href="https://www.jstor.org/stable/20166986">翻訳と裏切り</a>」という題の短いコラムがある。イタリア語には「Traduttore traditore」という格言があり、おおむね「翻訳家は裏切り者だ[The translator is a betrayer]」という意味になるが、こうやって翻訳すること自体が裏切りへの加担となってしまう。イタリア語では「Traduttore」と「traditore」がいわばダジャレになっているのだが、「翻訳家は裏切り者だ」や「The translator is a betrayer」ではそのことが分からない。このように、翻訳家の裏切りとは第一に、原文を忠実に移し替えることができず、原文の重要なニュアンスやイメージやリズムを失ってしまうことを指す。完全に正確な翻訳などありえない、というわけだ。</p>
<p>一方で、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>はもうひとつの裏切りについて語る。それは、「知識は力である」という事実と関わるものだ。ある人ないし集団だけが知っている秘密は、まさに秘密であるがゆえに彼らが独占している力(権力といってもよい)である。これを他者ないし他集団に共有することは、彼らの独占していた力を失わせることになる。</p>
<blockquote>
<p>秘密の言葉は、それが秘密である限りで力を与えてくれる。それを翻訳し、その知識と力を外国人[<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/alien">alien</a>]の手に受け渡すとき、私は秘密を裏切ることになる。(Danto 1997: 62)</p>
</blockquote>
<p>それはちょうど火を盗んで人類に与えたプロメテウスのような裏切りである。このような裏切りは、翻訳の不可能性よりもむしろ、翻訳できてしまうことを前提としている点で、第一の裏切りとは性格を異にする。翻訳には、民主的で、反権力的な性格がある。</p>
<blockquote>
<p>今日の世界において、学術的な書き物はそれを読むのに解釈学的な努力を要するほど不明確な様相を呈している。あたかも解釈学者を念頭において書かれているかのようだ。それは権力と権威の基盤にほかならないため、明晰な散文に翻訳しようなどというのは裏切りであり、権力と権威を消滅させてしまう、というわけだ。解釈者は、彼らなりのやり方でテキストを独占する聖職者カルトなのだ。翻訳が裏切りなどというのは、彼らに勝手にそう思わせておけ!(Danto 1997: 63)</p>
</blockquote>
<p>力強い文章だ。この最後の段落に至って、話は不明確さと明確さをめぐる議論にまで踏み込んでいる。もちろん、複雑なことを複雑なまま理解することは知の本分であり、明確化には単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>の危うさがあるので、一概にはなんともいえない話題だ。それでも、第一の裏切りに苦悶し、第二の裏切りを引き受ける(プロメテウスになる)ことはやはりひとつの美徳なのだろう。</p>
<p> </p>
<p>翻訳は中学のころから携わりたかった営みのひとつであり、実際に携わっていて精神衛生上かなりよい営みだと分かった。今後も続けていきたいので、うまい話があったらこっそり教えてください。</p>
psy22thou5
レジュメ|Andrea Sauchelli「機能美、知覚、美的判断」(2013)
hatenablog://entry/26006613795846178
2021-08-11T20:37:08+09:00
2021-08-11T20:38:27+09:00 Andrea Sauchelli「機能美、知覚、美的判断」(2013)のレジュメ|Sauchelli, Andrea (2013). Functional Beauty, Perception, and Aesthetic Judgements. British Journal of Aesthetics 53 (1):41-53.
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210811/20210811191415.jpg" alt="f:id:psy22thou5:20210811191415j:plain" width="1200" height="601" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FSAUFBP" title=" Andrea Sauchelli, Functional Beauty, Perception, and Aesthetic Judgements - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Sauchelli, Andrea (2013). Functional Beauty, Perception, and Aesthetic Judgements. <em><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/British">British</a> Journal of Aesthetics, 53</em>(1):41-53.</span></p>
<p> </p>
<p><strong>「機能美[functional beauty]」</strong>についての論文<a href="#f-a2cc2509" name="fn-a2cc2509" title="著者アンドレア・ソーチェリ[Andrea Sauchelli]は香港嶺南大学哲学科のAssociate Professorで、同学科の学科長をされている。もともと形而上学の人っぽいが、虚構的対象、芸術と倫理、ホラーの論文なんかも書いている。嶺南大学は分析美学の拠点としてはけっこうすごくて、Paisley LivingstonとRafael De Clercqがいるし、ちょっと前はMikael Petterssonがいた。">*1</a>。意外と紹介されていないトピックですが、デザインや日用品の美学まわりは気になっている人多そう。</p>
<p>図らずも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>のカテゴリー論や認知的侵入について気になっていたことにも関わる話題でお得でした。</p>
<h3>レジュメ</h3>
<p>伝統的には、機能について実用的観点から考えることが、無関心的な美的経験と折り合いがつかないことから、機能美は扱いにくいトピックだった。しかし最近だと、<a href="https://oxford.universitypressscholarship.com/view/10.1093/acprof:oso/9780199205240.001.0001/acprof-9780199205240">Glenn Parsons & Allen Carlsonによるまとまった著作</a>が出たこともあり、徐々に注目されつつある<a href="#f-8552fe51" name="fn-8552fe51" title="『分析美学基本論文集』に載っているビアズリー『美学』の画像表象章でも、最後の方でデザインと機能の関係が語られているので、関心としてはつねにうっすらあったと思われる。私もそちらから入った。">*2</a>。</p>
<p> </p>
<p>Sauchelliによれば、機能美に関しては大きく外在主義的説明と内在主義的説明があるとのこと。</p>
<p><strong>外在主義</strong>によれば、機能は美的判断の外部にある。</p>
<ul>
<li>見た目だけとれば美しい車でも、機能的にダメ、例えば壊れていて走れない場合は、「車として美しい」とは言い難くなる。すなわち、機能的対象に対する「美しい」といった判断は、その機能をどれだけ果たしているかによって<strong>制約を受ける</strong>。</li>
<li>一方で、機能に関する考慮は、肯定的な美的判断に直接入り込むようなものではない。すなわち、機能的に優れているゆえに美しい、みたいな関係はない。</li>
<li>カントおよび<a href="https://www.jstor.org/stable/30054208">Guyer (2002)</a>によれば、機能的対象を美しいと判断する(美的喜びを得る)上で、その対象が機能によく適合している、という事実が<strong>必要条件</strong>となる。</li>
</ul>
<p>こういう仕方で、機能に関する考慮が美的判断に対し、間接的・否定的に関わるというのが外在主義。</p>
<p><a href="https://4.bp.blogspot.com/-_WOqR0D0G0I/Uku9V8gjBiI/AAAAAAAAYgo/3P_95XnqbNM/s400/car_sports.png" class="http-image"><img src="https://4.bp.blogspot.com/-_WOqR0D0G0I/Uku9V8gjBiI/AAAAAAAAYgo/3P_95XnqbNM/s400/car_sports.png" class="http-image" alt="https://4.bp.blogspot.com/-_WOqR0D0G0I/Uku9V8gjBiI/AAAAAAAAYgo/3P_95XnqbNM/s400/car_sports.png" width="262" /></a></p>
<p>もうちょっと穏健な外在主義として、「事物が実際に機能を果たすこと(実際に速く走れる車であること)」ではなく、「機能を果たしそうに<strong>見える[appear]</strong>こと(速く走れそうな見た目の車であること)」を必要条件とみなすものもある<a href="#f-a496392c" name="fn-a496392c" title="ビアズリーはさらに、「速く走れそうな車である」を、①機能に関する推論「このエンジンを積んでいるからには速く走れそうだ」と、②デザインに対する記述「この流線型のボディは速く走れそうなデザインだ」に分けている。基本的には②の話に向かうべきだろう。">*3</a>。おそらくこっちのほうが、美的判断の話とは親和的である(美的判断はふつう見た目だけに基づいてなされるので)。</p>
<p>一方、<strong>内在主義</strong>によれば、機能に関する考慮にはもっと積極的な役割がある。</p>
<ul>
<li>ある対象は、その<strong>機能を果たすように見えるおかげで</strong>美しい、と言えたりする。すなわち、機能に関する知識が、肯定的・否定的美的判断に直接入り込む。</li>
<li>逆に、機能的対象の美的判断において、機能を果たしそうに見えることが必要条件だ、みたいな主張にはコミットしない。</li>
</ul>
<p>もうちょっとひねった内在主義として、「<strong>美しさのおかげで</strong>機能を果たす場合には、機能的に美しい」というコミットだけする立場もある。これは文字通り、美が機能となっているケース。<a href="https://philpapers.org/rec/STEAJA-2">Davies (2006)</a>はこれ。しかし、美と機能の内的関係はこれだけとは思われない。</p>
<p>本稿では、「ある対象が持つ非美的要素の認識+機能に関する知識⇒機能美を感じる」といった内在主義に焦点を当てる。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Foxford.universitypressscholarship.com%2Fview%2F10.1093%2Facprof%3Aoso%2F9780199205240.001.0001%2Facprof-9780199205240" title="Functional Beauty" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe>たたき台となるのはやはりParsons & Carlson (2008)の説明だ。</p>
<p>彼らは<a href="https://note.com/morinorihide/n/ned715fd23434">Walton (1970)のカテゴリー論</a>を援用して機能美を説明している<a href="#f-a256b992" name="fn-a256b992" title="ところで、機能的カテゴリーの結構な部分は、Walton (1970)のうち、Leatz (2010)が強調していた「知覚的に見分けられるカテゴリー」という制限からもれるような気もする(外から見てもなんの機能を果たすのかよくわからない建造物はいっぱいあるだろう)。またしてもウォルトン解釈のどろぬまにはまりそうな予感。">*4</a>。ざっくりまとめると、以下のようなことを言っている。</p>
<ul>
<li>一般的に、美的性質の知覚は、非美的性質だけでなく、それのカテゴリー相対的な位置づけ(踏まえているカテゴリーにとって標準的か可変的か反標準的か)にも依存する。(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a> 1970)<a href="#f-7e7f035f" name="fn-7e7f035f" title="ここでも、標準的特徴とは「そのカテゴリーに属するのに不可欠[essential]な特徴」だと説明されており、ウォルトンそんな強いことゆうてたかな、と頭をひねっている。">*5</a></li>
<li>機能的対象における美的性質の知覚は、非美的性質だけでなく、その機能に関する知識にも依存する。</li>
<li><strong>フィットしているように見える[looking fit]</strong>⇐ある事物のうち、ある非美的性質が、機能的カテゴリーにとって反標準的ではなく、そのカテゴリーの機能に沿っているように見える。</li>
<li><strong>エレガントで優美でシンプルに見える</strong>⇐ある事物のうち、機能的カテゴリーにとっての反標準的特徴や可変的特徴がなく、標準的特徴しかないように見える。</li>
<li><strong>視覚的緊張[visual tension]を感じる</strong>⇐ある事物のうち、機能的カテゴリーにとっての反標準的特徴がありつつも、依然として機能を果たしそうには見える。</li>
</ul>
<p><a href="https://4.bp.blogspot.com/-iSwVc2gXgh4/UVTVB9-yNtI/AAAAAAAAPBA/98eA_zBPZdA/s1600/japan_nihontou.png" class="http-image"><img src="https://4.bp.blogspot.com/-iSwVc2gXgh4/UVTVB9-yNtI/AAAAAAAAPBA/98eA_zBPZdA/s1600/japan_nihontou.png" class="http-image" alt="https://4.bp.blogspot.com/-iSwVc2gXgh4/UVTVB9-yNtI/AAAAAAAAPBA/98eA_zBPZdA/s1600/japan_nihontou.png" width="330" /></a></p>
<p>例えば刀は、「人を切る」という刀の機能に適した標準的特徴から成るならばフィットしているように見えるし、プラスチック性であったり(反標準的特徴)せず、余計な装飾(可変的特徴)などがなければエレガントに見える。</p>
<p><a href="https://www.midcenturymetalchairs.com/x/cdn/?https://storage.googleapis.com/production-sitelio-v1-0-6/516/329516/821QL3rX/62d5b416ecb2409fba6deba880fc1f14" class="http-image"><img src="https://www.midcenturymetalchairs.com/x/cdn/?https://storage.googleapis.com/production-sitelio-v1-0-6/516/329516/821QL3rX/62d5b416ecb2409fba6deba880fc1f14" class="http-image" alt="https://www.midcenturymetalchairs.com/x/cdn/?https://storage.googleapis.com/production-sitelio-v1-0-6/516/329516/821QL3rX/62d5b416ecb2409fba6deba880fc1f14" width="302" /></a></p>
<p>Viktor Schreckengostによる庭椅子は、後ろ足がついていないデザインが「安定して快適に座らせる」という椅子の機能にとって反標準的であり、ぞくぞくする[vibrant]、驚くべき[surprising]ものとしての視覚的緊張を与える。</p>
<p> </p>
<p>Parsons & Carlsonの説明はよさげだが、<a href="https://philpapers.org/rec/SHIOAA">Shiner (2011)</a>からの反論がある。それによれば、椅子やナイフやフォークみたいな、単純でどれも似通った姿をしている機能的カテゴリーならともかく、<strong>美術館のようなカテゴリーだと、標準的特徴となるような形式[form]がどれなのか定かではない</strong>。</p>
<p><a href="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Guggenheim-bilbao-jan05.jpg" class="http-image"><img src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Guggenheim-bilbao-jan05.jpg" class="http-image" alt="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Guggenheim-bilbao-jan05.jpg" width="395" /></a></p>
<p><a href="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/Uffizi_Gallery%2C_Florence.jpg/560px-Uffizi_Gallery%2C_Florence.jpg" class="http-image"><img src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/Uffizi_Gallery%2C_Florence.jpg/560px-Uffizi_Gallery%2C_Florence.jpg" class="http-image" alt="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/Uffizi_Gallery%2C_Florence.jpg/560px-Uffizi_Gallery%2C_Florence.jpg" width="336" /></a></p>
<p>例えば、<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%83%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8">ビルバオ・グッゲンハイム美術館</a>と<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8">ウフィツィ美術館</a>は、どちらも美術館としての機能をちゃんと果たしている限り、どっちが美術館としてより標準的な形とも言い難い。<a href="#f-926d4100" name="fn-926d4100" title="前者は攻め攻めのポストモダン建築で、後者は古典的でコンサバな建築。美術館という機能的カテゴリーにとって標準的なのはどっちとも言い難い、という話。
しかしここでも、「標準的特徴」がブレブレなせいでしんどい。美術館としての標準的特徴は、これはもう〈立体の建造物である〉〈なかに美術品をおける〉ぐらいのトリヴィアルな特徴ぐらいしかなく、見た目はそもそも可変的特徴だろう。ここで言われている「標準的」は、せいぜい傾向的にありがちかつそう期待される見た目、というぐらいのことだろう。なのではじめから標準的特徴には訴えず、「期待」でいいじゃん、というのはそりゃそうである。">*6</a></p>
<p> </p>
<p>Sauchelliによる代替案は、機能的カテゴリーと結びついた特徴に訴えるかわりに、<strong>期待[expectation]</strong>に訴えるものだ。Sauchelliはそう書いてないが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>のカテゴリー論を、より一般的な「期待」概念でバックパッシングしたものと言えよう。</p>
<p>ここで期待とは、</p>
<ul>
<li>ある機能がどのようにしてある形で実現されるべきか、あるいは実現されるだろうかということに関する<strong>信念[belief]</strong>であり、</li>
<li>同様の機能を持つように見える事物に対する、<strong>これまでの経験</strong>の結果として形成され、</li>
<li>機能的カテゴリーにとっての標準的特徴などとは違い、固定されたものではない、とされる。</li>
</ul>
<p><a href="https://4.bp.blogspot.com/-0kLmvB0BBTk/W9597vkjN5I/AAAAAAABP6A/NfBJp8p6dgkzYKVHTekt2kdYvr3eaJG6QCLcBGAs/s800/sports_soccer_pass_man.png" class="http-image"><img src="https://4.bp.blogspot.com/-0kLmvB0BBTk/W9597vkjN5I/AAAAAAABP6A/NfBJp8p6dgkzYKVHTekt2kdYvr3eaJG6QCLcBGAs/s800/sports_soccer_pass_man.png" class="http-image" alt="https://4.bp.blogspot.com/-0kLmvB0BBTk/W9597vkjN5I/AAAAAAABP6A/NfBJp8p6dgkzYKVHTekt2kdYvr3eaJG6QCLcBGAs/s800/sports_soccer_pass_man.png" width="192" /></a></p>
<p>例えば、サッカーシューズの適切な機能とは「ピッチ上を走り、ボールをうまくコン<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%EB">トロール</a>させること」だと知っていれば、過去の経験に基づいて、サッカーシューズとはだいたいこういう形だろうという期待が生じる。そして、期待通りのものに出会えば「フィットしているように見える」という美的性質が立ち上がるわけだ。</p>
<p> </p>
<p>このア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>は、ある種の<strong>認知的侵入可能性[cognitive penetrability]</strong>を前提としている。つまり、<strong>機能とデザインにまつわる期待が、美的性質の知覚に影響する</strong>、という主張にコミットしている。</p>
<p>もっとも、知覚に対する認知的侵入は不可能だ、という立場もあるので予防線として以下のような説明をしている。</p>
<ul>
<li>たとえ、(1)見るものの<strong>知覚[perception]</strong>、すなわち感覚を通して性質を識別するレベルに期待が入り込めないとしても、(2)対象の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%BE%DD%B3%D8">現象学</a>的性格、すなわち<strong>経験[experience]</strong>における感じ方に期待が入り込むと言えそう。例えば、音楽の専門家が、ア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C1%A5%E5%A5%A2">マチュア</a>よりも多くの美的性質を知覚できるわけではないにせよ、より豊かでより良い美的経験をしていることは明らかだろう。他にも、感情や気分が身の回りのものの経験に影響することは、ひろく観察されている。すなわち、知覚よりももう少し後ろのレベルなら、入り込む余地がありそうだ。</li>
<li>あるいは、(2)に入り込むのすら難しいとしても、機能的対象に対する(3)適切な美的<strong>判断[judgement]</strong>においては、その対象のタイプを考慮すべきだ、みたいな主張はできそう。これは経験よりさらに後ろのレベルとして想定されている。</li>
</ul>
<p>最終的に、期待に基づいて、以下のように説明できる。</p>
<ul>
<li><strong>フィットしているように見える</strong>のは、期待に沿った見た目をしているとき。</li>
<li><strong>エレガントで優美でシンプルに見える</strong>のは、期待に沿わない部分がないように見えるとき。</li>
<li><strong>視覚的緊張を感じる</strong>のは期待に反する見た目を含むが、まだ機能は果たせそうに見えるとき。</li>
</ul>
<p>もちろん、機能にまつわる期待とそれに適した見た目だけで、ただちに美的関心が引き起こされ、美的判断がなされるとは限らない。美的関心を引き起こすには、部分の構成が巧妙で独創的であると感じられる必要がありそう。</p>
<p>自説の説明力として、</p>
<ul>
<li>Parsons & Carlsonが訴えていた機能的カテゴリーの標準的/可変的/反標準的特徴は、<strong>成文化された期待</strong>とみなされる。例えば、専門家によるコード化を通して、これこれの機能を果たすものはこういう見た目のはずだ、といった期待がひろく形成されていく。</li>
<li>Shinerの反論も回避できる。ある機能は、いろんなデザインを通して実現できるが、われわれの期待次第で、見てとられる美的性質が左右される。前述の美術館のうち、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%EB%A5%D0%A5%AA">ビルバオ</a>・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%C3%A5%B2%A5%F3%A5%CF%A5%A4%A5%E0%C8%FE%BD%D1%B4%DB">グッゲンハイム美術館</a>のほうに視覚的緊張を感じるのは、われわれの期待における美術館とは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%D5%A5%A3%A5%C4%A5%A3%C8%FE%BD%D1%B4%DB">ウフィツィ美術館</a>のようにより古典的な見た目をしたものだから。これを述べるのに、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%EB%A5%D0%A5%AA">ビルバオ</a>・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%C3%A5%B2%A5%F3%A5%CF%A5%A4%A5%E0%C8%FE%BD%D1%B4%DB">グッゲンハイム美術館</a>には美術館にとっての反標準的特徴がある」みたいなことは言わなくていい。</li>
</ul>
<p>最後に想定反論に答えている。</p>
<p>期待は人それぞれなのだから、<strong>感覚的な不一致</strong>(一方はエレガントだと感じ、他方はそうでないと感じる、など)に対して議論ができなくなる、という懸念がある。応答として、</p>
<ul>
<li>第一に、知覚システムには、美的判断の客観性を正当化するような特徴がありうる。すなわち、後天的な知識などによって影響されるとはいえ、その幅が一定範囲内に収まるならば、合理的な論争は依然として可能になる。<a href="#f-ed6ed575" name="fn-ed6ed575" title="これと同じような話を源河さんの論文で読んだことがあるが、基本的には知覚システムだけを使う色知覚ならまだしも、趣味が絡んでくる美的知覚にまで、この種の応答ができるのかは定かでない、という話だった(93)。">*7</a></li>
<li>第二に、適切な美的判断をするには、判断される対象が置かれていた条件を踏まえなければならない。例えば、今日的な視点で見てはならず、それが作られた時代地域での知覚的条件をできるだけ再現する必要がある。であれば、論争はできる。</li>
</ul>
<p> </p>
<h3>✂ コメント</h3>
<p>「標準的特徴」みたいなのが問題含みなので「期待」で済ませるのは妥当なアプローチだが、もう少し詰めてもよかったように思う。最後の、「期待は人それぞれなので美的論争ができなくなる問題」には十分に応答出来ていない気がするし、もし第二の応答を突き詰めていくなら、見る側の期待というよりモノ側の本来の目的でいいじゃんという話にもなりそう。そうなると、前にまとめた<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/CARAA-7">キャロル的な芸術鑑賞観</a>にも近づくだろうなと思った(キャロルはむしろ、芸術への価値判断を実用品へのそれに近づけている、とも言えるだろう)。</p>
<p>ところで、視覚的緊張のなかにはよい緊張とわるい緊張があるのは明らかだが、Parsons & Carlsonの枠組みでもSauchelliのそれでも、どう説明されているのかよく分からなかった。シンプルな「期待はずれ」と「いい意味での期待はずれ」の違いだ。機能を果たしそうにない見た目と、思いもよらぬ仕方で機能を果たしているという事実が組み合わされば、「いい意味での期待はずれ」になりそうな気がする。Viktor Schreckengostの椅子が、人間工学のなんちゃらに基づいていて実はめちゃめちゃ安定している、ということが事実としてあれば(知らんけど)、「いい意味での期待はずれ」と言えそうだが、こうなってくると、見た目だけでなく事実としての機能性が絡んできて、話はもっと後ろレベル(知覚ではなく判断)の方へ向かいそうなところだ。</p>
<p>またしても<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a> (1970)がよく分からんくなってきたので、〈「芸術のカテゴリー」のよく分からんところをしっかり潰す会〉をちゃん読でやってもいいな、という気持ちになった。</p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-a2cc2509" name="f-a2cc2509" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">著者<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C9%A5%EC">アンドレ</a>ア・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%A1%BC%A5%C1">ソーチ</a>ェリ[Andrea Sauchelli]は香港嶺南大学哲学科のAssociate Professorで、同学科の学科長をされている。もともと<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%A9%BE%E5%B3%D8">形而上学</a>の人っぽいが、虚構的対象、芸術と倫理、ホラーの論文なんかも書いている。嶺南大学は分析美学の拠点としてはけっこうすごくて、Paisley LivingstonとRafael De Clercqがいるし、ちょっと前はMikael Petterssonがいた。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-8552fe51" name="f-8552fe51" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">『分析美学基本論文集』に載っている<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>『美学』の画像表象章でも、最後の方でデザインと機能の関係が語られているので、関心としてはつねにうっすらあったと思われる。私もそちらから入った。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-a496392c" name="f-a496392c" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>はさらに、「速く走れそうな車である」を、①機能に関する推論「このエンジンを積んでいるからには速く走れそうだ」と、②デザインに対する記述「この流線型のボディは速く走れそうなデザインだ」に分けている。基本的には②の話に向かうべきだろう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-a256b992" name="f-a256b992" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ところで、機能的カテゴリーの結構な部分は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a> (1970)のうち、<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/LAEKWC">Leatz (2010)</a>が強調していた「知覚的に見分けられるカテゴリー」という制限からもれるような気もする(外から見てもなんの機能を果たすのかよくわからない建造物はいっぱいあるだろう)。またしても<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>解釈のどろぬまにはまりそうな予感。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7e7f035f" name="f-7e7f035f" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ここでも、標準的特徴とは「そのカテゴリーに属するのに不可欠[essential]な特徴」だと説明されており、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>そんな強いことゆうてたかな、と頭をひねっている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-926d4100" name="f-926d4100" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">前者は攻め攻めの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3">ポストモダン</a>建築で、後者は古典的でコンサバな建築。美術館という機能的カテゴリーにとって標準的なのはどっちとも言い難い、という話。</p>
<p>しかしここでも、「標準的特徴」がブレブレなせいでしんどい。美術館としての標準的特徴は、これはもう〈立体の建造物である〉〈なかに美術品をおける〉ぐらいのトリヴィアルな特徴ぐらいしかなく、見た目はそもそも可変的特徴だろう。ここで言われている「標準的」は、せいぜい傾向的にありがちかつそう期待される見た目、というぐらいのことだろう。なのではじめから標準的特徴には訴えず、「期待」でいいじゃん、というのはそりゃそうである。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-ed6ed575" name="f-ed6ed575" class="footnote-number">*7</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">これと同じような話を<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/47/2/47_87/_article/-char/ja">源河さんの論文</a>で読んだことがあるが、基本的には知覚システムだけを使う色知覚ならまだしも、趣味が絡んでくる美的知覚にまで、この種の応答ができるのかは定かでない、という話だった(93)。</span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|ノエル・キャロル「メディウム・スペシフィシティ」(2019)
hatenablog://entry/26006613785653358
2021-07-14T21:00:06+09:00
2023-04-28T20:30:27+09:00 ノエル・キャロル「メディウム・スペシフィシティ」(2019)のレジュメ|Carroll, Noël (2019). Medium Specificity. In Noël Carroll, Laura T. Di Summa & Shawn Loht (eds.), The Palgrave Handbook of the Philosophy of Film and Motion Pictures. Springer. 29-47.
