レジュメ|キャサリン・エイベル「ジャンル、解釈、評価」(2015)

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Abell, Catharine. (2015). Genre, Interpretation and Evaluation. Proceedings of the Aristotelian Society, 115, New Series, 25-40.[PDF]

 

最近わりと関心のある「ジャンル[genre]」論。

『The Routledge Companion to Philosophy and Film』の項目はだいぶ入門的な内容だったので、もうちょっと突っ込んだ話をしているエイベル論文を読んだ。節題は私のつけたものです。

1.ジャンルが解釈と評価に与える効果

一般的に言って、作品があるカテゴリーに属することは、その解釈と評価に影響する。

解釈においてジャンルは、

  1. 作品のどの部分を表象的に関与的[representationally relevant]かを左右する:映画において俳優が歌いだしたとして、演じられているキャラクターは歌っていることになるのか。〈メロドラマ〉なら歌っているだろうし、〈ミュージカル〉なら歌っていない見込みが高い。肖像画で顔のパーツがなしている空間的位置関係は、〈写実的な肖像画〉なら関与的だろうし、〈キュビズム〉なら関与的でない見込みが高い。*1

  2. 表象的に関与的な特徴を、どう解釈するかを左右する:「彼女はよろこんで心臓を捧げた」は、〈SF〉だと文字通り心臓を提供した見込みが高く、〈ロマンス〉だと恋に落ちたことの隠喩である見込みが高い。
  3. 暗示的[implicitly]に表象される事柄を左右する:長いひげと杖を持った老人は、〈リアリズム文学〉だとその通りの老人でしかない見込みが高いが、〈ファンタジー〉だと魔法使いであることを暗示している見込みが高い。

 ジャンルは評価にも影響する。まず、解釈に影響するのだから、間接的に評価にも影響する。また、解釈が固定されていても、次のような点で影響する。

  • 笑えることは〈コメディ〉にとって利点であり、〈ホラー〉にとっては欠点である。矛盾を含むことは〈メロドラマ〉にとって欠点だが、〈ファンタジー〉にとってはそうとは限らない。
  • 作品はジャンルものとしても評価される。「良い〈ホラー映画〉である/〈悪いホラー〉映画である」
  • ジャンル自体が評価されることもある:「悲劇はメロドラマより優れている」「ホラーはくだらん」など。

 

2.ジャンルに関する説明要件

エイベルはジャンルに関する説明要件を4つ挙げている。

  1. ジャンルには歴史がある:どの特徴がそのジャンルにおいて関与的かは、制作された時代による。初期ホラーといえば「狂人、悪の医者、ヴァンパイア」、90年代ホラーは「サイコ・キラー」、現代ホラーなら「世界的な細菌戦争」など。
  2. ジャンルはメディアをまたぐ:ホラー映画、ホラー小説、ホラーコミックなど。
  3. 個別の作品は複数のジャンルに属しうる:ミュージカルかつコメディの映画、ホラーかつSFの小説など。また、西部劇でもスペース・オペラでもないかわりに、ハイブリッドジャンルである〈スペース・ウェスタン〉の作品もある。
  4. ジャンルには階層がある:〈犯罪もの〉のなかに〈警察もの〉〈ノワール〉〈法廷もの〉〈探偵もの〉などのサブジャンルが含まれる。ジャンルの階層は無限に細分化できるわけではなく、〈ハンフリー・ボガート主演のハードボイルド探偵もの〉みたいなサブカテゴリーは解釈的・批評的重要性をほとんど持たない点で、サブ"ジャンル"とは言いがたい。

ジャンルの定義は、こういった説明要件をカバーできるような定義でなければならない。

 

3.ジャンルに関するカリー説

続いて、グレゴリー・カリー[Gregory Currie](エイベルの先生)の定義をたたく。

Currie (2004)によれば、ジャンルは一連の特徴や性質によって決定される。どんな性質のセットでもジャンルを形成しうるので、潜在的には無数のジャンルがあることになる。が、このうち、「ジャンルに特徴的な性質群の一部を持つならば、同ジャンルの性質を他にも持つだろう」と期待[expectation]されるカテゴリーのみが、事例を持った有効なジャンルとなる。

