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さて、本日の話題は音楽作品の存在論。「音楽作品って、どういう特徴を持っているの?」「音楽作品の身分って、なんぞや」みたいな疑問に答えていく分野。
芸術作品の存在論をやっている人たちは、だいたい音楽作品を主題に扱っている印象。やはり、その特異な立ち位置に惹かれるのだろうか……。
本日の目次〜!
音楽作品の特徴/我々の直観
音楽作品の存在論的カテゴリー
「タイプ説」―メリット/デメリット
ジェラルド・レヴィンソン「指し示されたタイプ(Indicated Type)」説
ジュリアン・ドッド「曖昧なタイプ (Vague Type)」説
音楽作品の特徴/我々の直感
「音楽作品って、どういう特徴を持っているの?」
まずは我々の実践/直観に沿った、音楽作品の特徴を挙げてみる。このような記述的な作業から、音楽の哲学は始まるのだ。
- 反復可能性:同一の作品が、演奏や音源の再生を通して、異なる場所/異なる時間に反復される。絵画や彫刻のように、唯一のオリジナルが存在するわけじゃない。
- 聴取可能性:個別の演奏を聞くことによって、作品そのものにアクセスできる。「高校生バンドのカバーした<天体観測>」であっても、一応は<天体観測>を聞いたことになる。
- 創造可能性:音楽作品は作者によって創造される。作者の創造行為によって、それまで存在していなかった作品が、存在するようになる。
- 空間的部分を持たない:音楽は物理的なものではなく、絵画や彫刻のように触れられるものではない。
- 多様さの許容:ミスや失敗を含む演奏であっても、その作品の演奏であることが許される。最後に1フレーズ足しただけで、<天体観測>が<天体観測2>になるわけじゃない。
ひとまずこの5つの条件を出発点とする。次に、音楽作品にふさわしい存在論的カテゴリーを考える中で、各論者は「1.と2.をうまく説明できる」とか「3.は説明できないが、そもそも3.の条件はいらないよね」みたいな作業を行っていく。
音楽作品の存在論的カテゴリー
「音楽作品の身分って、なんぞや」
大きくわけて2つの派閥がある。
①「タイプ説」:
・普遍的な音楽作品としてのタイプと、個々の演奏としてのトークンを想定。
・タイプとトークンが持つ例化関係を、音楽作品と個々の演奏にも当てはめる。
-Nicholas Wolterstorff, “Toward an ontology of art works”, (1975)
-Jerrold Levinson, “What a musical work is”, (1980)
-Gregory Currie, “An ontology of art”, (1989)
-Peter Kivy, “The fine art of repetition: Essays in the philosophy of music”, (1993)
-Julian Dodd, “Musical works as eternal types”, (2000)
②「唯名論」:
・普遍的な音楽作品としてのタイプを認めない。
・主に「1.反復可能性」を否定することによって、存在するのは個々の演奏だけだと主張する。
-Nelson Goodman, “Languages of art: An approach to a theory of symbols”, (1968/1976)
-Ben Caplan & Carl Matheson, “Defending musical perdurantism”, (2006)
これまた普遍論争の実在論vs唯名論にそれぞれ対応している。両者にはそれぞれメリット/デメリットがある。
ここでは②「唯名論」は扱わない。「あらゆる演奏はその場限りの個別的なものであり、反復可能性や聴取可能性は幻想だ」という主張は、個人的にどうでもいいあまり魅力的ではない。例えば、ネルソン・グッドマンは『芸術の言語』で「一音でも違えば、それはもう別の曲だよ」と開き直るが、そんな逃げソリューションは端的に言ってダサい美しくない。
まぁ好みの問題だが、ひとまず②「唯名論」は別稿に譲るとして、ここでは①「タイプ説」のメリット/デメリットを見ていく。
その前に、タイプ説をもう少し詳細に確認しよう。
