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インターネットと美学研究

さらば人間の不在、 あばよモノたちの世界



思弁的実在論
について考えている。

先日、大学の生協書籍部に立ち寄ったら、面白い光景に出会った。グレアム・ハーマン『四方対象』が、なぜか「分析哲学」の棚に陳列されていたのだ。

さては、英語圏でポップな思想を展開しているというので、担当者が誤解したのだろう。しかし、まったくの見当違いというわけでもなさそうだ。事実、僕も卒論でハーマンの議論を取り上げた際に、彼を分析哲学の一派だと勘違いしていた節がある。「大陸系↔分析系」のカテゴライズは、当然ながら論者の出身地では行えない。

加えて、カンタン・メイヤスー『有限性の後で』英語圏に与えたインパクトを考えると、SR一派はそもそも「大陸系↔分析系」の区分とは無縁な運動のようにも思える。ハーマンは、「大陸系」も「分析系」も「両者の架け橋たらんとする系」も、全部まとめてぶん殴っている……。


そんなわけで、ちょっと前から『四方対象』を分析哲学的な用語でリミックスする論文を構想していた。ハーマンのオブジェクト指向存在論を分析美学の議論に落とし込むことには、一定の意義があると思ったのだ。しかし、これは構想段階ではやくも頓挫した。

理由は明快で、①やる気がなかった②力量がなかった、のに加えて③無理だと思った、からだ。①②はともかく、今日は③の話がしたい。


初めて思弁的実在論というクスリに手を出してしまったのは、約1年前。学部の卒論でVaporwaveについて調べていた際、その関連で論じられているのを目にした。

そもそも哲学徒ではなかった僕にとっては、どう考えても敷居が高かったが、そもそも哲学徒ではなかった僕は気軽に手を出してしまった。現在に至る。

いずれにせよ僕の思想的なスタート地点はSRだった。どうやら彼らがカント以降の超越論的思想群を「相関主義」「アクセスの哲学」と呼んで問題視しているらしいことがわかると、僕にもこれがすごい大問題なように思えてきた。いまでも根っこのところは変わらない。人間、本来なにを問題視しようと、どの陣営に属そうと構わないはずなのに、こういうところはバッチリ影響されている。


わけあって、現在は分析哲学を看板に掲げているが、この分野の方法的困難についてたびたび考えてしまうのも、SRの影響を多分に受けている。ただ、もう前ほどSRフリークではなくなったと思う。

だから、これは僕がなぜ「思弁的実在論の陣営から分析哲学ディスる」ことをやめて、「分析哲学の陣営から思弁的実在論ディスる」ようになったのか、についての自省とも言える。これは日記であり、ブログの本来あるべき姿だ。


さて、僕はなぜ「分析哲学の陣営から思弁的実在論ディスる」ようになったのか。ずいぶん遅くなったが、次にSRのポイントを羅列する。これは全世界的に見ても、最も荒削りでミニマルなリストだろう。短所は物事を単純化しすぎるところです。それと、あまり協調性がない。




1.背景

  • 思弁的実在論運動は2007年にロンドン大学で行われたカンファレンスに始まる。参加者はカンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント。
  • 参加した連中は、昨今の哲学に対して共通の問題意識を持っていたが、それに対する解決案については各自別々。後にケンカ別れしたケースも。


2.論敵:相関主義、アクセスの哲学

  • その問題意識とは「カント以降の哲学って、風通し悪くね??」の一言に尽きる。カントは世界を、「実在する事物=見えてない裏の面」と「人間による観念=見えている表の面」に区分し、「前者について考えるのは無理だから、後者について考えれば?」と言ったそう。
  • メイヤスーはそれを「相関主義」と呼び、ハーマンは「アクセスの哲学」と呼んだ。
  • 人間の認識とは無関係な、事物それ自体の記述を目指す。脱人間中心主義と、実在への接近。


3.主張A:カンタン・メイヤスー「思弁的唯物論

  • メイヤスーは「相関主義」についてひとまず諦める。人間であるからには、相関を通して世界にアクセスするしかない。
  • しかしだからといって、「実在する事物」あるいは「世界それ自体」を認識できていないわけではないと論じる。我々は「世界それ自体」を認識できている。
  • 「世界はそもそも非理由であり、必然性はない」。そういうものだと理解すれば、「見えているものの背後になにか隠れているのでは」と懐疑的になる必要はなくなる。裏なんてなかったんや。
  • すなわち、「いつ何時、突発的/偶然的に変化してもおかしくない世界(表=裏)」を、我々は常日頃から認識しているのだ。
  • 脱人間中心主義を諦め、実在へと接近する。

