ノエル・キャロル『芸術哲学』:目次とリーディングリスト

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Carroll, Noel (1999). Philosophy of Art: A Contemporary Introduction. Routledge.

 

最近読んだ、ノエル・キャロル[Noël Carroll]による分析美学の教科書『Philosophy of Art: A Contemporary Introduction』(1999)が、入門としてかなりよさげだったので、紹介記事を書いておこう。

ロバート・ステッカー[Robert Stecker]の『Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction』(『分析美学入門』)が2010年(初版は2005年)なので、本書は一昔前の教科書になる。ステッカーが幅広いトピックを扱っているのに対し、キャロルが扱うのは基本的に「芸術の定義」だけだ。環境美学、フィクション論、芸術の存在論、作品解釈といったホットトピックは取り上げられていないし、美的なものや芸術の価値に関してもそんなには踏み込まない。かわりにキャロルがやるのは、「表象[representation]」「表出[expression]」「形式[form]」「美的経験[aesthetic experience]」といった概念を通して、芸術の定義がいかに試みられてきたかの概説である。ということで、厳密には分析美学ではなく「芸術の分析哲学」の入門書だ(美学と芸術哲学の関係についても、第4章で触れられている)。

難易度としてはステッカーのそれよりだいぶと易しいので、あちらが入門(といいつつ結構むずい)ならば、こちらは超入門といったところか。教養課程の学部生向けといった趣だ。イントロダクションでも掲げられている通り、本書の目的は、第一に芸術哲学の諸問題を導入することだが、第二に、この手の議論一般を扱う基礎体力として、分析哲学的な手法を導入する点にもある。よって、イントロダクションは「哲学とはなにか?」から始まり、分析哲学の概要や、概念分析という手法(必要十分条件とはなにか)、直観をデータとすることの是非などを説明しており、手取り足取りで進む。

細かい目次は以下。

はじめに

哲学とはなにか?/芸術の分析哲学/概念を分析する/哲学的研究の特殊性/本書の構成/本書の目的

第1章「芸術と表象」

パートⅠ「表象としての芸術」

芸術、模倣、表象/芸術の新表象説

パートⅡ「表象とはなにか?」

画像表象/画像表象に対する伝統的アプローチ/絵画表象の慣習主義理論/画像表象の新自然主義理論/諸芸術における表象

第2章「芸術と表出」

パートⅠ「表出としての芸術」

芸術の表出説/芸術の表出説への反論

パートⅡ「表出の理論」

表出とはなにか?/表出、例示、メタファー/隠喩的例示理論のいくつかの問題点/表出はつねに比喩的なのか?

第3章「芸術と形式」

パートⅠ「形式としての芸術」

形式主義形式主義への反論/新形式主義

パートⅡ「芸術の形式とはなにか?」

芸術の形式に対するさまざまな見解/形式と機能/形式と鑑賞

第4章「芸術と美的経験」

パートⅠ「芸術の美的理論」

芸術と美学/芸術の美的定義/美的経験の2つのバージョン/芸術の美的定義への反論

パートⅡ「美的次元」

美的経験の再検討/美的性質/検出か投影か?/美的経験と芸術の経験

第5章「芸術、定義、識別」

パートⅠ「定義に反して」

ネオ・ウィトゲンシュタイン主義:開かれた概念としての芸術/ネオ・ウィトゲンシュタイン主義への反論

パートⅡ「現代におけるふたつの芸術の定義」

芸術の制度説/芸術を歴史的に定義する

パートⅢ「芸術を識別する」

定義と識別/識別と歴史的物語り/歴史的物語り:その強みと弱み

 

これはいいなと思ったのは本の構成だ。第1章から第4章までは、それぞれのパートⅠで各概念による芸術の定義が概説され、その利点と欠点が評価される。

  • 表象説:芸術とは、なんらかの事物を表象したものである。
  • 表出説:芸術とは、感情などを表出したものである。
  • 形式説:芸術とは、重要な形式を持つものである。
  • 美的経験説:芸術とは、美的経験を与えるよう意図されたものである。

これらはごく大雑把な出発点であり、それぞれ直ちに反例が思いつく。例えば、芸術に表象は必要ない(抽象画は表象しない)。表出するからといって芸術とは限らない(私が怒って人を殴るのはパフォーマンスアートではない)。「重要な形式」概念はあいまいで役に立たない(《泉》の形式とは?)。美的経験を与えるよう意図された作品ばかりではない(部族のお面は見るものを怖がらせるよう意図されている)。このような反論に対し、どのような応答がなされ、理論がどのように修正されてきたか。「芸術とはなにか」、というシンプルな問いが、どれだけ人々を悩ませ熱狂させてきたのかがよく分かる概説だ。