カリーにおいて、ジャンルが解釈上の重要性を持つのは、それが「ジャンルに基づいた含み[genre-based implicatures]」をもたらすから。〈ファンタジー〉ジャンルのおかげで長いひげと杖を持った老人は魔法使いだと推定できる、みたいな。

また、ジャンルものの評価は同ジャンルの他作品との比較においてなされるし、ジャンル自体の評価はそれに属する個別作品たちの評価によってなされる、とカリーは考えている。すなわち、ジャンルのもろもろは個別作品に依存しており、ジャンルによる分類は(規範的というよりも)記述的[descriptive]である、というのがカリーの立場になる。

エイベルによれば、カリー説の問題点は以下。

  1. ジャンルに関する期待から「ジャンルに基づいた含み」が生じる、というのが定かでない:〈ロマンス〉はハッピーエンドだろうと期待される。実際にはハッピーかもしれないしバッドかもしれないし、明示せずに終わる。ここで、明示されてない場合に、「〈ロマンス〉だからハッピーだろう」という期待を、「ハッピーエンドなのだ」という暗示的な物語内容とみなすことはできない。すなわち、ジャンルに関する期待がありつつ、ジャンルに基づいた含みが生じないケースがある。
  2. ジャンルの変化について説明しづらい:カリーによれば、異なるセットの性質集合は、因果的に結びついている限りで同じジャンルが連続している。しかし、これだとジャンル間の影響関係をぜんぶ変化で説明してしまう。〈フィルム・ノワール〉は〈ドイツ表現主義〉から影響されているが、連続したひとつのジャンルではない。
  3. ジャンルの特徴はメディアによってさまざまであることを説明しづらい:感情を表すような照明は〈フィルム・ノワール〉の特徴だが、〈ノワール文学〉の特徴ではない。両者が同じ〈ノワール〉に属すると言うためには、カリーは共通の特徴をかなり抽象化するしかない(「どんよりした感情的トーン」みたいな)。しかしこれだと、共通の特徴がジャンルごとに異なる効果をもたらす、みたいなのを説明できない。暗い照明が、〈フィルム・ノワール〉だとダウナーな印象をもたらし、〈ホラー〉だと恐怖をもたらす。

 

4.ジャンルに関するエイベル説

代替案として、エイベル自身の定義が出される。

  • ジャンルの定義:ジャンルとは、作品が制作され鑑賞される目的によって決定される作品カテゴリーであり、その目的を追求するための手段は、制作者と鑑賞者の共通知識(「当の作品群はその目的のために制作され、鑑賞されるものである」)に、少なくとも部分的に依存する。
  • ジャンル所属の条件:作品があるジャンルに属するのは以下のときかつそのときに限る。作品は、そのジャンルに特徴的な目的を特定の手段で実行することを意図して制作されており、かつ、これらの手段は、仮にそれらによって作品が当の目的を果たせるのだとすれば、それは部分的には制作者と鑑賞者の共通知識(「当の目的のために制作され、評価されるべきものである」)のおかげであるような手段である。(p.32)

中心をなすのは、「目的[purposes]」と「共通知識[common knowledges]」である。

あらゆるジャンルは広い意味での目的を持つ。コメディは笑わせること、ホラーは怖がらせること、ミステリーは誰がやったのか気になるサスペンスをもたらすこと。これは、ある種の効果をもたらすジャンルに限られない。SFは論理的に一貫した別世界を記述することを目的とするといえる。