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210714/20210714204447.png" alt="f:id:psy22thou5:20210714204447p:plain" width="1200" height="601" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Flink.springer.com%2Fchapter%2F10.1007%2F978-3-030-19601-1_2" title="Medium Specificity" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Carroll, Noël (2019). Medium Specificity. In Noël Carroll, Laura T. Di Summa & Shawn Loht (eds.), <em>The Palgrave Handbook of the Philosophy of Film and Motion Pictures</em>. Springer. 29-47.</span></p>
<p> </p>
<p>ノエル・キャロルの有名な仕事を挙げるなら、そのひとつは<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>・スペシフィシティ[Medium specificity]の批判</strong>だろう。「絵画とは/写真とは/映画とは/etc. こういう性質を<strong>それ独自の本質</strong>とするものであり、これを活かした作品こそが当のメディアの作品としてよいものだ」といった主張は芸術史上なんどもなされてきた。キャロルはこれらを攻撃する。</p>
<p>わりと最近書かれた本論文でも、新旧の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%B9">メディス</a>ペ論者が叩かれ、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%B9">メディス</a>ペなし批評が推されている。以下、かんたんなレジュメ。</p>
<p> </p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#0イントロダクション"> 0.イントロダクション</a></li>
<li><a href="#1メディウムスペシフィシティとはなんだったのか">1.メディウム・スペシフィシティとはなんだったのか?</a></li>
<li><a href="#2メディウムスペシフィシティへの回帰">2.メディウム・スペシフィシティへの回帰</a></li>
<li><a href="#3評価の問題">3.評価の問題</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a></li>
</ul>
<h3 id="0イントロダクション"> 0.イントロダクション</h3>
<p>映画においては、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>・スペシフィシティ(以下MS)が盛んに論じられてきた。バラージュ・ベーラ、ルドルフ・アルンハイム、フセヴォロド・プドフキン、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C9%A5%EC%A1%A6%A5%D0%A5%B6%A5%F3">アンドレ・バザン</a>、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC%A5%AF%A5%D5%A5%EA%A1%BC%A5%C8">ジークフリート</a>・クラカウアーほか。MSとしての「映画的なもの[the cinematic]」は、これを活かしていれば良い映画であり、活かせてなければダメな映画である、というふうに、評価の基準としても考えられてきた。また、アカデミックなフィルム・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%BF%A5%C7%A5%A3%A1%BC">スタディー</a>ズを確立する、という目的においても推し進められてきた側面がある。</p>
<p>20世紀おわりごろになってくると、MSは人気がなくなってくるが、最近Berys Gaut、Dominic Lopes、Ted Nannicelliらが、改めてMSについて論じている。かれらは、物質的な要素だけでなく、実践的な要素も組み込む仕方で、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>」を語ろうとしている。</p>
<p> </p>
<h3 id="1メディウムスペシフィシティとはなんだったのか">1.<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>・スペシフィシティとはなんだったのか?</h3>
<p>映画におけるMSは、<strong>映画という新たな技術をちゃんとした芸術形式として認める</strong>ために論じられはじめた。初期映画理論家たちのチャレンジはおおきくふたつ。</p>
<ol>
<li>写真と同じく、映画は現実を<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A1%B3%A3%C5%AA">機械的</a>に捉えるだけであり創造性の余地がない、という批判に対し、映画の芸術性を擁護する。</li>
<li>つまるところ、映画は演劇を記録したものでしかない、という批判に対し、映画が自律した芸術形式であることを擁護する。CDは音楽を入れてるだけ、みたいに、映画は演劇を入れてるだけ、ということになっては困る。</li>
</ol>
<p>とりわけ、ほかの芸術形式にはできなくて、映画にはできることがなければならないと考えられてきた。</p>
<p>映画が持つユニークな特徴を探るうえでは、①材料そのものという意味での<strong>物理的な媒体</strong>(絵画における絵の具のようなもの)と、②これら材料を操作する<strong>道具的な媒体</strong>(カメラや編集)の二種類が考えられる。<strong>物質[material]</strong>と言うときには、物理的メディアと道具的メディアの両方が含まれる。</p>
<p>また、映画にしか出来ず、映画に得意なことがあるとすれば、映画を作るアーティストは、これを積極的に取り入れることが推奨される。ゆえに、<strong>MSは制作上の指針をも与える</strong>ものであった。</p>
<p>さらに、映画にしか出来ず、映画に得意なことがあるとすれば、映画を見る批評家や鑑賞者は、これを<strong>評価軸</strong>とするようになる。映画的な手段を活用せず、演劇的な効果を引きずっている作品はダメだ、みたいな。もっとも、この評価軸でいくと『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%C3%A5%B0%A5%F4%A5%A3%A5%EB">ドッグヴィル</a>』なんかはダメな作品だということになる<a href="#f-3b052142" name="fn-3b052142" title="
ラース・フォン・トリアーによる2003年の映画。キャロルによれば、「アメリカ社会が暗黙の抑圧的な役割に支配されており、その象徴として演劇が機能している姿を描く」という目的のもとで、演劇的なセットデザインと演技を中心に据えた作品。ここでは、後述される目的ベースな評価基準が暗に推奨されている。私も最近見た。">*1</a>。</p>
<p>このような基準は一般的である。すなわち、<strong>あらゆる</strong>映画は映画のMSを活かすことを目指し、<strong>つねに</strong>それによって良し悪しが語られるとされる。</p>
<p>MSは、<strong>「仕事には適切な道具を使おう」</strong>という実践的直観に支えられている。しかし、一般的主張としてのMSには反論がたくさんある。</p>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/4DLdMa98JdM?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget3"></iframe></p>
<p>まず、MSの評価基準は、<strong>映画史において実際になされている評価とかみあわない</strong>。『黄金狂時代』(1925)で、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%E3%A5%C3%A5%D7%A5%EA%A5%F3">チャップリン</a>がフォークを突き立てたパンを使って、ダンスのパントマイムをする場面がある。 これは純粋なパントマイムなので、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%E3%A5%C3%A5%D7%A5%EA%A5%F3">チャップリン</a>が舞台でやっても同じ効果が得られる。ゆえに、MS的には「映画的でない」ダメな場面ということになる。</p>
<p><iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/_wegg_8dtns?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget5"></iframe></p>
<p>一方、『The Lizzies of <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/the%20Field">the Field</a>』(1924)ではベッドが滑走したり瞬間移動したり、演劇では表現しづらい出来事を表現している限りで、MSのもとでは、少なくとも前述した『黄金狂時代』のシーンよりも映画として良いものになる。</p>
<ul>
<li>しかし、実際にこんな評価をする批評家はいない。『The Lizzies of <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/the%20Field">the Field</a>』はしょうもないお約束だらけの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%E9%A5%C3%A5%D7%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">スラップスティック</a>コメディであるのに対し、『黄金狂時代』のパントマイムは、人物の詩的な感性と繊細さを補強するという物語上の機能を絶妙な仕方で達成している。</li>
<li><strong>MSは、あるメディアに忠実であることと作品の良さをただちに結びつける点に問題がある</strong>。そもそもメディアは手段だという話だったはず。MSの支持者は、メディア的な純粋さを神格化するあまり、このことを忘れている。</li>
<li>ほかのメディアよりも得意なことをやっていればただちに良い、という話にもならない。CG映画は、実写映画よりもヒーローと巨人のバトルを描くのが得意だが、そういうシーンはたいていしょうもない(マーベル映画のラスト20分でやってるやつ)。</li>
<li>加えて、MS理論家同士の間でも、コンセンサスがない。リアリズムが大事という理論家(バザンとか)もいれば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%F3%A5%BF%A1%BC%A5%B8%A5%E5">モンタージュ</a>が大事という理論家(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%CF%A2">ソ連</a>の人たち)もいる。</li>
</ul>
<p> </p>
<p>ということで、MSベースの評価はしんどい。キャロルによれば、<strong>批評的評価にとって最重要なのは、芸術的な卓越[artistic excellence]である</strong>。そして、この卓越性はMSを活用した結果である必要はない。『黄金狂時代』のシーンは、「演劇には出来ないことをしている」わけではないにせよ、(後述する意味で)芸術的に卓越している。スローガンとしては「<strong>純粋さよりも卓越</strong>[Excellence above purity]」なのだと言える<a href="#f-91e3744d" name="fn-91e3744d" title="もちろん、批評家がやっていることは卓越さの評価だけではない、との留保をつけている。">*2</a>。</p>
<p>「仕事には適切な道具を使おう」という直観を、そのまま映画に当てはめるのは疑わしい。映画はハンマーみたいなものではなく、芸術形式としての映画に単一の目的はないし、肝心なのは作業効率ではなく結果である。「芸術形式は分業すべし」という直観も疑わしい。初期コメディの題材はしばしばヴォードヴィルの舞台からとったものだが、だからといって「映画的じゃないからやめろ」という話にはぜんぜんならない。</p>
<p> </p>
<h3 id="2メディウムスペシフィシティへの回帰">2.<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>・スペシフィシティへの回帰</h3>
<p>最近、Berys Gaut、Dominic McIver Lopes、Ted NannicelliらがMS概念を擁護している。三人とも、<strong>メディアの本性を構成するものを拡張する</strong>方針をとる。具体的には、映画のMSは、その素材や道具といった物質的な要素だけでなく<strong>実践を含めて構成されている</strong>とのことだが、これは伝統的なMSではなく行動科学的[praxeological]なMS概念である。この点において、彼らがほんとうMSと呼ぶに値するものを擁護しているのか、話題をすり替えているだけなのか定かでない。「物質こそが重要だ」という一般的主張は強いものだったが、「物質と実践が重要だ」という主張はありふれた常識でしかない。</p>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.cambridge.org%2Fcore%2Fbooks%2Fphilosophy-of-cinematic-art%2FB7CD41CEFD2CD4FD4C6B49753278F47B" title="A Philosophy of Cinematic Art" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>Gaut (2010)は三つの論点を擁護している。</p>
<ol>
<li>作品に関する正しい芸術的評価のなかには、メディアに固有の性質に言及したものがある。</li>
<li>作品の芸術的性質に関する正しい説明のなかには、メディアに固有の性質に言及したものがある。</li>
<li>あるメディアが芸術形式を構成するには、ほかのメディアが例化するものとは異なる芸術的性質を例化していなければならない。</li>
</ol>
<p>最初のふたつは、MSの射程を修正している。すなわち、一般性を諦め、<strong>一部の</strong>評価や説明のみがMSに触れるとしている。しかし、これは伝統的なMSの擁護者に比べれば、はるかに野心的でない。アルンハイムらの強い主張に比べると、GautはMSテーゼを擁護しているというより、ただ話題を変えただけと批判されるべきだろう<a href="#f-2ed89ee7" name="fn-2ed89ee7" title="先日書いた論考ともつながるトピック。分析美学、慎重すぎ?問題。
">*3</a>。</p>
<p>Gautによれば、メディアに伴う<strong>困難の克服</strong>は芸術的達成になる。これを評価する際にはメディアに言及することになる。しかし、この主張も維持しがたい。メディアに触れる評価がすべからく困難の克服をもって評価しているわけではない。</p>
<p>メディアに固有の性質に言及した批評があるからといって、それが正しいとは限らないし、そうすべきという話にもならない。つまるところ、Gautは「正しい評価のなかには、メディアに触れるものがある」という程度の主張しかできておらず、これがMSへのコミットになるかははなはだ疑問である。</p>
<p> </p>
<p>Gautの主張は、伝統的なMSの主張と範囲が異なるだけではない。アルンハイムはもっぱら物質をメディアとしていたが、GautはWollheimにならい、<strong>リソースの加工・使用を含む、芸術実践までをも「メディア」のうちに含めようとする</strong>。このことは、同じ道具を使った非芸術形式と区別するという点でも動機づけられている(芸術写真と鑑識写真など)。</p>
<p>アルンハイムらは、MSとは別に、芸術と非芸術を区別する方法(合ってるとは限らんが)を持っていたので、各芸術形式を区別する方法だけ探せばよかった。Gautには伝統的なMS擁護者にはないプレッシャーがあったわけだが、それはともかく、メディアに実践まで含めてしまうと、もはやMS擁護者を名乗り続けることはしんどくなる。</p>
<p>実践は、物質をまたいで共有されている。映画と演劇は奥行きのある空間構成や、演技の仕方といった実践を共有するし、映画、ビデオ、テレビなんかは多くの実践を共有する。また、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E5%A5%EB%A5%EC%A5%A2%A5%EA%A5%B9%A5%E0">シュルレアリスム</a>の画家が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E5%A5%EB%A5%EC%A5%A2%A5%EA%A5%B9%A5%E0">シュルレアリスム</a>の詩人の実践を取り入れたり、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A5%CB%A5%DE%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ミニマリズム</a>の映画家が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A5%CB%A5%DE%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ミニマリズム</a>の画家や彫刻家の実践を取り入れたりするように、芸術形式を超えて実践の模倣がなされる。<strong>実践をメディアに組み込むと、メディアごとの独立性を擁護することが一層無理になってくる</strong>。共通点を認めるかぎりで、「映画に演劇的なものがあってはならない」みたいな主張はできなくなる。</p>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Foxford.universitypressscholarship.com%2Fview%2F10.1093%2Facprof%3Aoso%2F9780199591558.001.0001%2Facprof-9780199591558" title="Beyond Art" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.routledge.com%2FAppreciating-the-Art-of-Television-A-Philosophical-Perspective%2FNannicelli%2Fp%2Fbook%2F9780367871864" title="Appreciating the Art of Television: A Philosophical Perspective" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>ほかにも、NannicelliとLopesの主張を検討しているが、こちらは割愛。</p>
<p> </p>
<h3 id="3評価の問題">3.評価の問題</h3>
<p>かつて、MSには映画やらビデオやらに独立した芸術形式としての身分を与える役割があった。今日では、あるとすれば評価基準としての役割だけがあるだろう。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">ルノワール</a>映画の不規則なパンはリアリズムを強めているから<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%C3%A5%C1%A5%B3%A5%C3%A5%AF">ヒッチコック</a>のクレーンショットよりも良い、などなど。</p>
<p>しかし、不規則なパンが良いと言うためには、それが「リアルに描くという<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">ルノワール</a>の目的にかなっている」と言えば十分であり、「リアルに描くという映画のMSにかなっている」と言う必要がない。<strong>映画における芸術的選択を評価する上では、それによって芸術家の目的が果たされているかどうかが肝心なのであり、その手段がメディアに固有かどうかは問題ではない</strong>。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FCARAA-7" title="レジュメ|ノエル・キャロル「芸術鑑賞」(2016) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>ということで、キャロルはMSベースではなく、作品ごとの目的ベースの評価基準を推す。これはそのまま先日まとめた話なので割愛。 </p>
<p>基本的には、作品の意図された目的を特定して、そのもとでどれだけ目的を達成できているか手段を評価しよう、という枠組み。また、目的ベースの評価は、「写真的リアリズムを活かす」みたいな目的を考えれば、MS的な評価もカバーできる。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>・スペシフィシティに対するキャロルの見解は辛辣だがはっきりしている。古典的な論者は、媒体を神格化していて無茶なことを言っているのでしんどい。現代の論者はヒヨっていて、知らず識らずのうちにMSから別の話題にすり替えている。そもそも評価軸として使うなら、MSでなくてもこっちでいいじゃないですか、というわけだ。</p>
<p>なるほどなぁ、と思わされたのは、権威付けとしての役割と評価軸としての役割を整理している点。出てきたばかりの技術(写真、映画、etc.)を芸術形式として<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%B9">エス</a>タブリッシュするためのMSは、現代ではもう役割を終えているのだろう。ということで、歴史的に大きな役割を担った概念だが、今日MSの名の下で気の利いた議論はしようがない、と言われれば私は納得するかもしれない。</p>
<p>芸術としての権威はともかく、現代においてよく分からんメディアが与えられているときに、その特徴がなんなのかはやはり気になるので、「独自の」とまではいかなくても「ならではの」特徴を記述しようとする作業自体は意義があると思うし、個人的に読むのも好きだ。</p>
<p> </p>
<p>ところで、実践までMSに組み込むというGautらのアプローチは知らなかったが、ほぼそのままクラウスやカヴェルの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A6%A5%E0">メディウム</a>論じゃんと思った。どうも、実践や慣習を組み込んでMSを延命するのが定石らしい。その方針のいびつさは私も感じていたので、そんなんで手に入るMSゾンビはほんとうにMSか、というキャロルの疑念はもっともだと思った。ちょっと前にdepi読で扱ったカヴェルの映画論で、慣習や伝統まで「自動性」に含められててほんとうに引いた。</p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-3b052142" name="f-3b052142" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"></p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/z6HuRqABNBs?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget2"></iframe></p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A1%BC%A5%B9%A1%A6%A5%D5%A5%A9%A5%F3%A1%A6%A5%C8%A5%EA%A5%A2%A1%BC">ラース・フォン・トリアー</a>による2003年の映画。キャロルによれば、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カ社会が暗黙の抑圧的な役割に支配されており、その象徴として演劇が機能している姿を描く」という目的のもとで、演劇的なセットデザインと演技を中心に据えた作品。ここでは、後述される目的ベースな評価基準が暗に推奨されている。<a href="https://filmarks.com/movies/38682/reviews/114990305">私も最近見た</a>。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-91e3744d" name="f-91e3744d" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もちろん、批評家がやっていることは卓越さの評価だけではない、との留保をつけている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-2ed89ee7" name="f-2ed89ee7" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">先日書いた論考ともつながるトピック。分析美学、慎重すぎ?問題。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fn8a5cbf65d0de" title="ジャンル研究の方法論|obakeweb|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p></span></p>
</div>
psy22thou5
哲学者は認知科学の論文を読むか?|描写の哲学の場合
hatenablog://entry/26006613779032639
2021-06-23T19:14:18+09:00
2023-04-28T20:28:59+09:00 描写の哲学はかなり学際的な分野だ。異なるバックグラウンドを持つ研究者たちが、画像という同一の主題を、さまざまなアプローチで扱っている。 2021年6月26日㈯に、松永さん(@zmzizm)主催の「描写の哲学研究会」があり、今年度は「描写の哲学と認知科学」がテーマになっている。もう事前申し込みは締め切っているので宣伝としてはいまさらなのだが、会に先立ちこの話題に関して自分が気になっている点を整理しておきたい。 まずはHPに挙げられている「想定される論点」を引用しよう。 描写の哲学の議論は、心理学や神経科学といった認知科学からどう見えているのか。 哲学者は経験的な研究ぬきに特定の前提を置きがちだが…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210623/20210623191747.png" alt="f:id:psy22thou5:20210623191747p:plain" width="1200" height="601" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p>描写の哲学はかなり学際的な分野だ。異なるバックグラウンドを持つ研究者たちが、画像という同一の主題を、さまざまなアプローチで扱っている。</p>
<p>2021年6月26日㈯に、松永さん(<a href="https://twitter.com/zmzizm">@zmzizm</a>)主催の「描写の哲学研究会」があり、今年度は<strong>「描写の哲学と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>」</strong>がテーマになっている。もう事前申し込みは締め切っているので宣伝としてはいまさらなのだが、会に先立ちこの話題に関して自分が気になっている点を整理しておきたい。</p>
<p>まずはHPに挙げられている「想定される論点」を引用しよう。</p>
<blockquote>
<ul>
<li>描写の哲学の議論は、心理学や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%C0%B7%D0%B2%CA">神経科</a>学といった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>からどう見えているのか。</li>
<li>哲学者は経験的な研究ぬきに特定の前提を置きがちだが、それは適切なのか。</li>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>者と哲学者の関心の違いは(もしあるとすれば)どこにあるのか</li>
<li>描写の哲学で共有されている諸概念は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>にとって何らかの意義を持つのか。</li>
</ul>
(<a href="https://dpct.tumblr.com/2021">2021年度 描写の哲学研究会 - 描写の哲学研究会</a>)</blockquote>
<p>描写の哲学のこれまでとこれからを知っていないと、こういった論点が想定されるのもピンとこないかもしれない。順を追って説明しよう。</p>
<p> </p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#1描写の哲学のこれまでとこれから">1.描写の哲学のこれまでとこれから</a></li>
<li><a href="#2進撃の認知科学">2.進撃の認知科学</a></li>
<li><a href="#3哲学者の役割問題提起モデル">3.哲学者の役割:問題提起モデル?</a><ul>
<li><a href="#参考文献">参考文献</a></li>
</ul>
</li>
</ul>
<h3 id="1描写の哲学のこれまでとこれから">1.描写の哲学のこれまでとこれから</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fsenkiyohiro%2Fpublished_papers%2F32775962" title="銭 清弘 (Kiyohiro Sen) - 画像がなにかを描くとはどういうことか - 論文 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><em>(最近「描写の哲学」<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A1%BC%A5%D9%A5%A4">サーベイ</a>論文も書いたので、ついでに宣伝)</em></p>
<p>前提として第一に、狭義の「描写の哲学」は分析美学の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%D6%A5%B8">サブジ</a>ャンルとして出発している。そこでは、もっぱら絵画、写真などの芸術作品と、これらに対する「◯◯を描いている」といった批評的言明が研究対象であり、20世紀後半の主なプレイヤーであるGombrich, Wollheim, <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a>, Lopes, Hopkinsはみな美学・芸術哲学の研究者であった。また、分析系つながりで、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%C5%AF%B3%D8">言語哲学</a>の人が描写について書くという流れも一時期目立っていた。GoodmanやSchierはその古典だし、近年ではAbell, Blumson, Kulvickiもこの路線で論文や本を書いている。実際のところ、画像表象を考える上で芸術作品ばかりを問題にするのはバイアスであり、より一般的に意味[meaning]を考える<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%C5%AF%B3%D8">言語哲学</a>のほうが、一般的関心としては近いものであったとも言える。Abell & Bantinakiによるアンソロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>のイントロダクションでもこのことが意識されており、次のように説明されている。</p>
<blockquote>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%C5%AF%B3%D8">言語哲学</a>がそれ自体としてひとつの哲学的分野としてみなされてきたのに対し、描写の哲学は通常、考えられるとしても美学のサブ分野として考えられる。これは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%C5%AF%B3%D8">言語哲学</a>を文学の哲学と混同するようなものだ。画像の美学に関しては多くの興味深い問題があるとはいえ、少なくとも同じぐらい多くの非美学的問題がこの分野には含まれている。(Abell & Bantinaki 2010: 1)</p>
</blockquote>
<p>と言いつつも、アンソロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>寄稿者の多くは(編者である二人を含め)芸術的関心の強い研究者であったことも事実である。ともかく、20世紀なかごろに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%A3%A5%B7%A5%D7%A5%EA%A5%F3">ディシプリン</a>として立ち上がった「描写の哲学」は、画像芸術への関心から、画像の意味に関する一般的関心へと、徐々に拡張されながら発展してきたことになる。とはいえ、その担い手はつねに哲学者であった。(ここで哲学者は、基本的に先行研究を読んで考えて書くという作業だけをやっている人を指し、美学者を含む。)</p>
<p>しかし第二に、描写の哲学において<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>的な研究を引いてくる論者が目立ってきている、という事情がある。これは近年に限った話ではなく、分析系つながりで<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%A4%CE%C5%AF%B3%D8">心の哲学</a>や知覚の哲学の論文が引かれてきたのを含めれば、年表的には遅くとも90年代ぐらいから盛んな動きだと見られる。Nanayは脳の構造に関する理系な話をよくするし、Briscoe (2016)ははっきりと「哲学者はもっと視覚科学を気にするべきだ」と書いている。</p>
<p> </p>
<h3 id="2進撃の認知科学">2.進撃の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a></h3>
<p>ということで、絵画とか写真とか映画について語ったるぜというモチベではじめたら、いつの間にか「脳はこうなっていて……」「視覚的注意に関してはこういうデータがあって……」みたいな話を読まされる、というトラップが描写の哲学にはある。ちなみに、描写の哲学にはもうひとつトラップがあって、射影<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%F6%B2%BF%B3%D8">幾何学</a>の話もいくらか読まされる。具体的にはKulvicki, Hyman, Greenbergあたりが線遠近法やら射影変換やらの難しい話を導入している。</p>
<p>これは哲学における<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1">自然主義</a>プロジェクトの一端でしかなく、格別に雑なまとめ方ではあるが、哲学者的には「のびのびと思索に励んでいるところに、データや数式を抱えた理系の人たちがやってきて文句を言う」し、経験科学の人的には「実験やら統計やらでコツコツ頑張っているのに、哲学者とか芸術ポエマーがいい加減なことを書いている」といった対立が浮上することになる。</p>
<p>例えば、描写の哲学においてもっとも影響力の大きい理論のひとつであるWollheim (1980)の<strong>「うちに見る[seeing-in]」</strong>を挙げよう。ウォルハイムは、表象的な画像に目を向けるときには、物質的な二次元の画像表面を見るだけでなく、そのうちに三次元の描写対象(描かれている人とか場所とか)が見られると論じている。しかも、その二つは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%F3%A5%D6%A5%EA%A5%C3%A5%C1">ゴンブリッチ</a>が述べたように交互に意識されるのではなく、二重性において同時に意識されるのだ、とする。私の知る限り、ウォルハイムは専門的な芸術哲学者であり、うちに見る理論に関しても経験的な裏付けはほぼ与えていない。すると、「二次元の表面のうちに三次元の物体を見る」とか「それらが同時に意識される」といったことが、視覚科学に関しては素人であるウォルハイムになぜ言えるのか心配になってくる。「うちに見る」に限らず、美学寄りの描写の哲学には、こういった議論や概念がたくさん見られる。</p>
<p>もちろん、私は文系理系の対立煽りがしたいわけではないし、こういった表面的な対立の乗り越えこそが学際的研究における腕の見せ所なわけだが、ともかく、そういった分野的・方法論的対立はある。よって、冒頭の「想定される論点」が出てくるわけだ。</p>
<blockquote>
<ul>
<li>描写の哲学の議論は、心理学や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%C0%B7%D0%B2%CA">神経科</a>学といった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>からどう見えているのか。</li>
<li>哲学者は経験的な研究ぬきに特定の前提を置きがちだが、それは適切なのか。</li>
<li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>者と哲学者の関心の違いは(もしあるとすれば)どこにあるのか。</li>
<li>描写の哲学で共有されている諸概念は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>にとって何らかの意義を持つのか。</li>
</ul>
(<a href="https://dpct.tumblr.com/2021">2021年度 描写の哲学研究会 - 描写の哲学研究会</a>)</blockquote>
<p>この四つの想定だけでも、描写の哲学では「理系の人から怒られる」という懸念がつきまとっていることが伺えるし、少なくとも私はばっちり怖がっている。</p>
<p>問題は、この怖がりとどう付き合っていくかにある<a href="#f-4c72e5d1" name="fn-4c72e5d1" title="そもそも、良くも悪くも経験科学の成果を気にするのは、分析哲学のナラデハ特徴だろう。そうでない"哲学"の話はしないことにする。">*1</a>。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>な脅威があるときに、できることはいくつかある。</p>
<ol>
<li><strong>シンプルに無視して逃げる</strong>:理系の難しい話は読まない、聞かない、書かない。自分の読みたい文献を読み、書きたい論文を書く。</li>
<li><strong>自分の武器を確認し、陣地を守る</strong>:方法論的な棲み分けを図るために、「哲学・美学はなにをやっているのか」と反省する。場合によっては、自分側の分を相手に対して説明してやる。</li>
<li><strong>相手の強さを認め、仲間にしてもらう</strong>:理系の難しい話も勉強して、読める聞ける書ける状態を目指す。</li>
</ol>
<p>実際は、哲学者は多かれ少なかれ、これら三つを適度にやっているのだろう。私は明らかに自分の知的キャパシティを超えている論文は(一端、と言っておきたい)脇に置くし、哲学なりのやり方や意義についてそれなりに考えておくし、読める範囲では理系の研究も引用するよう心がけている<a href="#f-b5e779e5" name="fn-b5e779e5" title="修論で、「結びつきの感覚[sense of contact]」について論じた箇所など。
">*2</a>。</p>
<p>しかし、無視というコマンドを多用する人は信用を失うし、現実問題としてよほどキャパのある美学者でなければ「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>も全然いけます」な状態まで極めるのはしんどい。自分の専門分野を勉強するので手一杯なのだ<a href="#f-d7eab3f4" name="fn-d7eab3f4" title="マウントされそう。">*3</a>。ということで、哲学者側としては、第二のオプション、すなわち<strong>自分らのやり方を反省し、経験的研究との棲み分けができそうなら棲み分け、やり方に関して文句を言われたときにはそれを逐一説明する</strong>、というのが現実的になる。</p>
<p> </p>
<h3 id="3哲学者の役割問題提起モデル">3.哲学者の役割:問題提起モデル?</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fzmz%2Fpresentations%2F32825108" title="松永 伸司 (Shinji Matsunaga) - ゲーム研究における理論的研究の位置づけを考える - 講演・口頭発表等 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>先日の松永さんのご発表もそういった内容だったし、今回の会もそういった落とし所を探すことが目標になるだろう。</p>
<p>松永さんは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E4%B8%AB">私見</a>だと留意しつつ、「哲学のナラデハ特徴の候補」を挙げている。筆頭に挙げられるのが「既知のことをわかりなおしたい」という動機だ。</p>
<blockquote>
<ul>
<li>哲学者は、自分(そしておそらく多くの人)がすでに素朴なかたちでわかっていることを、構造化したかたちでわかりなおしたいというモチベーションで研究している。</li>
<li>比喩で言えば、「何かごちゃっとした複合体をばらして、整理された積み木として組み立てなおす」というイメージかもしれない。積み木のブロックになるのが個々の概念に相当し、できあがった積み木の全体が理論に相当する。</li>
</ul>
(<a href="https://scrapbox.io/zmz-rcgs2021/3.1_%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E7%A9%8D%E3%81%BF%E6%9C%A8">3.1 哲学者の積み木 - ゲーム研究における理論的研究の位置づけを考える</a>)</blockquote>
<p> 松永さんの説明に私は100%同意するし、ちゃんとした哲学をやっている人ならたいてい同意するだろうと思う。少なくとも私は、「皆さんが見たことも聞いたこともない事実を持ってきました」という体のなにかを書いたり喋ったりしたことはなく、「この辺のよく分からんものを整理しました」という体をとることが多い。整理の過程ないし結果に伴う気分の良さも身体的に共有できている<a href="#f-0b658154" name="fn-0b658154" title="しかし、哲学者としてはこの動機を隠蔽する動機はあるだろう。具体的には、申請書の類を書いているときに、「この哲学的研究は私にとって気分がいいのでやります」というわけにはいかない。">*4</a>。</p>
<p>ともかく、重要なのはこれが「動機」であって「正当化」ではないという点だ。すなわち、「そんなことをしてなんの意義があるのか」には答えられないにせよ「なんでそんなことがしたいのか」にはしっかり答えられる。「私はこれがやりたい。これは私を気分よくさせるからだ」という主張は、その点に限って言えば、文句を言われる筋合いなどない。</p>
<p>一方で、哲学外の人が気にしているのは、やはり「そんなことをしてなんの意義があるのか」というレベルの話だろう。松永さんは「積み木の使い道」を次のように予想している。</p>
<blockquote>
<p>① 普通の理論研究としての使い道。</p>
<ul>
<li>哲学者自身のモチベーションはともかく、出てきた理論は調査や実験の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%EC%A1%BC%A5%E0%A5%EF%A1%BC%A5%AF">フレームワーク</a>として利用できる。</li>
</ul>
<p>② 経験的研究のモチベーターとしての使い道。</p>
<ul>
<li>哲学者は直観にもとづいて理論を組み立てるが、その直観が本当なのか、その理論は事柄の本性をとらえているのか、といった問いは普通にありえる(哲学者自身はそれに興味を持たないとしても)。</li>
<li>なので、哲学者の議論を踏み台にして経験的な研究を進めるという方向があるのではないか。</li>
</ul>
(<a href="https://scrapbox.io/zmz-rcgs2021/3.2_%E7%A9%8D%E3%81%BF%E6%9C%A8%E3%81%AE%E4%BD%BF%E3%81%84%E9%81%93">3.2 積み木の使い道 - ゲーム研究における理論的研究の位置づけを考える</a>) </blockquote>
<p>描写の哲学で言えば、ウォルハイムのうちに見る理論は、画像知覚に関する経験的調査の前提としても使いうるし、疑わしいならそれを確かめるための研究が立ち上がることにもなる。経験科学に対する哲学の意義は、前提となる枠組みや踏み台となる主張を与える点に求められる。こちらに関しても理解できるし、少なくともそういう役割があればいいなぁ、とは思うのだが、こういった哲学の<strong>「問題提起モデル」</strong>(と呼ぼう)もいまだ十分ではないかもしれない。</p>
<p> </p>
<p>ということで、私が「描写の哲学と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>」に関して気になっている問題は以下の二つである。</p>
<p>第一に、<strong>問題提起モデルは、経験科学が哲学に対して枠組みや踏み台を外注していることを想定しているが、本当にそうなのか</strong>。極端な話、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>者はあらかじめなにを踏まえてなにを問うべきか分かっておらず、整理された前提や問いを哲学のうちに探していることになるが、そんなこと本当にあるのか。あるとしてどれだけの頻度であるのか。具体的に、哲学的議論を出発点として提出された有意義な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>研究にはどういう例があるのか。普通に経験科学のなかで前提や問いを立てる場合のほうが多いと思うが、そういった自給より哲学者への外注を選ぶ積極的理由があるのか(哲学者の立てる前提や問いは本当に整理されているのか。むしろ込み入りすぎじゃないか)。</p>
<p>第二に、<strong>問題提起モデルは、哲学者が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>を勉強する必要性に関してあまりヒントにならないのではないか</strong>。問題提起モデルは、前述のオプション2に相当し、基本的には棲み分ける方向での調整を目指している。言いようによっては、「哲学の領分はここからここまでなので、そういう話はそっちでどうぞ」という仕方で、毅然として読まないことを正当化してくれるモデルになっている。しかし、一方ではちゃんと勉強するためのリソースに恵まれた哲学者がおり、そういった猛者たちによって<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>やら射影<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%F6%B2%BF%B3%D8">幾何学</a>が引用される流れが現にある。例えば、Nanay (2011)に「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>的データによれば、脳には腹側[ventral]の視覚経路と背側[dorsal]の視覚経路があり、前者が描写内容、後者が画像表面を心的に表象している」と言われても、私には「そうなんだ……」としか言えない。それを確かめたり反証したりするには、関連分野の論文を読む能力だけでなく、理想的には追試のためのスキルおよび環境を持っている必要があるが、哲学者にはアームチェアしかない<a href="#f-f9edae5e" name="fn-f9edae5e" title="実際、この勉強しにくさはほとんど制度的に非対称的である。知識があったとしても、ラボを借りて確かめる権利ないし予算を持っている哲学者はおよそいないが、自然科学者はアームチェアに座れる(暇さえあれば)。">*5</a>。そうなると、ナナイのそれは哲学的には検討不可能な無敵の主張ということになってしまう。まとめると、現にオプション3を選んでいる猛者たち(あるいは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>の方から流れてきたガチ勢)が活躍しているなかで、問題提起モデルにとどまることは、結果的にその人の研究を孤立させてしまうことにはならないのか。</p>
<p> </p>
<p>ベストアンサーはやはり「適度に無視し、適度に自律を訴え、適度に勉強する」ということになるのだろう。</p>
<p>あるいは、主題の一部を身売りするというのも、現実的な選択肢だろう。描写の哲学で言えば、画像知覚の本性に関して哲学者・美学者がとやかく言ってもしょうがないので、「手前までの概念的整理は担当するので、その先は実験なりしてください」という指示を出す、というのはアリだと思う<a href="#f-70751971" name="fn-70751971" title="ちなみに、倍速鑑賞の論考もこの構造を持っている。私は鑑賞の「回復」という概念を立てて、もしそれが成り立つなら、倍速の悪さの少なくとも一部は打ち消せるよね、という主張をしている。一方、回復という認知的プロセスが現にあることについては、「ある気がするよね」という仕方で読者の直観に訴えるだけであり、これは共有してもらえたりもらえなかったりした。最終的な決着は、経験科学の課題だろう、という仕方で投げている。
もっとも、回復可能性に関して、認知科学的にどのようなことが言えるのかはまったく定かではない。実証的な研究によって、回復可能性がでっち上げだと否定されるならば、私もそれを甘んじて受け入れようと思うのだが、むしろこれを肯定するような実験結果が出るのではないかと期待している。
「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2 - obakeweb
">*6</a>。「画像経験は錯覚である」みたいな命題は、60年代初頭はともかく今日においてテキトーに言い放つわけにもいかない。しかし、一部の問いや主張は、依然として哲学固有のそれとして生き残る(生き残ればいいよね)と思う。</p>
<p> </p>
<h4 id="参考文献">参考文献</h4>
<ul>
<li><span style="font-size: 80%;">Abell, Catharine & Bantinaki, Katerina (eds.) (2010). <em>Philosophical Perspectives on Depiction</em>. Oxford <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>.</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">Briscoe, Robert (2016). Depiction, Pictorial Experience, and <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Vision">Vision</a> Science. <em>Philosophical Topics, 44</em> (2):43-81.</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">Nanay, Bence (2011). Perceiving pictures. <em>Phenomenology and the Cognitive Sciences 10,</em> (4):461-480.</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">Wollheim, Richard. (1980). <em>Art and its Objects: With Six Supplementary Essays</em>. Cambridge <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/University%20Press">University Press</a>. リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』, 松尾大訳(2020), <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C4%D8%E6%B5%C1%BD%CE%C2%E7%B3%D8">慶應義塾大学</a>出版会.</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">銭清弘 (2021). 「画像がなにかを描くとはどういうことか」『新進研究者 Research Notes』, (4):123-131.</span></li>
</ul><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-4c72e5d1" name="f-4c72e5d1" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">そもそも、良くも悪くも経験科学の成果を気にするのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AC%C0%CF%C5%AF%B3%D8">分析哲学</a>のナラデハ特徴だろう。そうでない"哲学"の話はしないことにする。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-b5e779e5" name="f-b5e779e5" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%A4%CF%C0">修論</a>で、「結びつきの感覚[sense of contact]」について論じた箇所など。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fmthesis" title="「写真を見ること、写真を通して見ること」を通して見ること|修士論文あとがき - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-d7eab3f4" name="f-d7eab3f4" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">マウントされそう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-0b658154" name="f-0b658154" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">しかし、哲学者としてはこの動機を隠蔽する動機はあるだろう。具体的には、申請書の類を書いているときに、「この哲学的研究は私にとって気分がいいのでやります」というわけにはいかない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-f9edae5e" name="f-f9edae5e" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">実際、この勉強しにくさはほとんど制度的に非対称的である。知識があったとしても、ラボを借りて確かめる権利ないし予算を持っている哲学者はおよそいないが、自然科学者はアームチェアに座れる(暇さえあれば)。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-70751971" name="f-70751971" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ちなみに、倍速鑑賞の論考もこの構造を持っている。私は鑑賞の「回復」という概念を立てて、<strong>もし</strong>それが成り立つなら、倍速の悪さの少なくとも一部は打ち消せるよね、という主張をしている。一方、回復という認知的プロセスが<strong>現にある</strong>ことについては、「ある気がするよね」という仕方で読者の直観に訴えるだけであり、これは共有してもらえたりもらえなかったりした。最終的な決着は、経験科学の課題だろう、という仕方で投げている。</p>
<blockquote cite="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/x2" data-uuid="26006613779124353">
<p>もっとも、回復可能性に関して、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>的にどのようなことが言えるのかはまったく定かではない。実証的な研究によって、回復可能性がでっち上げだと否定されるならば、私もそれを甘んじて受け入れようと思うのだが、むしろこれを肯定するような実験結果が出るのではないかと期待している。</p>
<a href="https://obakeweb.hatenablog.com/entry/x2">「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2 - obakeweb</a></blockquote>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fn156d95779074" title="映画を倍速で見ることのなにがわるいのか|obakeweb|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fx2" title="「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2 - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p></span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|Enrico Terrone「正しさの基準と描写の存在論」
hatenablog://entry/26006613777642717
2021-06-21T20:09:03+09:00
2021-10-31T11:00:22+09:00 Enrico Terrone「正しさの基準と描写の存在論」のレジュメ|Terrone, Enrico (forthcoming). The Standard of Correctness and the Ontology of Depiction. American Philosophical Quarterly.