いろいろあって、結局どの概念も芸術全般を定義するには不足であることが発覚するのだが、それぞれのパートⅡでは、概念ごとの各論が設けられている。芸術の定義としては失敗するにせよ、「表象」「表出」「形式」「美的経験」といった概念は芸術史・美学史的に重要であり、それぞれのための理論が必要なのだ。表象とはなにか。美的経験とはどういうものか。

本書の欠点のひとつとして、本文中に参照文献が示されず、誰のなんていう理論が検討されているのか分かりにくいというのがある(注が一切ないのは初学者にとっても私にとってもかなりうれしいのだが)。大雑把にまとめると、

  1. 「表象」
  2. 「表出」
    • パートⅠはトルストイコリングウッドらによる古典的な芸術表出説。
    • パートⅡではグッドマンの「隠喩的例示」としての表出理論が検討される。
  3. 「形式」
    • パートⅠではベルの「重要な形式」およびダントーの新形式主義を検討。
    • パートⅡではモンロー・ビアズリー[Monroe Beardsley]の記述的説明(unity, intensity, complexity)に対抗し、キャロル自身の機能的説明を突きつける。
  4. 「美的経験」
    • パートⅠは、ビアズリーによる機能主義的な美的定義を検討。
    • パートⅡではジェローム・ストルニッツ[Jerome Stolnitz]の定義に対するジョージ・ディッキー[George Dickie]の批判および、美的性質の実在性をめぐるアラン・ゴールドマン[Alan Goldoman]周辺の議論が取り上げられる。

最後の第5章では、失敗続きの「芸術の定義」なんてそもそも無理なんじゃないか、という立場が紹介される(パートⅠ)。ちなみに本書でそう説明されているわけではないが、歴史的にみて面白いのは、1950年代にこの懐疑主義者たち(ワイツ、ジフ、ケニック)が幅を利かせたからこそ、分野ないし学統としての「分析美学」が成立しているという側面だ。本書は芸術の定義論とその一旦の挫折において、最後の最後で分析美学の誕生に戻ってきたとも言える。

芸術なんて定義できない、とするネオ・ウィトゲンシュタイン主義者の影響力は大きかったが、モーリス・マンデルバウム[Maurice Mandelbaum]によるクリティカルな反撃に続き、アプローチを刷新しつつ定義論が再興する(パートⅡ)。代表的なものとして紹介されているのは、ジョージ・ディッキーの制度説と、ジェロルド・レヴィンソン[Jerrold Levinson]の歴史説だ。

  • 制度説:芸術とは、アートワールドの代表によって鑑賞候補の身分を付与されたものである。
  • 歴史説:芸術とは、歴史的になされてきた芸術扱いをされるよう意図されたものである。

どちらも、作品に内的な性質ではなく、外的な要因に訴えることで、幅広い芸術実践をカバーできる点にうれしさがある。もちろん、それぞれに伴う懸念についても触れられている。

最後の最後にあたる第5章パートⅢでは、「芸術の定義」に関するキャロル自身のアプローチとして、「歴史的物語り[historical narrative]」が紹介されている。これは1993年にJAACに載った論文がもとになっているが、アイデアとしては1988年にMonistに載った論文からあったらしい。芸術の定義は重要だが、その理由のひとつはわれわれが芸術と非芸術を識別[identifying]したいからだ。識別できなければ、どの人工物に芸術助成を出すか決めがたいし、どれを美術館におけばいいのか決められないし、解釈・評価すべきか態度を決めることもできない。しかし、識別できればいいのであれば、あらゆる事例をきっちりカバーできるような定義(必要十分条件)はなくてもいいのかもしれない。ということで、識別法としてキャロルの提案する「歴史的物語り」は、あるものの芸術性にとって、芸術史上の先例に関する知識を踏まえた語りが重要だというものだ。われわれがデュシャンの《泉》やケージの《4分33秒》を芸術とみなすようになったのは、それらを先例と結びつけ、その目的や挑戦や達成を説明してきた無数の批評的語りがあったおかげである。芸術の制作と鑑賞を、このような批評的コミュニケーションの場に位置づけることで、なにかが芸術になったりなりそびれたりする空間を特徴づける、それがキャロルの「歴史的物語り」の大筋である。芸術の歴史を重視する点でキャロルの立場も歴史説のバリエーションだと言えそうなのだが、「歴史的物語り」は必要条件ではなく、十分条件のひとつとして、ごく穏当に提出されているのがポイントだ。