共通知識に関しては、

  • どのような経路で得られるものでもよい:作品の特徴をもとに察するかもしれないし、作品外の情報(本屋で置いてある棚、映画の広告)から形成されるかもしれない。
  • 作者の目的がすべて共通知識になるわけではない:批評家にウケたい、家賃を払いたい、といった目的は、その達成に関して鑑賞者との共有を必要としない。むしろ、このような目的は、共通知識となるせいで達成しにくくなるかもしれない。一方、ジャンルの目的は、共通知識のおかげで達成されうる。
  • 共通知識とは、ある事柄に関して互いに知っているというだけでなく、互いに知っているということを互いに知っており、そのことも互いに知っており……という仕方で共有されている知識。「コメディは笑わせることを目的とする」というのを、作者が狙っていることを観客が知っていることを作者は知っている。
  • 共通知識がなければ目的を達成できないわけではない:笑えないコメディもあれば、笑える非コメディもある。が、笑えるコメディだとしたら、すなわち笑わせるというコメディの目的を達成していたとしたら、部分的には〈コメディ〉に関する共通知識のおかげである。*2

ジャンルへの所属が解釈に影響するのは、会話の目的に関する共通知識が発言の解釈を助けるのと似ている。Grice (1975)の「会話における協調[conversational cooperation]」によれば、会話の目的が共通知識として共有されていることは、話者の意味を特定するのを助けてくれる。会話に関する共通知識が会話コミュニケーションを助けるのと同様、芸術作品の目的に関する共有知識は芸術コミュニケーションを助ける。

Sperber and Wilson (1986)によれば、会話とは関連性のある情報のやりとりである。これが共通知識として共有されているならば、相手が意味不明なことを言ったとしても、関連性のあることを述べているはずだ、ということで推定できる。カリーの「ジャンルに基づいた含み」も、これでカバーできる。

 

これはジャンルに関する意図主義的説明だが、「ジャンル所属による解釈的・評価的効果」までもが作者によって意図される必要はない。
「この老人は魔法使いである」ということを作者が直接意図せずとも、ファンタジーにおいてしかじかの特徴の老人を描いている限り、ファンタジーの目的に関して共通知識を共有している読者は、「この老人は魔法使いである」と解釈する。この解釈は、作者の直接的な意図がなくとも正当化されうる。*3

 

ジャンル所属が評価にも影響するのは、作品の良し悪しがそのジャンルものとしての良し悪しとしても測られるから。ジャンルは規範的[normative]であり、ある作品がどのジャンルに属するか述べることは、その作品がどのような目的を果たすべきか述べることに等しい。

ジャンル自体の評価は、個別作品の評価ではなく、ジャンルごとに特徴的な目的に関する評価となる。「怖がらせる」という目的自体が無意味なので、〈ホラー〉はくだらない、みたいな。

あとはウィニングランとして、説明要件をそれぞれチェック。

  1. ジャンルには歴史がある:ジャンルの目的達成手段として、慣習的に固まった手段が変化していくから。ジャンル慣習の変化をもたらすのは、①マンネリ化(そろそろ別の手段を使ってみよう)、②テクノロジーや社会規範などの外的要因(禁じられてきた手段が使えるようになった)。
  2. ジャンルはメディアをまたぐ:ジャンルの目的は、メディアに限定されることなく達成されうるから。手段はもちろんメディアごとに異なる。
  3. 個別の作品は複数のジャンルに属しうる:目的が複数あるから。互いの目的を調整しあうような複数ジャンルの場合には、ハイブリッドジャンルとなる。
  4. ジャンルには階層がある:目的自体が階層的だから。

 

✂ コメント

相変わらずグライスっ子なのが微笑ましい論文だった。どうも「グライスを使って美学やろう」というのがエイベルのプロジェクトというか、基本路線らしい。カリーもフィクション論でグライス使う人なので、影響関係が分かりやすくてよい(ゼミとかで読むんだろうな)。