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210619/20210619220444.png" alt="f:id:psy22thou5:20210619220444p:plain" width="1200" height="601" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Terrone, Enrico (2021). The Standard of Correctness and the Ontology of Depiction. <em>American Philosophical Quarterly, 58</em>(4):399-412.[<a href="https://philpapers.org/archive/TERTSO-6.pdf">PDF</a>]</span></p>
<p> </p>
<p>描写の哲学、とりわけ「正しさの基準」に関する最新の論文。<a href="#f-a64b9a9a" name="fn-a64b9a9a" title="筆者のエンリコ・テローネ[Enrico Terrone]は去年からイタリアのジェノヴァ大学でAssociate Professorをしている研究者。美学、映画の哲学、社会存在論などが専門。去年だけでもJAACにSFの定義とドキュメンタリーの定義、BJAにポップソングの現象学の論文を載せており、最近の分析美学では要注目人物のひとり。『The Pleasure of Pictures』に載せている「映画は二回見よう」論文によれば、昔は映画批評もやっていたとか。関係ないが、本記事で取り上げている論文、「acceptance date: 20 January 2020」なのにいまだにAPQに掲載されてなくて、英語圏も難儀だなぁとしみじみ。">*1</a></p>
<p><strong>「正しさの基準[standard of correctness]」(以下、SOC)</strong>とは、<a href="https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766426847/">Wollheim (1980)</a>が定式化した問題。ざっくり言えば、画像には色んなものが見て取れるが、「画像がほんとうに描いているもの」についてはなんらかの外的情報(たいてい、画像の歴史的事実のどれか)を踏まえて特定・固定する必要があるという話。画像に目を向けるだけでは、犬なのか猫なのか、双子の兄Aなのか弟Bなのか、今日の出来事なのか昨日の出来事なのか、よくわからない。</p>
<p>正しさの基準といえば、描写内容の特定に関する認識論的な話として扱われることが多いが、本論文はこれを画像の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的一要素として組み込もうとするもの<a href="#f-ecb902a3" name="fn-ecb902a3" title="「認識論的な話」の例として、Abell (2005)。
">*2</a>。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>《古靴》に関する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%A4%A5%C7%A5%AC%A1%BC">ハイデガー</a>、シャピロ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>の有名なバトルなんかも取り上げている。</p>
<p> </p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#1個別者と種2観点と特徴">1.個別者と種/2.観点と特徴</a></li>
<li><a href="#3不確定性解釈不一致">3.不確定性、解釈、不一致 </a></li>
<li><a href="#4描写のゲーム5ピクチャーとイメージ">4.描写のゲーム/5.ピクチャーとイメージ</a></li>
<li><a href="#6描写の多様性7画像の密かな暮らし">6.描写の多様性/7.画像の密かな暮らし</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a></li>
</ul>
<h3 id="1個別者と種2観点と特徴">1.個別者と種/2.観点と特徴</h3>
<p>なにがSOCになるかについては、①「絵画など手製の画像は<strong>意図</strong>が基準になり、写真は<strong>因果</strong>が基準になる」という区別派、②「写真も撮影者の意図が基準になる」とする意図包括派、③「絵画も因果関係が基準になる」とする因果包括派に分かれている<a href="#f-4e1d83e1" name="fn-4e1d83e1" title="前に書いたもの。
">*3</a>。しかし、Terroneの関心は基準の特定ではなく、その<strong>役割</strong>を整理する点にある。</p>
<p>まず、Terroneは多義性が問題になるような事柄を四つ上げている。</p>
<ul>
<li><strong>個別者[individual]</strong>:特定の個別者を描くとして、どれを描くのか。</li>
<li><strong>種[kind]</strong>:描かれる事物がなんらかの種に属するとして、どれに属するのか。</li>
<li><strong>観点[<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/standpoint">standpoint</a>]</strong>:描かれる事物が特定の時間、空間、世界に位置づけられているとして、それはいつどこなのか。</li>
<li><strong>特徴[feature]</strong>:見て取れる性質のうち、事物に帰属[ascribe]される性質があるとして、どれを帰属するのか。</li>
</ul>
<p> </p>
<p><a href="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg" class="http-image"><img src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg" class="http-image" alt="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg" width="256" /></a></p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F4%A5%A3">ダヴィ</a>ッドの《サン=ベルナール峠を越える<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DC%A5%CA%A5%D1%A5%EB%A5%C8">ボナパルト</a>》は、<strong>〈ナポレオン〉</strong>を描くのであって、ナポレオンと瓜二つのマポレオンを描いているわけではない。<strong>〈ある人〉</strong>を描くのであって、ある火星人を描いているわけではない。<strong>〈現実世界〉</strong>の<strong>〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1800%C7%AF">1800年</a>5月〉</strong>に<strong>〈アルプス山〉</strong>を越えようとしている瞬間を描くのであって、虚構世界の2800年5月に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EA%A5%F3%A5%DD%A5%B9%BB%B3">オリンポス山</a>を越えようとしている瞬間を描いているわけではない。画像は、〈虚構世界の2800年5月に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EA%A5%F3%A5%DD%A5%B9%BB%B3">オリンポス山</a>を越えようとしている火星人マポレオン〉にも見える(なんせそっくりなのだから)が、これは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F4%A5%A3">ダヴィ</a>ッドの絵画にとって正しい描写内容ではない。ここで意図主義的なSOCを取るならば、このことは「作者はそう意図していなくて、こっちを意図している」ことから正当化される。<a href="#f-191b0129" name="fn-191b0129" title="この段落はTerroneaではなく私の考えた例。">*4</a></p>
<p> </p>
<p><a href="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Kafka.jpg/400px-Kafka.jpg" class="http-image"><img src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Kafka.jpg/400px-Kafka.jpg" class="http-image" alt="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Kafka.jpg/400px-Kafka.jpg" width="246" /></a><a href="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/2/2d/Matisse_-_Green_Line.jpeg/600px-Matisse_-_Green_Line.jpeg" class="http-image"><img src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/2/2d/Matisse_-_Green_Line.jpeg/600px-Matisse_-_Green_Line.jpeg" class="http-image" alt="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/2/2d/Matisse_-_Green_Line.jpeg/600px-Matisse_-_Green_Line.jpeg" width="240" /></a></p>
<p>特徴SOCに関する話はもう少しだけややこしい。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%D5%A5%AB">カフカ</a>を撮影した白黒写真には白黒の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%D5%A5%AB">カフカ</a>が見て取れるし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%B9">マティス</a>による《緑の筋のある<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%B9">マティス</a>夫人の肖像》には顔の中心に緑の筋を持った<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%B9">マティス</a>夫人が見て取れる。Terroneの言い方では、〈白黒である〉〈顔の中心に緑の筋を持つ〉といった特徴は、画像において付与[endow]されているが、その描写対象である〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%D5%A5%AB">カフカ</a>〉や〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%B9">マティス</a>夫人〉に対して帰属[ascribe]されているわけではない<a href="#f-338a5945" name="fn-338a5945" title="endowは語のニュアンスが全然わからない。私がいま書いている論文では、性質として「表示[display]されているが帰属[attribute]されていない」と説明しているが、もっとしっくり来る言葉遣いがあるかもしれない。">*5</a>。ここでも、画像が実際に主題に帰属させる特徴と、そうでない特徴は、なんらかの正しさの基準によって切り分けられる。</p>
<p>Terroneによれば、対面でなにかを知覚する場合にも、個別者、種、特徴に関する正しさの基準が考えられる。一方、<strong>観点SOCが問われるのは画像独自である</strong>。対面でなにかを知覚する場合、知覚されている事物の位置が〈現実世界〉〈いま〉〈ここ〉なのは自動的に確定するが、画像に描かれている事物の位置がどこなのかは、しばしば外的な情報を参照しないと確定できない。</p>
<p> </p>
<h3 id="3不確定性解釈不一致">3.不確定性、解釈、不一致 </h3>
<p><a href="https://micrio.vangoghmuseum.nl/iiif/EJgic/full/1280,/0/default.jpg?hash=LPRGFWDLORk3AGDvNRg2djo8_dQ9pnTgTXOZ99i8Igw" class="http-image"><img src="https://micrio.vangoghmuseum.nl/iiif/EJgic/full/1280,/0/default.jpg?hash=LPRGFWDLORk3AGDvNRg2djo8_dQ9pnTgTXOZ99i8Igw" class="http-image" alt="https://micrio.vangoghmuseum.nl/iiif/EJgic/full/1280,/0/default.jpg?hash=LPRGFWDLORk3AGDvNRg2djo8_dQ9pnTgTXOZ99i8Igw" /></a></p>
<p>ということで、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>の《古靴》の話になる。</p>
<p>前述の通り、SOCは画像の「正しい描写内容」を定めるが、対応するSOCが存在しないか、それにアクセスできないときには、画像の描写内容は不確定になる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>の《古靴》には、しかじかの状態の靴が見て取れるが、これは厳密になんなのか、どこにある誰の靴なのか、よく分からない。</p>
<p><strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%C6%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A5%CF%A5%A4%A5%C7%A5%AC%A1%BC">マルティン・ハイデガー</a></strong>は「芸術作品の起源」で、それを〈一対の靴〉、それも〈一対の農婦の靴〉だとして、そこから農業やら大地やらの話に展開していく。これに対し、<strong>メイヤー・シャピロ</strong>はもろもろの資料的調査をした上で、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>は当時都市に住んでおり、絵画のそれは〈一対の都市生活者の靴〉なのであり、それも〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>本人の所有していた一対の都市生活者の靴〉なのだと反論する。農婦の靴だと断言した<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%A4%A5%C7%A5%AC%A1%BC">ハイデガー</a>は、思い込みでとんちんかんなことを語っているに過ぎないのだ、と。</p>
<p>これに対し<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E3%A5%C3%A5%AF%A1%A6%A5%C7%A5%EA%A5%C0">ジャック・デリダ</a></strong>は『絵画における真理』において、シャピロの解釈にも疑問を投げかける。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>が都市に住んでいたからといって、彼が描く靴が都市生活者の靴であるとは限らない。また、シャピロも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%A4%A5%C7%A5%AC%A1%BC">ハイデガー</a>もそれが〈一対の靴〉であることには合意しているようだが、なぜそう言い切れるのか。よく見ると、二足の靴はよく似ており、どちらも左足用の靴であるような気がしないでもない。だとしたら、〈一対の靴〉だと断言するのも間違いだということになる。決定的証拠がない以上、描かれているのは〈靴〉、それ以上でも以下でもない、というのが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>の結論となる。</p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%A4%A5%C7%A5%AC%A1%BC">ハイデガー</a>は、描かれているそれは〈一対の農婦の靴〉という種に属するものだと考えた。シャピロは、そうではなく<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>が所有していた具体個別的な靴まで特定することで、〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B4%A5%C3%A5%DB">ゴッホ</a>本人の所有していた一対の都市生活者の靴〉なのだと主張した。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>は、二人よりもっと手前で、〈靴〉という種に属するものだと言えるだけであり、それ以上でも以下でもないと考えた。</p>
<p>さしあたり、Terroneは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>の見解に次のような異論を唱えている。たしかに、<strong>個別者</strong>や厳密な<strong>種</strong>の不確定性に関しては、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>の指摘ももっともであろう。ただし、<strong>観点</strong>に関してもなにも言えないのだとするなら、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>は間違っている。Terroneによれば、《古靴》の靴は、少なくとも〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1880%C7%AF">1880年</a>代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉に位置づけられる靴として理解しなければならない。<a href="#f-d27ce04d" name="fn-d27ce04d" title="もっとも、Terroneのこの応答はデリダにほとんど刺さらないと思われる。実際、「《古靴》の主題は〈1880年代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉に位置を持つ」というTerroneの判断こそ、「そんなん言い切れないじゃん」とデリダが批判している判断にほかならない。具体的なSOCの中身にコミットしないこともあり、なぜ〈1880年代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉までは言えるのか定かでないが、意図にせよ因果にせよということなのか。Terroneは、三者のバトルが、このあと論じる「交渉」の一種であると述べているが、〈1880年代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉であることは交渉なしで言い切れるのか。">*6</a></p>
<p>興味深いのは、Terroneがこういったバトルを<strong>解釈[interpretation]</strong>のレベルではなく、その手前の<strong>理解[understanding]</strong>のレベルだとみなしている点だ。SOCを踏まえ、画像の正しい描写内容を特定するのは「理解」に相当し、その先でいかなる「解釈」をする者も、理解レベルでは同意する必要がある。<a href="#f-763471dd" name="fn-763471dd" title="キャロル『批評について』の「解明」と「解釈」に相当。エイベルのフィクション本も似たような区別を導入している。">*7</a></p>
<p> </p>
<h3 id="4描写のゲーム5ピクチャーとイメージ">4.描写のゲーム/5.ピクチャーとイメージ</h3>
<p>TerroneはSOCを画像表象にとっての<strong>構成的ルール[constitutive rules]</strong>だと考える方向に進む。いわゆる社会<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的な道具立てを使って、画像の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的身分を定義しよう、という議論だ。</p>
<p>チェスのルールが一連のやり取りをチェスの試合たらしめているように、描写のSOCが画像を画像たらしめている。チェスのルールがチェス盤の使い方を定めるのと同様、SOCは画像表面の使い方を定めている。デザインが全く同じでも、一方は双子の兄Aの画像で、他方は弟Bの画像であるならば、両者は数的に区別される。それは、①だけでなく②もまた画像の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>に関与的だからだ。もっとも、チェスとの違いは、描写の場合は①画像表面上のデザインと②構成的ルールとなるSOCが、どちらも事例ごとに異なる、という点にある。</p>
<p>わりと面白い論の進め方として、TerroneはSOCなしで画像のうちになにかを見て取る(seeing-inする)ことを<strong>イメージ・ゲーム[image game]</strong>と呼び、これにSOC込みで画像を理解しようとすることを<strong>ピクチャー・ゲーム[picture game]</strong>と呼んでいる。同様の区別は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%C3%A5%B5%A1%BC%A5%EB">フッサール</a>らの「像オブジェクト/像<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%D6%A5%B8">サブジ</a>ェクト」、カルヴィッキの「骨ダケ内容/肉ヅキ内容」、ナナイの三重性にも見られるが、Terroneは内容のレベルに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BF%CC%BE">命名</a>する代わりに、画像の使い方(ゲーム)に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BF%CC%BE">命名</a>している。</p>
<p>また、指標詞に関するカプランの「意味特性[character]/意味内容[content]」になぞらえつつ、画像表面に対する一定のイメージ・ゲームから、SOC次第でさまざまなピクチャー・ゲームが出てくることを素描している(これは<a href="https://global.oup.com/academic/product/modeling-the-meanings-of-pictures-9780198847472?cc=jp&lang=en&">Kulvicki (2020)</a>の指摘でもある)。「私[I]」という指標詞は、characterレベルの辞書的定義として「話し手」を表すが、contentレベルでは文脈ごとに異なる人物を指示することになる。もっとも、「私」のような指標詞はcharacterのレベルで個別化されるのに対し、画像はcontentのレベルで個別化される、という相違点も指摘している。<a href="#f-c2093870" name="fn-c2093870" title="seeing-inできるものをイメージと呼び、+SOCなものをピクチャー=画像と呼ぶのは、Kulvicki (2006)のもっとテクニカルなimage/pictureの区別とは対応していないっぽくて、地獄を予感している。">*8</a></p>
<p>要するに、一定のデザインを持つ画像表面は、イメージのレベルでも遊べるし、ピクチャーのレベルでも遊べる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BF%CC%BE">命名</a>が示すとおり、Terroneによれば画像の画像としての使用はもっぱらピクチャー・ゲームである。画像は、見て取るものの正しさを気にせずseeing-inだけを楽しむのにも使えるが、そういったイメージ・ゲームは画像実践的に肝心なものではない。ゆえに、SOCもまた画像の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的構成要素であると主張される。</p>
<p> </p>
<h3 id="6描写の多様性7画像の密かな暮らし">6.描写の多様性/7.画像の密かな暮らし</h3>
<p>各種SOCを<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的に組み込むことで、画像の多様性を分類しているのも面白い。</p>
<ol>
<li><strong>図鑑</strong>:種一般の特徴を示す。種SOCと特徴SOCを持ち、観点SOCを持たない<a href="#f-651fa5cf" name="fn-651fa5cf" title="私の考えでは、種SOCと特徴SOCがあるからといって直ちに図鑑的な指示が実現するわけではない。少なくとも、「〈ある鳥〉の画像」と「〈鳥一般〉の画像」は概念的に区別されるはず(前者は後者の前提)だが、Terroneは「不特定のある◯◯」を描くレベルにあまり意識的でない気がする。前に書いたノートを参照。こちらは最近ようやく論文になりそうな気がしてきた。
">*9</a>。</span></p>
</li>
<li><strong>パスポートなどのID写真</strong>:特定の時間や空間から独立した個別者の姿を示す。個別者SOCと特徴SOCを持ち、観点SOCを持たない画像。</li>
<li><strong>監視カメラ映像</strong>:特定の時空間での個別者の姿を示す。個別者SOC、種SOC、特徴SOC、観点SOC全部ありな画像。</li>
<li><strong>抽象画</strong>:イメージ・ゲームに使えるが、ピクチャー・ゲームには使えない。種SOCすらない画像。</li>
</ol>
<p>ここで、ピクチャー・ゲームに使えない抽象画を「画像」から排除するなら「画像はデザインだけでなくSOCから構成される」という主張が改めて支持されることになる。逆に、抽象画も「画像」とみなすなら、<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/The_Harlequin%27s_Carnival">ミロ</a>にも<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/The_Palace_of_the_Windowed_Rocks">タンギー</a>にも<a href="https://www.wikiart.org/en/paul-klee/castle-and-sun-1928">クレー</a>にも<a href="https://www.wikiart.org/en/wassily-kandinsky/on-white-ii-1923">カンディンスキー</a>にも、少なくとも観点SOCはあり、奇妙な別世界のなにかを描いていることになる。ここではどちらにもコミットしないらしい。</p>
<p>Terroneによれば、<strong>現在のSOCは多かれ少なかれ歴史的・共同体的に偶然的なものである</strong>。たしかに、画像のSOCをもっぱら意図主義的に考えることは、実践的にいろいろと望ましい(この画像はなんの画像?というときに作者に聞いて分かるなら、それで全然オッケー)。しかし、作者の意図がもはやアクセス不可能な場合など、SOCは交渉[negotiation]を経て、ある種の<strong>公的規範[public norm]</strong>となる。Newall (2011)による、「正しい描写内容を投票による多数決で決める共同体」の思考実験なんかも引かれている。ここまで極端ではないが、実際に採用されているSOCは、少なからずこういった公的性格を持っている。また、芸術史家や芸術理論家は、そういったnegotiationの役割を担うことになる。</p>
<p> </p>
<p>結論でも面白いことを述べている。曰く、画像が①画像表面と②SOCから構成されるのだとしたら、保存・修復の上でも②を気にする必要がある。すなわち、<strong>絵画などを正しく保存するためには、見た目(物理的な損傷など)だけでなく、正しさの基準(オリジナルの文脈でどう見られていたかなど)にも気を配る必要がある</strong>。この点で、修復家と芸術史家は、同じ事業に参加していることになる。</p>
<p>もちろん、この<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的事実は<strong>鑑賞</strong>にとっても大事である。外的な情報を一切切り離して、絵画だけを精査しようとする自律主義は、イメージ・ゲームをしているだけであり、より肝心なピクチャー・ゲームができていない。絵画を絵画としてちゃんと鑑賞するには、SOCも気にしなければならないのだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>なるほど私はずっとここで言うところのピクチャーよりイメージを気にしてきたのだな、という気づきを得た。ここ数ヶ月、depi読でのやり取りもあって、個人的にかなり説得されてきた。実際、「SOCなしのイメージ・ゲームより、SOC込みのピクチャー・ゲームのほうが肝心でしょ」という見解を、Terroneは「実践的・慣習的にそうでしょ」で押し通すつもりらしいが、今では特に反対する理由もなくなってきた。とりわけ、棒人間の〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA">ガリ</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA">ガリ</a>の身体〉みたいな逸脱的性質が、ピクチャーとしてはそこにないが、イメージとしてはそこにある、というので割と直観的に満足しつつある。</p>
<p>最近はよく抽象画について考えているので、イメージ・ゲーム/ピクチャー・ゲームの区別で扱えるのもうれしさがある。ただし、理論的には<strong>イメージ・ゲームにすら使えない抽象画</strong>もあるかもしれない。これについてはWollheim (1987)が触れている。以下は松永さんからの孫引き。</p>
<blockquote>
<p>Wollheim(1987: 63)の例を借りれば、たとえばハンス・ホフマンの《<a href="http://www.tate.org.uk/art/artworks/hofmann-pompeii-t03256">Pompeii</a>》は形態内容を持つ抽象画であり、バーネット・ニューマンの《<a href="https://www.moma.org/collection/works/79250">Vir Heroics Sublimis</a>》は形態内容を持たない抽象画と言えるかもしれない。もちろん、両者とも形態内容を持つという考えもありうる。それは作品解釈の問題である。</p>
<p>(<a href="http://9bit.99ing.net/Entry/85/#fn20">描写内容の理論 - 9bit: 注20</a>)</p>
</blockquote>
<p><a href="https://www.tate.org.uk/art/images/work/T/T03/T03256_10.jpg" class="http-image"><img src="https://www.tate.org.uk/art/images/work/T/T03/T03256_10.jpg" class="http-image" alt="https://www.tate.org.uk/art/images/work/T/T03/T03256_10.jpg" width="190" /></a></p>
<p><a href="https://www.moma.org/media/W1siZiIsIjQ3ODMxNSJdLFsicCIsImNvbnZlcnQiLCItcXVhbGl0eSA4MCAtcmVzaXplIDIwMDB4MjAwMFx1MDAzZSJdXQ.jpg?sha=b29a4fb596ff0275" class="http-image"><img src="https://www.moma.org/media/W1siZiIsIjQ3ODMxNSJdLFsicCIsImNvbnZlcnQiLCItcXVhbGl0eSA4MCAtcmVzaXplIDIwMDB4MjAwMFx1MDAzZSJdXQ.jpg?sha=b29a4fb596ff0275" class="http-image" alt="https://www.moma.org/media/W1siZiIsIjQ3ODMxNSJdLFsicCIsImNvbnZlcnQiLCItcXVhbGl0eSA4MCAtcmVzaXplIDIwMDB4MjAwMFx1MDAzZSJdXQ.jpg?sha=b29a4fb596ff0275" width="300" /></a></p>
<p> </p>
<p>要は、①名状しがたいにせよなにかを表象している抽象画と、②地と図の区別すらほぼなく、非表象的デザインとしか呼べないストイックな抽象画の区別がある<a href="#f-7ac7aac1" name="fn-7ac7aac1" title="後者を「ストイック」と呼んだが、abstractの動詞としての意味(抽象する)や語源(抜き出す)を踏まえると、「あらかじめ表象的内容を持っていて、これをミニマルにシェイプアップしたもの」こそがabstract paintingな気がしないでもない。「抽象[abstract]」の用法がずさん、という話ではあるので、レベルを整理して別々の名称をつけるとよいかもしれない。
ふつうになんらかの個別者や種を描写しているが、性質をいくらか省略してミニマルに描いた画像。棒人間とかデフォルメ。ふつうに表象的なpictureにくくられるので、ストイックな意味での「抽象画」ではないが、相対的に「抽象的」ではある。
名状できないが、なんらかの事物を描いている画像。一応三次元の奥行きがあり、なにかよくわからん物体が見て取れる。Terroneの挙げるミロ、タンギー、クレー、カンディンスキーはぜんぶこれ。たぶんpictureではないがimageではある(seeing-inはできる)。
地と図の区別がないやつ。少なくとも理念としては二次元のデザインにとどまることを目指している。ポロックとかクラインとか。pictureではないし、imageですらない(seeing-inもできない)。
">*10</a>。美術史周りでこういった話はふつうにありそうなので、つなげて考えられると面白そう。</span></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Foutetsu2021" title="発表「駄作を愛でる/傑作を呪う」|応用哲学会年次大会あとがき - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>もちろん、社会<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>とつなげて公共性を持ち込むアプローチは、応用哲学で発表したカテゴリー論と同じ路線で学びがある。私はグァラから入ったので、まだサールの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的「構成」に納得していないのだが、この辺は改めて勉強したい。</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-a64b9a9a" name="f-a64b9a9a" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">筆者の<strong>エンリコ・テローネ[Enrico Terrone]</strong>は去年からイタリアの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%CE%A5%F4%A5%A1">ジェノヴァ</a>大学でAssociate Professorをしている研究者。美学、映画の哲学、社会<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>などが専門。去年だけでもJAACに<a href="https://doi.org/10.1093/jaac/kpaa003">SFの定義</a>と<a href="https://doi.org/10.1111/jaac.12703">ドキュメンタリーの定義</a>、BJAに<a href="https://doi.org/10.1093/aesthj/ayaa018">ポップソングの現象学</a>の論文を載せており、最近の分析美学では要注目人物のひとり。『The Pleasure of Pictures』に載せている<a href="https://www.taylorfrancis.com/chapters/edit/10.4324/9781315112640-13/watch-film-twice-enrico-terrone">「映画は二回見よう」論文</a>によれば、昔は映画批評もやっていたとか。関係ないが、本記事で取り上げている論文、「acceptance date: 20 January 2020」なのにいまだにAPQに掲載されてなくて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%D1%B8%EC%B7%F7">英語圏</a>も難儀だなぁとしみじみ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-ecb902a3" name="f-ecb902a3" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">「認識論的な話」の例として、Abell (2005)。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fdp8" title="レジュメ|キャサリン・エイベル「画像の含み」(2005) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-4e1d83e1" name="f-4e1d83e1" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">前に書いたもの。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fphotokobetsu" title="描写の哲学において写真は個別の議論を必要とするのか? - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-191b0129" name="f-191b0129" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">この段落はTerroneaではなく私の考えた例。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-338a5945" name="f-338a5945" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">endowは語のニュアンスが全然わからない。私がいま書いている論文では、性質として「表示[display]されているが帰属[attribute]されていない」と説明しているが、もっとしっくり来る言葉遣いがあるかもしれない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-d27ce04d" name="f-d27ce04d" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">もっとも、Terroneのこの応答は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>にほとんど刺さらないと思われる。実際、「《古靴》の主題は〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1880%C7%AF">1880年</a>代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉に位置を持つ」というTerroneの判断こそ、「そんなん言い切れないじゃん」と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EA%A5%C0">デリダ</a>が批判している判断にほかならない。具体的なSOCの中身にコミットしないこともあり、なぜ〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1880%C7%AF">1880年</a>代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉までは言えるのか定かでないが、意図にせよ因果にせよということなのか。Terroneは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%BC%D4">三者</a>のバトルが、このあと論じる「交渉」の一種であると述べているが、〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1880%C7%AF">1880年</a>代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉であることは交渉なしで言い切れるのか。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-763471dd" name="f-763471dd" class="footnote-number">*7</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">キャロル『<a href="https://www.keisoshobo.co.jp/book/b324574.html">批評について</a>』の「解明」と「解釈」に相当。<a href="https://global.oup.com/academic/product/fiction-9780198831525?cc=jp&lang=en&">エイベルのフィクション本</a>も似たような区別を導入している。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-c2093870" name="f-c2093870" class="footnote-number">*8</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">seeing-inできるものをイメージと呼び、+SOCなものをピクチャー=画像と呼ぶのは、Kulvicki (2006)のもっとテクニカルなimage/pictureの区別とは対応していないっぽくて、地獄を予感している。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-651fa5cf" name="f-651fa5cf" class="footnote-number">*9</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">私の考えでは、種SOCと特徴SOCがあるからといって直ちに図鑑的な指示が実現するわけではない。少なくとも、「〈ある鳥〉の画像」と「〈鳥一般〉の画像」は概念的に区別されるはず(前者は後者の前提)だが、Terroneは「不特定のある◯◯」を描くレベルにあまり意識的でない気がする。前に書いたノートを参照。こちらは最近ようやく論文になりそうな気がしてきた。
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fpicture-language" title="画像と言語のアナロジーはどこまで/どれだけ有効なのか - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><span style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif;"></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7ac7aac1" name="f-7ac7aac1" class="footnote-number">*10</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">後者を「ストイック」と呼んだが、abstractの動詞としての意味(抽象する)や語源(抜き出す)を踏まえると、「あらかじめ表象的内容を持っていて、これをミニマルにシェイプアップしたもの」こそがabstract paintingな気がしないでもない。「抽象[abstract]」の用法がずさん、という話ではあるので、レベルを整理して別々の名称をつけるとよいかもしれない。</p>
<ul>
<li>ふつうになんらかの個別者や種を描写しているが、性質をいくらか省略してミニマルに描いた画像。棒人間とかデフォルメ。ふつうに表象的なpictureにくくられるので、ストイックな意味での「抽象画」ではないが、相対的に「抽象的」ではある。</li>
<li>名状できないが、なんらかの事物を描いている画像。一応三次元の奥行きがあり、なにかよくわからん物体が見て取れる。Terroneの挙げるミロ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BF%A5%F3%A5%AE%A1%BC">タンギー</a>、クレー、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%C7%A5%A3%A5%F3%A5%B9%A5%AD%A1%BC">カンディンスキー</a>はぜんぶこれ。たぶんpictureではないがimageではある(seeing-inはできる)。</li>
<li>地と図の区別がないやつ。少なくとも理念としては二次元のデザインにとどまることを目指している。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%ED%A5%C3%A5%AF">ポロック</a>とかクラインとか。pictureではないし、imageですらない(seeing-inもできない)。</li>
</ul>
<p><span style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif;"></span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|ベリズ・ガウト 「芸術を解釈する:パッチワーク理論」(1993)
hatenablog://entry/26006613775733870
2021-06-14T20:07:01+09:00
2021-06-21T15:55:51+09:00 ベリズ・ガウト 「芸術を解釈する:パッチワーク理論」(1993)のレジュメ|Gaut, Berys (1993). Interpreting the Arts: The Patchwork Theory. Journal of Aesthetics and Art Criticism, 51(4):597-609.