前述した通り、手取り足取りで進む(英語も易しい)本なので学部生などにはかなりおすすめなのだが、丁寧すぎるのがたまにきずでもある。『批評について』もそうだったが、キャロルの書きぶりは丁寧な分やや冗長で、ずっと同じ話を繰り返しているように思われるときすらある。「xはこういう主張だ、それにはこういう反例がある、なのでxはだめだ」と論駁したあとで、「あと、こういう反論もできる、のでやっぱりxはだめだ」というのが続き、さらに「そうそう、こういう反例もある、のでxはぜんぜんだめだ」と続いていく。しかしこう、しつこいぐらいひとつの主張を検討するというのも、早めのうちに養っておきたい体力のひとつであることは言うまでもない(向き不向きのふるいでもある)。議論の構造はきわめて明快であり、いまなんのためになんの話をしているのか迷子になることがまったくない。これは大いに学ぶべき文体だろう。

調べてみたら、『言語哲学―入門から中級まで』の題で邦訳されているウィリアム・ライカンの『Philosophy of Language: A Contemporary Introduction』(1999)と同じRoutledgeのシリーズだった。あちらもかなり読みやすくてためになる入門書だったので、分析哲学をやろうという人にはあわせておすすめだ。キャロルの教科書も『芸術哲学―入門から中級まで』で邦訳があればよいのにとは思うのだが、刊行年がやや古いのと、すでに『分析美学入門』が出ている手前『分析美学入門の入門』というわけにもいかないのだろう。

とはいえ、世紀末に刊行されたからこそ(?)、キャロルの教科書には20世紀を通して発展してきた分析美学を、一旦総括するという趣がある。さまざまなトピックに触れつつ関心を広げるのはもちろんよいことなのだが、「芸術の定義」というコア問題に短期集中で取り組むのも、入り方としてはかなりいいだろう。このトレーニングは、ほとんど任意のxに関して「xとはなにか」という哲学的問いを立てたり、答えたり、反論したり、修正したりするのに役立つものだ。

 

各章のリーディングリストをまとめて、おしまい。

 

第1章「芸術と表象」

  • プラトン『国家』2巻、3巻、10巻:古典的な芸術の表象理論
  • アリストテレス詩学』:古典的な芸術の表象理論
  • Paul Oskar Kristeller「The Modern System of the Arts」:ファインアートのシステムについて
  • Arthur Danto『The Transfiguration of the Commonplace』(『ありふれたものの変容』):新表象理論
  • Peter Kivy『Philosophies of Arts: An Essay in Differences』:2章で新表象理論への批判
  • Monroe Beardsley『Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism』:6章で画像表象について
  • Nelson Goodman『Languages of Art』(『芸術の言語』):1章で芸術表象について/慣習主義理論
  • Flint Schier『Deeper Into Pictures: An Essay on Pictorial Representation』:画像表象に関する新自然主義
  • Peter Kivy『Sound and Semblance』:芸術全般にわたる表象について/とくに2章
  • Kendall Walton『Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts』(『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―』):虚構的な事物を描く画像表象について

第2章「芸術と表出」

  • レフ・トルストイ『芸術とは何か』:表出説(伝達説)の代表
  • R.G.コリングウッド『芸術の原理』:表出説(単独表出説)の代表
  • スザンヌ・ランガー『感情と形式』:表出説の古典
  • M.H.Abrams『A Glossary of Literary Terms, 6th edition』:ロマン主義について
  • Aidan Day『Romanticism』:ロマン主義について
  • Monroe Beardsley『Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism』:7章で表出説について紹介
  • Nelson Goodman『Languages of Art』(『芸術の言語』):2章で隠喩的例示としての表出理論を展開
  • Guy Sircello『Mind and Art: An Essay on the Varieties of Expression』:表出の隠喩的例示説への批判
  • Peter Kivy『Sound Sentiment: An Essay on the Musical Emotions』:表出の隠喩的例示説への批判
  • Alan Tormey『The Concept of Expression』:芸術的表出について
  • Robert Stecker「Expression of Emotion in (Some of) the Arts」:表出に関する哲学文献
  • Bruce Vermazen「Expression as Expression」:表出に関する哲学文献
  • Ismay Barwell「How Does Art Express Emotion?」:表出に関する哲学文献

