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インターネットと美学研究

Film Review:『レディ・プレイヤー1』(2018)

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スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』観てきたので、Filmarksからレビューを転載。


2045年になっても、人類は『シャイニング』を観て、Bee Geesで踊っていた。もうそれだけで僕は感無量だよ。


巨匠スピルバーグ監督が、大企業ワーナー・ブラザースを率いてお送りする、"資本の暴力"。『クラウド アトラス』の再来。2Dだったからよかったものの、3Dだったら身体がついていけなかったはず。それぐらいのハイテンション。
全編を通してアトラクション感が強烈。映画『シャイニング』に入り込むシーンは、噂に違わず"ヤバ"かった。「おぉっ……!」「すっげ……っ!」という会場のざわめきが忘れられない。


少なくともエンターテイメントとしては一級品だが、思想的には正直ガッカリなものだった。以下はただの愚痴。


「散々な現実世界と、充実した仮想世界」「リアルとリアリティの相克」という古典的なテーマを、またしてもアメリカは"アメリカ的"に踏みにじってしまっている。『レディ・プレイヤー1』の哲学は『トゥルーマン・ショー』『マトリックス』の時代から抜けきれておらず、決して『インセプション』にはなれないし、ましてや『あやつり糸の世界』にはかなわない。
「リアリティだけが、リアルなんだ」という一言で、完全に白けてしまった。


主人公のモチベーションというのは、ゲームをクリアし、現実世界で富と名声を得て、裕福な暮らしをすることにある。「オアシス」の開発者ですら、これを"ゲーム"と捉えており、仮想世界は常に現実の補助的存在にとどまる。これだけ素敵な世界を描いた末に、「まぁ、全部ゲームなんでしょーもないんですけどね」「やっぱ現実世界で女の子とイチャイチャしてるのが一番だね!」みたいな投げ方はさすがに酷いぜ。
要するに本作は、ネット上で真に幸福な人生を見いだせるギークのための映画ではなく、マッチョの美学に寄り添った映画だ。アメリカはいつまで経っても、ネト充的な人生を容認できずにいる。


「ポスト・インターネット」ですら常識になりつつある2018年現在において「リアリティだけが、リアルなんだ」と言い切るとは、流石に浅はかではないか。その辺の価値観が妙にジジ臭くて、最後の最後で冷めてしまった感は否めない。僕らデジタルネイティブにとって、そんな差異はとっくに脱構築されており、いまやネットは"端的に"現実だ。


インターネット研究者の端くれとして重箱の隅をつつくようなレビューになってしまったが、改めて考えてもこういう批判はお門違いかもしれない。ホーンテッド・マンション相手に、飛び降り自殺の身体性にまつわる議論をふっかけている気分になってきた。これにてドロン。





ただし、用語としてここでのリアリティ⇔リアルは、従来の二項対立における「充実した仮想世界=リアリティ」「散々な現実世界=リアル」とは逆に使われている。この辺の言葉遣いにどれだけの意図があるのかは不明だが、まぁ大したアレじゃないだろう。