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210614/20210614170341.png" alt="f:id:psy22thou5:20210614170341p:plain" width="1200" height="600" loading="lazy" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Gaut, Berys (1993). <a href="https://academic.oup.com/jaac/article-abstract/51/4/597/6042455?redirectedFrom=fulltext">Interpreting the Arts: The Patchwork Theory</a>. <em>Journal of Aesthetics and Art Criticism, 51</em>(4):597-609.</span></p>
<p> </p>
<p>ベリズ・ガウト[Berys Gaut]による、芸術作品の解釈と評価に関する論文。意図主義まわりの議論で頻繁に引かれるわけではないが、割といいことが書いてある。</p>
<p>大筋としては、作品解釈に関する意図主義[intentionalism]の問題を指摘した上で、<strong>「パッチワーク理論[the patchwork theory]」</strong>と呼ぶ立場を提唱するもの。</p>
<p> </p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#1ふたつのパラダイム"> 1.ふたつのパラダイム</a></li>
<li><a href="#2いくつかの意図主義">2.いくつかの意図主義</a></li>
<li><a href="#3パッチワーク理論">3.パッチワーク理論</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a></li>
</ul>
<h3 id="1ふたつのパラダイム"> 1.ふたつの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a></h3>
<p>意図主義とは、「<strong>作品の正しい解釈とは、現実の作者が持った/持ちえた意図の一部によって定められる</strong>」とするような立場である。具体的にはWollheim (1987), Savile (1982), Nehamas (1981), Hirsch (1967), Knapp and Michaels (1985)などが挙げられている。</p>
<p> </p>
<p>ガウトによれば、意図主義をサポートする<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>がふたつある。</p>
<ul>
<li><strong>意味論的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>[semantic paradigm]</strong>:作品解釈とは、その意味[meaning]を発見することである。意味とは言語的性質である。作品解釈の理論は言語的意味を理解するためのモデルを経由するのがよい。言語的意味は意図によって固定されるので、解釈者は意図の特定を目指すことになる。よって、作品解釈もまた、作者の意図の発見を目指すことになる。</li>
</ul>
<p>この帰結として、(1)意味の透明性:芸術作品の意味は、芸術家本人およびその同時代人にとって把握できるようなものでなければならない、(2)意味に関する絶対主義:いろんな仕方で解釈されうるからといって、意味が複数あるわけではなく、作品の正しい意味は意図によって確定される。</p>
<ul>
<li><strong>評価/解釈二分法[interpretation/evaluation dichotomy]</strong>:作品解釈は作品評価から独立している。</li>
</ul>
<p>これは意図主義にとって好都合である。意図主義者であっても、「作者が傑作として意図してたら傑作である」とは言いたくない。例えばWollheimは評価の問題をまったく扱わず、Savileは解釈と評価で別々の説明をしている。</p>
<p>ガウトによれば、意味論的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>と評価/解釈二分法はそれぞれ問題を抱えている。</p>
<p>意味論的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>に関して言えば、<strong>芸術作品の解釈と呼ばれる営みは、言語的な意味の特定よりも、ずっと広く多様なことをしているように思われる</strong>。詩のリズムや韻などは意味ではなく<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%FD%B8%EC%CF%C0">統語論</a>的な性質だが、これを考えることは詩を正しく理解する上で重要であり、ガウトによれば「作品解釈」の範疇に入る。他にも、キャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ターの行動の理由や、メタファーや、虚構的存在の特徴帰属など、作品解釈は色んなことをしている。すなわち、「意図をもとに発話の意味を探る」ような営みとのアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>は、成り立たないのではないか、というのが意味論的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>に対する懸念である。さらに言えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%A5%E2%A5%C7%A5%EB">言語モデル</a>が比較的使いやすそうな文学作品ですらこうなのだから、絵画や音楽に関して意味論的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>を持ち出すのはいっそうしんどそうだ。</p>
<p>評価/解釈二分法に関して言えば、第一に、<strong>解釈における価値の役割を無視してしまっている</strong>。小説の読み手はふつう、快楽だけでなく、認知的な洞察や、感情的な深みなど、ひろく「価値ある体験」を求めて小説を紐解く。純粋にテキストの意味内容を知るという意味で調査[research]するのではなく、鑑賞[appreciate]するのだ<a href="#f-48891f5c" name="fn-48891f5c" title="ここは、文学作品の読者をvalue-seekersとして考えるDavies (2006)の前提に近い。実際、この段落で述べられていることはほとんどそのまま価値最大化理論の考えである。
">*1</a>。「退屈、無意味、一貫性に欠けている」と思われた作品が、ある解釈のもとで読んだところ、「生き生きとして、深みがあり、活力に満ちている」ように感じられたとしたら、その解釈はより良い(ここではより「正しい」と言えそうな)解釈だと考えられるだろう。もちろん、これは唯一の基準ではないが、基準のひとつだろう。また、第二に、<strong>そもそも解釈と評価の二分法は成り立たないかもしれない</strong>。解釈は広く作品が持つ性質の特定を目指すのだろうが、ここで価値もまた作品の持つ性質である。二分法を支持するなら、解釈の対象となるような性質だけを切り出さなければならないが、これはしんどい。ガウトによれば、ある絵画に「大胆な筆致が含まれる」というのは、解釈であり評価でもある〔ある種の文脈において、美的性質は記述的でもあり評価的でもある、という話〕。ガウトはこれに関連して、バーナード・ウィリアムズ[Bernard Williams]の「厚い概念」/「薄い概念」なんかも参照している。事実と価値の二分はしんどい、というわけだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="2いくつかの意図主義">2.いくつかの意図主義</h3>
<p>よって意図主義のふたつのサポートはどちらも疑わしいのだが、第二節では改めて、既存の意図主義がレビューされている。</p>
<ul>
<li><strong>極端な意図主義</strong>(HirschおよびKnapp and Michaels):意図された解釈であることを、正しい解釈であることの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%CD%D7%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">必要十分条件</a>だと考える。【反論】ハンプティダンプティ的ななんでもありになってしまうのでしんどい。</li>
<li><strong>実現された意図主義</strong>:ちゃんと実現された意図であれば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%CD%D7%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">必要十分条件</a>になる。【反論】作品には意図されていない特徴がたくさんある。意図せぬ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%A1%B1%A4">押韻</a>やリズムもまた、解釈の対象である。</li>
<li><strong>意図を「制作をコン<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%EB">トロール</a>するあらゆる心的状態」まで拡張した意図主義</strong>(Wollheim):制作に因果的に影響したあらゆる心的状態にまで拡張すれば、自覚的でなかった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%A1%B1%A4">押韻</a>やリズムも意図主義のもとで説明できそう。【反論】この意味において意図されていないが、作品が持つ特徴がまだある。いかなる意味でも曖昧にしようとしていないが、曖昧な作品など。</li>
</ul>
<p>また、この手の意図主義は、<strong>芸術家には利用不可能な(後世の)概念を用いた解釈をぜんぜん許容できていない</strong>。具体的にはハインリヒ・ヴェルフリン[Heinrich Wölfflin]の「線的」/「絵画的」を用いた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%CD%A5%B5%A5%F3%A5%B9">ルネサンス</a>美術と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%ED%A5%C3%A5%AF">バロック</a>美術の比較など。</p>
<ul>
<li><strong>作者が意図しえた意味まで認める意図主義</strong>(Nehamas、いわゆる仮説意図主義):直接的に意図した証拠がなくとも、意図しえた意味であるなら、そこまで認めてよいだろう。【反論】「〜と意図しえた」は曖昧。論理的必然性とかで考えると、あまり多くの意味をカバーできない<a href="#f-837495da" name="fn-837495da" title="意図の仮説立てがなにによって正当化されるのか(最良の仮説はなにをもって最良なのか)問題。なるべく作品を面白く鑑賞できるような解釈を仮説するなら、仮説意図主義は実質として価値最大化理論に回収されるだろう、というのがDavies (2006)の見解。">*2</a>。</li>
</ul>
<p>さらに、「〜と意図しえた」まで認める意図主義は、他作品への<strong>言及=暗示[allusion]</strong>を考える上で不都合である。作品Aが同時代の作品Bをほのめかしている(パロディとか)とき、上のタイプの意図主義であれば、「AはBに言及している」と仮説立てできる。しかし、これはまったく偶然の類似であり、言及になっていない可能性がある。すなわち、文学上の言及を考える上では、現実意図主義に訴えるほかなく、「〜と意図しえた」意図主義では無理がある。</p>
<ul>
<li><strong>意図された規約[convention]のもとで読み解くべきだとする意図主義</strong>:作品をデコードするための規約はいろいろあり、そのうち意図された規約のもとで得られるのが正しい解釈である。【反論】<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%EB">リテラル</a>な意味を定める言語的規約や、ジャンルに関する規約、イコノグラフィック的な意味を取り出す規約を除けば、利用可能な規約がほとんど存在しない。たいていの作品はイコノグラフィーじゃないし、ジャンル逸脱的であることを目指している。解釈にとっては、一般的な規約よりも、作品ごとに個別の文脈のほうが大事そうだ。</li>
<li><strong>意図された観客に訴える意図主義</strong>:想定読者がちゃんと読み取れるような意味の特定こそが、正しい解釈である。【反論】後世の分析ツールを用いる読者は想定できないので、ヴェルフリンとか<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%ED%A5%A4%A5%C8">フロイト</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BA%BF%C0%CA%AC%C0%CF">精神分析</a>とか<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9%BC%E7%B5%C1">マルクス主義</a>みたいな解釈をカバーできず、狭すぎる。また、「傑作だと認めてくれるような読者」を作者が想定していたとすれば都合が良すぎるので、広すぎる。</li>
</ul>
<p>ということで意図主義は退けられるのだが、だからといってWimsatt and Beardsley (1946)みたいな<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a></strong>が正しい、というわけではない。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>は「意図は決して関与的ではない」とするが、これはこれで間違っている。強い<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>を認めるなら、文学作品はまったく翻訳できない、ということになるが、これは疑わしい。また、前述の言及=暗示みたいに、たしかに<strong>現実の作者の意図で決まるような作品性質もある</strong>ように思われる。</p>
<p> </p>
<h3 id="3パッチワーク理論">3.パッチワーク理論</h3>
<p>ここに至ってガウトは、<strong>一般的でグローバル[global]な解釈理論はない</strong>、とする立場を選ぶことになる。包括的な意図主義も包括的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>も間違っている。</p>
<p>というのも、繰り返してきた通り、作品解釈は「ラディカルに異なるさまざまな性質を、さまざまな根拠のもとで作品に帰属させる営み」だと考えられるからだ。ガウトは、作品性質の多様性と、それぞれに関連する解釈理論の多様性を認める立場を、<strong>「パッチワーク理論」</strong>と呼び、支持する。</p>
<p>ガウトが挙げるところでは作品解釈上の関心には、①テキストの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%EB">リテラル</a>な意味、②音響的性質、③表出的性質、④テーマやモチーフ、⑤美的性質、⑥様式的性質、⑦言及=暗示、⑧メタファーなどの象徴、⑨オリジナリティや評価的性質などが含まれる。例えば、①テキストの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%EB">リテラル</a>な意味を考える上では意図ないし意図された規約が必要十分だと言えるかもしれないが、⑥スタイルや⑨オリジナリティなどは意図では決まりそうにない。</p>
<p>また、③表出的性質の帰属「この音楽は悲しい」など、おそらく<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%E9%A5%B9%A5%BF">クラスタ</a>ー理論[cluster theory]</strong>でしかとらえられないような解釈もある。すなわち、(1)作者が意図した、(2)聞き手がそう感じる、(3)そういう慣習的手法がある、などといった、それぞれ関与的な条件が複数あり、全部ないし多くを満たしていれば「この音楽は悲しい」と言えそうな一方で、どれも単独として満たさなければならない条件というわけではない。ちなみにガウトは芸術の定義に関しても<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%E9%A5%B9%A5%BF">クラスタ</a>ー理論を推している。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fzmz%2Fpublished_papers%2F7193991" title="松永 伸司 (Shinji Matsunaga) - 芸術の定義形式としてのクラスタ説 - 論文 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>前述の通り、意味論的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>は疑わしい。パッチワーク理論を認めるならば、解釈は<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a></strong>になる。「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%E0%A5%EC%A5%C3%A5%C8">ハムレット</a>が殺人を先送りにした理由」は、採用する心理学ごとに異なる解釈ができる。意図主義だと、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%A7%A5%A4%A5%AF%A5%B9%A5%D4%A5%A2">シェイクスピア</a>と同時代の心理学を用いて説明することが“正しい”とされるが、後世のより精緻化された心理学を用いることが直ちに“間違っている”とされるのもおかしい。解釈は、心理学Xのもとでは(1)、心理学Yのもとでは(2)みたいに相対化するしかない。とはいえ、この限りでの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>は、鑑賞者の主観に基づくなんでもあり<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>でもない。ともかく、「唯一の正しい解釈はどれだ」みたいなミスリーディングな問いは回避できる。</p>
<p>パッチワーク理論は、作品が持つ性質だけでなく、<strong>作品に投影される性質</strong>も、正当なものとして認める。《<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%CA%A5%EA%A5%B6">モナリザ</a>》は微笑んでいるのか悲しんでいるのかは、見る人の投影による。作品が持つ性質としては「不確かな表情である」というので話は終わりだが、作品自体が持たない確定的性質を帰属させることも解釈として正当化されうる。実際のところ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%CA%A5%EA%A5%B6">モナリザ</a>が微笑んでいるのか悲しんでいるのか気になることは、作品への反応として正しいものであるとされる。〔ここの話についてはコメントでも触れる〕</p>
<p>ガウトの言葉では、作品性質の検出[detection]だけでなく、<strong>構築[construction]</strong>も解釈として大事である。例えば、フィクションのキャラは感情やら見た目やらが不特定だが、鑑賞者は想像力を駆使することで、確定的な性質を帰属させうる。この点において、文学作品の読者がやっていることは、楽譜をもとに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%E9%C1%D5%B2%C8">演奏家</a>がやる”解釈”や、台本をもとに役者がやる”解釈”と似ている。ガウトによれば、アカデミックな作品解釈と、アーティストによるパフォーマンスを通した解釈は、実のところあまり違わない。</p>
<p>また、メタファーに関しても構築的に解釈される。メタファーとは要は比較であり、さまざまな類似のなかから鑑賞者がある程度の裁量を持って選択できる。</p>
<p> </p>
<p>まとめとして、意図主義にせよ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>にせよ、こういった多様な営みを包括的に説明しようとするグローバルな解釈理論は考え難い。<strong>ローカルな解釈理論</strong>であれば立てることができるかもしれない。あとは、主に意図主義からの想定反論にいくつか応答している。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FNOEPRF" title=" David Bordwell Noel Carroll (ed.), Post-Theory: Reconstructing Film Studies - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>「パッチワーク理論」はよく言えば現実的、わるく言えば元も子もない、いずれにしても示唆に富んだ立場だろう。「解釈」でまとめられている営みの多様性を強調する点で、この手の議論の方法論的反省を促すものになっている。映画批評の「グランドセオリー」に対するキャロルらの攻撃みたいに、「あまりに包括的な一般理論は無理があり、中間サイズ(ジャンルとか)の理論=ローカルな理論を目指したほうがよさそう」というのにはかなり共感できる。</p>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftogetter.com%2Fli%2F1720618" title="「サンは後醍醐天皇の娘」 講談師による『もののけ姫』考察がバズる" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>もともとこの論文を読もうと思ったきっかけは、先日の<a href="https://www.senkiyohiro.com/research/aesthetics/chandoku">ちゃん読</a>での雑談だ。「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%E2%A4%CE%A4%CE%A4%B1%C9%B1">もののけ姫</a>のサンはエボシと<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%E5%C2%E9%B8%EF%C5%B7%B9%C4">後醍醐天皇</a>の娘」説(?)が話題になったときに、高田さんが挙げられていた疑問だ。</p>
<ul>
<li>一方で、解釈は虚構的真理の特定を目指すことがある。すなわち、作品世界内の、明示的に描かれていないところでなにがなにしたのか、なにがどんななのか、なにがなんなのか式の説明をするような「解釈」がある。『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BF%A5%A4%A5%BF%A5%CB%A5%C3%A5%AF">タイタニック</a>』の木片は二人乗りできたのか、『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%F3%A5%BB%A5%D7%A5%B7%A5%E7%A5%F3">インセプション</a>』のコマは止まったのか、『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%C3%A5%BF%A1%BC%A5%A2%A5%A4%A5%E9%A5%F3%A5%C9">シャッターアイランド</a>』はどこからどこまで妄想なのか、など。</li>
<li>他方で、作品のテーマやモチーフ(ガウトの挙げる④)に関する「解釈」がある。作品の教訓はなにか、風刺・メタファー・象徴の意義はなにか(ガウトの挙げる⑦⑧)、といった問いに関する説明がこれに当たる。</li>
</ul>
<p>高田さんの疑問は、前者の意義に関するものだ。作品に明示されておらず、不確定である部分は、内的性質として「AかBか不確定である」に過ぎず、それを一鑑賞者が「私の考えではAです」というのもおかしな話ではないか、と。</p>
<p>さしあたり、ガウトの考える広義の作品解釈では、前者も後者も「解釈」の営みだろう。言語的直観として、われわれは現に前者も「解釈」と呼んでいるし、上述の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%E5%C2%E9%B8%EF%C5%B7%B9%C4">後醍醐天皇</a>娘説でも、前者のレベルで反論と応答(?)がなされていた。少なくとも、日常的な意味において「解釈」は前者的なことを(ことによると後者よりも)気にしている<a href="#f-5b510f0d" name="fn-5b510f0d" title="キャロルは『批評において』で「解明」と「解釈」を区別している(第3章の5節6節)。解明の方に、ひろく記号関係(言語のリテラルな意味だけでなく、イコノグラフィーなども)を明らかにする作業を含み、解釈の方に、主題的意義や物語的意義を含めている。おおむね、上の前者後者に対応しているが、メタファー解読なんかが前者に入るのと、単純に言葉遣いとしてややこしいかもしれない。">*3</a>。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.fusakonoblog.com%2Fentry%2F2020%2F07%2F18%2F035805" title="『もののけ姫』でアシタカがなぜ「たたら場に残った」のかようやく理解した - 旅するトナカイ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>こちらは後者の、主題・テーマに重点を置いた感想記事だが、上述の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%E5%C2%E9%B8%EF%C5%B7%B9%C4">後醍醐天皇</a>と違い、炎上という感じではなかった(マウントはずいぶんされていたようだが)。主張のラディカルさおよび反論への対応が違うので、比較としてイマイチかもしれないが、「アシタカの"呪い"は病気のメタファー」といった、前者後者がオーバーラップするような話題に関しては、「いや、穢れのメタファーである」として噛み付くコメントが目立っていた様子だ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fghibli.jpn.org%2Freport%2Feboshi%2F" title="宮崎駿が語る『もののけ姫』エボシ御前の設定 | スタジオジブリ 非公式ファンサイト【ジブリのせかい】 宮崎駿・高畑勲の最新情報" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p> 結局のところ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%E5%C2%E9%B8%EF%C5%B7%B9%C4">後醍醐天皇</a>娘説は、実質的な作者の意図に相当する<strong>公式設定</strong>を挙げることで、おおむね鎮火された模様だ。少なくともこのことは、<strong>「明示的でない虚構的真理に関する解釈の正しさは、作者の意図によって定められる」</strong>とする直観の強固さを再確認したかたちになる。他方で、作品内のセリフや描写と整合的でないことから、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%E5%C2%E9%B8%EF%C5%B7%B9%C4">後醍醐天皇</a>娘説を退ける反論もあった。意図に訴えるにせよ訴えないにせよ疑わしい説、という意味では事例としていまひとつだったのかもしれない。「作品の内的性質とは整合的だが、主流の解釈とは競合し、意図に訴えるとかでないとどうにもならない」ような事例のほうが見どころある<a href="#f-7421337c" name="fn-7421337c" title="説の提唱者はその後、反意図主義・形式主義を徹底するような方針に回ったが、その割に、作品の内的性質と説が整合的でないことへの応答ができなかった点こそ、いちばん問題だろう">*4</a>。</p>
<p> </p>
<p>ところが、ガウト論文に戻ると、読者による<strong>「構築」</strong>に対してガウトが認めている権利は、上述の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%E5%C2%E9%B8%EF%C5%B7%B9%C4">後醍醐天皇</a>娘説を許容してしまうのではないか、という懸念もある<a href="#f-a702a323" name="fn-a702a323" title="ほかにも、ガウトは明らかに「精神分析やマルクス主義といった道具立てのもとでの解釈は(中身はともかくやり方として)正当である」という前提に立っているが、各アンチはそうは考えないだろう。曰く、「分析ツール自体が完全に正しい必要はなく、精神分析やマルクス主義に理論的欠陥があるとしても、特定のケースに関しては洞察を得ることができる」とのことだ。やはり、ガウトの立場は優しすぎ・許容的すぎな気がしないでもない。「精神分析映画理論はすべからくいい加減」みたいな立場も、個人的にはアリだと思う。">*5</a>。上述の炎上もそうだが、われわれはどこかで「その解釈は間違っている」と言えるだけの規範を持っているし、少なくとも欲している。「構築」に関しても、どこまでがなにゆえに正当なのか考える必要があるだろう<a href="#f-97cc0af5" name="fn-97cc0af5" title="ちなみにちゃんと読めていないが、ガウトの『A Philosophy of Cinematic Art』では意図主義と並べて、ボードウェル&トンプソンの認知的構築主義〜ネオフォルマリズムにも攻撃が加えられている。
">*6</a>。</p>
<p>つまるところ、作品解釈や作品評価の問題は、無尽蔵な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>と包括的な絶対主義の間で、よい塩梅を探すしかないのだろう。</p>
<p> </p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-48891f5c" name="f-48891f5c" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ここは、文学作品の読者を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/value">value</a>-seekersとして考えるDavies (2006)の前提に近い。実際、この段落で述べられていることはほとんどそのまま価値最大化理論の考えである。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2FDAVAIL" title="文学解釈における価値最大化理論|スティーヴン・デイヴィス「作者の意図、文学の解釈、文学の価値」(2006) - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-837495da" name="f-837495da" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">意図の仮説立てがなにによって正当化されるのか(最良の仮説はなにをもって最良なのか)問題。なるべく作品を面白く鑑賞できるような解釈を仮説するなら、仮説意図主義は実質として価値最大化理論に回収されるだろう、というのがDavies (2006)の見解。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-5b510f0d" name="f-5b510f0d" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">キャロルは『批評において』で「解明」と「解釈」を区別している(第3章の5節6節)。<strong>解明</strong>の方に、ひろく記号関係(言語の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%EB">リテラル</a>な意味だけでなく、イコノグラフィーなども)を明らかにする作業を含み、<strong>解釈</strong>の方に、主題的意義や物語的意義を含めている。おおむね、上の前者後者に対応しているが、メタファー解読なんかが前者に入るのと、単純に言葉遣いとしてややこしいかもしれない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7421337c" name="f-7421337c" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">説の提唱者はその後、反意図主義・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>を徹底するような方針に回ったが、その割に、作品の内的性質と説が整合的でないことへの応答ができなかった点こそ、いちばん問題だろう</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-a702a323" name="f-a702a323" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ほかにも、ガウトは明らかに「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BA%BF%C0%CA%AC%C0%CF">精神分析</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9%BC%E7%B5%C1">マルクス主義</a>といった道具立てのもとでの解釈は(中身はともかくやり方として)正当である」という前提に立っているが、各アンチはそうは考えないだろう。曰く、「分析ツール自体が完全に正しい必要はなく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BA%BF%C0%CA%AC%C0%CF">精神分析</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9%BC%E7%B5%C1">マルクス主義</a>に理論的欠陥があるとしても、特定のケースに関しては洞察を得ることができる」とのことだ。やはり、ガウトの立場は優しすぎ・許容的すぎな気がしないでもない。「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BA%BF%C0%CA%AC%C0%CF">精神分析</a>映画理論はすべからくいい加減」みたいな立場も、個人的にはアリだと思う。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-97cc0af5" name="f-97cc0af5" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ちなみにちゃんと読めていないが、ガウトの『A Philosophy of Cinematic Art』では意図主義と並べて、ボードウェル&トンプソンの認知的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BD%C3%DB%BC%E7%B5%C1">構築主義</a>〜ネオフォルマリズムにも攻撃が加えられている。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.cambridge.org%2Fcore%2Fbooks%2Fphilosophy-of-cinematic-art%2FB7CD41CEFD2CD4FD4C6B49753278F47B" title="A Philosophy of Cinematic Art" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|ノエル・キャロル「芸術鑑賞」(2016)
hatenablog://entry/26006613773198459
2021-06-07T20:57:13+09:00
2021-09-02T15:05:27+09:00 Carroll, Noël (2016). Art Appreciation. Journal of Aesthetic Education, 50(4):1-14. 美学者ノエル・キャロル[Noel Carroll]による、その名も「芸術鑑賞」という論文。キャロルの鑑賞・批評観が「芸術鑑賞ヒューリスティック」という概念のもとにミニマルにまとめられている。『批評について』の予習復習としておすすめな一本です。同書からちょっと修正した議論もあります。 節題はこちらでつけたもの。 1.ふたつの「鑑賞」 2.芸術鑑賞ヒューリスティック 3.目的の特定 4.帰結と想定反論 ✂ コメント
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210607/20210607181045.png" alt="f:id:psy22thou5:20210607181045p:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Carroll, Noël (2016). <a href="https://doi.org/10.5406/jaesteduc.50.4.0001">Art Appreciation</a>. <em>Journal of Aesthetic Education, 50</em>(4):1-14.</span></p>
<p> </p>
<p>美学者<strong>ノエル・キャロル[Noel Carroll]</strong>による、その名も「芸術鑑賞」という論文。キャロルの鑑賞・批評観が「芸術鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>」という概念のもとにミニマルにまとめられている。『批評について』の予習復習としておすすめな一本です。同書からちょっと修正した議論もあります。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.keisoshobo.co.jp%2Fbook%2Fb324574.html" title="批評について ノエル・キャロル著 森 功次訳 " class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>節題はこちらでつけたもの。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#1ふたつの鑑賞">1.ふたつの「鑑賞」</a></li>
<li><a href="#2芸術鑑賞ヒューリスティック">2.芸術鑑賞ヒューリスティック</a></li>
<li><a href="#3目的の特定">3.目的の特定</a></li>
<li><a href="#4帰結と想定反論">4.帰結と想定反論</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a></li>
</ul>
<h3 id="1ふたつの鑑賞">1.ふたつの「鑑賞」</h3>
<p>キャロルによれば、<strong>鑑賞[appreciation]</strong>という語には、大きくふたつの使われ方がある。</p>
<ul>
<li><strong>好むこととしての鑑賞[appreciation-as-liking]</strong>:鑑賞とは主観的な趣味による好き嫌いの判断であり、鑑賞はここでは称賛[approbation]とニアリーイコールになる。ヒュームが述べたように、こういった趣味判断は主観的だが、理想的鑑賞者による共同評決がある限りで、間主観的になりうる。</li>
<li><strong>測ることとしての鑑賞[appreciation-as-sizing-up]</strong>:作品の価値を評価し、測定すること。appreciationの語源にあたる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%C6%A5%F3%B8%EC">ラテン語</a>appretiareの意味合いに近い。この意味での鑑賞は非人間的であり、個人的に惹かれるかどうか、好きかどうかとは独立になされうる。大学の講義なんかで教えられるのは基本こっちであり、生徒は好き嫌いはともかく、作品を客観的に評価するよう求められる。</li>
</ul>
<p> </p>
<h3 id="2芸術鑑賞ヒューリスティック">2.芸術鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a></h3>
<p>キャロルは二つ目の意味合いで「鑑賞」を考えるよう推奨している。そこで、「測ることとしての鑑賞」=作品評価のための具体的な手法・手続きとして、<strong>芸術鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>[art-appreciative heuristic]</strong>という概念を提案する<a href="#f-e4861728" name="fn-e4861728" title="「ヒューリスティクス(英: heuristics、独: Heuristik)または発見的(手法)とは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。発見的手法では、答えの精度が保証されない代わりに、解答に至るまでの時間が短いという特徴がある」
">*1</a>。</p>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.keio-up.co.jp%2Fnp%2Fisbn%2F9784766424843%2F" title="慶應義塾大学出版会 | ありふれたものの変容 | アーサー・C・ダントー 松尾大" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A1%BC%A5%B2%A5%EB">ヘーゲル</a>=<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>的な芸術の定義を出発点にしている。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>によれば、芸術作品であるとは、(1)なにかについてのもの[being about something]であり、(2)そのための十分ないし適切な形式[form]を持つ。しかし、芸術の定義としての不備はいろいろある<a href="#f-65ed9f7f" name="fn-65ed9f7f" title="2つ目の条件に「十分ないし適切な形式」を含めるせいで、悪い芸術作品が認められない。1つ目の条件に関しては、抽象的なデザインや絶対音楽といった非表象的な芸術形式を認められない。">*2</a>。キャロルのア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>は、これを芸術の定義ではなく、鑑賞のためのヒントとして組み替えるもの。</p>
<p>曰く、芸術鑑賞=評価においては、次のような手続きが踏める。</p>
<p><strong>【芸術鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>】</strong></p>
<ol>
<li>作品の<strong>意図された目的(群)</strong>を特定し、</li>
<li><strong>その実現のために選ばれた手段</strong>が適切・十分であるかどうかを判断する。</li>
</ol>
<p> </p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.artpedia.asia%2Ffor-the-love-of-god%2F" title="【作品解説】ダミアン・ハースト「神の愛のために」" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe>例として、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%DF%A5%A2%A5%F3%A1%A6%A5%CF%A1%BC%A5%B9%A5%C8">ダミアン・ハースト</a> 《神の愛のために》は、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%E1%A5%F3%A5%C8%A1%A6%A5%E2%A5%EA">メメント・モリ</a>というメッセージを伝える」という目的を持ち、そのための手段として実物のドクロにダイヤモンドを散りばめている。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%CA%A5%B5%A5%F3%A1%A6%A5%B9%A5%A6%A5%A3%A5%D5%A5%C8">ジョナサン・スウィフト</a>『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%D0%A1%BC%CE%B9%B9%D4%B5%AD">ガリバー旅行記</a>』は、「現実における<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%EA%A5%D1%A5%C3%A5%C8">リリパット</a>島をめぐる争いがしょうもないことを風刺する」という目的を持ち、そのための手段として<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%EA%A5%D1%A5%C3%A5%C8">リリパット</a>を小人の国として描いている。</p>
<p>すなわち、意図された目的を特定し、それを達成するために適切な手段が選ばれているかどうかで、芸術作品を鑑賞=評価することができる。実際には、先に目的をカッチリ特定する必要はなく、形式に注目→目的を予想→形式について仮評価→目的に関して別の予想を立てる、といった反省的均衡のなかで目的が特定できればよい<a href="#f-0d05d29b" name="fn-0d05d29b" title="反省的均衡は『批評について』では、正しいカテゴリーを特定するための手続きとして紹介されていた。">*3</a>。</p>
<p> </p>
<p>芸術鑑賞を「<strong>測ることとしての鑑賞</strong>」として考えるならば、こういった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>が使える。キャロルによれば、作品を理解できているかどうかと、作品を好むかどうかはひとまず独立であり、「良い作品っていうのは分かってるけど、個人的には好みじゃないな」と言っても矛盾はない。しかし、芸術鑑賞を「<strong>好むこととしての鑑賞</strong>」としてのみ考えてしまうと、こういう言い方ができなくなる。価値が分かるなら好きに違いないし、好きならば価値が分かっている、と考えるのはちょっと不都合なのだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="3目的の特定">3.目的の特定</h3>
<p>では、作品の目的はどうやって特定するのか。キャロルは3つのリソースを挙げている。</p>
<ul>
<li>既存の作品との類似性に基づいて、その作品がどの<strong>芸術カテゴリー</strong>(ジャンルなど)に属しているのかが分かれば、カテゴリーの目的から作品の目的を考えられる。</li>
<li><strong>芸術的文脈</strong>からも、作品の目的を知りうる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%C0%A5%CB%A5%BA%A5%E0">モダニズム</a>は、「絵画の本質を絵画で表現すること」が目的であり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%C0%A5%CB%A5%BA%A5%E0">モダニズム</a>文脈に置かれた作品もこの目的を担う。また、芸術外の文脈が目的を指定することもある。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A1%BC%A5%CB%A5%F3">レーニン</a>による「あらゆる芸術のなかで、映画が一番重要」宣言は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%A4%A5%BC%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%C6%A5%A4%A5%F3">エイゼンシュテイン</a>らの課題を示唆していた。</li>
<li><strong>芸術家の発言やインタビュー</strong>からも、意図された目的を知りうる。コミッション、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%CB%A5%D5%A5%A7%A5%B9%A5%C8">マニフェスト</a>、など。また、作者の意図があまり明確でなくても、鑑賞者は察することができる。</li>
</ul>
<p>これら3つのリソース①芸術的カテゴリー、②芸術的文脈、③作者の意図を示す証拠が、ある目的において収束するなら、作品の目的はそれである見込みが高い。</p>
<p> </p>
<p>キャロルによれば、本論文の説明は『批評について』(2008)の主張を少しだけ修正している。</p>
<ul>
<li>『批評について』では、<strong>カテゴリー分類</strong>を強調していた。すなわち、どのカテゴリーに属するかをがんばって特定し、カテゴリーが担う目的のもとで手段を評価する、という枠組みだった。</li>
<li>本論文ではより一般的に、<strong>目的の特定</strong>を強調している。すなわち、①カテゴリーだけでなく②③も加味して作品の目的を特定し、そのもとで手段を評価する、という枠組みにした。</li>
</ul>
<p>目的が①②③によって特定される、という事実は、<strong>目的に関する論争</strong>がありうることと、その論争が<strong>解決</strong>されうることを示している。これは、芸術鑑賞=趣味判断であり、「趣味に関しては議論できない」とする伝統的な見解と対立している。キャロルの鑑賞観において、評価のベースとなるのは事実をもとにした目的の特定であり、主観的な趣味ではないのだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="4帰結と想定反論">4.帰結と想定反論</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FJERAWA" title=" Jerrold Levinson, Artistic Worth and Personal Taste - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>キャロルにおいて「<strong>測ることとしての鑑賞</strong>」の推しポイントのひとつは、Levinson (2010)が気にしていた問題を解決しうる点だ。レヴィンソンによれば、一方で、われわれは美的プロファイルを養いたい。すなわち、好き嫌いに関して個性があったほうが望ましい。他方で、われわれは理想的鑑賞者による評価を参照したい。すなわち、見る目のある人の判断であれば、信頼して、同じように判断できるようになりたい。しかし、理想的鑑賞者を目指すことは、美的プロファイルの多様性をなくしてしまうのではないか。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fmorinorihide%2Fpresentations%2F12083030" title="森 功次 (Norihide Mori) - 専門家の意見はわたしの美的判断にどう関わるのか:理想的観賞者と個人的判断との関係をめぐる現代の論争とその展開 - 講演・口頭発表等 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>(この辺の話は森さんの発表資料を参照)</p>
<p>キャロルによれば、レヴィンソンが気にしている緊張関係は、鑑賞を「測ることとしての鑑賞」として考える限りは生じない。目的と手段に基づいて価値が分かることと、個人的に好むことは独立しているので、みんなで理想的鑑賞者(作品の価値をちゃんと測れる人)を目指したとしても、まったく同じ好みを持つようにはならない。</p>
<p> </p>
<p>最後にいくつか想定反論に答えている。</p>
<p>【反論】鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>は芸術に限ったものではなく、バターナイフ、ライフル銃、銀行機関といった人工物にも当てはまるので、芸術評価ナラデハの説明にはなっていないではないか。</p>
<ul>
<li>これはむしろ歓迎すべきことである。芸術作品の価値評価は、その他の人工物に対する評価と連続的であり、同じ手続きが使える。芸術評価にナラデハを求めたり、芸術の自律性うんぬんというのは疑わしい。</li>
</ul>
<p>【反論】目的のない(少なくとも意図された目的のない)芸術作品もあるだろう。</p>
<ul>
<li>【応答】「どう鑑賞してくれてもいいっすよ」という表明は、ある意味、メタ的な目的の表明になっている。すなわち、「目的のない、開かれた作品を作ること」自体が目的だと言える。開かれた作品を作るためには、ありふれた解釈へと落ち込みそうな要素を排除するなど、形式上の工夫が必要になり、これらの手段が「目的のない、開かれた作品を作ること」というメタ目的を実現しているかどうかで評価できる。</li>
</ul>