第3章「芸術と形式」

  • ライヴ・ベル『芸術』:形式主義の古典/絵画の鑑賞法を大きく変化させた
  • ロジャー・フライ『ヴィジョンとデザイン』:視覚芸術に関する形式主義の実
  • エドゥアルト・ハンスリック『音楽美論』:音楽に関する形式主義
  • Ladislav Matejka and Krystyna Pomorska (eds.)『Readings in Russian Poetics: Formalist and Structuralist Views』:文学に関するロシア形式主義
  • Victor Erlich『Russian Formalism: A History』文学に関するロシア形式主義
  • Richard Eldridge『Form and Content: An Aesthetic Theory of Art』:新形式主義
  • Arthur Danto『After the End of Art』(『芸術の終焉のあと: 現代芸術と歴史の境界』):新形式主義
  • Noël Carroll「Danto’s New Definition of Art and the Problem of Art Theories」:ダントーの新形式主義への批判
  • A.C.Bradley「Poetry for Poetry’s Sake」:形式と内容が同一であるという主張の古典
  • Peter Kivy『Philosophies of Arts』:4章でBradleyの批判
  • Monroe Beardsley『Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism』:4章で形式に関する記述的説明
  • Berel Lang (ed.)『The Concept of Style』:「様式」に関するアンソロジー/Richard Wollheim, “Pictorial Style: Two Views"がおすすめ
  • Paul Ziff『Semantic Analysis』:6章で「測定としての鑑賞」を擁護

第4章「芸術と美的経験」

  • George Dickie『Art and the Aesthetic』:美的なものに関する議論の概説
  • Noël Carroll「Beauty and the Genealogy of Art Theory」:美的なものと芸術哲学の関係について
  • Monroe Beardsley「An Aesthetic Definition of Art」:美的なものによる芸術の定義
  • Harold Osborne「What is a Work of Art?」:美的なものによる芸術の定義
  • William Tolhurst「Toward an Aesthetic Account of the Nature of Art」:美的なものによる芸術の定義
  • Bohdan Dziemidok「Controversy about the Aesthetic Nature of Art 」:美的なものによる芸術の定義
  • Monroe Beardsley『The Aesthetic Point of View: Selected Essays』:美的経験について
    Jerome Stolnitz『Aesthetics and the Philosophy of Art Criticism』:美的経験の感情重視の説明
  • George Dickie「The Myth of the Aesthetic Attitude」:美的な「無関心性」への古典的批判
  • Noël Carroll「Art and Interaction」:無関心性への批判
  • Göran Hermerén『The Nature of Aesthetic Qualities』:美的性質に関する概説
  • Alan H. Goldman「Realism about Aesthetic Properties」:美的性質の客観性に関する懐疑主義
  • Philip Pettit「The Possibility of Aesthetic Realism」:美的性質の実在論
  • Eddy M.Zemach『Real Beauty』:美的性質の実在論
  • Frank Sibley「Aesthetic Concepts」(「美的概念」):美的概念が条件に支配されているかどうか
  • Frank Sibley「Aesthetic and Non-Aesthetic」:美的概念が条件に支配されているかどうか
  • Peter Kivy『Speaking of Art』:シブリーへの批判