「タイプ説」
詳細は不明だが、多分Wollheimらが提出していた初期のタイプ説が持つ特徴をまとめる。間違ってたらごめん、Wollheim。
■「タイプ=音構造説」:
- 音楽作品は、楽譜によって表される通り、特定の音楽的構造を持つ。
- すなわち、「この音のあとにこの音が続く」みたいな構造によって全体が構成されている。
- 作曲家が創造しているのは、この音構造=タイプにほかならない。
- 同じ音構造=タイプを有しているがゆえに、複数の演奏トークンは同一の作品タイプに属するのだ。
- 音構造は確定的性質(definitive property)であり、トークンはこれを満たさなければならない。
「タイプ説」のメリット/デメリット
■メリット
- 「1.反復可能性」を説明できる:数的に一である作品タイプを例化することで、数的に多である演奏トークンが生じうる。
- 「2.聴取可能性」を説明できる:演奏トークンを聞くことは、すなわちそれが例化する作品タイプを聞くことである。直接的ではないが、間接的に作品へとアクセスできる。
- 普遍者である作品タイプは抽象的存在者であるため、「4.空間的部分を持たない」も説明できる。
■デメリット(とりわけ、「タイプ=音構造説」に関するもの)
□(問題A)-「5.多様さの許容」を説明できない:
- タイプを「音構造」と同一視するのであれば、ミスや失敗を含む演奏トークンは「異なる音構造を持つ」のであり、「別の作品」になってしまうのではないか。
- 極端な話、あらゆる演奏はちょっとずつ違っているので、全部違う作品、ってことにならんか?
- (ex.高校の管弦楽部が演奏した《運命》は、たくさんのミスや失敗を含むので、もはやベートーヴェンの《運命》”ではない”)
□(問題B)-「3.創造可能性」を説明できない:
- 普遍者である作品タイプは抽象的存在者であるため、その性格上「常に存在していなければならない」。
- 音構造自体は、作曲家がいなくても原理的に存在可能。
- (ex.《「ミミファソソファミレ」という音構造は、ベートーヴェンが《第九交響曲》を作曲しなくても存在可能であり、ベートーヴェンの生誕前から存在しているはず)
タイプ説の目標とは、上記のメリットを引き継いだまま、デメリットを補うために「タイプ=音構造説」を乗り越えることである。
ここからタイプ説はいくつかの主張に分岐してゆく。同じタイプ説でも、様々なバリエーションが生まれてくるのだ。
さて、タイプ説にとって採りうる戦略は二通りある。
■(戦略1)-開き直る:「5.多様さの許容」が説明できない、「3.創造可能性」が説明できない、だからどうした?と開き直る。そもそも「創造されること」「多様さを許すこと」は音楽作品であるための必要条件じゃないんや!といって、条件そのものを棄却する。
■(戦略2)-説明する:いやいや、タイプ説なら「5.多様さの許容」も「3.創造可能性」も説明できますけど?といって、そのための道筋を提出する。
例えば、問題Aに対して開き直るなら「多様さの許容なんて必要ないんや!ちょっとでも異なる演奏は、もう別の作品なのじゃ!」といえる。これは唯名論にちょっとだけ接近する主張でもある。
ここでは代表的な主張として、ジェラルド・レヴィンソン(Jerrold Levinson)の「指し示されたタイプ」説と、ジュリアン・ドッド(Julian Dodd)の「曖昧なタイプ」説を概観しよう。
ジェラルド・レヴィンソン「指し示されたタイプ(Indicated Type)」説
レヴィンソンによれば、音楽作品タイプとは「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造 (S/PM structure-as-indicated-by-X-at-t)」である。
まずはこのわけわからん呪文を無視して、外堀から埋めよう。
■(問題A)への説明:タイプは単なる音構造じゃないし、ミスも許されるよ
レヴィンソンは勇敢なので、あろうことか新たな条件「6.文脈依存性」を提出する。音楽作品は、それが作曲された「音楽的―歴史的文脈」に依存し、文脈が異なる作品は異なる作品だ、という。ボルヘスの有名な「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」問題に則るならば、セルバンテスが17世紀に書いた『ドン・キホーテ』と、ピエール・メナールが20世紀に書いた『ドン・キホーテ』は(たとえ全く同じテクスト構造を持っていたとしても)、文脈が異なるので異なる作品だ、ということになる。