<p>【反論】「目的とか手段は知らんけど、個人的に好き」という趣味判断を排除するのは、エリート主義じゃないか。</p>
<ul>
<li>【応答1】なんも悪くない。芸術実践の外を見渡しても、「なんか分からんが、個人的に好きなだけ」という判断を信用する実践はどこにもない。あるツールの目的がまったく分かってない人によるツール評価は、ふつうだれも受け入れない。</li>
<li>【応答2】そんなにエリート主義でもない。鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>という客観的な知識・技術は、学んで練習すれば誰にでも獲得できるものである。「趣味の良さ」とかいう概念は新参者には深淵すぎるが、鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>の手続きにミステリアスなところはなにもない。目的特定や手段評価は芸術教育として教えやすいし、学生としても学びやすい。また、①芸術的カテゴリー、②芸術的文脈、③作者の意図といった事実の尊重<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>て、この枠組みはエリート主義でもなんでもない。</li>
</ul>
<p> </p>
<p>本論文の主張をまとめると、こうなる。</p>
<ul>
<li>鑑賞は「好むこととしての鑑賞」と「測ることとしての鑑賞」に区別でき、後者のほうがいろいろよい。</li>
<li>「測ることとしての鑑賞」は、1.目的特定、2.手段評価からなる「芸術鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>」によって説明できる。</li>
<li>これは、芸術以外のものに関する評価と連続的であるため、芸術鑑賞だけが神秘的というわけではない。</li>
<li>また、評価は事実ベースでなされるため、芸術鑑賞は単なる意見相違の問題ではなく、議論ができるものである。</li>
</ul>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>キャロルらしい、クリアカットだが論争的な論文だった。</p>
<p>『批評について』もそうだが、キャロルの鑑賞観・批評観は評価[evaluation]ありきといった感じで、解釈や感情的経験や好き嫌いは、あくまで評価に資する限りで意義を認められる。評価に関しては、意図された目的を中心に据える点でかなり意図主義よりで、一瞬どうかなぁとは思うが、鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>の枠組みなんかは極めてエレガントなので、もうこれでいいじゃん、という気にさせられる。実際、「この作品の目的はXで、そのために使われている手段はYで、YによるXの達成度は○○点です」という説明以上に、批評的に気になることなんてほとんどないんじゃないか、とすら思ってしまう。</p>
<p>こういった鑑賞観は浅い、という反論はあるだろう。とくに、批評実践の豊かさが〜うんぬんという向きには評判がわるそうだが、キャロルに差し替えせるほどの「深さ」「豊かさ」は、正確に言ってなんなのか。厳密に語ろうとするなら、結構難しいんじゃないか。</p>
<p>JAE収録というのもあって、鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>という枠組みが、美的教育の問題に直結するのも好感ポイント。鑑賞が趣味の問題であり、「趣味については議論できない」なら、芸術教育はしんどいだろう。本論文は、Film Studiesを始めとした専門教育のサポートにもなっているのが印象的だ。</p>
<p> </p>
<p>一点だけ水を差すとしたら、「<strong>『批評について』はカテゴリー重視で、本論文はより一般的に目的重視</strong>」という対比は、キャロルと別の仕方でも整理できるかもしれない。</p>
<p>たしかに、カテゴリーを既存の、名前が付いたジャンルなどに限定して考えるならば、カテゴリー批評にできることはかなり制限されるだろう(典型的なジャンルものしか扱えない)。その限りでは、カテゴリーより目的を中心に据えたほうが、多様な批評ができるようになる。</p>
<p>問題は、カテゴリーを「既存の、名前が付いたジャンルなど」に限定して考えなくてもいいんじゃないか、という点だ。例えば、私は先日の応用哲学会での発表で、「<strong>作品を鑑賞・解釈・評価する上での「観点」「見方」「フレーム」など……そこから意味や価値が立ち上がる枠組み一般</strong>」としてカテゴリーの語を用いた。これは拡張的な意味合いかもしれないが、ともかく要点はこうだ。</p>
<ul>
<li>作品の価値は、作品性質(手段としての形式)だけでなく、目的と相対的に測られるものである。</li>
<li>目的を伴う<strong>枠組み</strong>が無数にある。枠組みAにおいては作品の性質pは利点である。枠組みBにおいては作品の性質pは欠点である。</li>
<li>枠組みAやBは、メジャーなものかもしれないし、マイナーなものかもしれない。みんながしばしば採用する枠組みであるかもしれないし、私個人が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>のために参照する恣意的枠組みかもしれない。</li>
<li>メジャーな枠組みの一部だけが、名前(ジャンル名、様式名、運動名、など)を得る。</li>
</ul>
<p>重要なのは、目的と結びつき、手段と照らして価値評価させるような枠組みにとって、<strong>名前が付いている</strong>ことは本質的ではない、ということだ。無名のカテゴリーであっても、同様に評価的機能を果たせる。</p>
<p>逆に、評価的機能を果たす枠組みがあり、それが間作品的に正しく使えるものなのであれば、その限りで一連の作品を括っている当の枠組みを「カテゴリー」と呼んでもいいのではないか。ちょっと違和感があるなら、「フレーム」なんかのほうがいいかもしれない。</p>
<p>要は、「あるカテゴリー(フレーム)のもとで手段を評価すること」と「ある目的のもとで評価すること」は言い方の問題であって、実態としては交換可能なんじゃないか。無名のカテゴリーないしフレームを認める限りで、「目的の特定」はそれを伴う「カテゴリーの特定」とイコールであり、「カテゴリーの特定」はそれに伴う「目的の特定」とイコールになる。</p>
<p>すると、これも発表スライドの引用だが、「<strong>ある意味で、批評は分類に始まり分類に終わる。正しく分類することは、正しく評価・解釈するための枠組みを得ること</strong>」であり、正しく評価・解釈するための枠組みを得ることは、同時に正しいカテゴライズを行うことだと言ってよさそう。分類は評価を伴い、評価は分類を伴う、というわけだ。なので、キャロルは重点の違い(「カテゴリー」か「目的」か)を、そんなに気にする必要はなかったと思う。</p>
<p>もちろん、このもとで「<strong>作品本来の目的=作品の正しいカテゴリー」がなにによって決定されるのか</strong>は別の話だ。私はキャロルが本論文で言っていることのほとんどをサポートするが、正しい目的の決定要因に関してだけは対立する。キャロルは意図や文脈を重視しているが、私は制度の役割を見ていきたい、その他いろいろ。</p>
<p> </p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/BLD66XcIOqY?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget2"></iframe></p>
<p>すっかりサンタクロースなキャロルのインタビュー動画も参考になるので、合わせてどうぞ。</p>
<p>質問リストも適当に訳しておきます。</p>
<p><strong>【PART1】</strong></p>
<ul>
<li><span style="font-size: 80%;">00:09- 芸術をよりよく鑑賞することができれば、その人の人生はどのように改善されますか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">01:54- 芸術を鑑賞したり理解したりするために、どこから始めればよいのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">03:50- あなた自身は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>のア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>になにかを加えていると考えていますか、それとも離れていると考えていますか?〔キャロルは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>の研究者でもある〕</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">06:36- あなたにとって、趣味と美的経験の違いはなんですか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">10:06- デューイによる美的経験の概念はどこが間違っているのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">11:25- 何年か後に作品に戻ってきて、異なる評価をすることに重要性はあるのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">13:21- ジョージ・ディッキーが18世紀を「趣味の世紀」と呼んだのはなぜだと思いますか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">16:33- なぜ私たちは、芸術鑑賞の趣味モデルを無視するべきなのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">20:23- 趣味に基づくバイアスのなにが問題なのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">21:22- あなたの「芸術鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>」とはなんでしょうか?なぜそれが味覚モデルよりも優れているのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">24:26- なぜ、芸術鑑賞の味覚モデルを捨てることに抵抗があるのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">29:04- 美に対する感情的な反応から逃れることができず、認知的な仕方での芸術分析に取り組むことができない人がいるということはありますか?</span></li>
</ul>
<p><strong>【PART2】</strong></p>
<ul>
<li><span style="font-size: 80%;">00:09- 作品が個人の人生に与える影響は、その作品の評価に影響するのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">03:51- <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%BD%D1%C9%BE%CF%C0%B2%C8">美術評論家</a>はアーティストであるべきか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">09:35- 趣味なしで、どうやって質を見定めるのですか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">15:08- これは芸術鑑賞に対する「エリート主義的なアプローチ」だ、と言うコメントにはどう答えますか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">18:36- 芸術作品の目的が不確定であることはありえますか?もしそうだとしたら、それによって鑑賞することが不可能になるのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">22:30- 目的のない作品を作ることは可能でしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">23:14- 作品の目的に関するアーティストの説明が信用できない場合、どうすればいいでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">25:26- どちらも効果的に目的を果たしているが、一方の目的が他方よりも優れていることからある作品が他の作品よりも優れていると言えるでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">30:02- 芸術鑑賞と鑑賞一般を分けるものはなんでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">31:57 - センシティブな写真をメディアから見えにくくさせないように、アーティストによって再制作されることについて、なにか考えがありますか? </span></li>
</ul>
<p><strong>【PART3】</strong></p>
<ul>
<li><span style="font-size: 80%;">00:09- なぜ今日、これほど多くのリメイク映画が作られていると思いますか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">03:10- レビューを書く前に映画を複数回見たら、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%C7%B2%E8%C8%E3%C9%BE%B2%C8">映画批評家</a>の仕事はより良くなるでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">06:51- 芸術鑑賞<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF">ヒューリスティック</a>の下では、映画批評は映画の意図された目的を果たす能力を強調することに焦点を当てるべきでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">09:10- ロジャー・イーバートのような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%C7%B2%E8%C8%E3%C9%BE%B2%C8">映画批評家</a>は、映画の意図された目的を適切に議論するような書き方をしていますか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">12:03- 理想的な映画評論家は、映画製作者の心を完全に反映していると言えますか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">14:09 - 映画のように多くの異なる目的群によって構成された作品は、絵画のように一人の人間がより少ない目的によって作った作品よりも、全体的に見て大きな目的を持っているのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">18:11- 映画は多くの人によって作られるので、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%C7%B2%E8%C8%E3%C9%BE%B2%C8">映画批評家</a>の仕事は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%BD%D1%C9%BE%CF%C0%B2%C8">美術評論家</a>の仕事よりも難しいのでしょうか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">20:24- 最近ご覧になった映画のなかで、特に評価の高いものはありますか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">24:40- アニメーション映画についてはどうですか?</span></li>
<li><span style="font-size: 80%;">25:11- 『ジョーカー』(2019)についてのご感想は?</span></li>
</ul><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-e4861728" name="f-e4861728" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">「<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%AF%A5%B9">ヒューリスティクス</a></strong>(英: heuristics、独: Heuristik)または<strong>発見的(手法)</strong>とは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。発見的手法では、答えの精度が保証されない代わりに、解答に至るまでの時間が短いという特徴がある」</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2592%25E3%2583%25A5%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AA%25E3%2582%25B9%25E3%2583%2586%25E3%2582%25A3%25E3%2582%25AF%25E3%2582%25B9" title="ヒューリスティクス - Wikipedia" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-65ed9f7f" name="f-65ed9f7f" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">2つ目の条件に「十分ないし適切な形式」を含めるせいで、<strong>悪い芸術作品</strong>が認められない。1つ目の条件に関しては、抽象的なデザインや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%E4%C2%D0%B2%BB%B3%DA">絶対音楽</a>といった<strong>非表象的な芸術形式</strong>を認められない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-0d05d29b" name="f-0d05d29b" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">反省的均衡は『批評について』では、正しい<strong>カテゴリー</strong>を特定するための手続きとして紹介されていた。</span></p>
</div>
psy22thou5
発表「駄作を愛でる/傑作を呪う」|応用哲学会年次大会あとがき
hatenablog://entry/26006613766783678
2021-05-22T20:00:08+09:00
2023-04-28T20:30:39+09:00 2021年5月22日㈯の応用哲学会年次大会で発表してきました。発表スライドは以下です。 「駄作を愛でる/傑作を呪う」という題目で、分析美学の「批評の哲学」にカテゴライズされるだろう内容になっています。"だろう"というのは、実際にカテゴライズされるかどうかは私の一存では決まらない、という主張を発表内でしているためです。 アブスト付きのフライヤーは以下。 簡単に各パートの結論だけ紹介すると、 批評的理由づけの基準としては、カテゴリー相対的な弱い一般的基準が有望である。 逆張りにはいろいろある。とりわけ注目するべきは、色眼鏡な逆張りによるカテゴリー選択。 作品にとっての「正しいカテゴリー」は、価値最…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210522/20210522122659.jpg" alt="f:id:psy22thou5:20210522122659j:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p>2021年5月22日㈯の<a href="https://jacap.org/2021/01/22/%e5%bf%9c%e7%94%a8%e5%93%b2%e5%ad%a6%e4%bc%9a%e7%ac%ac%e5%8d%81%e4%b8%89%e5%9b%9e%e5%b9%b4%e6%ac%a1%e7%a0%94%e7%a9%b6%e5%a4%a7%e4%bc%9a/">応用哲学会年次大会</a>で発表してきました。発表スライドは以下です。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fsenkiyohiro%2Fpresentations%2F32428082" title="銭 清弘 (Kiyohiro Sen) - 駄作を愛でる/傑作を呪う - 講演・口頭発表等 - researchmap" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.academia.edu%2F49006654" title="駄作を愛でる/傑作を呪う_発表スライド" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><strong>「駄作を愛でる/傑作を呪う」</strong>という題目で、分析美学の「批評の哲学」にカテゴライズされるだろう内容になっています。"だろう"というのは、実際にカテゴライズされるかどうかは私の一存では決まらない、という主張を発表内でしているためです。</p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D6%A5%B9%A5%C8">アブスト</a>付きのフライヤーは以下。</p>
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210522/20210522123208.jpg" alt="f:id:psy22thou5:20210522123208j:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" width="450" /></p>
<p> </p>
<p>簡単に各パートの結論だけ紹介すると、</p>
<ol>
<li>批評的理由づけの基準としては、カテゴリー相対的な弱い一般的基準が有望である。</li>
<li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>にはいろいろある。とりわけ注目するべきは、色眼鏡な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>によるカテゴリー選択。</li>
<li><strong>作品にとっての「正しいカテゴリー」は、価値最大化を目指す制度の産物である。</strong></li>
<li><strong>制度に逆らうだけの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>は不適切だが、真剣な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>には制度を改善するという意義もある。</strong></li>
</ol>
<p>といったことを論じました。</p>
<p>当初は「<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>という批評的行為の内実を明らかにする</strong>」ことをメインの目的としていましたが、不適切な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>への応答を書き進めるうちに、作品にとっての「<strong>正しいカテゴリー</strong>」というアイテムに関心が移り、<strong>芸術作品のカテゴライズ(ジャンル、様式、運動など)を制度として説明する</strong>パートを中心とした構成になりました。</p>
<p>いつも通り論敵は意図主義で、今回だと「作品のカテゴリーは作者の意図によって決まる」とする立場と戦っています。面白いことに(奇妙なことに)、作品解釈に関して現実意図主義に対抗している論者たち(仮説意図主義のLevinsonや価値最大化理論のDaviesなど)ですら、作品カテゴリーを決める段になると現実の作者による意図を<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>だと考えがちです。本発表は、作品にとっての正しいカテゴリーは、意図の手前(作品に内的な性質のみ)で決まるのではなく、意図で決まるのでもなく、意図の先(均衡したルールとしての制度)で決まる、と主張することで、反意図主義を擁護しています。</p>
<p>主要な参考文献は、<strong>ノエル・キャロル『批評について』(2006)、ケンダル・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>「芸術のカテゴリー」(1970)、フラン<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%A7%A5%B9%A5%B3">チェスコ</a>・グァラ『制度とはなにか』(2016)</strong>あたり。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.keisoshobo.co.jp%2Fbook%2Fb324574.html" title="批評について ノエル・キャロル著 森 功次訳 " class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fmorinorihide%2Fn%2Fned715fd23434" title="K. Walton「芸術のカテゴリー」|morinorihide|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.keio-up.co.jp%2Fnp%2Fisbn%2F9784766425659%2F" title="慶應義塾大学出版会 | 制度とは何か | フランチェスコ・グァラ 瀧澤弘和 水野孝之" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>グァラの制度理論を導入するために、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%CD%FD%CF%C0">ゲーム理論</a>を基礎から勉強するなど、いつもより作業量の多い発表でした。ちなみに、発表者はかつて<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C4%D8%E6">慶應</a>経済にいたのですが、真面目な経済学部生ではなかったためミクロ経済は再履しています。</p>
<p> </p>
<p>コメントもいただきましたが、「制度的な価値最大化」としての<strong>作品カテゴライズゲーム</strong>は、もっと慎重に設計したほうがよさそう。本発表では、①(作者・鑑賞者問わず)プレイヤーごとに、作品が一番価値ある仕方でのカテゴライズを試み、②やがて均衡したルールとしての「正しいカテゴリー」が制度となる、ことを論じましたが、実際の鑑賞・解釈・評価は明らかに①ほど単純ではないでしょう(そもそも粗探し<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%D5%C4%A5%A4%EA">逆張り</a>は①に反している)。理論的な抽象化とはいえ、カテゴライズゲームにはもっと別の要因が絡んでくるはずなので、細かく記述していく必要がありそう。</p>
<p>より大きな展望としては、<strong>美学・芸術哲学の諸問題を扱うのに、社会科学(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%CD%FD%CF%C0">ゲーム理論</a>など)の道具立てが使える</strong>ことを示したかったので、はじめの一歩としては及第点という自己評価です。Abellのフィクション論ともすり合わせつつ、批評を考えていきたい。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fat-akada.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F30%2F205713" title="フィクションの哲学のニューウェイブ: エイベルの『Fiction: A Philosophical Analysis』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p> </p>
<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/39Bnk6VU53Y?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="" id="widget2"></iframe></p>
<p>表紙の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%D4%A5%B0%A5%E9%A5%D5">エピグラフ</a>は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%C3%A5%C9%A1%A6%A5%D6%A5%E9%A5%A6%A5%CB%A5%F3%A5%B0">トッド・ブラウニング</a>『フリークス』(1932)から取ったもの。この引用がこの発表をどう要約しているのかは、映画を見ていただければ分かります。(<a href="https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07Q4FZXLR/ref=atv_dp_share_cu_r">Amazon Prime</a>で見れます)</p>
<p>メールでもDMでも、なにかしらコメントいただけるとうれしいです。お気軽に。</p>
psy22thou5
レジュメ|キャサリン・エイベル「ジャンル、解釈、評価」(2015)
hatenablog://entry/26006613721489562
2021-04-28T22:44:36+09:00
2022-11-15T11:06:14+09:00 キャサリン・エイベル「ジャンル、解釈、評価」(2015)のレジュメ|Abell, Catharine. (2015). Genre, Interpretation and Evaluation. Proceedings of the Aristotelian Society, 115, New Series, 25-40.
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210503/20210503122923.png" alt="f:id:psy22thou5:20210503122923p:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Abell, Catharine. (2015). <a href="https://academic.oup.com/aristotelian/article-abstract/115/1_pt_1/25/1823822?redirectedFrom=fulltext">Genre, Interpretation and Evaluation</a>. <em>Proceedings of the Aristotelian Society, 115, New Series,</em> 25-40.[<a href="https://philpapers.org/rec/ABEIIA">PDF</a>]</span></p>
<p> </p>
<p>最近わりと関心のある「ジャンル[genre]」論。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fne8243065027b" title="映画ジャンルの哲学:役割、定義、存在論、価値|obakeweb|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>『The Routledge Companion to Philosophy and Film』の項目はだいぶ入門的な内容だったので、もうちょっと突っ込んだ話をしているエイベル論文を読んだ。節題は私のつけたものです。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#1ジャンルが解釈と評価に与える効果">1.ジャンルが解釈と評価に与える効果</a></li>
<li><a href="#2ジャンルに関する説明要件">2.ジャンルに関する説明要件</a></li>
<li><a href="#3ジャンルに関するカリー説">3.ジャンルに関するカリー説</a></li>
<li><a href="#4ジャンルに関するエイベル説">4.ジャンルに関するエイベル説</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a></li>
</ul>
<h3 id="1ジャンルが解釈と評価に与える効果">1.ジャンルが解釈と評価に与える効果</h3>
<p>一般的に言って、作品があるカテゴリーに属することは、その解釈と評価に影響する。</p>
<p>解釈においてジャンルは、</p>
<ol>
<li><strong>作品のどの部分を表象的に関与的[representationally relevant]かを左右する</strong>:映画において俳優が歌いだしたとして、演じられているキャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ターは歌っていることになるのか。〈メロドラマ〉なら歌っているだろうし、〈ミュージカル〉なら歌っていない見込みが高い。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%D3%C1%FC%B2%E8">肖像画</a>で顔のパーツがなしている空間的位置関係は、〈写実的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%D3%C1%FC%B2%E8">肖像画</a>〉なら関与的だろうし、〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E5%A5%D3%A5%BA%A5%E0">キュビズム</a>〉なら関与的でない見込みが高い。<a href="#f-5a1ba62a" name="fn-5a1ba62a" title="描写理論でもそうだが、エイベルは「描かれている」「表象されている」を、what is said的なレベルよりも語用論的なレベルで考えている(スネ夫のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いていない"、と言いたい)。いつもの話なので割愛するが、言葉上の問題として、私はこういう仕方で「描かれている」「表象されている」を用いるのに賛同していない(スネ夫のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いている"、と言いたい)。村山さん論文へのコメントなどを参照。
">*1</a></span></p>
</li>
<li><strong>表象的に関与的な特徴を、どう解釈するかを左右する</strong>:「彼女はよろこんで心臓を捧げた」は、〈SF〉だと文字通り心臓を提供した見込みが高く、〈ロマンス〉だと恋に落ちたことの隠喩である見込みが高い。</li>
<li><strong>暗示的[implicitly]に表象される事柄を左右する</strong>:長いひげと杖を持った老人は、〈リアリズム文学〉だとその通りの老人でしかない見込みが高いが、〈ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>〉だと魔法使いであることを暗示している見込みが高い。</li>
</ol>
<p> ジャンルは評価にも影響する。まず、解釈に影響するのだから、間接的に評価にも影響する。また、解釈が固定されていても、次のような点で影響する。</p>
<ul>
<li>笑えることは〈コメディ〉にとって利点であり、〈ホラー〉にとっては欠点である。矛盾を含むことは〈メロドラマ〉にとって欠点だが、〈ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>〉にとってはそうとは限らない。</li>
<li>作品はジャンルものとしても評価される。「良い〈ホラー映画〉である/〈悪いホラー〉映画である」</li>
<li>ジャンル自体が評価されることもある:「悲劇はメロドラマより優れている」「ホラーはくだらん」など。</li>
</ul>
<p> </p>
<h3 id="2ジャンルに関する説明要件">2.ジャンルに関する説明要件</h3>
<p>エイベルはジャンルに関する説明要件を4つ挙げている。</p>
<ol>
<li><strong>ジャンルには歴史がある</strong>:どの特徴がそのジャンルにおいて関与的かは、制作された時代による。初期ホラーといえば「狂人、悪の医者、ヴァンパイア」、90年代ホラーは「サイコ・キラー」、現代ホラーなら「世界的な細菌戦争」など。</li>
<li><strong>ジャンルはメディアをまたぐ</strong>:ホラー映画、ホラー小説、ホラーコミックなど。</li>
<li><strong>個別の作品は複数のジャンルに属しうる</strong>:ミュージカルかつコメディの映画、ホラーかつSFの小説など。また、西部劇でも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%DA%A1%BC%A5%B9%A1%A6%A5%AA%A5%DA%A5%E9">スペース・オペラ</a>でもないかわりに、ハイブリッドジャンルである〈スペース・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A7%A5%B9%A5%BF">ウェスタ</a>ン〉の作品もある。</li>
<li><strong>ジャンルには階層がある</strong>:〈犯罪もの〉のなかに〈警察もの〉〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">ノワール</a>〉〈法廷もの〉〈探偵もの〉などの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%D6%A5%B8">サブジ</a>ャンルが含まれる。ジャンルの階層は無限に細分化できるわけではなく、〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%F3%A5%D5%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%DC%A5%AC%A1%BC%A5%C8">ハンフリー・ボガート</a>主演のハードボイルド探偵もの〉みたいなサブカテゴリーは解釈的・批評的重要性をほとんど持たない点で、サブ"ジャンル"とは言いがたい。</li>
</ol>
<p>ジャンルの定義は、こういった説明要件をカバーできるような定義でなければならない。</p>
<p> </p>
<h3 id="3ジャンルに関するカリー説">3.ジャンルに関するカリー説</h3>
<p>続いて、<strong>グレゴリー・カリー[Gregory Currie]</strong>(エイベルの先生)の定義をたたく。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fglobal.oup.com%2Facademic%2Fproduct%2Farts-and-minds-9780199256297%3Fcc%3Djp%26lang%3Den%26" title="Arts and Minds" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>Currie (2004)によれば、ジャンルは一連の特徴や性質によって決定される。どんな性質のセットでもジャンルを形成しうるので、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>には無数のジャンルがあることになる。が、このうち、「ジャンルに特徴的な性質群の一部を持つならば、同ジャンルの性質を他にも持つだろう」と期待[expectation]されるカテゴリーのみが、事例を持った有効なジャンルとなる。</p>
<p>カリーにおいて、ジャンルが解釈上の重要性を持つのは、それが「ジャンルに基づいた含み[genre-based implicatures]」をもたらすから。〈ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>〉ジャンルのおかげで長いひげと杖を持った老人は魔法使いだと推定できる、みたいな。</p>
<p>また、ジャンルものの評価は同ジャンルの他作品との比較においてなされるし、ジャンル自体の評価はそれに属する個別作品たちの評価によってなされる、とカリーは考えている。すなわち、ジャンルのもろもろは個別作品に依存しており、ジャンルによる分類は(規範的というよりも)<strong>記述的[descriptive]</strong>である、というのがカリーの立場になる。</p>
<p>エイベルによれば、カリー説の問題点は以下。</p>
<ol>
<li><strong>ジャンルに関する期待から「ジャンルに基づいた含み」が生じる、というのが定かでない</strong>:〈ロマンス〉はハッピーエンドだろうと期待される。実際にはハッピーかもしれないしバッドかもしれないし、明示せずに終わる。ここで、明示されてない場合に、「〈ロマンス〉だからハッピーだろう」という期待を、「ハッピーエンドなのだ」という暗示的な物語内容とみなすことはできない。すなわち、ジャンルに関する期待がありつつ、ジャンルに基づいた含みが生じないケースがある。</li>
<li><strong>ジャンルの変化について説明しづらい</strong>:カリーによれば、異なるセットの性質集合は、因果的に結びついている限りで同じジャンルが連続している。しかし、これだとジャンル間の影響関係をぜんぶ変化で説明してしまう。〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A5%EB%A5%E0%A1%A6%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">フィルム・ノワール</a>〉は〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%A4%A5%C4%C9%BD%B8%BD%BC%E7%B5%C1">ドイツ表現主義</a>〉から影響されているが、連続したひとつのジャンルではない。</li>
<li><strong>ジャンルの特徴はメディアによってさまざまであることを説明しづらい</strong>:感情を表すような照明は〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A5%EB%A5%E0%A1%A6%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">フィルム・ノワール</a>〉の特徴だが、〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">ノワール</a>文学〉の特徴ではない。両者が同じ〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">ノワール</a>〉に属すると言うためには、カリーは共通の特徴をかなり抽象化するしかない(「どんよりした感情的トーン」みたいな)。しかしこれだと、共通の特徴がジャンルごとに異なる効果をもたらす、みたいなのを説明できない。暗い照明が、〈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A5%EB%A5%E0%A1%A6%A5%CE%A5%EF%A1%BC%A5%EB">フィルム・ノワール</a>〉だとダウナーな印象をもたらし、〈ホラー〉だと恐怖をもたらす。</li>
</ol>
<p> </p>
<h3 id="4ジャンルに関するエイベル説">4.ジャンルに関するエイベル説</h3>
<p>代替案として、エイベル自身の定義が出される。</p>
<ul>
<li><strong>ジャンルの定義</strong>:ジャンルとは、作品が制作され鑑賞される目的によって決定される作品カテゴリーであり、その目的を追求するための手段は、制作者と鑑賞者の共通知識(「当の作品群はその目的のために制作され、鑑賞されるものである」)に、少なくとも部分的に依存する。</li>
<li><strong>ジャンル所属の条件</strong>:作品があるジャンルに属するのは以下のときかつそのときに限る。作品は、そのジャンルに特徴的な目的を特定の手段で実行することを意図して制作されており、かつ、これらの手段は、仮にそれらによって作品が当の目的を果たせるのだとすれば、それは部分的には制作者と鑑賞者の共通知識(「当の目的のために制作され、評価されるべきものである」)のおかげであるような手段である。(p.32)</li>
</ul>
<p>中心をなすのは、「目的[purposes]」と「共通知識[common knowledges]」である。</p>
<p>あらゆるジャンルは広い意味での目的を持つ。コメディは笑わせること、ホラーは怖がらせること、ミステリーは誰がやったのか気になるサスペンスをもたらすこと。これは、ある種の効果をもたらすジャンルに限られない。SFは論理的に一貫した別世界を記述することを目的とするといえる。</p>
<p>共通知識に関しては、</p>
<ul>
<li>どのような経路で得られるものでもよい:作品の特徴をもとに察するかもしれないし、作品外の情報(本屋で置いてある棚、映画の広告)から形成されるかもしれない。</li>
<li>作者の目的がすべて共通知識になるわけではない:批評家にウケたい、家賃を払いたい、といった目的は、その達成に関して鑑賞者との共有を必要としない。むしろ、このような目的は、共通知識となる<strong>せいで</strong>達成しにくくなるかもしれない。一方、ジャンルの目的は、共通知識の<strong>おかげで</strong>達成されうる。</li>
<li>共通知識とは、ある事柄に関して互いに知っているというだけでなく、互いに知っているということを互いに知っており、そのことも互いに知っており……という仕方で共有されている知識。「コメディは笑わせることを目的とする」というのを、作者が狙っていることを観客が知っていることを作者は知っている。</li>
<li>共通知識がなければ目的を達成できないわけではない:笑えないコメディもあれば、笑える非コメディもある。が、笑えるコメディだとしたら、すなわち笑わせるというコメディの目的を達成していたとしたら、部分的には〈コメディ〉に関する共通知識のおかげである。<a href="#f-02f3db19" name="fn-02f3db19" title="笑えないコメディや笑える非コメディをカバーするために、エイベルは意図主義にコミットしている。あるジャンルXが意図されており、かつもしその映画がXの目的を達成するとしたら、それはXの目的に関する共通知識のおかげである、という定義。笑えないコメディもこの限りで〈コメディ〉に属するし、笑える非コメディは意図されていない点ではじける。">*2</a></li>
</ul>
<p>ジャンルへの所属が解釈に影響するのは、会話の目的に関する共通知識が発言の解釈を助けるのと似ている。Grice (1975)の「会話における協調[conversational cooperation]」によれば、会話の目的が共通知識として共有されていることは、話者の意味を特定するのを助けてくれる。会話に関する共通知識が会話コミュニケーションを助けるのと同様、芸術作品の目的に関する共有知識は芸術コミュニケーションを助ける。</p>
<p>Sperber and Wilson (1986)によれば、会話とは関連性のある情報のやりとりである。これが共通知識として共有されているならば、相手が意味不明なことを言ったとしても、関連性のあることを述べているはずだ、ということで推定できる。カリーの「ジャンルに基づいた含み」も、これでカバーできる。</p>
<p> </p>
<p>これはジャンルに関する意図主義的説明だが、「ジャンル所属による解釈的・評価的効果」までもが作者によって意図される必要はない。<br />「この老人は魔法使いである」ということを作者が直接意図せずとも、ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>においてしかじかの特徴の老人を描いている限り、ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>の目的に関して共通知識を共有している読者は、「この老人は魔法使いである」と解釈する。この解釈は、作者の直接的な意図がなくとも正当化されうる。<a href="#f-ab854df8" name="fn-ab854df8" title="エイベルは「別世界を論理的に描くという目的を意図しつつ、その結果として、ファンタジーを生み出した小説家」として例示しているが、ここがよく分かっていなくて混乱している。「別世界を論理的に描く」という目的は、前述の箇所だと〈SF〉の目的であり、〈ファンタジー〉の目的ではなかったからだ。これは、単にエイベルが書き間違えているのか、あるいは「SF目的を意図して書いたが、ファンタジーになった」というケースがあることを認めているのかわからない。後者を認めるなら、より許容的な意図主義ということになるが、上の定義でどうカバーされているのか読みとれない(意図されていないなら、どうにしても〈ファンタジー〉には所属しえないのでは)。">*3</a></p>
<p> </p>
<p>ジャンル所属が評価にも影響するのは、作品の良し悪しがそのジャンルものとしての良し悪しとしても測られるから。ジャンルは<strong>規範的[normative]</strong>であり、ある作品がどのジャンルに属するか述べることは、その作品がどのような目的を果たすべきか述べることに等しい。</p>
<p>ジャンル自体の評価は、個別作品の評価ではなく、ジャンルごとに特徴的な目的に関する評価となる。「怖がらせる」という目的自体が無意味なので、〈ホラー〉はくだらない、みたいな。</p>
<p>あとは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%CB%A5%F3%A5%B0%A5%E9%A5%F3">ウィニングラン</a>として、説明要件をそれぞれチェック。</p>
<ol>
<li><strong>ジャンルには歴史がある</strong>:ジャンルの目的達成手段として、慣習的に固まった手段が変化していくから。ジャンル慣習の変化をもたらすのは、①マンネリ化(そろそろ別の手段を使ってみよう)、②テク<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%ED">ノロ</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>や社会規範などの外的要因(禁じられてきた手段が使えるようになった)。</li>
<li><strong>ジャンルはメディアをまたぐ</strong>:ジャンルの目的は、メディアに限定されることなく達成されうるから。手段はもちろんメディアごとに異なる。</li>
<li><strong>個別の作品は複数のジャンルに属しうる</strong>:目的が複数あるから。互いの目的を調整しあうような複数ジャンルの場合には、ハイブリッドジャンルとなる。</li>
<li><strong>ジャンルには階層がある</strong>:目的自体が階層的だから。</li>
</ol>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>相変わらずグライスっ子なのが微笑ましい論文だった。どうも「グライスを使って美学やろう」というのがエイベルのプロジェクトというか、基本路線らしい。カリーもフィクション論でグライス使う人なので、影響関係が分かりやすくてよい(ゼミとかで読むんだろうな)。</p>
<p>私が気になるのは、ジャンル所属の要件だ。まず、特徴ベースのカリー説より、目的ベースのほうがよいというのは説得的だろう。思うに、ここで言われている共通知識は、微修正すればいわゆる制度説になるのではないか。だが、そうなると、意図なしでもやっていける気がする。意図は、「めっちゃ笑える非コメディ作品」や「まったく笑えないコメディ作品」をカバーするためのアイテムだろうと予想するが、その辺も制度がどうにか振り分けてくれるか、どうにもならないんだったら、めっちゃ笑えるものは意図に反してコメディであるし、まったく笑えないものは意図に反してコメディではない、で不都合ない気もする。いずれも、気がするだけで詳細なコメントはできないが。</p>
<p>ジャンル含むカテゴリーが、意図に関わらずある種の集団的取り決めとして決まる、というのは直観的にも実践的にもそうだと思うのだが、どうだろうか。エイベルは、芸術の定義やフィクション論でも制度説を推していて、その点でも考えていることはそんなに相違しないはず(どちらも読んでいない)。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FABEAWI" title=" Catharine Abell, Art: What it Is and Why it Matters - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fglobal.oup.com%2Facademic%2Fproduct%2Ffiction-9780198831525" title="Fiction" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fat-akada.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F30%2F205713" title="フィクションの哲学のニューウェイブ: エイベルの『Fiction: A Philosophical Analysis』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>この話題に限らず、制度説が盛り上がっていく機運を感じるなどした。とりあえず生協でグァラを買ってきた。</p>