第5章「芸術、定義、識別」

  • Stephen Davies『Definitions of Art』:芸術の定義に関する包括的なサーベイ
  • Morris Weitz 「The Role of Theory in Aesthetics」(「美学における理論の役割」):ネオ・ウィトゲンシュタイン主義として最もよく引かれる
  • Morris Weitz『The Opening Mind』芸術の定義不可能性
  • Paul Ziff「The Task of Defining a Work of Art」:芸術の定義不可能性
  • William Kennick「Does Traditional Aesthetics Rest on a Mistake?」:芸術の定義不可能性
  • Maurice Mandelbaum「Family Resemblances and Generalizations concerning the Arts」:ワイツへの有名な批判
  • George Dickie『Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis』:芸術の制度的定義(初期ヴァージョン)
  • George Dickie『The Art Circle』:芸術の制度的定義(後期ヴァージョン)
  • Jerrold Levinson「Defining Art Historically」:芸術の歴史的定義
  • Jerrold Levinson「Refining Art Historically」:芸術の歴史的定義
  • Jerrold Levinson「Extending Art Historically」:芸術の歴史的定義
  • Noël Carroll「Art, Practice and Narrative」:芸術識別のための歴史的物語りアプローチ
  • Noël Carroll「Historical Narratives and the Philosophy of Art」:芸術識別のための歴史的物語りアプローチ
  • Noël Carroll「Identifying Art」:芸術識別のための歴史的物語りアプローチ
  • Peter Kivy『Philosophies of Arts』:1章で物語りアプローチを用いて絶対音楽を擁護
  • Jeffrey Wieand「Putting Forward A Work of Art」:会話としての芸術
  • Arthur Danto『The Transfiguration of the Commonplace(『ありふれたものの変容』)』:現代的アプローチの一つ
  • Robert Stecker『Artworks: Definition, Meaning, Value』:現代的アプローチの一つ
  • Noël Carroll (ed.)『Theories of Art』芸術の定義および識別に関する最近のアンソロジー

Liminal Spaceのなにが不気味なのか

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リミナル・スペース[Liminal Space(s)]は2019年ごろに4chanからTwitterReddit経由で広まった、インターネット・ミームである。Fandomの「Aesthetics Wiki」によれば、

Liminal Spaceの美学は、広くてなにもない、薄気味悪く不穏な雰囲気[eerie and unsettling vibe]のある部屋、廊下、ホールなどから成る。

Liminal Space | Aesthetics Wiki | Fandom

ミームとして拡散された経緯はknow your memesなどを読んでもらえばよい。

Twitterでは「@SpaceLiminalBot」なるアカウントが精力的(?)にリミナルな画像を拡散しており、2021年10月現在約42万人のフォロワーがいる。

9月にはtogetterのまとめが注目されていたので、日本における知名度も徐々に上がってきたようだ。

 

基本的には、「3回見たら死ぬ絵」的なネット都市伝説のノリ(いわゆるCreepypasta)と、Vaporwave的なジャンクを愛でるカルチャーが悪魔合体した画像ミームだが、不気味な音楽に合わせるとなおのこと怖い。「あなたが悪夢で見た場所」とかいうタイトルで延々とリミナルな空間をスライドショーする動画なんて、たいそう怖くて見てられない。

 

情動的な部分をくすぐる性質を持ち、事例の供給にも事欠かないなど、ミームとしてバズる要因がたくさんあるのだが、そういった分析もここでは脇に置こう。

問いはごく基本的なものだが、おそらくもっとも気になるものだ。すなわち、

Liminal Spaceのなにが不気味なのか。

この問いには何通りもの答えがあるだろう。本記事ではそのうちのいくつかを取り上げる。

 

  • 不気味さとはなにか
  • 痕跡としての写真
  • 人のいない空間と人-不在空間
  • まとめ:Liminal Spaceのなにが不気味なのか
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美的に画一的な世界

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1.ネハマスの悪夢

ハマスの悪夢という、分析美学では有名な話がある。*1

 

もし美的判断が普遍的同意を要求するのであれば、理想的には、皆があらゆる正しい判断を受け入れるだろう。つまり、完璧な世界では、われわれはみなまったく同じ場所に美を見出すことになるだろう。だが、そのような夢は、悪夢だ……。もしできるようであれば、次のような世界を想像してみよう。皆がまったく同じものを好み(もしくは愛し)、美に関するあらゆる意見の不一致が解消されうるような世界を、そのような世界は、悲惨(desolate)で、絶望的(desperate)だろう。(Nehamas 2007, 83. 訳文は森 2021より)

 

ハマスは、それを理想的鑑賞者説、とりわけ美的普遍性を要求するヒュームやカントに対する、直観的な拒絶感を示すものとして語っているように思われる。われわれの(理想的ではない)世界では美的な多様性があり、だからこそ豊かなのだが、たったひとつの普遍的な美的感性だけがある理想的な世界があったとしよう。気味悪いでしょう?というわけだ。

ハマスはそのような世界を「悪夢」「悲惨」「絶望的」と語るが、ほんとうだろうか。実際のところ、ネハマスの記述はあまり豊かなものではない。古典的なディストピアに類似した世界を設定し、それがとにかく「悪夢」「悲惨」「絶望的」なのだと印象づけているだけなようにも思われる。しかし、小説や映画に出てくるこのような世界が、しばしばディストピアとして描かれているからといって、実際に実現された場合にディストピアであるとは限らない。*2