私が気になるのは、ジャンル所属の要件だ。まず、特徴ベースのカリー説より、目的ベースのほうがよいというのは説得的だろう。思うに、ここで言われている共通知識は、微修正すればいわゆる制度説になるのではないか。だが、そうなると、意図なしでもやっていける気がする。意図は、「めっちゃ笑える非コメディ作品」や「まったく笑えないコメディ作品」をカバーするためのアイテムだろうと予想するが、その辺も制度がどうにか振り分けてくれるか、どうにもならないんだったら、めっちゃ笑えるものは意図に反してコメディであるし、まったく笑えないものは意図に反してコメディではない、で不都合ない気もする。いずれも、気がするだけで詳細なコメントはできないが。

ジャンル含むカテゴリーが、意図に関わらずある種の集団的取り決めとして決まる、というのは直観的にも実践的にもそうだと思うのだが、どうだろうか。エイベルは、芸術の定義やフィクション論でも制度説を推していて、その点でも考えていることはそんなに相違しないはず(どちらも読んでいない)。

この話題に限らず、制度説が盛り上がっていく機運を感じるなどした。とりあえず生協でグァラを買ってきた。

あと、ジャンルにも関わるが、批評・評価・カテゴリーあたりの話を5月の応用哲学会で発表する予定だ。こうご期待。

*1:描写理論でもそうだが、エイベルは「描かれている」「表象されている」を、what is said的なレベルよりも語用論的なレベルで考えている(スネ夫のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いていない"、と言いたい)。いつもの話なので割愛するが、言葉上の問題として、私はこういう仕方で「描かれている」「表象されている」を用いるのに賛同していない(スネ夫のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いている"、と言いたい)。村山さん論文へのコメントなどを参照。

*2:笑えないコメディや笑える非コメディをカバーするために、エイベルは意図主義にコミットしている。あるジャンルXが意図されており、かつもしその映画がXの目的を達成するとしたら、それはXの目的に関する共通知識のおかげである、という定義。笑えないコメディもこの限りで〈コメディ〉に属するし、笑える非コメディは意図されていない点ではじける。

*3:エイベルは「別世界を論理的に描くという目的を意図しつつ、その結果として、ファンタジーを生み出した小説家」として例示しているが、ここがよく分かっていなくて混乱している。「別世界を論理的に描く」という目的は、前述の箇所だと〈SF〉の目的であり、〈ファンタジー〉の目的ではなかったからだ。これは、単にエイベルが書き間違えているのか、あるいは「SF目的を意図して書いたが、ファンタジーになった」というケースがあることを認めているのかわからない。後者を認めるなら、より許容的な意図主義ということになるが、上の定義でどうカバーされているのか読みとれない(意図されていないなら、どうにしても〈ファンタジー〉には所属しえないのでは)。

「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2

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noteに「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」という記事を載せたら地味に伸びたうえ、森さん、松永さん、ネットユーザーの皆さんからそれぞれコメントを頂いたので、いくつか応答しておく。

 

1.「人それぞれ論法」「たとえ論法」はやめましょう

noteでは、倍速肯定派の「人それぞれ論法:どう見ようが自由でしょ」および倍速否定派の「たとえ論法:映画を倍速で見るとか、アレと同じようなもんだぞ」に関して、「こういう論法は議論にならないので、やめましょうね」と指摘している。私の指摘があまり説得的ではなかったのか、はなから読んでいないのか、Twitterはてブにおける反応の多くはこういった「人それぞれ論法」「たとえ論法」を焼き増したようなものであった。おかげで、肯定派にも否定派にもこっぴどくマウントされたわけだが、この手の反応は「議論なんてしたくない」というのが実態だろうから、特に言えることはない。(「美学ぎらい」に関しては、そのうち誰か書いてください。)

とくにひどかったのは、倍速肯定派だった(ちなみに、数で言えば肯定派のほうが相対的に目立っていた)。私のnoteは肯定派を擁護するものであり、タイトルが反語だというのも書いたはずなのだが、一体なにが気に入らないのか*1

 