<p>あと、ジャンルにも関わるが、批評・評価・カテゴリーあたりの話を5月の応用哲学会で発表する予定だ。こうご期待。</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-5a1ba62a" name="f-5a1ba62a" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">描写理論でもそうだが、エイベルは「描かれている」「表象されている」を、what is said的なレベルよりも語用論的なレベルで考えている(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%CD%C9%D7">スネ夫</a>のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いていない"、と言いたい)。いつもの話なので割愛するが、言葉上の問題として、私はこういう仕方で「描かれている」「表象されている」を用いるのに賛同していない(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%CD%C9%D7">スネ夫</a>のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いている"、と言いたい)。村山さん論文へのコメントなどを参照。
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fobakeweb.hatenablog.com%2Fentry%2Fphilcul5-2_m" title="村山正碩「視覚的修辞:エル・グレコからアボガド6まで」|『フィルカル』vol.5 no.2「特集描写の哲学」レビュー - obakeweb" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><span style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 14.4px;"></span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-02f3db19" name="f-02f3db19" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">笑えないコメディや笑える非コメディをカバーするために、エイベルは意図主義にコミットしている。あるジャンルXが意図されており、かつもしその映画がXの目的を達成するとしたら、それはXの目的に関する共通知識のおかげである、という定義。笑えないコメディもこの限りで〈コメディ〉に属するし、笑える非コメディは意図されていない点ではじける。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-ab854df8" name="f-ab854df8" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">エイベルは「別世界を論理的に描くという目的を意図しつつ、その結果として、ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>を生み出した小説家」として例示しているが、ここがよく分かっていなくて混乱している。「別世界を論理的に描く」という目的は、前述の箇所だと〈SF〉の目的であり、〈ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>〉の目的ではなかったからだ。これは、単にエイベルが書き間違えているのか、あるいは「SF目的を意図して書いたが、ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>になった」というケースがあることを認めているのかわからない。後者を認めるなら、より許容的な意図主義ということになるが、上の定義でどうカバーされているのか読みとれない(意図されていないなら、どうにしても〈ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>〉には所属しえないのでは)。</span></p>
</div>
psy22thou5
「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2
hatenablog://entry/26006613710236555
2021-03-30T22:14:19+09:00
2023-04-28T20:28:59+09:00 noteに「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」という記事を載せたら地味に伸びたうえ、森さん、松永さん、ネットユーザーの皆さんからそれぞれコメントを頂いたので、いくつか応答しておく。 1.「人それぞれ論法」「たとえ論法」はやめましょう noteでは、倍速肯定派の「人それぞれ論法:どう見ようが自由でしょ」および倍速否定派の「たとえ論法:映画を倍速で見るとか、アレと同じようなもんだぞ」に関して、「こういう論法は議論にならないので、やめましょうね」と指摘している。私の指摘があまり説得的ではなかったのか、はなから読んでいないのか、Twitterやはてブにおける反応の多くはこういった「人それぞれ論法…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210331/20210331143905.png" alt="f:id:psy22thou5:20210331143905p:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fgendai.ismedia.jp%2Farticles%2F-%2F81647" title="「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来(稲田 豊史) @gendai_biz" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fn156d95779074" title="映画を倍速で見ることのなにがわるいのか|obakeweb|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><span style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif;">noteに</span><strong style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif;">「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」</strong><span style="font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, 'Segoe UI', Helvetica, Arial, sans-serif;">という記事を載せたら地味に伸びたうえ、森さん、松永さん、ネットユーザーの皆さんからそれぞれコメントを頂いたので、いくつか応答しておく。</span></p>
<p> </p>
<h3>1.「人それぞれ論法」「たとえ論法」はやめましょう</h3>
<p>noteでは、倍速肯定派の「人それぞれ論法:どう見ようが自由でしょ」および倍速否定派の「たとえ論法:映画を倍速で見るとか、アレと同じようなもんだぞ」に関して、「こういう論法は議論にならないので、やめましょうね」と指摘している。私の指摘があまり説得的ではなかったのか、はなから読んでいないのか、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Twitter">Twitter</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%CF%A4%C6%A5%D6">はてブ</a>における反応の多くはこういった「人それぞれ論法」「たとえ論法」を焼き増したようなものであった。おかげで、肯定派にも否定派にもこっぴどくマウントされたわけだが、この手の反応は「議論なんてしたくない」というのが実態だろうから、特に言えることはない。(「美学ぎらい」に関しては、そのうち誰か書いてください。)</p>
<p>とくにひどかったのは、倍速肯定派だった(ちなみに、数で言えば肯定派のほうが相対的に目立っていた)。私のnoteは肯定派を擁護するものであり、タイトルが反語だというのも書いたはずなのだが、一体なにが気に入らないのか<a href="#f-d8fe22cd" name="fn-d8fe22cd" title="匿名なのをいいことに汚い言葉を使う有象無象は、長期的にはひどい目に遭います。どうかおもいやりインターネットを。">*1</a>。</p>
<p> </p>
<h3>2.倍速鑑賞が取りこぼしてしまうもの</h3>
<h4>2.1.「失礼な鑑賞」について</h4>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fmorinorihide.hatenablog.com%2Fentry%2F2021%2F03%2F30%2F011218" title="映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>森さんからのリプライ、論点は三つある。第一に、<strong>「作者の意図に反する」ことはただちには「失礼である」とは限らない</strong>、とのこと。</p>
<blockquote cite="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218" data-uuid="26006613710209494">
<p>ひとつはっきり言えるのは、解釈レベルでは、作者の意図に反する(もしくは作者の意図を考慮しない)解釈をすることが、失礼にはならないケースが多々ある、という点だ。作品をきちんと作品として十全に味わおうとしているのであれば、そうした自由さはおおむね許容される。深読みによって編み出された、作者の意図していなかった解釈が、主流の解釈になることはあるし、それが作者によって事後的に許容されたりもする。</p>
<cite><a href="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218">映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀</a></cite></blockquote>
<p>私も、この補足には同意すべきだと思う。noteでは「①鑑賞xが作者の意図を踏まえていないならば、xは失礼であるかつまたは真正ではない」を前提として立ててみたが、これは単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>しすぎだったかもしれない。</p>
<p>とはいえ、「失礼である」見込みが高い状況として「作者の意図に反している」があり、「作者の意図に反している」見込みが高い状況として「倍速で鑑賞する」があることぐらいは言えるはずだ。であれば、①の前提をもう少しゆるい仕方で立てる限り、その後の議論ができなくなるほどの欠陥は生じないだろうと思う。いずれにせよ、「失礼な観賞」の実態については、森さんの今後のお仕事に期待。</p>
<p> </p>
<h4>2.2.回復可能性について</h4>
<p>森さんによる第二の論点は、<strong>「倍速視聴はほんとうに回復可能なのか」</strong>というものだ。</p>
<blockquote cite="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218" data-uuid="26006613710210067">
<p>倍速視聴がとりわけ取りこぼしそうなのが、その「反応の落ち着き」の効果である。ゆったりとしたカメラワークや、会話の中であえて設けられる間。こうした技法は、そこまでの反応を落ち着かせるために使われることも多い。また、スローなテンポの音楽がアップテンポになってしまって、テンションが上ってしまったら、演出は台無しだろう。銭さんも音楽は倍速で聴かないと書いていたが、映画の音楽が倍速化されることはなぜ許容されるのだろうか(逆に映画音楽の効果が想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>可能なのであれば、なぜ音楽鑑賞も倍速でやらないのだろうか。)。</p>
<cite><a href="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218">映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀</a></cite></blockquote>
<p>森さんはとりわけ、映画鑑賞において重要な<strong>「身体反応」</strong>について指摘し、このような反応は倍速鑑賞によって奪われ、また回復可能でもないと主張されている。</p>
<p>第一の応答として、「回復可能である」に関する私の定式化には、我ながら姑息なところが含まれている。まずはこれを強調しておきたい。</p>
<blockquote>
<p><strong>回復可能かどうかは鑑賞者相対的である</strong>:特定の仕方での逸脱的鑑賞が、回復=意図された鑑賞の正確な想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>を妨げるかどうかは、鑑賞者の認知的能力に依存するがゆえに、鑑賞者相対的である。</p>
</blockquote>
<p>これを踏まえ、私が擁護しているのは、<strong>「各々の認知能力によって回復可能な範疇でなされる倍速鑑賞」</strong>に過ぎない。そして、この能力は身体反応の想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>に関しても当てはまるものだと考えている。</p>
<p>例えば、ホラー映画に対しては「怖がる(発汗、震え、動悸など)」という身体反応がある。このような身体反応がホラー映画鑑賞においては重要なのだが、倍速鑑賞だと失われてしまうかもしれない、ということについて私はまったく同意である。ゆえに、だからこそ、<strong>私は</strong>ホラー映画(とりわけ、状況がおどろおどろしくなってきたあたり)を倍速で見ることはほとんどない。それは、<strong>私にとって</strong>回復可能ではないからだ。一般的にいって、ホラー映画が倍速鑑賞向きじゃないのはそのとおりだろう。しかし、私が思うに、身体反応を含め想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>する能力は原理的に不可能ではないし、経験を積んだ鑑賞者には多かれ少なかれ備わっているかもしれない。</p>
<p>極端なケースとして、次のような状況を考えよう。<strong>認知能力を拡張するチップ</strong>を脳に埋め込んだおかげで、4倍速までなら、適切に筋を追えるだけでなく、身体反応を想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>することもできるような改造人間がいたとしよう。彼に対して「倍速鑑賞したら、真正な鑑賞になりませんよ」と述べるのは馬鹿げている。彼はまさに、その拡張された認知能力によって、4倍速までならいかなる場合でも「ふつうの鑑賞を想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>可能」なのだ。<a href="#f-58b8d9c7" name="fn-58b8d9c7" title="埋め込みたいかと言われれば私は埋め込みたい。反感があるのならそれもまた美学だ。">*2</a></p>
<p>私がnoteで示唆しているのは、彼みたいな改造人間でなくとも、われわれ現実の人間には各々これに準ずる「回復」能力が先天的・後天的に備わっており、このことは「各々の能力に応じた範疇でなされる倍速鑑賞」を正当化しうる、という主張だ。すなわち、<strong>物語の筋といった情報だけでなく、森さんの懸念する「身体反応」についても、その範囲内では回復可能だし、回復不可能だと判断できる場合には倍速鑑賞をすべきではない</strong>、というのが私の立場になる。<a href="#f-4ae09f25" name="fn-4ae09f25" title="回復された身体反応は、つまるところ想像・追体験であり、文字通りの身体反応ではない、というのをおそらく森さんは気にしている。ここには鑑賞の目標に関する相違がありそうだ。森さんは、怖がるべきところで文字通り怖がらなければならない(「身体を切り捨てた観賞はあまりしたくはない」)、と考えているようだが、この鑑賞観に同意すべきかどうかは現段階ではよく分からないのが正直なところだ。">*3</a></p>
<blockquote cite="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218" data-uuid="26006613710210343">
<p>「反省的思考をさせるため」ような頭脳のための間であれば、想像や思考によって補うこともできるだろう。だが、頭がいい人でも身体反応を倍速化することは(ふつうは)できない。ふつうの人は、その効果を取りこぼすだけだろう。(もっとも倍速視聴のために苦しい修行を積めば、倍速視聴に適応した倍速身体を獲得することもできるのかもしれないが)。</p>
<cite><a href="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218">映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀</a></cite></blockquote>
<p>倍速身体の獲得に、苦しい修行は必要ない。映画にまったく親しんでいない子供は0.5倍速で見ないとなにがなんだか分からない、ということもありうるだろう。この子にとって、等倍速で見れることはすでにひとつの上位能力である。</p>
<p>もっとも、回復可能性に関して、<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%B2%CA%B3%D8">認知科学</a>的にどのようなことが言えるのかはまったく定かではない</strong>。実証的な研究によって、回復可能性がでっち上げだと否定されるならば、私もそれを甘んじて受け入れようと思うのだが、むしろこれを肯定するような実験結果が出るのではないかと期待している。</p>
<p> </p>
<h4>2.3.回復可能かどうかの判断について</h4>
<blockquote cite="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218" data-uuid="26006613710231745">
<p>倍速視聴で見てしまったけど実は間をすごく上手に使う作品だった、という場合、ネタバレ情報を先に読んでしまったケースと同じく、もはや取り返しはつかない。銭さんは「音楽のある場面や緊張感のあるシーンやクライマックスでは等倍にすればよい。」と書いていたが、その判断はいつやるのか。</p>
<p>大事そうな場面だけ巻き戻して見直したとしても、初見時に味わえていたはずの驚きやサスペンスといった効果を、二度目の普通速視聴で十全に味わうことはできないだろう。ここでも結局、「観賞前にネタバレ情報を読みに行くことは悪い」と主張するときと、ほぼ同様の論点が当てはまる。倍速視聴はリスクであり、そのリスクを犯す点で作品を適切に扱っていない。「とりあえず倍速で見て、ちゃんと味わったほうが良さそうだったらちゃんと見るわ」と作者に伝えたら、多くの作者はガッカリするだろう。</p>
<cite><a href="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218">映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀</a></cite></blockquote>
<p> もっともな懸念であるが、そんなに心配すべき事柄でもないと思う。われわれは映画を見ながら、ある程度正確な<strong>期待</strong>をしうるだろう。ホラー映画において夜が来たら、恋愛映画において男女の会話が始まったら、コメディ映画においてひょうきんなやつが出てきたら等倍速にすればいいのだ。</p>
<p>このような期待を次々と破るような作品も存在する。そういった映画に関して、倍速鑑賞を仕掛けることは、森さんの言う通り「リスクを犯す」行為だろう。よって、私としても、このような作品に倍速鑑賞を仕掛けることは回避したい。この点、私は鑑賞に先立ち、それが典型的な筋の映画などではなく、思いもよらぬ展開を含み、目が離せないような作品であることをある程度<strong>ネタバレ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a></strong>した上で、鑑賞することを推奨する。というより、われわれは多かれ少なかれ予告編やポスターや前評判によってこのようなカテゴリーに関する受動的ネタバレ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>をしており、このことは鑑賞に際して慎重になることを動機付けている。</p>
<p>実際、「倍速でも大丈夫だろう」という誤った期待によって(等倍速で見るのが望ましい)肝心の部分を倍速で流してしまい、後悔することはある。が、そのような頻度は高くないし、適切な期待能力が上がれば上がるほどその頻度は下がるだろう。つまるところ、私にとって倍速鑑賞を擁護するとっかかりとは、「私は認知能力/期待能力が高いので、倍速でも大丈夫」という鑑賞者の自信にあり、あとは各々の能力および鑑賞目的と照らし合わせて、リスクを取るだけのメリットがあるのかどうか判断すればいい、という考えだ。</p>
<p> </p>
<h3>3.倍速鑑賞が付け加えてしまうもの</h3>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=http%3A%2F%2F9bit.99ing.net%2FEntry%2F106%2F" title="倍速の美学 - 9bit" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<blockquote>
<p>単純な例を出せば、一定以上の倍速にすると動きやしゃべりがコミカルに見える傾向があるというのは比較的共有されている感覚だろう。このコミカルさという質は、感動やサスペンスやホラーような質との両立が一般に難しい。この手のケースにおける回復は、コミカルさを除去したうえで感動やホラーを想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>することだということになるだろうが、それをやるのは相当奇妙な能力を持ってないと困難なのではないか(たとえばコミカルさに対して極度に鈍感であるというような)。</p>
<p><em><a href="http://9bit.99ing.net/Entry/106/">倍速の美学 - 9bit</a></em></p>
</blockquote>
<p>松永さんの懸念は、倍速鑑賞によって取りこぼされてしまう性質よりは、付け加えられてしまう性質、すなわち倍速鑑賞上の<strong>ノイズ</strong>にある。実際は「緊張する」べき場面が、1.5倍速だと「笑える」場面に見えてしまう場合、コミカルさを取り払いながら緊張感を取り戻すような回復は難しいのではないか、という見解だ。</p>
<p>もっともな見解である。つまるところ「回復」というのがどのような認知的プロセスなのか私には詳説できないので、松永さんの指摘はそれを疑うだけの根拠を付け加えたことになる。</p>
<p>現段階でできる応答としては、以下ぐらいだろうか。</p>
<ol>
<li><strong>ノイズがノイズであることには、ほとんどの場合気がつける</strong>。1.5倍速において笑える映画が、実際に「笑える映画だ」と判断する鑑賞者はほとんどいないだろう。不適切な性質帰属は、鑑賞中になされる(速くて思わず笑ってしまう)としても、鑑賞後に反省的に除外できる(あそこは、実際には笑う場面ではない)限りで、そんなに問題はない。</li>
<li><strong>ノイズの裏に適切な情報や反応を読み解くのは、一般的な認知的課題である</strong>。映画鑑賞に限られず、広義のコミュニケーションにおいて、我々は不適切な環境/体調/信念/etc.のもとで適切な情報や反応を取り出さなければならない場面があり、そして、そのような課題はしばしば達成されている(でなければそもそもコミュニケーションなど無理だろう)。このような能力は、ノイズを取り払うだけでなく、適切な情報や反応を取り出す能力をも搭載しているはずだ<a href="#f-52891c3a" name="fn-52891c3a" title="具体的に考えているのは、グライスの「会話の含み」みたいな推論能力だ。これに準じた能力が倍速鑑賞の回復においてどう機能しているのかは、私には説明できないが。ところで、グライスの「会話の含み」はノイズ除去には使えるが、適切な情報を取り出すのには無力である、という見解もある(デイヴィスだったかな)。私の「回復」に関しても、同様の反論は可能だろう。">*4</a>。私が考えている「回復」のための認知能力は、このような一般的認知能力の延長であり、なんら超人的でもなければミステリアスなものでもない。</li>
</ol>
<p>上のふたつで松永さんに対して有効な応答ができたかは定かでない。どうも、私には「回復はありまぁす」以上の主張ができないようだ。つまるところ、決着をつけるのは実証研究だ、というのは松永さんも同意してくださるだろうか。</p>
<p> </p>
<h3>4.倍速鑑賞者は作品について語る資格なし?</h3>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Twitter">Twitter</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%CF%A4%C6%A5%D6">はてブ</a>で目立っていた見解として、<strong>「倍速鑑賞するのは自由だが、そんなんで作品を語らないで欲しい」</strong>というものがある(「人それぞれ論法」の亜種)。是非はともかく、このような意見が目立っていたという事実は興味深い。当の見解からは「にわかは作品を語るな」と同型のマウントが感じられないでもないが、そういった邪推は一旦脇に置こう。</p>
<p>気になるのは、<strong>ここで禁止されている「語る」とはいかなる語りなのか</strong>、という点だ。第一に、作品に関する語りはプロフェッショナルな批評から、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>でのユーザーレビューまで幅広い実践として存在する。その全部において、倍速鑑賞したものが「語る」資格を剥奪される、というのは厳しすぎるだろう。第二に、「語り」の内実は価値付けなのか解釈なのか文脈付けなのか定かではない。そのなかには、倍速鑑賞を踏まえた上でなされることが規範的に禁止されるような種類の語りもあれば、そうでないような語りもあるだろう。「倍速で見たけど、駄作だったな」という価値付けが不当であるとしても、「倍速で見たけど、あの場面は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%B4%C2%CE%BC%E7%B5%C1">全体主義</a>への風刺だろうな」という解釈や、「倍速で見たけど、あれは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%B8%A5%C3%A5%AF%A5%EA%A5%A2%A5%EA%A5%BA%A5%E0">マジックリアリズム</a>だね」といった文脈付けが不当になるのはおかしいだろう。</p>
<p>さしあたり、<strong>「倍速鑑賞をした上で、作品の良し悪しを語るのは不当だ」</strong>という主張に限定してみよう。残念だが、これでもまだ一般的にはなりたたない。「倍速で見たけど、意外などんでん返しがあって面白かったよ」と述べるのは明らかに正当であり、「倍速で見たけど、みんな早口でキモかったな」と述べるのは明らかに不当である。「意外などんでん返しがある」のは倍速鑑賞と無関係だが、「早口でキモい」のは倍速鑑賞のせいである。すなわち、<strong>倍速鑑賞に基づく理由付けのもとでなされる価値評価は不当</strong>だが、そうでない価値付けは正当なのだ。</p>
<p>よって、「倍速鑑賞するのは自由だが、そんなんで作品を語らないで欲しい」は、価値付けに関する限り、<strong>「倍速鑑賞しておいて、倍速鑑賞に基づいた理由付けのもとで作品の良し悪しを語るのは不当だ」</strong>という主張として展開されるのがせいぜいのところだ。これはそんなに強い主張ではないし、私もまったくの同意である。</p>
<p>理由付けは、より慎重な鑑賞を踏まえてなされるべきである。シリアスな批評家は作品を何回も鑑賞することで良し悪しの理由を精査するだろうし、精査するべきだ。<a href="#f-bce07f54" name="fn-bce07f54" title="ネタバレ接触と同じく、倍速によって損なわれる鑑賞経験は極めて肝心なので、初回の鑑賞でネタバレ接触したり倍速鑑賞した鑑賞者には、もうその作品についてシリアスな批評ができない、という立場も考えられる。私は、このような立場がまったく直観的でもなければ魅力的でもないと考えている。「緊張感あふれる傑作だ」と語る上で批評家がすべきことは、作品に緊張感を与える能力が備わっていることを示すことであり、当人が実際に緊張する必要はない。ネタバレ接触や倍速鑑賞は、後者を妨げるかもしれないが(精査する限りで)前者を妨げることはない。少なくとも、それが私の批評観だ。">*5</a></p>
<p>結局、倍速で見ても、多くの解釈や価値付けは正当なものとしてなされうる。「倍速鑑賞者は作品について語る資格なし」という見解は、不毛なマウントでないとしても、一部の「語り」にしか当てはまらない。倍速で見ようが、作品に関して正当な仕方で語れる事柄はたくさんあるのだ。<a href="#f-7075fd26" name="fn-7075fd26" title="ところで、褒めるのはいいけど、倍速で見ておいて貶すのはNG、という見解も見受けられた。自分の好きな作品を不当に貶されたくない、という感情的な側面は理解できるが、残念ながらこれも一般的な規範にはなりえない。私は『死霊の盆踊り』を4倍速で見たが、これが駄作であることを正確に理解したし、「倍速で見たけど、とんでもない駄作だった」という私の発言は、『死霊の盆踊り』に関して正当なものである。">*6</a></p>
<p> </p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-d8fe22cd" name="f-d8fe22cd" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">匿名なのをいいことに汚い言葉を使う有象無象は、長期的にはひどい目に遭います。どうかおもいやりインターネットを。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-58b8d9c7" name="f-58b8d9c7" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">埋め込みたいかと言われれば私は埋め込みたい。反感があるのならそれもまた美学だ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-4ae09f25" name="f-4ae09f25" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">回復された身体反応は、つまるところ想像・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%C2%CE%B8%B3">追体験</a>であり、文字通りの身体反応ではない、というのをおそらく森さんは気にしている。ここには鑑賞の目標に関する相違がありそうだ。森さんは、怖がるべきところで文字通り怖がらなければならない(「身体を切り捨てた観賞はあまりしたくはない」)、と考えているようだが、この鑑賞観に同意すべきかどうかは現段階ではよく分からないのが正直なところだ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-52891c3a" name="f-52891c3a" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">具体的に考えているのは、グライスの「会話の含み」みたいな推論能力だ。これに準じた能力が倍速鑑賞の回復においてどう機能しているのかは、私には説明できないが。ところで、グライスの「会話の含み」はノイズ除去には使えるが、適切な情報を取り出すのには無力である、という見解もある(デイヴィスだったかな)。私の「回復」に関しても、同様の反論は可能だろう。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-bce07f54" name="f-bce07f54" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ネタバレ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>と同じく、倍速によって損なわれる鑑賞経験は極めて肝心なので、初回の鑑賞でネタバレ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>したり倍速鑑賞した鑑賞者には、もうその作品についてシリアスな批評ができない、という立場も考えられる。私は、このような立場がまったく直観的でもなければ魅力的でもないと考えている。「緊張感あふれる傑作だ」と語る上で批評家がすべきことは、作品に緊張感を与える能力が備わっていることを示すことであり、当人が実際に緊張する必要はない。ネタバレ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>や倍速鑑賞は、後者を妨げるかもしれないが(精査する限りで)前者を妨げることはない。少なくとも、それが私の批評観だ。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7075fd26" name="f-7075fd26" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ところで、褒めるのはいいけど、<strong>倍速で見ておいて貶すのはNG</strong>、という見解も見受けられた。自分の好きな作品を不当に貶されたくない、という感情的な側面は理解できるが、残念ながらこれも一般的な規範にはなりえない。私は『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%CE%EE%A4%CE%CB%DF%CD%D9%A4%EA">死霊の盆踊り</a>』を4倍速で見たが、これが駄作であることを正確に理解したし、「倍速で見たけど、とんでもない駄作だった」という私の発言は、『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%CE%EE%A4%CE%CB%DF%CD%D9%A4%EA">死霊の盆踊り</a>』に関して正当なものである。</span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|Moonyoung Song「美的説明の選択性」(2021)
hatenablog://entry/26006613708655068
2021-03-26T21:22:18+09:00
2023-04-28T20:27:54+09:00 Moonyoung Song「美的説明の選択性」(2021)のレジュメ|Song, Moonyoung (2021). The Selectivity of Aesthetic Explanation. Journal of Aesthetics and Art Criticism 79 (1):5-15.|広く認められているように、芸術作品が特定の非美的性質を持つことは、特定の美的性質を持つことを説明する。このような説明の興味深い特徴のひとつは、その選択性[selectivity]である。すなわち、美的性質の存在が依存する非美的性質のうち、一部のみが引用されるのだ。そこで、選択される非美的性質と、選択されない性質とを区別するものはなにかという問いが生じる。私は、ローラ・フランクリンホール[Laura Franklin-Hall]による因果的説明の選択原理をモデルとした選択原理を提案することで、この問いに答える。それによると、説明は、デリバリー(説明に引用された要因が被説明項を様相的に堅牢[modally robust]にする度合い)とコスト(説明に含まれる情報量)の比率を最大化するような一連の要因を選択する。
<p><img class="hatena-fotolife" title="" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210326/20210326212055.jpg" alt="f:id:psy22thou5:20210326212055j:plain" /></p>
<p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="Selectivity of Aesthetic Explanation" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fdoi.org%2F10.1093%2Fjaac%2Fkpaa002" frameborder="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Song, Moonyoung (2021). The Selectivity of Aesthetic Explanation. <em>Journal of Aesthetics and Art Criticism 79</em> (1):5-15.</span></p>
<p> </p>
<p>最近のJAACに載っている論文。「美的なもの[the aesthetic]」についての最新研究です。<a href="#f-0a366374" name="fn-0a366374" title="著者Moonyoung Songはミシガン大学アナーバー校でポスドクをされている方。フィクションにおける情動、芸術的価値と道徳的価値の相互作用についての論文も書いています。受け入れ先はウォルトンの研究室だったりするのだろうか。">*1</a></p>
<p> </p>
<blockquote>
<p>【Abstract】広く認められているように、芸術作品が特定の非美的性質を持つことは、特定の美的性質を持つことを説明する。このような説明の興味深い特徴のひとつは、その選択性[selectivity]である。すなわち、美的性質の存在が依存する非美的性質のうち、一部のみが引用されるのだ。そこで、選択される非美的性質と、選択されない性質とを区別するものはなにかという問いが生じる。私は、ローラ・フランクリンホール[Laura Franklin-Hall]による因果的説明の選択原理をモデルとした選択原理を提案することで、この問いに答える。それによると、説明は、デリバリー(説明に引用された要因が被説明項を様相的に堅牢[modally robust]にする度合い)とコスト(説明に含まれる情報量)の比率を最大化するような一連の要因を選択する。 (Song 2021)</p>
</blockquote>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#1イントロダクション">1.イントロダクション</a></li>
<li><a href="#2シブリーの選択原理">2.シブリーの選択原理</a></li>
<li><a href="#3因果的説明の選択性">3.因果的説明の選択性</a></li>
<li><a href="#4美的説明のための選択原理">4.美的説明のための選択原理</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a></li>
</ul>
<h3 id="1イントロダクション">1.イントロダクション</h3>
<p>フランク・シブリー[Frank Sibley]以降、しばしば議論されているように、<strong>ある種の美的性質を持つことは、ある種の非美的性質を持つことによって説明される</strong>。例えば、「この作品は〈しかじかの色やテクスチャーを持つ〉おかげで、〈エレガントである〉」。ソンはこれを<strong>「美的説明[aesthetic explanation]」</strong>と呼ぶ。</p>
<p><strong>美的説明は選択的[selective]である</strong>。ある美的性質は、作品におけるさまざまな非美的性質に依存しているが、説明においてこれら非美的性質がすべて言及されることはほとんどない。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%F3%A5%B9%A5%BF%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%F3">コンスタンティン</a>・ブランクーシ《空間の鳥》(1928)が持つ「エレガンス」は、特定のサイズおよび形状の両方に依存しているが、しばしば「しかじかの形状ゆえにエレガントである」と言われる一方、「しかじかのサイズゆえにエレガントである」と言われることはまれである。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%A4%A5%C9%A5%F3">ハイドン</a>の《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F2%B6%C1%B6%CA">交響曲</a>第63番》は、「ドラムの不在ゆえに繊細さを持つ」などと言われるが、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%B0%A5%D1%A5%A4%A5%D7">バグパイプ</a>の不在ゆえに繊細さを持つ」と言われることはほとんどない。</p>
<p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="Constantin Brâncuși. Bird in Space. 1928 | MoMA" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.moma.org%2Fcollection%2Fworks%2F81033" frameborder="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p><iframe id="widget2" src="https://www.youtube.com/embed/h7rxnQijccA?feature=oembed" width="420" height="315" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p>説明において参照される非美的性質と参照されない非美的性質の違いはなにか。どの非美的性質が、説明においてはより重要なのか。そこに<strong>「選択原理[selection principle]」</strong>はあるのか。というのが本論文の問いである。</p>
<p> </p>
<h3 id="2シブリーの選択原理">2.シブリーの選択原理</h3>
<p>最初に検討されているのは、フランク・シブリーの立場である。シブリーが示唆するところによれば、説明において参照されるのはとりわけ<strong>敏感[sensitive]</strong>な仕方で美的性質に関与するような非美的性質である。作品のサイズをちょっとだけ変えることは「エレガンス」に大きく影響しないかもしれないが、形状をちょっとでも変えるだけで「エレガンス」が一気に失われてしまうケースがある。ゆえに、サイズは説明に現れず、形状が説明に現れる。</p>
<p>シブリーの選択基準は普遍的でないのが問題だ。敏感さは程度問題だが、選択されるかどうかはイチゼロであって、基準としては使いにくい。また、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%B0%A5%D1%A5%A4%A5%D7">バグパイプ</a>の不在」が「ドラムの不在」よりも敏感でないというのも意味不明なので、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%A4%A5%C9%A5%F3">ハイドン</a>のケースも説明できない。シブリー説は、作品を取り巻く歴史的文脈を踏まえていない点でしんどいのだ。次に、敏感さだけでなく「異様さ[unusualness]」を基準に加えるのはどうか、という修正案が検討されるが、ソン曰くこの線もしんどい。バーネット・ニューマン《ワンメント6》(1953)は、その大きさや中央の垂直線によって「崇高さ」を持つが、「大きい」ことは異様でも敏感でもない。</p>
<p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="【美術解説】バーネット・ニューマン「カラーフィールド・ペインティングの代表格」" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.artpedia.asia%2Fbarnett-newman%2F" frameborder="0" scrolling="no"></iframe></p>
<p> </p>
<h3 id="3因果的説明の選択性">3.因果的説明の選択性</h3>
<p>ソンは、美的説明における選択原理を探すため、<strong>因果的説明[causal explanation]</strong>に関する選択原理を検討する。因果的説明もまた選択的であり、例えば「タバコのポイ捨てのせいで山火事が起きた」とは言われるが、「酸素があったせいで山火事が起きた」と言われることはない(タバコのポイ捨てと酸素は、どちらも山火事を引き起こした原因であるにもかかわらず)。</p>
<p>ここで、因果的説明には客観的・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%A9%BE%E5%B3%D8">形而上学</a>的基準など存在せず、その都度の関心によって参照される原因が異なるのだとする<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%B0%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%BA%A5%E0">プラグマティズム</a></strong>ももっともらしく思われてくる。しかし、ソンによれば因果的説明はともかく、美的説明における<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%B0%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%BA%A5%E0">プラグマティズム</a>は魅力的な立場ではない。割愛するが、理由はみっつ挙げられており、最終的にソンは非プラグマティックな選択原理を探す道を選ぶ。</p>
<p> </p>
<p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="Explaining Causal Selection with Explanatory Causal Economy: Biology and Beyond" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Flink.springer.com%2Fchapter%2F10.1007%2F978-94-017-9822-8_18" frameborder="0" scrolling="no"></iframe></p>
<blockquote>
<p>【Abstract】ある事象の発生に必要な要因のうち、その説明のなかで選択的に強調され、原因とされるものはなにか、一方で説明において省略される、あるいは背景的な条件の地位に追いやられるものはなにか。J・S・ミル以後、多くの人々がこの問いに対してはプラグマティックな答えしかできないと考えてきた。本論文では、この「因果選択問題」を因果関係を説明する言葉から理解することを提案し、抽象性[abstraction]と安定性[stability]の間の説明上の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EC%A1%BC%A5%C9%A5%AA%A5%D5">トレードオフ</a>がこの問題に対する原則的な解決を与えることを提案する。その解決策をスケッチした後、いくつかの生物学的な例に適用する。(Franklin-Hall 2015)</p>
</blockquote>
<p>ソンは、因果的説明に関するFranklin-Hall (2015)の原理を援用する。フランクリンホールによれば、説明において参照される要因とは、それによって<strong>「コスト」に対する「デリバリー」を最大化するような要因</strong>たちである。</p>
<p>説明の<strong>「コスト[cost]」</strong>とは、説明の情報量で決まるパラメーターである。多くの要因に言及するほどコストが高く、少ない要因だけでなされる説明ほどコストが低い。「aによってEが生じた」という説明はコストが低く、「aおよびbおよびcによってEが生じた」という説明はよりコストが高い。</p>
<p>説明の<strong>「デリバリー[delivery]」</strong>は、説明において言及された要因がどれだけ被説明項(ここでは起こった出来事)の「安定性」を「向上」させたかで決まるパラメーターである。丁寧に見ていこう。</p>
<p><strong>「安定性[stability]」</strong>はややこしい概念だが、ここではある出来事が起こっている世界(基本は、現実世界)を中心として、同様の出来事が生じている近接可能世界の数で決まるパラメーターである。もろもろの条件を多少変化させても、依然として発生する出来事ほど「安定性」が高い。</p>
<p>一定の条件が与えられたとき、特定の出来事は「基準安定性[baseline stability]」を持つが、これに別の条件を加えて発生させることで、「構築安定性[construct stability]」が得られる。例えば、ある山火事が発生することに関しては一定の基準安定性があるが、このうちタバコがポイ捨てされていない近接可能世界にタバコのポイ捨てという条件を加えると別の構築安定性が得られる。ここで、「タバコのポイ捨て」という要因が安定性をどれだけ向上させたか(構築安定性から基準安定性を差し引いた値)によって、デリバリーが決まる。</p>
<p>より大きな向上をもたらす要因、すなわちデリバリーの高い要因とは、以下のどちらかを満たすような要因である。</p>
<ul>
<li>多くの近接可能世界においては含まれていない要因のほうが、大きな向上をもたらす。被説明項となる出来事が起こっている世界を中心に、近接するたいていの世界で伴っているような要因は、そうでない少数の世界に付け加えたところで安定性をほとんど向上させない(向上の母数となる世界が少ないから)。</li>
<li>その要因を導入した先の可能世界で、被説明項となる出来事の発生が見込まれるような要因のほうが、大きな向上をもたらす。要因としてあろうがあるまいが、被説明項にはほとんど関係なさそうな要因は、加えたところで安定性をほとんど向上させない。</li>
</ul>
<p>これらを踏まえると、山火事の説明として「タバコのポイ捨て」を参照することは、最低限のコスト(要因ひとつだけに言及している)で最大限のデリバリー(落としてないよりは落としたほうが山火事になりがち)を得られるような説明となる。一方、「酸素」もコストは低いがデリバリーも低い(たいていの近接世界には酸素があるため<a href="#f-46ed7fef" name="fn-46ed7fef" title="可能世界の「近い」や「遠い」に関しては、物理的類似に訴えている。すなわち、なんらかの自然法則を破っている世界ほど、遠くにある。ルイスの話なのでよくわからない。">*2</a>)。ただし、普段は酸素除去システムが働いている工場で火災が発生したならば、「酸素」はデリバリーの高い要因として参照されるだろう。</p>
<p>まとめると、フランクホールにおいて、良い因果的説明とは経済的なものである。ふつうはコストを上げればデリバリーも上がるが、いかに最小限のコストで最大限のデリバリーをもたらす説明ができるかが、説明において目標となる。</p>
<p> </p>
<h3 id="4美的説明のための選択原理">4.美的説明のための選択原理</h3>
<p>ということで、ソンは美的説明にもフランクホールの<strong>「コスト-デリバリー比率を最大化する」</strong>という原理を持ち込んでみる。ただし、いくつか修正を加える。</p>
<ul>
<li>コストとなる性質は、世界側の性質ではなく、作品に関する性質とする。例えば、《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>》に関して、「爆撃を描写している」ことはコストとなるが、「爆撃に応じて作られた」という(世界側の)性質まで美的説明のコストとして換算するのでは厳しすぎる。</li>
<li>因果的説明の安定性やデリバリーは、物理的に類似した近接可能世界によって換算していたが、美的説明においては(ジャンルや様式において)芸術的に類似した近接芸術作品によって換算することにする。</li>
</ul>
<p>《空間の鳥》の「エレガンス」に関してその形状に言及することは、コスト-デリバリー比率が高い。「ちょうど《空間の鳥》の形状を持つ」彫刻はまれであり、しかじかの形状を持たない作品に《空間の鳥》と同じ形状を持たせてあげれば「エレガント」になることが見込まれるから。一方、しかじかのサイズは言及されない。ちょうど《空間の鳥》のようなサイズをもたせたとしても、それだけで「エレガント」になる作品はあまり多くなさそうだから。</p>
<p>《ワンメント6》においてもサイズは珍しいものではないため、その点ではデリバリーが低い。一方、芸術的に《ワンメント6》と類似した作品たちに《ワンメント6》のでかさを与えてやれば、「崇高である」という性質を持つ見込みはそれなりに高い。というのも、「大きい」ことは「エレガンス」を持つことには貢献しないが、「崇高さ」には貢献するから。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<p>以上がソン論文のまとめ。このあとに想定反論への応答をしているが、割愛。</p>