4.主張B:グレアム・ハーマン「オブジェクト指向存在論

  • ハーマンは「アクセスの哲学」をそもそも相手にしない。不可能性だとか、有限性だとか言う前に、我々は素朴に対象(=オブジェクト)を認識できているはず。ハーマンはそのような直観から出発する。
  • オブジェクトがそれ自体として実在的なのは、ハーマンにとって自明。その上で彼が証明すべきなのは次の二点。すなわち①オブジェクトはどのような様相でもって存在しているのか、②オブジェクト同士が関係するというのはいかにして可能か。
  • ①ハーマンによると、オブジェクトは決して触れられない「実在的オブジェクト」であり、かつ他者から志向される限りにおける「感覚的オブジェクト」でもある。これに2タイプの性質が加わる。
  • ②「代替因果」:「感覚的オブジェクト」を経由することで、オブジェクト同士は間接的に触れ合う。すなわち互いに「魅惑」する。たとえばメタファーによって、事物はより実在的な「それ自体」の姿を垣間見せる。
  • そんでもって、これらの説明は人間と無関係なオブジェクトたちにも適応可能。よって、人間中心主義である必要はない。
  • 実在への接近を否定し、脱人間中心主義を図る。



恐ろしく雑にまとめたつもりだが、それでも結構まわりくどい印象。

ともかく、当初の構想で僕がやりたかったのは、「このTHE・大陸哲学な抽象的言葉遣いを、もう少し明確な表現で言い直す」ことにほかならない。

例えば、ハーマンの提唱する「代替因果」。彼はこれを「魅惑」と呼び、これによってオブジェクト同士は「触れ合うことなく触れ合う」ことになる。

だが、はっきり言って「触れ合うことなく触れ合う」なんていう言葉遣いは、我々の辞書にはない。考えられるの、次のうちのどれかでしかない。

  1. なんだかんだ触れ合っている
  2. なんだかんだ触れ合っていない
  3. ある意味では触れ合っていないが、べつの意味では触れ合っている

どう考えてもハーマンの論証は3.に該当するものであって、ここでははじめの「触れ合う」が、概念としてまるっきり別の「触れ合う’」によって説明されている。これに無自覚なわけではないはずなのに、あえて「触れ合うことなく触れ合う」というあたり、悪趣味か、さもなきゃ意地悪だ。だから大陸哲学は嫌なんだよ。



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(疲れちゃったので、うちの愛犬の写真でもご覧ください)



美学に依拠するハーマンの「魅惑」に関しては、メタファーやデペイズマンを巡る美的効果の議論と接続可能だろうし、情動の問題とも接点はあるだろう。(人工物たちの情動とか、考えただけでもワクワクする)

メイヤスーの「非理由」も、事物が断続的に性質変化をしながら存続する、という同一性の問題に置き換えられる。四次元主義や三次元主義の観点から読み直すのも面白そうだ。

とまぁ、構想段階ではいろいろと妄想をめぐらしたものだが、やっぱ無理だと思った。


思弁的実在論分析哲学は、やはり相なれない。前者が攻撃するように、分析哲学が「人間を観察者とする世界の記述」にとどまるのは、事実だろう。分析哲学が依拠する論理学が、どれだけシンプルな道具だとしても、人間によってもたらされたという点で人間中心的だと言われればおしまいだ。こういった道具立てから出発する限り、SRはこれを拒否するだろう。これはテクニカルな問題もあるし、それ以上に規範的な問題だ。



せめて自陣営の擁護だけでもするべきだろう。「分析哲学は人間中心的な記述にとどまり、真理の追求を諦めている」というのは、どうも同意できない。前半はともかく、後半は偏見だろう。分析哲学は真理への志向を辞めたわけではない。

例えば、意図と解釈にまつわる分析美学の論争も、みな一丸となって「正しい批評」という真理を追求しているではないか。バルトら極端な反意図主義者が、「正しい読み方はない」「好きに読め!」といった相対主義に陥るにしても、そこで主張されているのは「相対主義こそが、正しい批評だ」というテーゼではなかっただろうか。

一介の初学者である僕の意見はともかく、この辺はぜひとも分析系の人たちに意見を聞いてみたいところだ。思弁的実在論の批判に対する分析哲学からの応答はなかなか見当たらない。


一方、メイヤスーやハーマンらはトリッキーすぎる。突然やってきて修正的な世界像を提案するのは、(個人的には嫌いじゃないが)態度として問題含みだと思う。それよりも、論争の中で少しずつ答えに接近するような分析哲学のほうが建設的だと感じる。鞍替えしたのは、SRより分析系のほうが正しいと思ったわけではなく、建設的だと思ったからだ。


なので、僕はいまでもSRが好きだし、前ほどではないがシンパシーを感じている。

とくにオチはない。思弁的実在論が2010年代初頭にブームを終え風化してきたみたいに、分析美学もいっときのブームで終わらないことを祈るばかりだ。せめて、僕が職を探すであろう10年後ぐらいまでは。





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