2.倍速鑑賞が取りこぼしてしまうもの

2.1.「失礼な鑑賞」について

森さんからのリプライ、論点は三つある。第一に、「作者の意図に反する」ことはただちには「失礼である」とは限らない、とのこと。

ひとつはっきり言えるのは、解釈レベルでは、作者の意図に反する(もしくは作者の意図を考慮しない)解釈をすることが、失礼にはならないケースが多々ある、という点だ。作品をきちんと作品として十全に味わおうとしているのであれば、そうした自由さはおおむね許容される。深読みによって編み出された、作者の意図していなかった解釈が、主流の解釈になることはあるし、それが作者によって事後的に許容されたりもする。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

私も、この補足には同意すべきだと思う。noteでは「①鑑賞xが作者の意図を踏まえていないならば、xは失礼であるかつまたは真正ではない」を前提として立ててみたが、これは単純化しすぎだったかもしれない。

とはいえ、「失礼である」見込みが高い状況として「作者の意図に反している」があり、「作者の意図に反している」見込みが高い状況として「倍速で鑑賞する」があることぐらいは言えるはずだ。であれば、①の前提をもう少しゆるい仕方で立てる限り、その後の議論ができなくなるほどの欠陥は生じないだろうと思う。いずれにせよ、「失礼な観賞」の実態については、森さんの今後のお仕事に期待。

 

2.2.回復可能性について

森さんによる第二の論点は、「倍速視聴はほんとうに回復可能なのか」というものだ。

倍速視聴がとりわけ取りこぼしそうなのが、その「反応の落ち着き」の効果である。ゆったりとしたカメラワークや、会話の中であえて設けられる間。こうした技法は、そこまでの反応を落ち着かせるために使われることも多い。また、スローなテンポの音楽がアップテンポになってしまって、テンションが上ってしまったら、演出は台無しだろう。銭さんも音楽は倍速で聴かないと書いていたが、映画の音楽が倍速化されることはなぜ許容されるのだろうか(逆に映画音楽の効果が想像・追体験可能なのであれば、なぜ音楽鑑賞も倍速でやらないのだろうか。)。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

森さんはとりわけ、映画鑑賞において重要な「身体反応」について指摘し、このような反応は倍速鑑賞によって奪われ、また回復可能でもないと主張されている。

第一の応答として、「回復可能である」に関する私の定式化には、我ながら姑息なところが含まれている。まずはこれを強調しておきたい。

回復可能かどうかは鑑賞者相対的である:特定の仕方での逸脱的鑑賞が、回復=意図された鑑賞の正確な想像・追体験を妨げるかどうかは、鑑賞者の認知的能力に依存するがゆえに、鑑賞者相対的である。

これを踏まえ、私が擁護しているのは、「各々の認知能力によって回復可能な範疇でなされる倍速鑑賞」に過ぎない。そして、この能力は身体反応の想像・追体験に関しても当てはまるものだと考えている。

例えば、ホラー映画に対しては「怖がる(発汗、震え、動悸など)」という身体反応がある。このような身体反応がホラー映画鑑賞においては重要なのだが、倍速鑑賞だと失われてしまうかもしれない、ということについて私はまったく同意である。ゆえに、だからこそ、私はホラー映画(とりわけ、状況がおどろおどろしくなってきたあたり)を倍速で見ることはほとんどない。それは、私にとって回復可能ではないからだ。一般的にいって、ホラー映画が倍速鑑賞向きじゃないのはそのとおりだろう。しかし、私が思うに、身体反応を含め想像・追体験する能力は原理的に不可能ではないし、経験を積んだ鑑賞者には多かれ少なかれ備わっているかもしれない。

極端なケースとして、次のような状況を考えよう。認知能力を拡張するチップを脳に埋め込んだおかげで、4倍速までなら、適切に筋を追えるだけでなく、身体反応を想像・追体験することもできるような改造人間がいたとしよう。彼に対して「倍速鑑賞したら、真正な鑑賞になりませんよ」と述べるのは馬鹿げている。彼はまさに、その拡張された認知能力によって、4倍速までならいかなる場合でも「ふつうの鑑賞を想像・追体験可能」なのだ。*2