根拠となるのは、美的性質・芸術的性質の違い。異なる時代に書かれた2つのテクストが、(文学史的評価などによって)それぞれ異なる性質を付与されるのは自明。よって、異なる性質を有する両者は同一とは言えない。
同様に音楽作品もまた、音構造だけでなく文脈に依存する。こうしてレヴィンソンは「タイプ=(単なる)音構造説」を棄却するのだ。
音楽作品は単なる音構造じゃない。それは「6.文脈依存性」によって、一見するとよりカッチリした規定になるように思える。「5.多様性の許容」からは遠ざかる一方ではないか。肝心なのは「音構造ではない」ということ以上に、「多様性が認められる」のはなぜか、という問題であったはずだ。
どうやらこれについてレヴィンソンは、ドッドのところで後述するWolterstorffの「規範タイプ」説に同意を示しているらしい。(もっとも、レヴィンソンはWolterstorffから影響されたJames Anderson(1985)を引いているが)。なので、これは後回しにしよう。
レヴィンソンに関して興味深いのは、しかし、タイプは依然としてある種の音構造なのだ、と考える点だ。
■(問題A)への開き直り:作品はやっぱ、ある意味で音構造だわ
レヴィンソンの「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」とは、「時点」と「作者」に依存する音構造のことである。例えば、僕が今日「《天体観測》と全く同じ音構造を持つ曲」を作曲したとしても、それは「今日-セン-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」なのであり、BUMP OF CHICKENの《天体観測》”ではない”。
しかし、僕がそれを演奏するならば、それは「2001年に-藤原基央-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」という規範タイプ(後述)を志向するという点で、僕の演奏トークンは作品タイプ《天体観測》に属する。
レヴィンソンは、音楽作品が何かしらの点で「構造的」であることは否定しない。ただ、それを単なる楽譜的/数学的データとしてみなす「単なる音構造」ではなく、「指し示された構造」なのだ。
やはり重要になってくるのは、そんな「指し示された構造」が多数の個別例を生み出しうるのはなぜか、という問題だ。文脈を含むカッチリとした規定だったら、なおさら例化は難しいんじゃないか?
先を急ぎたいところだが、まずはレヴィンソンによるもう一つの説明を見ちゃおう。
■(問題B)への説明:創造行為、できてますけど?
音楽作品タイプを「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」とみなすことで、「3.創造可能性」に関する問題Aも解消できる。
というのも、Xの作曲行為によって(αが創造されたとは言えないにしても)、「Xによって指し示されたα」が創造されたのは明白だからだ。
「α」というタイプ=音構造自体は、作曲行為以前にも存在していたかもしれない。しかし、「t時に」「Xによって」という文脈に依存した存在者は、少なくとも作曲行為以前には存在していなかった。作曲家が、これを創造したのだ。
すなわち、ベートーヴェンが19世紀に作曲したのは「《運命》の音構造」ではなく、「19世紀のある時点において-ベートーヴェン-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」なのだ。
作曲家は、それまで世界に存在していなかったものを、創造によって存在させた。だから、偉い。
ジュリアン・ドッド「曖昧なタイプ (Vague Type)」説
ドッドにとって、音楽作品とはそもそも曖昧な存在者である。
■(問題A)への説明:タイプは規範種なんや。
「タイプ=音構造説」では、もとの音構造とかっちり同じ構造を持つ、すなわち必要な確定的性質のすべてを満たすトークンだけが、そのタイプに属することになっていた。ここでは、ミスや失敗が許されない。