よって、ハマスの取り上げるような画一的な世界は、よくよく考えれば、理想的鑑賞者説や美的普遍性を拒絶する動機や理由にならない、というのが私の主張だ。取り急ぎ付け加えるなら、私はそれら理論を支持したいわけではないし、世界は美的に画一的であるべきだと言いたいわけでもない。理想的鑑賞者説や美的普遍性に関する議論において、そのような思考実験は実際のところ冗長でしかないのかもしれない、と言いたいのだ。

 

2.世界Zと最後の美的対象

前述の通り、上に引用したネハマスの記述はあまり豊かなものではないため、こちらで改めて語り直してみよう。変な話だが、それが冗長であることを示すために、さらにもう一度(より冗長に)語り直してみるのだ。

いま、ネハマスの悪夢を少しアレンジして、次のようなアイテムを考えてみよう。それは、至高の美的経験を与えてくれる。すなわち、低次から高次までさまざまなレベルにおいて、これ以上ない快楽を与えてくれる。これを「最後の美的対象(FAO: final aesthetic object)」と呼んでおこう。これまで、美的経験に関連して論じられてきたもの(あらゆる芸術作品、あらゆる自然の景観、etc.)で、快という点においてFAOに勝るものはない。FAOを見た者は、ほとばしる感動と強烈な満足感を覚え、森羅万象に対する感謝と敬愛の念で胸が一杯になる*3

ただし、FAOを用いてこのような経験をするには、ひとつだけ条件がある。それは、ヒュームが求めるような理想的鑑賞者であることだ。実際のところ、FAOは難解な美的対象であり、かなりの鑑賞的スキルがないとまともに理解できないものである。繊細さと経験があり、偏見がなく良識のある優れた鑑賞者だけが、FAOによる至極の美的経験を味わえる。

もちろん、FAOは合法であり、なんら健康上の副作用もなく、また、そのトークンは無限かつ容易に手に入るとしよう。つまり、そうしたければ誰でもいつでもFAOを“鑑賞”できる、としよう。

ここで、理想的鑑賞者だけから構成された世界Zがあるとしよう。世界Zでは、あらゆる人間は、ヒュームが求めるような鑑賞上の能力を兼ね備えている。そして、世界Zのあらゆる人はFAOに至高の美的経験を認め、また、FAOを日常的に嗜んでいる。世界Zはネハマスの悪夢よりも一層、美的個性が失われている。というのも、ネハマスの悪夢の世界では、いくつかの美的対象に関して、あらゆる人がそれらを好み、評価することもありうる(つまり、FAOのようなものが何種類かある)が、世界ZではFAOこそ唯一かつ至上の美的対象だと評価され、誰もがそれを最も好んでいるからだ。

もちろん、世界Zにおいても、《モナリザ》を見たりシェイクスピアを読んだりベートーベンを聞く人はいる。しかし、彼らは純粋に歴史的価値を求めてそれらを調査するのであって、こと美的価値に関してはそれらがFAOに遠く及ばないことを認めている。美的経験のためであったら、誰もが《モナリザ》よりもFAOにアクセスすることを選ぶ。世界Zでは、「美的価値においては、FAOという至上のものがただ一つあるだけで、その他のあらゆるものは大した美的価値を持たない」ということで誰もが合意している。よって世界Zでは、美的な事柄に関して対立はもはや生じない。《モナリザ》と《ゲルニカ》のどっちが優れているのかなんていうのはどんぐりの背比べであって、誰もそんなことを問題にしようとはしない。そんな暇があったらみんなFAOを見に行く。

世界Zにおいては、従来の美的営みをあえてしようとする者はいない。映画館、ギャラリー、ダンス教室はすべてFAOステーションに置き換えられ、画家、バンドマン、キュレーター、広告デザイナーは、その大半がFAO工場の従業員に転職した。もちろん、昔ながらの芸術作品を作り続ける人はいるが、それはもはや美的営みではなく、純粋に儀式的な営みでしかない。

さて、世界Zの構成員は、誰もがその美的生活に満足している。美的個性があったほうがいいのになぁ、と考える人は一人もいない。そこは美的には完全に没個性で、画一的で、しかし幸福とも言える世界だ。

 