私がnoteで示唆しているのは、彼みたいな改造人間でなくとも、われわれ現実の人間には各々これに準ずる「回復」能力が先天的・後天的に備わっており、このことは「各々の能力に応じた範疇でなされる倍速鑑賞」を正当化しうる、という主張だ。すなわち、物語の筋といった情報だけでなく、森さんの懸念する「身体反応」についても、その範囲内では回復可能だし、回復不可能だと判断できる場合には倍速鑑賞をすべきではない、というのが私の立場になる。*3

「反省的思考をさせるため」ような頭脳のための間であれば、想像や思考によって補うこともできるだろう。だが、頭がいい人でも身体反応を倍速化することは(ふつうは)できない。ふつうの人は、その効果を取りこぼすだけだろう。(もっとも倍速視聴のために苦しい修行を積めば、倍速視聴に適応した倍速身体を獲得することもできるのかもしれないが)。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

倍速身体の獲得に、苦しい修行は必要ない。映画にまったく親しんでいない子供は0.5倍速で見ないとなにがなんだか分からない、ということもありうるだろう。この子にとって、等倍速で見れることはすでにひとつの上位能力である。

もっとも、回復可能性に関して、認知科学的にどのようなことが言えるのかはまったく定かではない。実証的な研究によって、回復可能性がでっち上げだと否定されるならば、私もそれを甘んじて受け入れようと思うのだが、むしろこれを肯定するような実験結果が出るのではないかと期待している。

 

2.3.回復可能かどうかの判断について

倍速視聴で見てしまったけど実は間をすごく上手に使う作品だった、という場合、ネタバレ情報を先に読んでしまったケースと同じく、もはや取り返しはつかない。銭さんは「音楽のある場面や緊張感のあるシーンやクライマックスでは等倍にすればよい。」と書いていたが、その判断はいつやるのか。

大事そうな場面だけ巻き戻して見直したとしても、初見時に味わえていたはずの驚きやサスペンスといった効果を、二度目の普通速視聴で十全に味わうことはできないだろう。ここでも結局、「観賞前にネタバレ情報を読みに行くことは悪い」と主張するときと、ほぼ同様の論点が当てはまる。倍速視聴はリスクであり、そのリスクを犯す点で作品を適切に扱っていない。「とりあえず倍速で見て、ちゃんと味わったほうが良さそうだったらちゃんと見るわ」と作者に伝えたら、多くの作者はガッカリするだろう。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

 もっともな懸念であるが、そんなに心配すべき事柄でもないと思う。われわれは映画を見ながら、ある程度正確な期待をしうるだろう。ホラー映画において夜が来たら、恋愛映画において男女の会話が始まったら、コメディ映画においてひょうきんなやつが出てきたら等倍速にすればいいのだ。

このような期待を次々と破るような作品も存在する。そういった映画に関して、倍速鑑賞を仕掛けることは、森さんの言う通り「リスクを犯す」行為だろう。よって、私としても、このような作品に倍速鑑賞を仕掛けることは回避したい。この点、私は鑑賞に先立ち、それが典型的な筋の映画などではなく、思いもよらぬ展開を含み、目が離せないような作品であることをある程度ネタバレ接触した上で、鑑賞することを推奨する。というより、われわれは多かれ少なかれ予告編やポスターや前評判によってこのようなカテゴリーに関する受動的ネタバレ接触をしており、このことは鑑賞に際して慎重になることを動機付けている。

実際、「倍速でも大丈夫だろう」という誤った期待によって(等倍速で見るのが望ましい)肝心の部分を倍速で流してしまい、後悔することはある。が、そのような頻度は高くないし、適切な期待能力が上がれば上がるほどその頻度は下がるだろう。つまるところ、私にとって倍速鑑賞を擁護するとっかかりとは、「私は認知能力/期待能力が高いので、倍速でも大丈夫」という鑑賞者の自信にあり、あとは各々の能力および鑑賞目的と照らし合わせて、リスクを取るだけのメリットがあるのかどうか判断すればいい、という考えだ。