これに対し、ドッドは「曖昧なタイプ」を提案する。そこでは、必要十分条件であっても、曖昧なものとして扱われる。
ドッドが援用するWolterstorffによれば、音楽作品とは「規範タイプ(norm-type)」である。規範タイプはいくつかの規範的性質を持ち、トークンにたいしてそれらを満たすことを要求する。しかし、規範的性質は確定的性質とは異なり、トークンがそれを適切に満たしていないからといって、「そのタイプに属さない」ことにはならない。なぜなら、必要十分条件のように見える性質であっても、その内実は「あればいいけど、なくてもいい」という曖昧なものだからだ。ミスや失敗を含む演奏トークンは、単に「不適切に形成されたトークン」なのだ。ある意味で、トークンはこれらの曖昧な必要十分条件P1…Pnを、”全て満たす”と言える。要は、「適切に満たしている」か「不適切に満たしている」の二通りしかないのだ。
音楽作品を規範タイプとみなすことによって、正しく形成された演奏トークンも、不適切に形成された演奏トークンも、ある程度の類似性さえあれば、ひととまず”同一の”音楽作品として認められる。この類似性がどの程度のものかは、また別の問題。
こうして、ドッドは「5.多様性の許容」に関する問題Aを解決する。要するに、音楽作品とはもともと曖昧なのだ。レヴィンソンもざっくり、同じ立場をとっている
■(問題B)への開き直り:「創造じゃねぇ、発見だ!」
「3.創造可能性」に関する問題Bに対し、ドッドの「曖昧なタイプ説」は、「そもそも我々は作品の創造を行っていない」と返答する。これは、ラディカルかつ修正的な観点である。いかに反直観的であろうとも、「ベートーヴェンは《運命》を”創造していない”」のだ。
作曲家は作品を「創造」を行っているのではない。作品を「発見」しているのだ。
ニュートンが重力を発見したように、ベートーヴェンは《運命》を発見したのだ。重力も《運命》も、それ自体はニュートンやベートーヴェンの生誕以前から存在していた。
では創造行為の持っていた「創造性 (creativity)」はどこへ行ったのか、という新たな問題に対し、ドッドは「発見であっても、十分に創造的(creative)だぜ」という。発見行為において、作曲家は十分に想像力を発揮させる必要がある。たとえ新たな存在者を創造したわけではないにせよ、そのような想像力の発揮において、作曲家は創造的なのだ。だから、偉い。
こうやって見ると、レヴィンソンとドッドの大きな違いは、「3.創造可能性」をいかに説明するか(ないし開き直るか)にあると思われる。
「普遍的な抽象的存在を創造するのは無理じゃね?」という疑問に対し、レヴィンソンは「いや、ほら、t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造を創造してんじゃん」と説明し、ドッドは「創造してないよ。発見してるだけ」と開き直る。
どっちがお好みかは、あなたしだい。
補足
タイプ説が直面する問題は他にもある。
例えば、「2.聴取可能性」に対してタイプ説は、トークンを経由することで間接的にアクセスできると説明するが、これはナイーヴすぎるのではないか、という問題がある。タイプが抽象的存在者である限り、それはハイデガー的に退隠し続け、あらゆるアクセスを拒絶する可能性がある。タイプという抽象的存在者を認めることで、むしろ「音楽作品それ自体にアクセスできない」という事態になりかねない。
この問題に対して、ドッドはクワインの「延長直示」を援用し、いろいろ難しい理論をこねくり回している。これについては勉強不足なのでまた今度。
「指し示されたタイプ説」と「曖昧なタイプ説」にも、それぞれ批判がなされている。
前者に対しては、「指し示す行為が創造的であるのは、どの時点やねん」といった疑問とか。
後者に対しては、タイプを曖昧なものとみなすなら、それを例化する複数のトークンが「これっぽっちも似ていない」という事態は十分にありえる。これをどうするべきか。
また、タイプ説の論者同士でも、解決策に対して常に合意が得られるわけではない。たとえばドッドは、レヴィンソンの呪文について「存在論的に疑わしい」とおっしゃっている。これに対してレヴィンソンは「疑わしくても、そういうもんなんだからしょうがなくね?」と返答する。これはもう美的価値観の違いだ。
見えないものを見ようとしてェ!