われわれの世界AにはFAOはない。ので、たったいま、たまたま宇宙の果てから最初のFAOが飛来してきた世界Bを想定しよう。限りなく理想的鑑賞者に近いある批評家がいて、FAOの尋常ではない美的価値に気づいたとする。それを友人である優れた批評家らに広め、そうこうしているうちに世界中のニュースで大々的に取り上げられ、FAO旋風が巻き起こる。名だたる批評家は口を揃えてFAOを礼賛し、その良さが分からず自己嫌悪に陥ってしまう人でも、訓練さえ積めばFAOを理解できることが明らかになったため、市民向けの鑑賞講座が大流行する。しかしまだ、その一線を超えることが、「なんか嫌だ」という芸術愛好家はたくさんいる。FAOは素人目には意味不明だし、鑑賞講座もうさんくさい。でも、知人でそっち側にいった人は日に日に増えている……。

 

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3.美的に画一的な世界は悪夢なのか

さて、全人類が理想的鑑賞者を目指し、やがてFAO以外の対象を美的経験の対象とすることをやめることは、なんらかの点においてわるいことなのか。すなわち、世界Bは世界Zに向かってはならないのか。それは悪夢であり、悲惨で絶望的だと言われなきゃならないことなのか。

私はここまで、それを反語的に問うてきたが、実際は直観的にもよく分からない。世界Zでは美的に重要ななにかが確かに損なわれている気もするし、世界Zでいいじゃないかという気もする。このような極端な世界に対して、はっきりとした直観を持った人は、世界Aにはほとんどいないのではないか、とすら思っている。

私はここで立ち止まって逡巡するかわりに、しれっと「そのような夢は、悪夢だ……」と語ることもできた。それこそネハマスのしていることだと思うのだが、そうやって印象づけるのはフェアではない、というのが私の主張だ。

 

もう少しだけ逡巡しよう。

まず、画一化された幸福な世界Zに対して、「画一的だからダメだ」「多様性がないからダメだ」というのはほとんど情報量のない批判だ。それは、つまるところ「多様性があったほうがよく、画一的であるほうがわるい」という、今日の(相対的に言ってリベラルなサークルにいる)われわれの価値観を思考実験上の極端な世界にも延長しているに過ぎない。世界Zがわれわれから見て気味悪いのは、言うまでもない。しかし、今日のわれわれが平然とやっていることのうち、20世紀初頭の人に伝えて気味悪がられることは少なくない。

「そういった世界では、執政者による影の搾取が行われており……」みたいなのは的を外した批判だ。世界Zではそういうことが起きていない、というふうに仮定するのは容易であるし、少なくとも美的生活に関して隙がないことはあらかじめ仮定されている。理想的な世界は徹底的に理想的なのだ。その上で、美的に拒絶する理由を探さなければならない。

理想的鑑賞者説のもとでは、誰もが同じ理想を目指して、自らの鑑賞スキルを磨いていく。その終着として訪れるのが世界Zであるとして、そのなにがわるいのか。これが反語として多少なりとも説得的なのであれば、ネハマスの悪夢はもはや理想的鑑賞者説に反対する直観的な下支えにはなっていないのだろう。

 

とはいえ、この思考実験が示唆する別の側面に注目することで、理想的鑑賞者説へのオルタナティブな批判が立ち上がる可能性もある。

それは、①多様性に満ちたわれわれの世界Aから、画一化された世界Zへと向かう過程で、多くの美的個性が本人の意思に依らず失われること、それ自体を大きなコストとして強調すること、②そのようなコストに対し、謳われている理想の世界が実現される見込みがかなり低いか、ほとんど実現不可能だと主張すること、だ。

おそらくは歴史上、少なくない政治社会的思想が、ある種の究極の理想社会を語ってきた。その理想の社会においては、画一化された人民が、苦悩もなく幸福に暮らしているとされる。しかし、それを夢見てさまざまな改革を押し進めるなかで、ろくでもないことが多く生じてきたのは歴史が示す通りだ。すなわち、理想化された世界ではなくそこに向かう過程こそが、悲惨で絶望的である見込みが高い。*4

理想的鑑賞者説に関しても同様である。現在、われわれの世界Aにおいては、さまざまな美的エキスパートが、それぞれの達成基準において豊かな美的生活を送っている。FAOがあろうがなかろうが、理想的鑑賞者を普遍的目標として掲げることは短期的中期的に悲惨で絶望的な出来事を引き起こす恐れがある。もちろん、その最後の最後には美的に完成された世界Zが待っているのかもしれないが、その過程で生じる強制・差別・迫害が正当化されるとは思われない。