<p>主張されている選択原理は直観的に分かるが、安定性の向上やデリバリーの高さに関するところは、なんだか煙に巻かれている気がしないでもない。妙に小難しくなっているが、ようはある美的性質にとって、それを傾向的にもたらしがちな非美的性質ほど参照に値する、という話なのではないか(それでいいのかもしれないが)。</p>
<p>よく分からなかったのは、例えばニューマンの《ワンメント6》に関して、「大きいおかげで崇高である」という説明と「大きく、かつ中央の垂直線を持つおかげで崇高である」という説明とでは、結局どちらがコスト-デリバリー比率が高いのかという点。後者は前者よりもコストが高いが、それに見合うだけのデリバリーがあるのか。この辺はどうやって測るのか。なんとなく、後者のほうが良い説明であるという直観はあり、ソンも後者においてコストに見合うだけのデリバリーが伴うとしているが、このようなコストをどこまで払い続けることができるのか。ソン=フランクホールが「芯[sweet spot]」と呼ぶコスト-デリバリー比率の最大化ポイントが、どのような仕方で存在するのかがまだ直観的にすとんと落ちていない。</p>
<p>おそらく本論文の主眼は、美的説明に関する<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%B0%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%BA%A5%E0">プラグマティズム</a>への反論にあって、その点ではうまくいっていると思う。ソンは、規範的に良い説明と悪い説明の間には客観的な基準がある、という立場をしかじかの選択原理によって擁護しており、それは直観的にはもっともな原理だと思われる。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%B0%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%BA%A5%E0">プラグマティズム</a>からどういった応答が可能なのかも気になる。</p>
<p> </p>
<p><strong>【追記】2021/03/26</strong></p>
<p>森さんから補足いただきました。</p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="ja">銭さんがコメントで触れているニューマンのケースは、「大きさ」という説明だけではデリバリーが低いというのがポイントで(それくらいの大きさの作品は抽象<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%BC%E7%B5%C1">表現主義</a>にはたくさんあるから)、なにか付け加えないとニューマンの作品の崇高さの説明にはならんでしょ、という話だと思う。</p>
— <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%B8%F9">森功</a>次/MORI Norihide (@conchucame) <a href="https://twitter.com/conchucame/status/1375442337615073288?ref_src=twsrc%5Etfw">2021年3月26日</a> </blockquote>
<p>
<script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
</p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="ja">あとやっぱコメント部分の「ようはある美的性質にとって、それを傾向的にもたらしがちな非美的性質ほど参照に値する、という話なのではないか」というのはちょっとあんまりなまとめな気がする。傾向性という論点だと<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%A4%A5%C9%A5%F3">ハイドン</a>の曲のケースとか説明できないので(まぁ傾向性をどう理解するかにもよるが)</p>
— <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%B8%F9">森功</a>次/MORI Norihide (@conchucame) <a href="https://twitter.com/conchucame/status/1375443842434879489?ref_src=twsrc%5Etfw">2021年3月26日</a></blockquote>
<p>
<script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
</p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="ja">傾向性をどう説明するかのいろいろな選択肢は僕もまだよく理解できてないので、もしかしたら「要は傾向性では」という話になるのかもしれない。でも「傾向性ってことでOK」といい切れる自信は僕にはまだないかな。作品制作時の文脈を含める傾向性の説明ってあんまりないのでは、という気がしてるので。</p>
— <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%B8%F9">森功</a>次/MORI Norihide (@conchucame) <a href="https://twitter.com/conchucame/status/1375447140869185541?ref_src=twsrc%5Etfw">2021年3月26日</a></blockquote>
<p>
<script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
</p>
<p>ニューマンのケースで気になっていたのは、「コストに見合うだけのデリバリーがある」ということをどう判断するのか、という点でした。「大きいので崇高だ」という説明の{コスト, デリバリー}を{1, 2}だとして、「大きいかつ垂直線があるので崇高だ」は{2, 5}なので、後者のほうがコスト-デリバリー比率が高い(より良い美的説明だ)、というのがソンの原理だと思いますが、一概にそんなこと言えるの?という疑問です。「大きいかつ垂直線があるので崇高だ」の{コスト, デリバリー}がもとの比率とかわらない{2, 4}になるかもしれないし、なんなら{2, 3}になって比率が落ちることもありうるのではないか。{2, 5}にはなるが{2, 3}にはならない理由があるとして、それがなんなのかというのが分かっていない点です。(その辺の判断は個別批評の課題だ、というだけの話かもしれませんが)</p>
<p>要は傾向性なのでは、というのはたしかに雑なまとめだった気がします。こちらも、デリバリーや安定性の向上についていまいち腑に落ちていないのと関連していて、だいたい次のようなことを考えていました。「その条件(「でかい」)を加えることによって、その条件が満たされていない類似作品(でかくない抽象表現絵画)にも、問題となっている美的性質(「崇高である」)をもたらす見込みが高い」というのが美的デリバリーの定義だと理解しましたが、このことを批評家が理解しているときに理解していることって、要は「でかさはしばしば(傾向的に)崇高さをもたらす」ということなのではないか。すると、言い換えているだけなのではないか、というのが煙に巻かれているような印象を受けた点です。一方で、後者の直観に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%A9%BE%E5%B3%D8">形而上学</a>的な裏付けを与えた、ということであれば意義は分かりますが、そうなってくるとひとつ目の疑問点がより気がかりです。</p>
<p>あと、なるべくケチをつける方針で読みがちですが、全体的にはやっぱり面白い論文だと思いました。</p>
<p> </p>
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<p dir="ltr" lang="ja">JAACの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%C8%C8%C7">組版</a>はもともとあまり好きではなかったんだけど、出版社をOxfordに変えて<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%C8%C8%C7">組版</a>良くなるかなーと期待してたら、逆にもっと読みにくくなった感じがする<br /><br />文字小さいんよね</p>
— <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%B8%F9">森功</a>次/MORI Norihide (@conchucame) <a href="https://twitter.com/conchucame/status/1375448835464470539?ref_src=twsrc%5Etfw">2021年3月26日</a></blockquote>
<p>
<script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
</p>
<p>WAKARIMI DEEP。</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-0a366374" name="f-0a366374" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">著者<a href="https://www.moonyoungsong.com/">Moonyoung Song</a>は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A5%B7%A5%AC%A5%F3%C2%E7%B3%D8">ミシガン大学</a>アナーバー校で<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C9%A5%AF">ポスドク</a>をされている方。<a href="https://philpapers.org/rec/SONAOF-2">フィクションにおける情動</a>、<a href="https://philpapers.org/rec/SONTNO-5">芸術的価値と道徳的価値の相互作用</a>についての論文も書いています。受け入れ先は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の研究室だったりするのだろうか。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-46ed7fef" name="f-46ed7fef" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">可能世界の「近い」や「遠い」に関しては、物理的類似に訴えている。すなわち、なんらかの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%CB%A1">自然法</a>則を破っている世界ほど、遠くにある。ルイスの話なのでよくわからない。</span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|Brian Laetz「ケンダル・ウォルトンの〈芸術のカテゴリー〉:批評的注釈」(2010)
hatenablog://entry/26006613699601481
2021-03-05T22:05:31+09:00
2023-08-09T20:30:39+09:00 Laetz, Brian (2010). Kendall Walton's 'Categories of Art': A Critical Commentary. British Journal of Aesthetics 50 (3):287-306. 久々にケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」を読み直し、「あれ、こんな立場だっけ」と気になる点があったので、森さんも紹介されていたBrian Laetzのコメンタリー論文をあたった*1。結果、どんぴしゃの解説があり、前評判通りかなりよいコメンタリーだったので、まとめておく。森さんのエントリーは以下。 気になっていたのは、形式主義vs文脈主義…
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210305/20210305220507.jpg" alt="f:id:psy22thou5:20210305220507j:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fdoi.org%2F10.1093%2Faesthj%2Fayq017" title="Kendall Walton's ‘Categories of Art’: A Critical Commentary" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Laetz, Brian (2010). Kendall <a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/Walton">Walton</a>'s 'Categories of Art': A Critical Commentary. <em><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/British">British</a> Journal of Aesthetics 50</em> (3):287-306.</span></p>
<p> </p>
<p>久々にケンダル・<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>「芸術のカテゴリー」を読み直し、「あれ、こんな立場だっけ」と気になる点があったので、森さんも紹介されていたBrian Laetzのコメンタリー論文をあたった<a href="#f-08df8ecf" name="fn-08df8ecf" title="Laetzの読みは「リーツ」だと思うんだが、自信がない。">*1</a>。結果、どんぴしゃの解説があり、前評判通りかなりよいコメンタリーだったので、まとめておく。森さんのエントリーは以下。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fmorinorihide.hatenablog.com%2Fentry%2F20150608%2Fp1" title="ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。 - 昆虫亀" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fmorinorihide%2Fn%2Fned715fd23434" title="K. Walton「芸術のカテゴリー」|morinorihide|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>気になっていたのは、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>vs文脈主義から見た<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の位置付け。最近<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>を読んでいたので、彼との対比において<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>はごりごりの文脈主義者かと思っていたが、読み直してみると意外とユニークな立場ではないかと思われた。Laetz論文も、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>がどうユニークなのかにフォーカスしている。</p>
<p>節名などは私が適時つけたものです。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#芸術のカテゴリー概略"> 「芸術のカテゴリー」概略</a><ul>
<li><a href="#心理学的なカテゴリー依存">心理学的なカテゴリー依存</a></li>
<li><a href="#存在論的なカテゴリー依存">存在論的なカテゴリー依存</a></li>
<li><a href="#正しいカテゴリー依存">正しいカテゴリー依存</a></li>
</ul>
</li>
<li><a href="#正しいカテゴリーとはなにか">「正しいカテゴリー」とはなにか</a></li>
<li><a href="#芸術のカテゴリーの位置付け">「芸術のカテゴリー」の位置付け</a></li>
<li><a href="#-コメント">✂ コメント</a><ul>
<li><a href="#1">1.</a></li>
<li><a href="#2-20230303追記あり">2. 【2023/03/03追記あり】</a></li>
<li><a href="#20230303追記">【2023/03/03追記】</a></li>
</ul>
</li>
</ul>
<h3 id="芸術のカテゴリー概略"> 「芸術のカテゴリー」概略</h3>
<p>伝統的に、芸術鑑賞においては作品だけを見るべきとする<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>と、作品外の事柄も踏まえるべきとする文脈主義が争ってきた。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>の代表はBellとBeardsley、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>はDantoやLevinsonと並び文脈主義の代表格と紹介されがち。</p>
<p>「芸術のカテゴリー」(1970)に関する確立したコンセンサスはなく、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>を文脈主義者と呼ぶ人(Levinson、Currie、Zangwill)もいれば、洗練された経験主義者と呼ぶ人(D.Davies)もいる。</p>
<p>Laetzによれば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>はたしかに<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>/経験主義ではないが、典型的な文脈主義とも異なるユニークな立場である。</p>
<p> </p>
<p>まずはじめに、Laetzは「芸術のカテゴリー」を三つのテーゼからまとめている。これがかなりわかりやすい。</p>
<h4 id="心理学的なカテゴリー依存"><strong>心理学的なカテゴリー依存</strong></h4>
<p>芸術作品に関する実際の美的判断は、判断において参照されるカテゴリーに依存する。</p>
<p>序盤で、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は考察の対象となるカテゴリーを絞っている。それは、標準的な状況において、知覚的特徴のみから特定されうる(すなわち、見たり聞いたりするだけで分かる)ようなカテゴリーである。具体的には、メディア、ジャンル、様式、形式などを考えている。「誰々の全作品に含まれる」とか「贋作である」といった、歴史的性質に基づいたカテゴリーは排除している。</p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>によればカテゴリーには「<strong>標準的特徴</strong>:あればそのカテゴリーに属しがち、なければそのカテゴリーから外れがち」、「<strong>可変的特徴</strong>:あってもなくてもそのカテゴリーに属すかどうかに関係なし」、「<strong>反標準的特徴</strong>:あればそのカテゴリーから外れがち」が伴っており、これによって、<strong>どんなカテゴリーから作品を鑑賞するかは作品がどう知覚されるかに影響する</strong>ことになる。有名な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>スの思考実験をはじめ、カテゴリーをシフトさせると作品のうちに見て取られる性質が変容するような例を、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>はたくさん挙げている。</p>
<h4 id="存在論的なカテゴリー依存"><strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的なカテゴリー依存</strong></h4>
<p>芸術作品が持つ美的性質は、どのカテゴリーに所属するかに影響される。</p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%B8%BA%DF%CF%C0">存在論</a>的な主張によれば、芸術作品が<strong>実際に持つ性質も</strong>カテゴリー依存である。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/PCD">PCD</a>をもとにこのOCDを主張しているっぽいが、あまり詳細には根拠を提示していない。</p>
<p>鑑賞者が見て取る性質がカテゴリー依存であることは、必ずしも作品が実際に持つ性質もカテゴリー依存であることを伴わないが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は実際の批評実践を踏まえOCDを主張していると思われる。少なくとも、伝統的な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>よりは理論的メリットが大きいとも思ってそう。</p>
<h4 id="正しいカテゴリー依存"><strong>正しいカテゴリー依存</strong></h4>
<p>作品を鑑賞する上で参照すべき、特権的な、「正しいカテゴリー」が存在する。</p>
<p>作品は、理論的にはあらゆるカテゴリーから判断することが可能。しかし、あらゆる美的判断はカテゴリー相対的だから、「カテゴリーC1からすると〜〜」「カテゴリーC2からすると○○」という以外に端的には述べられないという立場は、自然物には当てはまるかもしれないが、芸術作品に関しては疑わしい。芸術作品に関する判断のうち、ある種の判断は明らかに<strong>正しく</strong>、ある種の判断は明らかに<strong>間違っている</strong>ように思われる。</p>
<p>ということで、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は「正しいカテゴリー」を定めるための規準を五つ挙げている<a href="#f-a576f909" name="fn-a576f909" title="典型的には、五つ目を除いた四つの規準として説明されるはず。五つ目は、例えば「エッチング」といったカテゴリーであり、しかじかの製作プロセスを経ていることによって定められる(たぶん「写真」もそう)。ウォルトンは、このケースについて本当に軽く触れているだけなのだが、Laetzが規準のひとつとして持ち上げているのは意外。">*2</a>。</p>
<ol>
<li>反標準的特徴を最小化するカテゴリー</li>
<li>美的価値を最大化するカテゴリー</li>
<li>社会において確立しているカテゴリー</li>
<li>作者の意図したカテゴリー</li>
<li>製作の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A1%B3%A3%C5%AA">機械的</a>プロセスが定めるカテゴリー</li>
</ol>
<p> </p>
<h3 id="正しいカテゴリーとはなにか">「正しいカテゴリー」とはなにか</h3>
<p>ここで、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の述べている「正しいカテゴリー」がなんなのかについて、標準的な解釈には誤解が含まれている、とLaetzは言う。「正しいカテゴリー」はしばしば「作品が<strong>実際に属するカテゴリー</strong>」として解釈されるが、Laetzによれば「作品が属する諸カテゴリーのうち、美的性質を決定するのを実際に助けるような<strong>特権的カテゴリー</strong>」すなわち「<strong>美的に活性[aesthetically active]なカテゴリー</strong>」として解釈すべきである。</p>
<p>従来の解釈が間違っている理由は三つ。</p>
<ul>
<li>第一に、前述の通り、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は作品において<strong>知覚的に見分けられる[perceptually distinguishable]カテゴリー</strong>のみを問題としている。一方で、作品が実際に属する、という意味での“正しいカテゴリー”には、その特定にかんして歴史的なヒントを要するものも含まれている。結局、知覚だけで特定できるのか、来歴を調べるべきなのかわからんということで、従来の解釈は「知覚的に見分けられるカテゴリー」に対する<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>のコミットと不整合をきたす。一方、Laetzの解釈でいけば、知覚できる諸カテゴリー(作品が属する諸カテゴリー)のうち、どれが美的に活性なのかは歴史的要因が定めるという仕方で説明でき、整合的である。</li>
<li>第二に、従来の解釈は、自然物に関する<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の記述とも整合的ではない。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>によれば、風景や動物などの自然物が持つ美的性質もカテゴリー依存である。ただし、<strong>自然物に関しては「正しいカテゴリー」が定められない</strong>と述べており、芸術作品に関しては退けたカテゴリー<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>を認めている。ここで、従来の解釈だと、“正しいカテゴリー"がないということで自然はいかなるカテゴリーにも属さない、ということになるがこれは明らかにおかしい。</li>
<li>第三に、従来の解釈は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>による<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>批判とも整合的ではない。“正しいカテゴリー"が作品の属するカテゴリーでしかないなら、作品はふつう複数のカテゴリーに属するため、結局<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>に陥ってしまう。ゆえに、美的判断の正誤が問えなくなる。Laetzが推す解釈のように、作品が属するカテゴリーのうち、どれが「正しいカテゴリー(=特権的な、美的に活性なカテゴリー)」なのかを問うことではじめて、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>から逃れられる。</li>
</ul>
<p>では、なぜこのような誤解(「正しいカテゴリー=作品が実際に属するカテゴリー」)が生じてしまったのか。</p>
<ul>
<li>第一に、「美的性質に影響するカテゴリーであるなら、作品が実際に属するカテゴリーでなければならないはずだ」と解釈者たちが考えたから。しかし、ここから正しいカテゴリーすなわち属するカテゴリーとは言えない<a href="#f-d87c40b3" name="fn-d87c40b3" title="「美的性質に影響するカテゴリー⇒作品が実際に属するカテゴリー」というのはその通りだが、逆(「作品が実際に属するカテゴリー⇒美的性質に影響するカテゴリー」)は言えない。作品が実際に属するカテゴリーのうち、一部の特権的なカテゴリー(Laetzの解釈が推している「正しいカテゴリー」)のみが、美的性質に影響する。">*3</a>。また、Laetz解釈による「正しいカテゴリー」は、作品の属するカテゴリーの<strong>一部</strong>なので、上の前提に立っても矛盾はない。</li>
<li>第二に、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>スの例みたいに、明らかにそれには「属さない」だろうと思わせるカテゴリーに言及している。しかし、奇妙かもしれないが、《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>》が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>スに属すること自体に矛盾はない。というのも、属するカテゴリーは作品の持つ知覚可能な性質のみで決まるので、原理的には任意の性質をかき集めてなんらかの(名付けられていない)カテゴリーへの所属が言える。もちろん、作品が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>に属するカテゴリーの全てが気にされるわけでも重要なわけでもない。例えば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>スに属することはふつう気にされない。再度、あるカテゴリーに属すること自体は、意図とも実践とも関係なく、知覚可能な性質だけで決まる。</li>
<li>第三に、カテゴリー所属は意図によって決まると思われがちであり、意図されていないカテゴリーには属さないと思われがち。しかし、繰り返しになるが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は知覚的に見分けられるカテゴリーのみを問題にしており、見分けられる限りで意図に関わらず属する。</li>
</ul>
<p>ついでに、Currie (1989)およびCarlson (1981)を検討することで、従来の解釈を正すべき理由を示している。Currieは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の「正しいカテゴリー」を「作品の属するカテゴリー」と考えた上で、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>を免れていないと批判するが、これは誤解に基づいていて不当である。一方、自然物に関して<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>を応用するCarlson (1981)は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>に反し、自然物に対する判断にも正誤が問える、すなわち自然物にも「正しいカテゴリー」があり、それは科学的なカテゴリーであるとする。しかし、ここでも「正しいカテゴリー=自然物の属するカテゴリー」だとみなされており、カールソン自身が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>を逃れていない。というのも、あるチワワ犬は「犬」としてはちっちゃくて可愛らしいかもしれないが、「チワワ」としてはそこそこかもしれないからだ。</p>
<p> </p>
<h3 id="芸術のカテゴリーの位置付け">「芸術のカテゴリー」の位置付け</h3>
<p>最後に、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>/経験主義vs文脈主義の対立における、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の位置付けを再考している。<br /><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は、作品の美的性質が知覚されるカテゴリー依存だとする点で<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>と相違するが、ここでの「カテゴリー」に関する考えは従来の文脈主義とは異なる。根拠は主にふたつ。</p>
<p>第一に、<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が美的に関与的なカテゴリーとして考えているのは、従来の文脈主義が考えているような多様な文脈よりずっと制限的である</strong>。</p>
<p>繰り返し強調してきたように、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が考えているのは、知覚的に見分けられるようなカテゴリー、すなわち「絵画」として見れるとか、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%A5%CA%A5%BF">ソナタ</a>」として聞けるといったときのカテゴリーのみを問題にしている。これに対し、従来の文脈主義が考えているカテゴリーはもっと広い。とりわけ従来の文脈主義を動機づけるのは、例えば「贋作である」「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%C7%A5%A3%A5%E1%A5%A4%A5%C9">レディメイド</a>である」といった(知覚可能でない)性質であり、これに基づいたカテゴリー「贋作」「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%C7%A5%A3%A5%E1%A5%A4%A5%C9">レディメイド</a>」である。そしてしばしば、「知覚的に区別不可能にせよ、贋作なので美的価値は低い」みたいなことを言う。しかし、「贋作」や「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%C7%A5%A3%A5%E1%A5%A4%A5%C9">レディメイド</a>」カテゴリーに含まれることは、歴史的性質によって定められており、知覚だけで分かるものではない。あるいは、文脈主義者は、《<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%EB%A5%CB%A5%AB">ゲルニカ</a>》が「二十世紀の西洋絵画として〜〜」と評価するが、こちらも知覚的に見分けられるカテゴリーではない。</p>
<p>比較として、典型的な文脈主義者であるLevinson (1980)と対比してみる。Levinsonによれば、音楽作品の美的性質は、どう聞こえるかだけでなく、作曲に関する「総合的な音響的-歴史的文脈」にも依存している。そのなかには少なくとも以下が関与的なものとして含まれる。(a)制作時における歴史、(b)制作時における音楽の発展、(c)制作時において既存の音楽様式、(d)制作時に支配的な音楽的影響源、(e)制作時に作者の同時代人がやっていた音楽活動、(f)作者のスタイル、(g)作者の音楽レパートリー、(h)作者の全作品、(i)作者の制作時における影響。</p>
<p>例えば、(h)全作品[oeuvre]のうち、作品Aを作っていない点以外においては作者Sと全く同じ作者Tがいたとしよう。ふたりがその後作品Bを作った場合、SのBと、TのBとでは美的性質が異なる、とLevinsonは考えている。しかし、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>はこの手の主張はしていない。誰々の全作品に含まれることは、知覚だけでは分からないからだ。このような歴史的性質に基づくカテゴリーを考えていない点で、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は従来の文脈主義とは異なる。</p>
<p> </p>
<p>第二に、<strong><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が美的に関与的なカテゴリーとして考えていたのはかなりミニマルである</strong>。</p>
<p>カテゴリーが作品の美的性質に関わる仕方はさまざま考えられる。これを、関わり方のモード[modes]と呼ぶならば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が考えていたのはたったひとつの特定のモードでしかない。</p>
<p>まず、美的性質に<strong>直接的に美的に関与する[direct aesthetic relevance]カテゴリー</strong>と<strong>間接的に美的に関与する[indirect aesthetic relevance]カテゴリー</strong>に区別できる。前者はそのカテゴリーに属するだけで、作品はなんらかの美的性質を持つことになる。こちらはあまりしょっちゅう指摘されることないが、例えば「贋作」などは直接関与的なカテゴリーだと言われる。一方、そのカテゴリーに属するだけでは、まだ利点でも欠点もなく、特定の美的性質を持つことにもならないカテゴリーは、間接的なカテゴリーである。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が考えていたのはこちらである。</p>
<p>続いて、間接的に関与するカテゴリーのうち、<strong>比較において美的に関与する[comparative aesthetic relevance]カテゴリー</strong>として、誰々の「全作品」などがある。そのカテゴリーに属することで、比較すべきものが与えられるようなカテゴリーであり、ある作者の全作品に属する事自体は美的になんでもないが、その作品内で比較されることで美的にどうのこうの言われる。比較において関与するカテゴリーはポピュラーなものだが、実はこれも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の考えていたカテゴリーではない。というのも、こちらのカテゴリーを使う場合には、そのカテゴリーの別のメンバーとの比較がポイントになるが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>のカテゴリーはそういうのじゃない。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の考えているカテゴリーは、そのカテゴリーにとってどの性質が標準的/可変的/反標準的かが分かっているなら、他のメンバーを持ち出すことなく、そのカテゴリーを使うことができる。これは、いわば<strong>理想として美的に関与する[ideal aesthetic relevance]カテゴリー</strong>である。</p>
<p>さらに、理想として関与するカテゴリーのうち、<strong>目的として美的に関与する[teleological aesthetic relevance]カテゴリー</strong>がある。そのカテゴリーの目的をどれだけ達成しているかで美的性質を左右させるようなカテゴリーであり、怖がらせることを目指す「ホラー」や、笑わせることを目指す「コメディ」が含まれる。こちらは、他のメンバーとの比較は関係ない点で、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の考えているカテゴリーに近いが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>はカテゴリーの目的については述べておらず、標準的/可変的/反標準的の構成と目的がどう関わるのかも定かでない。</p>
<p>まとめると、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>はカテゴリーが美的性質に関わるモードのうち、「間接>理想>非目的」という特定のモードのみを考えていた。これは、しばしばさまざまなモードに言及する従来の文脈主義たち(多元論)とは異なり、一元論である。</p>
<p> </p>
<p>最後に、次の点でも、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の立場は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>寄りである。</p>
<p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>によれば、美的に関与的な性質とは、<strong>我々の知覚経験に関与的な性質</strong>にほかならならず、ゆえに歴史的性質は排除される。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の考えるカテゴリーは、この主張をカバーしている。すなわち、あるカテゴリーにおいて知覚することとは、作品の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%EB%A5%C8">ゲシュタルト</a>を知覚することであり、どのカテゴリーで知覚するかが作品の鑑賞経験に影響することを認めている。</p>
<p>その他のモードにおけるカテゴリー(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が取り上げないもの)は、知覚そのものに影響しない。例えば、「贋作である」と知ることは、その<strong>査定</strong>を変容させるが、<strong>知覚</strong>を変容させるわけではない。カテゴリーが美的性質に関わる仕方に関して、重要な仕方で知覚と結びついていると考えている(すなわち、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>的なコミットメントを含んでいる)点でも、従来の文脈主義とは一線を画している。</p>
<p>ということで、「芸術のカテゴリー」は文脈主義とカテゴリーに関する問いを伴っている。すなわち、「カテゴリーと性質の関わりモードは一種だけ(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>)なのか、複数ある(従来の文脈主義)なのか」「これらモード間に関係はあるのか、より基礎的なモードというのはあるのか、どれかで還元できたりするのか」など。</p>
<p> </p>
<h3 id="-コメント">✂ コメント</h3>
<h4 id="1">1.</h4>
<p>「芸術のカテゴリー」を読んで気になっていたのは、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>にだいぶ譲歩的だな、という点であり、Laetzの解説を見て腑に落ちた。主に「知覚的に見分けられるカテゴリー」に焦点を合わせている、という点では、たしかに従来の文脈主義に比べユニークな選択だろう。 </p>
<blockquote cite="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/20150608/p1" data-uuid="26006613699610327">
<p>*4:ただ私としては、Laetzの議論は「芸術のカテゴリー」第五節の主張を上手くすくえてない気もするんですよね。いつか反論論文書きたいところ。</p>
<cite><a href="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/20150608/p1">ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。 - 昆虫亀</a></cite></blockquote>
<p>ところで、森さんの注も気にしつつ読んでいたが、Laetzが「上手くすくえていない」というのは、「カテゴリーを知覚的に見分ける」ことに関してある種の<strong>訓練</strong>が必要だとする<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の主張だろうか。正確にはわからなかったので、こちらは気になる。</p>
<p> </p>
<h4 id="2-20230303追記あり">2. 【2023/03/03<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C9%B5%AD%A4%A2%A4%EA">追記あり</a>】</h4>
<p><span style="color: #999999;">Laetzも認めるだろうが、カテゴリーには理論的に言って三つの集合がある。</span></p>
<ol>
<li><span style="color: #999999;">鑑賞者が知覚的に見出すカテゴリー群</span></li>
<li><span style="color: #999999;">作品が実際に属するカテゴリー群</span></li>
<li><span style="color: #999999;">作品の美的性質にとって関与的な、特権的カテゴリー群</span></li>
</ol>
<p><span style="color: #999999;">3.において正しさが問われる、というのはみんな認めている。従来の解釈は2.と3.を同一視するが、これはLaetzによれば問題があり、Laetzは1.かつ2.の一部のみが3.であると考えているっぽい。図にすると、たぶん以下。</span></p>
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210305/20210305212227.png" alt="f:id:psy22thou5:20210305212227p:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><span style="color: #999999;">ちょっとよく分かっていない点として、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が知覚できるカテゴリーのみに話を"絞っている"という前提に立ったとき、従来の解釈は実質、「正しいカテゴリー」のうち領域Aだけに言及することになるので、これに自覚的である限りでLaetzの解釈と対立点はないんじゃないか。例えば、Laetzの挙げる問題点のひとつ目は、従来の解釈に領域Bが含まれている点にあった。しかし、「正しいカテゴリーのなかには、知覚的に見分けられないものもある」ということ自体を<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は否定するのだろうか。私が分かっていないのは、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>が領域Aに話を絞っているのか、あるいは領域Aしかないと積極的に主張しているのか、だ。私にはどうも前者のように思われるが、Laetzはどことなく後者で読んでいる気がする。</span></p>
<p>読みやすく、クリアカットな論文だったわりに、だいぶ込み入った話題でずいぶん苦労した。まとめに自信がないので、もうちょっと考えてみたい。どこか不備がありましたら、ご指摘ください。</p>
<p> </p>
<p>ところで、LaetzがThe Routledge Companion to Philosophy and Filmに書いた「映画ジャンル」の項目については、先日まとめたので合わせてどうぞ。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fobakeweb%2Fn%2Fne8243065027b" title="映画ジャンルの哲学:役割、定義、存在論、価値|obakeweb|note" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p> </p>
<p>----------</p>
<h4 id="20230303追記">【2023/03/03追記】</h4>
<p>2.の図は<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>およびリーツの整理として間違っていたので、鵜呑みにしないでください。</p>
<p>ちゃんとした検討はいま博論の一部として書いていますので、ここでは手短にポイントだけまとめます。</p>
<ul>
<li>ポイント1:<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>において、「知覚的に判別可能なカテゴリー」は作品が実際に属するカテゴリーの部分集合っぽい。例えば、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%AB%A5%BD">ピカソ</a>風」カテゴリーへの所属は、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%AB%A5%BD">ピカソ</a>っぽく見える、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%AB%A5%BD">ピカソ</a>らしく見える時点で確定するので、実際に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%AB%A5%BD">ピカソ</a>が手掛けたかどうかとは関係がない。知覚的に判別可能だが、実際には属さない、というのは規定より意味をなさない。</li>
<li>ポイント2:リーツによる「正しいカテゴリー」の解釈は、「①作品が実際に属するカテゴリー」の部分集合である「②知覚的に判別可能なカテゴリー」から、四つの考慮事項を通してさらなる部分集合として「③美的に活性なカテゴリー=正しいカテゴリー」が切り出されるというもの。</li>
<li>ポイント3:厳密には、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は「正しいカテゴリー」という語をほとんど使っておらず、「そのもとで作品を知覚することが正しいと言えるカテゴリー」みたいな変な言い方ばかりしている。「正しい[correct]」は作品のカテゴリーではなく、作品への知覚の仕方に修飾しているのだ。世界側の事実としてカテゴリー所属があり、それを正しく、正確に[accurate]、現実に即した[veridical]仕方でカテゴライズをしているのか、という話ではない(すごくややこしい)。おそらく、よりミ<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%EA%A1%BC%A5%C9">スリード</a>でない表現で言えば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は正当化された[justified]知覚の仕方を問題にしようとしているのだ。(「正しいカテゴリー」という表現を好むリーツもこれに気づいた上で、「そのもとで作品を知覚することが正しいと言えるカテゴリー」の省略語として用いているのだろう。)</li>
</ul>
<p>少なくとも、「芸術のカテゴリー」を何周か読んだあたり、リーツは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>の意図を汲んで正確に再構成しているように思われる。つまり、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は「知覚的に判別可能なカテゴリー」の限定を超えて、歴史的カテゴリーやそれに依存した美的判断についてなにかを述べているようにはあまり思われない。それでいいのか、というのは<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>解釈とは独立に検討の余地があるだろう。</p>
<p>追記終わり。</p>
<p>----------</p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-08df8ecf" name="f-08df8ecf" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">Laetzの読みは「リーツ」だと思うんだが、自信がない。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-a576f909" name="f-a576f909" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">典型的には、五つ目を除いた四つの規準として説明されるはず。五つ目は、例えば「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C3%A5%C1%A5%F3%A5%B0">エッチング</a>」といったカテゴリーであり、しかじかの製作プロセスを経ていることによって定められる(たぶん「写真」もそう)。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>は、このケースについて本当に軽く触れているだけなのだが、Laetzが規準のひとつとして持ち上げているのは意外。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-d87c40b3" name="f-d87c40b3" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">「美的性質に影響するカテゴリー⇒作品が実際に属するカテゴリー」というのはその通りだが、逆(「作品が実際に属するカテゴリー⇒美的性質に影響するカテゴリー」)は言えない。作品が実際に属するカテゴリーのうち、一部の特権的なカテゴリー(Laetzの解釈が推している「正しいカテゴリー」)のみが、美的性質に影響する。</span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|モーリス・マンデルバウム「家族的類似と芸術に関する一般化」(1965)
hatenablog://entry/26006613693776601
2021-02-19T21:01:43+09:00
2021-06-07T18:05:36+09:00 モーリス・マンデルバウム「家族的類似と芸術に関する一般化」(1965)のレジュメ|Mandelbaum, Maurice. (1965). Family Resemblances and Generalization concerning the Arts. American Philosophical Quarterly, 2(3), 219-228.