 

3.倍速鑑賞が付け加えてしまうもの

単純な例を出せば、一定以上の倍速にすると動きやしゃべりがコミカルに見える傾向があるというのは比較的共有されている感覚だろう。このコミカルさという質は、感動やサスペンスやホラーような質との両立が一般に難しい。この手のケースにおける回復は、コミカルさを除去したうえで感動やホラーを想像・追体験することだということになるだろうが、それをやるのは相当奇妙な能力を持ってないと困難なのではないか(たとえばコミカルさに対して極度に鈍感であるというような)。

倍速の美学 - 9bit

松永さんの懸念は、倍速鑑賞によって取りこぼされてしまう性質よりは、付け加えられてしまう性質、すなわち倍速鑑賞上のノイズにある。実際は「緊張する」べき場面が、1.5倍速だと「笑える」場面に見えてしまう場合、コミカルさを取り払いながら緊張感を取り戻すような回復は難しいのではないか、という見解だ。

もっともな見解である。つまるところ「回復」というのがどのような認知的プロセスなのか私には詳説できないので、松永さんの指摘はそれを疑うだけの根拠を付け加えたことになる。

現段階でできる応答としては、以下ぐらいだろうか。

  1. ノイズがノイズであることには、ほとんどの場合気がつける。1.5倍速において笑える映画が、実際に「笑える映画だ」と判断する鑑賞者はほとんどいないだろう。不適切な性質帰属は、鑑賞中になされる(速くて思わず笑ってしまう)としても、鑑賞後に反省的に除外できる(あそこは、実際には笑う場面ではない)限りで、そんなに問題はない。
  2. ノイズの裏に適切な情報や反応を読み解くのは、一般的な認知的課題である。映画鑑賞に限られず、広義のコミュニケーションにおいて、我々は不適切な環境/体調/信念/etc.のもとで適切な情報や反応を取り出さなければならない場面があり、そして、そのような課題はしばしば達成されている(でなければそもそもコミュニケーションなど無理だろう)。このような能力は、ノイズを取り払うだけでなく、適切な情報や反応を取り出す能力をも搭載しているはずだ*4。私が考えている「回復」のための認知能力は、このような一般的認知能力の延長であり、なんら超人的でもなければミステリアスなものでもない。

上のふたつで松永さんに対して有効な応答ができたかは定かでない。どうも、私には「回復はありまぁす」以上の主張ができないようだ。つまるところ、決着をつけるのは実証研究だ、というのは松永さんも同意してくださるだろうか。

 

4.倍速鑑賞者は作品について語る資格なし?

Twitterはてブで目立っていた見解として、「倍速鑑賞するのは自由だが、そんなんで作品を語らないで欲しい」というものがある(「人それぞれ論法」の亜種)。是非はともかく、このような意見が目立っていたという事実は興味深い。当の見解からは「にわかは作品を語るな」と同型のマウントが感じられないでもないが、そういった邪推は一旦脇に置こう。

気になるのは、ここで禁止されている「語る」とはいかなる語りなのか、という点だ。第一に、作品に関する語りはプロフェッショナルな批評から、SNSでのユーザーレビューまで幅広い実践として存在する。その全部において、倍速鑑賞したものが「語る」資格を剥奪される、というのは厳しすぎるだろう。第二に、「語り」の内実は価値付けなのか解釈なのか文脈付けなのか定かではない。そのなかには、倍速鑑賞を踏まえた上でなされることが規範的に禁止されるような種類の語りもあれば、そうでないような語りもあるだろう。「倍速で見たけど、駄作だったな」という価値付けが不当であるとしても、「倍速で見たけど、あの場面は全体主義への風刺だろうな」という解釈や、「倍速で見たけど、あれはマジックリアリズムだね」といった文脈付けが不当になるのはおかしいだろう。