感想&コメント
本当は最初に書くべきだったが、これらの議論の大前提となっているのは、ここで想定されている音楽が西洋クラシック音楽に限定されているということだ。よって、ロックやジャズなど20世紀以降の誕生するポピュラー音楽に対しては、別の議論が必要になる。
僕が専門的に扱っているのはポピュラー音楽なので、このような限定はまさに残念至極である。とはいえ、これをポピュラー音楽に応用するのは、それほど難しくないだろう。いつかやってみたい。
個人的にはドッドの方に説得力を感じる。とりわけ、「創造」を「発見」で置き換えるのは、修正的だが魅力的な主張のように思う。あらゆる時点において存在する普遍的なタイプを認める立場は、時間の哲学における永久主義にも通ずる。この辺は、あらためて論じたい。
レヴィンソンの「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」は、随所でディスられているとおり、「実践に適合させるためにしつらえた、その場しのぎの存在論的カテゴリー」であり、端的に言って美しくない。レヴィンソンはあまりにも、直観/実践に追従した論者、といった印象。こんなこと言ったら、分析系の人たちだいたい敵に回しそうだが……。
ただ、どちらも作品タイプの必要十分条件を規範的なものとみなそうとするのは、あまり……ってかんじ。それだと、なんでもありになっちゃうんじゃね?というのが正直なところ。
今回も面白かった。
音楽作品の存在論は、近頃ちょっと盛り上がってるみたいだが、上で見たとおりオーソドックスな普遍論争の延長線上みたいなところがある。性質に関する実在論、D.M.アームストロング周辺の議論も、親和性がありそう。また、創造行為に関して「作者の意図」を取り上げる論者もいるのも、批評の哲学専門家としては見逃せないぜ。to be continued…………。
最後に、単に個人的なアイデアをちょっとだけ書いておく。
- ドッドは「創作」の代わりに「発見」という行為を取り上げるが、一方で「未発見」のものはどのような存在論的身分をもつのか。
- 唯名論への目配せをするならば、「未発見」は「未命名」によって置き換えられるべき。ここでは、未だ名前を与えられていないものが持つ、「未名性 (unnamed)」に着目する。これは単に名前を持たない「無名性 (nameless)」とは区別される。
- 命名行為は、単に実行するだけでは不十分。そこには慣習などの文脈も関与的。
- 架空の生物「サルメバ」。創造行為の恣意性。クトゥルフ神話とヘンリー・ダーガー。
- 因果的つながりのない2つのオブジェクトが、まったくの偶然によって完全に一致する場合、「それらは同じものか?」。シンクロニシティの哲学。
- 未名性を担保するための、時間の哲学。永久主義と四次元主義。”あらゆる”ものは時間的部分をもつ。
- 世界は未名のオブジェクトで敷き詰められている。メレオロジー的ユニヴァーサリズム。
[*注]
完全に無視してきたが、演奏手段というのもレヴィンソンにとって重要なファクターである。これは「タイプ=音構造説」を否定する材料でもある。
レヴィンソンいわく「ヴァイオリンで弾かれるのを想定されて書かれた曲を、チェロで弾いたら、それもう別の曲」とのこと。レヴィンソンはかなりの楽器主義者らしく、「いくらシンセサイザーで似せた音を出しても、それがヴァイオリンの代わりになることはありえない」と主張しているらしい。
らしい、というのは僕自身このあたりよくわからないからだ。先日参加させていただいた勉強会でレヴィンソンの”Sound, Gesture, Space, and the Expression of Emotion in Music”という論文を読んだが、そこでは「音楽の聴取および鑑賞においては、音を発する楽器構造についての想像力の行使が不可欠である」的なことが書かれていた。なんかよくわからんが、そういうことらしい。
ひとまずこの主張はシカトしちゃった。要勉強。
[参考文献]
田邉健太郎「分析美学における音楽の存在論は何をどのように論じているのか」
田邉健太郎「「指し示されたタイプ」的存在者としての音楽作品:ジェラルド・レヴィンソンの音楽作品の存在論に関する一考察」
田邉健太郎「ジュリアン・ドッドの音楽作品の存在論を再検討する」
西條玲奈「芸術作品の存在論における曖昧なタイプ説の批判的検討」
西條玲奈「反復可能な芸術作品の存在論におけるまばらなメレオロジー唯名論」(⬅西條さんの博論。未読。唯名論の立場から音楽作品の存在論を試みたものらしい)