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210219/20210219210008.jpg" alt="f:id:psy22thou5:20210219210008j:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fphilpapers.org%2Frec%2FMANFRA" title=" Maurice Mandelbaum, Family Resemblances and Generalization concerning the Arts - PhilPapers" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p><span style="font-size: 80%;">Mandelbaum, Maurice. (1965). <a href="https://www.jstor.org/stable/20009169">Family Resemblances and Generalization concerning the Arts</a>. <em>American Philosophical Quarterly, 2</em>(3), 219-228.</span></p>
<p> </p>
<p>「芸術の定義」に関する古典的な論文のひとつ。以下、論文に先立つあらすじ。</p>
<p>伝統的に、芸術は模倣/表象(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%C8%A5%F3">プラトン</a>)、感情の伝達(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EB%A5%B9%A5%C8%A5%A4">トルストイ</a>)、表出(クローチェ)、重要な形式(ベル)といった点から定義されてきたが、いずれも狭すぎる=一部の芸術を芸術としてカバーできないか、広すぎる=一部の非芸術を芸術だとみなしてしまう、ということで一長一短であった。</p>
<p>1950年代のなかごろは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%B8%EC%C5%AF%B3%D8">言語哲学</a>、とりわけ後期<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>の影響を受けた哲学者たちが、美学や芸術理論における反<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%BC%C1%BC%E7%B5%C1">本質主義</a>をごり押しする。「芸術の定義」というトピックにおいては、なんらかの本質的な特徴において芸術作品を定義しようとする(あわよくば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%CD%D7%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">必要十分条件</a>を与える)プロジェクトへの疑いが一気に噴出していた時期だ。とりわけマンデルバウムが挙げているのは、</p>
<ul>
<li>ウィリアム・エルトン[William Elton]編の論文集『美学と言語』(1954)<a href="#f-027ad133" name="fn-027ad133" title="この論集の紹介を含む論文として、利光功「美学はわびしいか:分析美学の射程と限界」(1994)がある。ネタとして有名な論文だが、ここで最終的にわびしいとdisられているのは、50, 60年代の一部界隈に限定された狭義の「分析美学」(マンデルバウムも相手取っているもの)だというのは一応留意しておく。今日「分析美学」と言ったときのキャロルやらウォルトンやらレヴィンソンやらとはだいぶ時代もノリも違うので要注意。わびしいかどうかは知らない。">*1</a></li>
<li>ポール・ジフ[Paul Ziff]「<a href="https://philpapers.org/rec/ZIFTTO">芸術作品を定義するという作業</a>」(1953)</li>
<li>モリス・ワイツ[Morris Weitz]「<a href="https://philpapers.org/rec/WEITRO">美学における理論の役割</a>」(1956)</li>
<li>チャールズ・L・ス<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>ブンソン[Charles L. Stevenson]「<a href="https://philpapers.org/rec/STEOWI">〈詩とは何か〉について</a>」(1957)</li>
<li>W・E・ケニック[William E. Kennick]「<a href="https://philpapers.org/rec/KENDTA">伝統的な美学はそもそも間違いだったのか?</a>」(1958)</li>
</ul>
<p>なかでもとりわけ重要なワイツ論文は、松永さんの翻訳(『<a href="http://philcul.net/?page_id=545#v1n2">フィルカル 1(2)</a>』収録)(<a href="https://note.com/zmz/n/n397f021fb7e9">note</a>販売版)もある。</p>
<p>ということで芸術の定義なんてムリムリやめとこムードが50年代後半から60年代前半にかけて支配的だったわけだが、70年代からは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%F3%A5%C8%A1%BC">ダントー</a>のアートワールド論やら、ディッキーの制度論やらと、定義論が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%C3%A5%AF%A5%E9%A5%C3%A5%B7%A5%E5">バックラッシュ</a>的な盛り上がりを見せる。その後今日に至るまで、レヴィンソン、キャロル、デイヴィス、ステッカー、ゴート、ロペスらがわいわい議論しており、かつての反<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%BC%C1%BC%E7%B5%C1">本質主義</a>とはなんだったのか状態が続いている。『分析美学入門』第五章やSEP「芸術の定義」(<a href="http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/09/30/170505">ナンバさんのレジュメ</a>)を参照。</p>
<p>マンデルバウムによる本論文は、定義論<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%C3%A5%AF%A5%E9%A5%C3%A5%B7%A5%E5">バックラッシュ</a>の先陣を切った一本である。ディッキーの制度論も、マンデルバウムを出発点としている。</p>
<p> </p>
<h3>レジュメ</h3>
<p>マンデルバウムはまず、反<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%BC%C1%BC%E7%B5%C1">本質主義</a>たちがしばしば引き合いに出す、後期<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>の「家族的類似[family resemblance]」というア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%A2">イデア</a>を再検討し、その不備を指摘している。</p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>によれば、さまざまなゲームはさまざまな点において類似関係を取り結んでいる。卓球とサッカーは〈ボールを用いる〉点で似ており、サッカーと陸上は〈選手が走る〉点で似ており、卓球とチェスは〈テーブルを用いる〉点で似ている、といった具合に各ゲームは別のゲームとさまざまな特徴を共有するが、ここで「あらゆるゲームをまたいで共有される、そしてゲームたりうるものだけが持つ本質的な性質」はないとされる(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%A5%EA%A5%C6%A5%A3%A5%A2">ソリティア</a>もボクシングもゲームだが、なんらかの点で似ているようには思われない)。それはちょうど、父と兄が目において似ており、兄と妹が口において似ており、妹と母が性格において似ているように、それぞれ部分的な類似の連関を取結びつつ、一家全体をまたぐような特徴がないのと類比的だ。</p>
<p>さまざまな活動が、類似関係の網目のもとで「ゲーム」として包括されているが、これらをまたぐ本質はない。この意味で用いられる家族的類似は、マンデルバウムによれば問題含みである。まず、家族集団には共有される本質がないという前提だが、「共通の祖先を持つ」という特徴はひとまずその家族の成員をまたいで共有されるだろう。一方で、父と目の似た赤の他人もいるのだから、似ているという関係だけで区切ろうとしても“家族的”類似は得られない。ここでの教訓は、「ある一家に関して共有される性質は目に見えて知覚可能な、顕示的[exhibited]特徴とは限らない」というだけであり、本質がないとは言えない。</p>
<p>同様に、「ゲーム」にも「実用的でない関心において参加者と観客を楽しませる、という目的を持つ」という本質があり、「ゲーム」によって包括されるあらゆる活動がこれを共有しているかもしれない。この定義の是非はともかく、こういった目に見えない特徴が共有されている可能性は大いにあるだろう。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>はもっぱら目に見える特徴に限って“家族的”類似を主張したが、目に見えない特徴において本質が共有されているという可能性が見逃されている。</p>
<p>同様に、「芸術」概念に関しても、各芸術作品が家族的類似によって結びついているという主張や、芸術の本質に関する定義が不可能であるという主張は疑わしい。起源[origin]や使用[use]や意図[intention]に関する関係的性質こそが、あらゆる芸術作品をまたいで共有されている特徴であるかもしれないからだ。マンデルバウム自身はこの「関係的特徴」がなんなのかを探究していないが、その候補のひとつはディッキーが定義したような制度[institution]のシステムであろう(『分析美学基本論文集』参照)。</p>
<p> </p>
<p>続く第二節、第三節では、それぞれポール・ジフの主張とモリス・ワイツの主張に対する反論がなされる。</p>
<p><a href="https://d7hftxdivxxvm.cloudfront.net/?resize_to=width&src=https%3A%2F%2Fd32dm0rphc51dk.cloudfront.net%2FLoxctF3qoufxbEi5PLklFg%2Flarger.jpg&width=1200&quality=80" class="http-image"><img src="https://d7hftxdivxxvm.cloudfront.net/?resize_to=width&amp;src=https%3A%2F%2Fd32dm0rphc51dk.cloudfront.net%2FLoxctF3qoufxbEi5PLklFg%2Flarger.jpg&amp;width=1200&amp;quality=80" class="http-image" alt="https://d7hftxdivxxvm.cloudfront.net/?resize_to=width&src=https%3A%2F%2Fd32dm0rphc51dk.cloudfront.net%2FLoxctF3qoufxbEi5PLklFg%2Flarger.jpg&width=1200&quality=80" /></a></p>
<p>ジフは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%C3%A5%B5%A5%F3">プッサン</a>《サビにの女たちの略奪》の分析において、この絵画をとりまく言説には以下のものが含まれると整理した。</p>
<ol>
<li>「絵画である」</li>
<li>「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%C3%A5%B5%A5%F3">プッサン</a>がその能力を用いて描いた」</li>
<li>「画家はそれが見られ、鑑賞されるような場所に展示するよう意図した」</li>
<li>「見て鑑賞できるような場所に置かれている/置かれていた」</li>
<li>「しかじかの主題を表象[represent]している」</li>
<li>「しかじかの複合的な形式的構造を持っている」</li>
<li>「良い[good]絵画である」</li>
</ol>
<p>ジフによれば、これらの言説の間には結びつきがあったりなかったりする。例えば、絵画の良さ(7.)に関して、美術館などに置かれている(4.)ことや作者による能力の行使(2.)と関与的だが、なにを描いているか(5.)は良さと無関係だとされる。ジフの立場はどうも恣意的で問題含みだが、それはともかく重要なのは、この絵画の分析を通してジフがある特定の美学的立場に立っているという事実だ。例えば、表象内容は重要ではない、という主張は《サビにの女たちの略奪》のみに当てはまるものではなく、明らかに絵画一般における主張として読める。また、ジフの特徴づけには作者や鑑賞者や導入されており、この点でもなんらかの関係的性質が芸術の本質としてあるかもしれない、というマンデルバウムの見解をほのめかしている。ジフは一般的な美学理論を拒絶しているが、無自覚のうちに一般性にコミットしている。</p>
<p>ワイツは「芸術」概念が静的[static]なものではなく、開かれた概念[open concept]であるがゆえに、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%BC%C1%BC%E7%B5%C1">本質主義</a>的な定義はできないと考えた。芸術は、全く新しい形式が出てきては拡張され、変わった事例が出てくるたびに変容する。ゆえに、閉じられた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%CD%D7%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">必要十分条件</a>によって定義するのは不可能だし、それができると考えるのはばかげている。</p>
<p>だが、ワイツは新たな事例が出てくるたびに定義が揺るがされる、という主張に関してなんら根拠を示していない。「具象画」にはさまざまなもの(宗教画、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%C5%CA%AA">静物</a>画、etc.)があり、今後も見たことのない新規の事例が出現しうるが、このことは「具象画」に関する正確で十全な定義を妨げない。すなわち、新たに事例が出てきうるからといって、現段階で良い定義を与えることが絶対に不可能だ、ということにはならない。ワイツは芸術に関する閉じられた定義と、芸術において重要な新規性・創造性が両立不可能だと考えたが、マンデルバウムによればそんなことはない。ちゃんとした「芸術」の定義は、将来の芸術作品をもカバーしうる。</p>
<p>最後にマンデルバウムは、「芸術」概念の歴史的経緯を追うP・O・クリステラー[PaulKristeller]の論文「諸芸術の近代的体系」(1951, <a href="http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/08/16/215904">ナンバさんのレジュメ</a>)にも応答している。クリステラーによれば、絵画、彫刻、建築、音楽、詩の五つを主要な形式とする「芸術」概念は、実は18世紀の産物であり、それ以前には存在していなかった。マンデルバウムによれば、芸術の分類に関して歴史的変容が見られるとしても、これは一般志向の美学理論にとって障壁にはならない。</p>
<p> </p>
<h3>✂ 感想</h3>
<p>いつもながら「Xはもう死にましたので、議論は無益で〜す」というスタンスとは戦っていこうという気持ちなので、マンデルバウムの反-反<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%BC%C1%BC%E7%B5%C1">本質主義</a>には励まされた。一方で、慎重な反<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%BC%C1%BC%E7%B5%C1">本質主義</a>として取るべき態度に関しても学びがある(とりあえず、「家族的類似」みたいな<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%EF%A1%BC%A5%EF%A1%BC%A5%C9">パワーワード</a>を並べればいいわけではない)。</p>
<p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>詳しくないので、家族的類似に関する評価がどこまで妥当なのかはメタ評価しにくい。共有されているかもしれないのは顕示的性質だけじゃないという指摘はあまりにも「そりゃそうでは」感があるので、本当に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%C8%A5%B2%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">ウィトゲンシュタイン</a>がこれを見逃していたのか気になる。</p>
<p>あと、関係的な特徴を推しているという点では、マンデルバウムと同時期の反-反<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%BC%C1%BC%E7%B5%C1">本質主義</a>でありつつ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%BC%E7%B5%C1">形式主義</a>を推すモンロー・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>[Monroe Beardsley]との対立点があり、そのあたりも考えてみたい。</p>
<p> </p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-027ad133" name="f-027ad133" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">この論集の紹介を含む論文として、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%F8%B8%F7">利光</a>功「<a href="https://ci.nii.ac.jp/naid/110003714096">美学はわびしいか:分析美学の射程と限界</a>」(1994)がある。ネタとして有名な論文だが、ここで最終的にわびしいとdisられているのは、50, 60年代の一部界隈に限定された狭義の「分析美学」(マンデルバウムも相手取っているもの)だというのは一応留意しておく。今日「分析美学」と言ったときのキャロルやら<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C8%A5%F3">ウォルトン</a>やらレヴィンソンやらとはだいぶ時代もノリも違うので要注意。わびしいかどうかは知らない。</span></p>
</div>
psy22thou5
レジュメ|モンロー・ビアズリー「批評的理由の一般性について」(1962)
hatenablog://entry/26006613691028002
2021-02-13T14:29:08+09:00
2023-03-22T23:52:18+09:00 モンロー・ビアズリー「批評的理由の一般性について」(1962)のレジュメ|Beardsley, Monroe C. (1962). On the Generality of Critical Reasons. The Journal of Philosophy, 59(18):477-486.
<p><img src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/psy22thou5/20210607/20210607181118.png" alt="f:id:psy22thou5:20210607181118p:plain" title="" class="hatena-fotolife" itemprop="image" /></p>
<p>「<a href="https://www.senkiyohiro.com/research/aesthetics/chandoku">分析美学第一世代をちゃんと読む会</a>」(通称「ちゃん読[chandoku]」)という勉強会を始めました。最新のBJAやJAACをチェックして<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%C1%A5%D0%A5%C1">バチバチ</a>の論争に参加するのもいいですが、たまには腰を据えて古典でも読んでみようじゃないか、という趣旨の会です。マニア向けですがだいぶ勉強になる会なので、ブログでも活動報告をしていきます。</p>
<p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.pdcnet.org%2Fjphil%2Fcontent%2Fjphil_1962_0059_0018_0477_0486" title="On the Generality of Critical Reasons - Volume 59, Issue 18, August 1962" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe></p>
<p>第1回は、批評における理由付けの一般性を擁護するモンロー・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>論文を読みました。以下、私の切ったレジュメです。</p>
<p>次回(2月26日金曜19:30-)は本論文に対するフランク・シブリーの<a href="https://philpapers.org/rec/SIBGCA">反論</a>を読みます。だいたい隔週金曜の夜にZoomでやりますので、興味のある方は連絡ください。あと、これとは別に「<a href="https://www.senkiyohiro.com/research/depiction/depidoku">描写の哲学関連の文献を読む会</a>」もやっています。</p>
<ul class="table-of-contents">
<li><a href="#0批評的理由付けは可能か"> 0.批評的理由付けは可能か</a></li>
<li><a href="#1規準の一般性について">1.規準の一般性について</a></li>
<li><a href="#2一般規準説への反論と応答">2.一般規準説への反論と応答</a></li>
<li><a href="#3一次的規準と二次的規準">3.一次的規準と二次的規準</a></li>
</ul>
<h3 id="0批評的理由付けは可能か"> 0.批評的理由付けは可能か</h3>
<p>ある主張に理由を与えること=その主張を支持するために別の主張をすること。批評家は芸術に関する判断に理由を与えている</p>
<p>『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%A7%A5%A4%A5%AF%A5%B9%A5%D4%A5%A2">シェイクスピア</a>のハイフン』の作者曰く「ハイフンが多ければ多いほど偉大な詩である」。しかし、「この詩はしょぼい。ハイフンが足りないから」みたいなのはぜんぜん理由付けになっていない。<strong>批評に関する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>[Critical Skeptic]</strong>によれば、この意味での批評的判断の「理由」についてまったくありえないか、理由にはなっても説得力のある良い理由にはなりえない。</p>
<p>【例】詩人<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A1%BC%A5%BA%A5%EF%A1%BC%A5%B9">ワーズワース</a>[Wordsworth]による序文「読者がこれらの詩を賞賛してくれるように理由付けるなどという、利己的でばかげた望みはない」。>>>【応答】理由付けが利己的なのは確かかもしれないが、なぜばかげているのか。「賞賛」が単に「好むこと」を指しているなら、特定の詩を好きになってもらえるよう説得する[argued into liking]のはばかげているという<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>の主張ももっともである。しかし、理由付けの目的は、詩を好きになってもらうことではなく、<strong>その詩が良いということに気づいてもらう</strong>点にある。問題は、挙げられる理由がこのような目論見に役立つかどうかである。</p>
<p>クリーンス・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%EB%A5%C3%A5%AF%A5%B9">ブルックス</a>[Cleanth Brooks] (1947)によれば、「詩は、そこに込められた考えの真偽ではなく、一貫性[<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/coherence">coherence</a>]、感受性[sensitivity]、深み[depth]、豊かさ[richness]、意志の強さ[tough-mindedness]によって判断されるべきである」。例えば、批評家が「この詩はしょぼい。首尾一貫していないから」と述べるなら、これは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>に反し、明らかに「良い理由付け」と呼びうるではないか。</p>
<p>しかし、このようなケースを「良い理由付け」と呼ぶのは、<strong>単なる言葉の誤用</strong>だと応答されるかもしれない。「“良い理由付け”について正当な仕方で語れるのだとすれば、正当な例がいくつかあるに違いない」と仮定しても、批評における理由付けが(法的推論や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D1%CD%FD%B3%D8">倫理学</a>や核抑止に関する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%CD%FD%CF%C0">ゲーム理論</a>における理由付けとは異なり)どれひとつとして良い理由付けの例になっていない可能性がある。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>の主張をより細かく見ていく必要がある。</p>
<p> </p>
<h3 id="1規準の一般性について">1.規準の一般性について</h3>
<p>【<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>の主張】批評家は実際に価値判断をするし、ときには良い理由付けによってそれを適切に支える。理由として使われるのは作品の性質に関する記述的・解釈的命題(「この詩は一貫している」など)であり、こういった性質は<strong>価値の規準[criterion of <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/value">value</a>]</strong>とされる。参照される規準は、肯定的な判断を支持するならば利点[merits]であり、否定的な判断を支持するならば欠点[defects]である。例えば、批評家が「この詩はしょぼい。一貫していないから」と述べるなら、「一貫しないこと」は詩の欠点だとみなされている。批評の規準とは、作品を(より)良くしたり/(より)悪くするような特徴である。</p>
<p>一方、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>によれば、美的価値(詩や絵画や劇や音楽の良さないし悪さ)の規準は存在しない。ジョン・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%A3%A5%BA%A5%C0%A5%E0">ウィズダム</a>[John Wisdom] (1948)曰く、良い絵画に関する一般的な規則や規範を与えようとする言説はつまらない。</p>
<p>ある命題が別の命題を支持する理由になるなら、両者の間にはある種の論理的結びつきがなければならない。そして、論理的結びつきであるためには、一般的な概念を抽象的な仕方で関連付けなければならない。例えば、ある程度の鋭さを持つことがナイフにとっての利点であるならば、「あるナイフはある程度の鋭さを持つ」と述べることは、「良いナイフである」という結論をつねに支持するし、このことはあらゆるナイフに関して当てはまる。他に深刻な欠点があるかもしれないので、「良いナイフである」と証明するには満たないとしても、鋭さはつねにナイフの良さに貢献する。鋭さがナイフの欠点になることはないし、それ以外の点では全く同じナイフがあったときには鋭いほうがより良いナイフである。したがって、鋭さはナイフの<strong>一般的[general]</strong>利点となる。</p>
<p>この種の一般性が(論理的な意味での)理由付けにおいては重要である。そして、批評的規準が理由付けにおいて参照される特徴として定義されるならば、そういった規準も一般的だということになる。したがって、批評家の判断を支持する理由が存在することは、評価の一般的規準が存在することを伴う。これを<strong>一般的規準説[General Criterion Theory]</strong>と呼ぶことにする。</p>
<p>【<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>からの反論】<strong>ウィリアム・E・ケニック[William E. Kennick]</strong>「伝統的美学はそもそも間違っていたのか?」(1958):それだけで批評的評価を支持できるような、あらゆる芸術作品に当てはまる一般的規準はない。異なる作品は、異なる理由によって褒められたり貶されるし、ある絵画において褒められるべき理由が別の絵画においては貶されるべき理由になる。</p>
<p>【問い】批評的理由には、批評の原理を形成できるほどの、適用に関する一般性があるのか。もしないのだとすれば、①一般的な原理にコミットすることはないが、個別のケースに関しては理由付けができるか、②理由付けにはやはり一般性が大事なので、一般的規準がないのであれば批評的規準は(個別のケースにおいてすら)まったくない、ということになる。</p>
<p>ところで、他の哲学分野においても類比的な問題がふたつある。</p>
<ol class="ol1">
<li><strong>倫理的判断の普遍化可能性問題</strong>:例えば、約束に遅刻した人を非難するとき、我々は暗黙的な規準を普遍化しているのか。「関与的な点で同じ状況にある人物なら、誰であれ非難に値する」としても、循環することなく「関与的な点」の規準を与えることは難しい。肌の色は関与的じゃないだろうが、トラックに轢かれていることは関与的だろう。</li>
<li><strong>単一の因果的言明と一般的法則の関係についての問題</strong>:伝統的な見解によれば、単一の因果的言明「落としたせいで、水差しが割れた」は、(十全に定式化できるかはともかく)なんらかの普遍的法則「この種の水差しをこのような仕方で落とせば、つねに割れるだろう」を適用している。しかし、近年の見解によれば、我々はいかなる一般的法則にも頼ることなく、単一の因果的言明について知ることができる(歴史的説明など)(詳細には踏み込まない)。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>によれば、美的問題は、因果に関する問題の特殊ケースである。すなわち、ある芸術作品の美的良さは、ある種の望ましい性質を伴う経験を与える能力[capacity]から成り、この能力に対して貢献ないし妨害するような特徴が批評的評価の規準となる<a href="#f-3172611f" name="fn-3172611f" title="〔補足〕美的価値の能力定義[capacity-definition]というやつ。ビアズリーは「美的○○」の連鎖的定義をしている。ざっくり言えば、美的経験(美的満足/美的楽しみ)を与える能力を持つことが美的価値であり、美的価値を推し量ることが美的判断(美的評価/美的観点の適用)であり、美的価値を与えるよう意図されたものが芸術作品である、などなど。ここでは、美的経験を与える能力に寄与する特徴としてなんらかの規準が考えられており、その働きは因果的だとみなされている。">*1</a>。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は、このような規準が一般的であるがゆえに、個別作品の価値にも関与的だと主張したい。</li>
</ol>
<p> </p>
<h3 id="2一般規準説への反論と応答">2.一般規準説への反論と応答</h3>
<p>【一般的規準説への反論】「芸術作品は唯一無二である」:各芸術作品は、各ナイフや各タイプライターよりも高度の個別性を持っていそう。ゆえに、あらゆる芸術作品をまたいで望ましいとされる特徴はないように思われる。</p>
<p>しかし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>によれば、美的対象の真正なクラスは現に存在し、そのメンバーが共有する重要な性質もちゃんとある。道徳に関わる場面が多種多様にせよ、「勇気」がつねに徳となるのに変わりはない。</p>
<p>関連して、「優れた批評家とは、個別の作品に<strong>独特の[peculiar]</strong>長所に気づく者である」と言うが、「独特の長所」とはなんなのか。仮に、(A)既存の作品にはない長所を指しているであれば、多くの作品は独特の長所を持つと言えるだろうが、このことは一般的規準説と矛盾しない<a href="#f-344e46ac" name="fn-344e46ac" title="〔補足〕やや説明不足な気がするが、おそらく、作品ごとに固有の長所があったとしても、それはともかく、作品をまたいで良さに寄与する一般的特徴が(別に)あるかもしれない、という線での応答。">*2</a>。(B)目下の作品においては長所となるが、別の作品においては長所と<strong>なりえない</strong>性質を指しているのであれば、そもそも「独特の長所」なるものがあるとは思えない。</p>
<p> </p>
<p>ケニックの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>に戻る。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>によれば、ケニックの主張は四通りに区別できる。</p>
<p><strong>1)良さの必要ないし<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>となるような単一の特徴はないので、一般的規準説は間違っている。</strong></p>
<p>【応答】<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>的には、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>がないことには同意してもいいが、必要条件がないのは疑わしい。例えば、ある程度の一貫性[<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/coherence">coherence</a>]を持つことはそもそも詩であることの必要条件だし、さらに言えば良い詩であるための必要条件だと思われる。>>>【再反論】ある程度と言うが、良い詩であるために必要な一貫性の度合いは決まっていない。>>>【再応答】必要ないし<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>がないことは認めてもいい。だからといって一般的規準説が間違っていることにはならない。</p>
<p>一般的規準となる特徴が、しょぼい詩にあったり優れた詩に欠けていたとしても、依然として<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%A2%A4%EA%A4%B5">ありさ</a>えすればつねに利点であり、作品の良さを引き上げるような特徴</strong>であるかもしれない。高潔ではないが良い人はいるし、高潔だが悪い人もいるが、このことは「高潔さ」がそれ自体徳であることを妨げない。同様に、あらゆる良い詩が(Brooksの挙げた)「深み」を持つわけでも、「深み」を持てば必ず良い詩であるわけでもないにせよ、「深み」はやはり詩にとってつねに良いものだと言いうる。</p>
<p><strong>2)作品ごとに利点とされる特徴は異なるので、一般的規準説は間違っている。</strong></p>
<p>【応答】ある絵画は詩的優美さゆえに良く、別の絵画は英雄的力強さゆえに良いことは、「詩的優美さ」と「英雄的力強さ」が<strong>ともに</strong>絵画の良さにつながる特徴(一般的規準)だという事実と矛盾しない。勇敢ゆえに良い人や、感受的ゆえに良い人はいるが、勇敢かつ感受的ゆえに良い人は<strong>少ない</strong>のと同様、一枚の絵画においては<strong>両立しづらい</strong>というだけ。Brooksの挙げる「感受性」においては優れても「意思の強さ」においては劣った詩がありうる。</p>
<p><strong>3)一部の作品にとっては利点だが、別の作品においてはまったく利点ではない性質(例えば「写実的である」)があるので、一般規準説は間違っている。</strong></p>
<p>【応答】作品にはさまざまな性質があるが、そのなかにはそれ自体として価値に寄与するものもあれば、他の性質との<strong>組み合わせ</strong>によってのみ価値に寄与するものもある。パンがなければバターはいらないし、バターがなければパンはいらないみたいに、<strong>連合[association]</strong>によってのみ望ましい性質の組がある<a href="#f-71d7bd00" name="fn-71d7bd00" title="〔コメント〕ふと補完財の無差別曲線を連想したが、ビアズリーはこの連合ケースをどういう価値曲線で考えているんだろうか。ある性質xとyが連合的にのみ価値を引き上げるとして、ともに一定以上ある前提で、①xだけを引き上げても全体の価値は増すのか、②xとyを同時に引き上げる場合のみ価値が増すのか。普通にケースバイケースとは思うが、なんとなく①で考えている気がする。ここでの応答としてはどちらでもいいんですが、念頭に置いていたのはどっちだったんだろう、という話。">*3</a>。要は、バターが望ましいかどうかは、場合による(パンがあるならあったほうがいいし、パンがなければいらない)。</p>
<p>ある性質xがある詩において利点であるのは、その詩の他の性質yとの連合による良さかもしれず、性質yを持たない別の作品においては、性質xは中立かもしれない。汚い言葉がいっぱい出てくることが利点となるか中立かはケースバイケース。</p>
<p> </p>
<h3 id="3一次的規準と二次的規準">3.一次的規準と二次的規準</h3>
<p><strong>4)一部の作品にとっては利点だが、別の作品においては欠点である性質(例えば「ちょっとしたユーモアがある」)があるので、一般規準説は間違っている。</strong></p>
<p>【応答】従属的[subordinate]な規準がある。ちょっとしたユーモアは、ある作品においてははりつめた緊張感を高めるがゆえに利点であり、別の作品では緊張感を台無しにするので欠点である。ここで、ちょっとしたユーモアは一般的利点でないかもしれないが、かわりに「はりつめた緊張感」が一般的利点となる。ともかく、一般的規準説の擁護者はより一般的で基礎的な規準を挙げることで、容易に応答できる。</p>
<p>批評的規準はふたつの等級に区別できる。</p>
<ul class="ul1">
<li>性質A/B/Cに関して、どれかを減らすことなくいずれかを加えたり増やすことが、つねに作品をより良くする場合、これらは美的価値の<strong>「一次的(肯定的)規準[primary (positive) criteria]」</strong>である<a href="#f-bc8d9bc0" name="fn-bc8d9bc0" title="ディッキー (1987)によれば、ビアズリーによる一次的基準の定義は、一次的基準同士の相互作用を排除していないので、結局ビアズリーの要請する独立的な一般性は満たせない。個人的には「どれかを減らすことなく」という条件で予防できている気もするが。">*4</a>。</li>
<li>ある性質Xに関して、一連の別の性質が存在するとき、Xを加えたり増やすことが、つねに一次的規準のどれかないし複数を増加させる場合、性質Xは美的価値の<strong>「二次的(肯定的)規準[secondary (positive) criterion]」</strong>である。</li>
</ul>
<p>いずれにおいても重要なのは「つねに[always]」という部分であり、どちらも一般的規準として定義されている<a href="#f-7ddf7c39" name="fn-7ddf7c39" title="〔コメント〕二次的基準の定義がゆるすぎる気がする。一次的規準がただひとつしかないにせよ、相互作用によってこれをもたらす組み合わせは(無限とは言わずとも)かなり多いはずなので、二次的規準もかなり多いことになってしまう。例えば、任意の色は、描かれているものとの組み合わせ次第で「統合性」をもたらすのでは(だとしても、あらゆる色性質が二次的基準だというのは明らかにおかしい)。">*5</a>。ただし、二次的規準は従属的かつ条件的[conditional]であり、例えば「優雅な変奏」が様式的な欠点となるのは、ごく一部の文脈のみである〔この例が謎〕。これに対して、一次的規準は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%A2%A4%EA%A4%B5">ありさ</a>えすればつねに価値を引き上げるし、ある一次的規準がないことは(他の利点で補いうるとしても)つねに欠陥である。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>はポール・ジフ[Paul Ziff] (1958)の説明「良い絵画の中には無秩序なものもあるが、それは無秩序<strong>にもかかわらず</strong>良いのであって、無秩序<strong>ゆえに</strong>良い絵画は存在しないし、多くの絵画は無秩序<strong>ゆえに</strong>悪い」に同意している。ゆえに、厳密な意味での「無秩序である」は、一次的(否定的)規準であるとする<a href="#f-9ec4e967" name="fn-9ec4e967" title="ここでは「無秩序」が否定的な一次的規準だと示唆されているが、『美学』などを踏まえると、ビアズリーが推している肯定的な一次的規準は「統合性[unity]」「複雑性[complexity]」「強度[intensity]」の三つになる。シブリー (1983)は、この一次的基準を探す作業いらんのでは?という立場。
〔コメント〕シブリーは、「優美な」といった性質(ビアズリーが二次的基準にくくったものの一部)は、相互作用しつつも美的極性においてポジティブな性質なので、これを一次的基準と呼ばない理由はないと考える。個人的には、シブリーの「相互作用次第で欠点にも利点にもなるが、それ自体の極性としてはポジティブ」という理屈がもうひとつ分かっていない。シブリーは「ダジャレの多い」は極性として中立だが、「ユーモアのある」は極性としてポジティブだとするが、正確に言ってどういう振り分けなのか(直感的にそう“思われる”以上の根拠はあるのだろうか)。
〔全体コメント〕ビアズリーにおける記述と規範の兼ね合いが気になった。ポジション的には芸術批評の記述を目指した論者として認識しているが、規範的だと考えたほうが理解しやすい主張が多い+デューイらプラグマティストのフォロワーという側面もあり、正確なモチベーションが気になる。">*6</a>。</p>
<p> </p>
<p> </p><div class="footnote">
<p class="footnote"><a href="#fn-3172611f" name="f-3172611f" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">〔補足〕美的価値の能力定義[capacity-definition]というやつ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>は「美的○○」の連鎖的定義をしている。ざっくり言えば、美的経験(美的満足/美的楽しみ)を与える能力を持つことが美的価値であり、美的価値を推し量ることが美的判断(美的評価/美的観点の適用)であり、美的価値を与えるよう意図されたものが芸術作品である、などなど。ここでは、美的経験を与える能力に寄与する特徴としてなんらかの規準が考えられており、その働きは因果的だとみなされている。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-344e46ac" name="f-344e46ac" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">〔補足〕やや説明不足な気がするが、おそらく、作品ごとに固有の長所があったとしても、それはともかく、作品をまたいで良さに寄与する一般的特徴が(別に)あるかもしれない、という線での応答。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-71d7bd00" name="f-71d7bd00" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">〔コメント〕ふと補完財の無差別曲線を連想したが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>はこの連合ケースをどういう価値曲線で考えているんだろうか。ある性質xとyが連合的にのみ価値を引き上げるとして、ともに一定以上ある前提で、①xだけを引き上げても全体の価値は増すのか、②xとyを同時に引き上げる場合のみ価値が増すのか。普通にケースバイケースとは思うが、なんとなく①で考えている気がする。ここでの応答としてはどちらでもいいんですが、念頭に置いていたのはどっちだったんだろう、という話。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-bc8d9bc0" name="f-bc8d9bc0" class="footnote-number">*4</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text"><a href="https://philpapers.org/rec/DICBSA">ディッキー (1987)</a>によれば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>による一次的基準の定義は、一次的基準同士の相互作用を排除していないので、結局<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>の要請する独立的な一般性は満たせない。個人的には「どれかを減らすことなく」という条件で予防できている気もするが。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-7ddf7c39" name="f-7ddf7c39" class="footnote-number">*5</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">〔コメント〕二次的基準の定義がゆるすぎる気がする。一次的規準がただひとつしかないにせよ、相互作用によってこれをもたらす組み合わせは(無限とは言わずとも)かなり多いはずなので、二次的規準もかなり多いことになってしまう。例えば、任意の色は、描かれているものとの組み合わせ次第で「統合性」をもたらすのでは(だとしても、あらゆる色性質が二次的基準だというのは明らかにおかしい)。</span></p>
<p class="footnote"><a href="#fn-9ec4e967" name="f-9ec4e967" class="footnote-number">*6</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">ここでは「無秩序」が否定的な一次的規準だと示唆されているが、『美学』などを踏まえると、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>が推している肯定的な一次的規準は「統合性[unity]」「複雑性[complexity]」「強度[intensity]」の三つになる。シブリー (1983)は、この一次的基準を探す作業いらんのでは?という立場。</p>
<p>〔コメント〕シブリーは、「優美な」といった性質(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>が二次的基準にくくったものの一部)は、相互作用しつつも美的極性においてポジティブな性質なので、これを一次的基準と呼ばない理由はないと考える。個人的には、シブリーの「相互作用次第で欠点にも利点にもなるが、それ自体の極性としてはポジティブ」という理屈がもうひとつ分かっていない。シブリーは「ダジャレの多い」は極性として中立だが、「ユーモアのある」は極性としてポジティブだとするが、正確に言ってどういう振り分けなのか(直感的にそう“思われる”以上の根拠はあるのだろうか)。</p>
<p>〔全体コメント〕<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%A2%A5%BA%A5%EA%A1%BC">ビアズリー</a>における記述と規範の兼ね合いが気になった。ポジション的には芸術批評の記述を目指した論者として認識しているが、規範的だと考えたほうが理解しやすい主張が多い+デューイらプラグ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%B9">マティス</a>トのフォロワーという側面もあり、正確なモチベーションが気になる。</span></p>
</div>
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