また、ちゃんと世界Zにたどり着くかどうかも疑わしい。おそらくは世界Dぐらいでさっそく営利企業がFAOを独占し、各地で美的貿易摩擦や美的南北問題が生じたり、ペテン師がオンラインサロンで高額だが効果の低い鑑賞講座を開いたり、飲めばただちに理想的鑑賞者になれる(?)錠剤ICが売られたりするのだろう。理想社会を謳う集団が不正と汚職にまみれたように、さまざまな事情(経済システム、政治状況、人間本性の欲望、etc.)によって、世界Zというのは決してたどり着けないのかもしれない。

これらは、経験則的な拒絶にしかならないが、より地に足のついた拒絶であろう。

 

4.まとめ

本稿が言っていること

  • 思考実験として、美的に画一化された世界を思い浮かべることは、理想的鑑賞者説や美的普遍性を拒絶する上でほとんど助けにならない。なぜなら、理想的鑑賞者説は「美的に画一化された世界でなにがわるい」と開き直る可能性があるからだ。
  • 強いて言えば、画一化された世界が美的にわるいというよりも、そこに向かう過程が美的にわるい、とは言えるかもしれない。

 

本稿が言っていないこと

  • 理想的鑑賞者説は正しい。
  • 理想的鑑賞者説は間違っている。
  • ハマスの悪夢の世界や世界Zは、悪夢でも悲惨でも絶望的でもない。
  • 美的に画一的な世界は必ずや豊かなので、美的多様性を捨ててでも、みんなで理想的鑑賞者を目指すべきである。
  • 美学において思考実験はつねに冗長で無意味である。

*1:紹介としては、森 (2021): 368-9を参照。森さんは、レヴィンソンの理想的鑑賞者説から、ロペスのネットワーク説へと移るつなぎとしてこの話に触れているが、「よくよく考えてみると、そのような世界の何が悪いのだろうか」という問題には答えきれていないように思う。というのも、「美的価値の規範性(理由付与性)があらゆる人にとって共通のものになってしまう」、「美的判断の理由の多様性」が失われてしまうことは、わるいので回避すべきだとあらかじめ想定できるようなことでもないだろうからだ。まず、現在の多様な美的実践を正確に記述できる、というのはたしかにネットワーク説の利点だが、もちろん、ここで問題となっているのは記述の正確さではない。また、ロペスが、「理想的な世界においても美的実践の多様性は失われていない」ことを暗に想定しているのであれば、それは一旦取り外して考えるべき想定なように思われる(ので、本稿のFAOはこれを取り外すためのアイテムになっている)。ロペスがなんらかの理由から「どれだけ理想的な世界においても美的実践の多様性は失われ得ない」と考えているのなら、その理由を示すことが必要だろう。結局のところ、美的多様性が消え去り、理想的鑑賞者しかいない世界の「何が悪いのだろうか」という問いは、いまだ未解決であるように思われる。

つまりは、「ネハマスの悪夢は悪夢ではない」という人がいたとして、彼がより言いそうなのは「そんな世界においても美的多様性が残りうる」ではなく、「その世界に美的多様性はないが、それでいいのだ」であるはずで、後者の開き直りに対する応答も必要だろう、ということだ。(ポリコレ下で堂々と主張できるような内容ではないだろうが、それはまた別の話だ。)

ところで私は原典のNehamas (2007)をまったく読んでいないので、以下の議論を、引用した箇所以外に関してネハマスに差し向けるつもりはまったくない。

*2:ここには、(私がごくずさんな仕方で理解している)SFプロトタイピングの根本的困難のひとつがあると思っている。すなわち、あるイマジナリーな事物なり状況から逆算し、現在においてなにかしらの行動を起こすとき、前者に対する価値判断が必ずしも後者に対する行動の理由づけにならないのではないか、という困難だ。ことによると、可能な状況のひとつを前景化させることで、行動をナッジすること自体が目的なのかもしれない。(それがフォア向きの予測に比べてどれだけ気が利いているのかは素人には分からない。)

*3:ことによると、薬物を用いたトリップ体験というのはまさにこのような美的経験を伴うのかもしれない。であるとすれば、FAOはそんなに空想的なアイテムでもないということになる。

*4:もちろん、過程ではなく理想的な結果が重要なのだ、という革命主義者もいるだろう。そこまで来られたら私にはなんとも言えない。