さしあたり、「倍速鑑賞をした上で、作品の良し悪しを語るのは不当だ」という主張に限定してみよう。残念だが、これでもまだ一般的にはなりたたない。「倍速で見たけど、意外などんでん返しがあって面白かったよ」と述べるのは明らかに正当であり、「倍速で見たけど、みんな早口でキモかったな」と述べるのは明らかに不当である。「意外などんでん返しがある」のは倍速鑑賞と無関係だが、「早口でキモい」のは倍速鑑賞のせいである。すなわち、倍速鑑賞に基づく理由付けのもとでなされる価値評価は不当だが、そうでない価値付けは正当なのだ。

よって、「倍速鑑賞するのは自由だが、そんなんで作品を語らないで欲しい」は、価値付けに関する限り、「倍速鑑賞しておいて、倍速鑑賞に基づいた理由付けのもとで作品の良し悪しを語るのは不当だ」という主張として展開されるのがせいぜいのところだ。これはそんなに強い主張ではないし、私もまったくの同意である。

理由付けは、より慎重な鑑賞を踏まえてなされるべきである。シリアスな批評家は作品を何回も鑑賞することで良し悪しの理由を精査するだろうし、精査するべきだ。*5

結局、倍速で見ても、多くの解釈や価値付けは正当なものとしてなされうる。「倍速鑑賞者は作品について語る資格なし」という見解は、不毛なマウントでないとしても、一部の「語り」にしか当てはまらない。倍速で見ようが、作品に関して正当な仕方で語れる事柄はたくさんあるのだ。*6

 

 

*1:匿名なのをいいことに汚い言葉を使う有象無象は、長期的にはひどい目に遭います。どうかおもいやりインターネットを。

*2:埋め込みたいかと言われれば私は埋め込みたい。反感があるのならそれもまた美学だ。

*3:回復された身体反応は、つまるところ想像・追体験であり、文字通りの身体反応ではない、というのをおそらく森さんは気にしている。ここには鑑賞の目標に関する相違がありそうだ。森さんは、怖がるべきところで文字通り怖がらなければならない(「身体を切り捨てた観賞はあまりしたくはない」)、と考えているようだが、この鑑賞観に同意すべきかどうかは現段階ではよく分からないのが正直なところだ。

*4:具体的に考えているのは、グライスの「会話の含み」みたいな推論能力だ。これに準じた能力が倍速鑑賞の回復においてどう機能しているのかは、私には説明できないが。ところで、グライスの「会話の含み」はノイズ除去には使えるが、適切な情報を取り出すのには無力である、という見解もある(デイヴィスだったかな)。私の「回復」に関しても、同様の反論は可能だろう。

*5:ネタバレ接触と同じく、倍速によって損なわれる鑑賞経験は極めて肝心なので、初回の鑑賞でネタバレ接触したり倍速鑑賞した鑑賞者には、もうその作品についてシリアスな批評ができない、という立場も考えられる。私は、このような立場がまったく直観的でもなければ魅力的でもないと考えている。「緊張感あふれる傑作だ」と語る上で批評家がすべきことは、作品に緊張感を与える能力が備わっていることを示すことであり、当人が実際に緊張する必要はない。ネタバレ接触や倍速鑑賞は、後者を妨げるかもしれないが(精査する限りで)前者を妨げることはない。少なくとも、それが私の批評観だ。

*6:ところで、褒めるのはいいけど、倍速で見ておいて貶すのはNG、という見解も見受けられた。自分の好きな作品を不当に貶されたくない、という感情的な側面は理解できるが、残念ながらこれも一般的な規範にはなりえない。私は『死霊の盆踊り』を4倍速で見たが、これが駄作であることを正確に理解したし、「倍速で見たけど、とんでもない駄作だった」という私の発言は、『死霊の盆踊り』に関して正当なものである。

レジュメ|Moonyoung Song「美的説明の選択性」(2021)

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Song, Moonyoung (2021). The Selectivity of Aesthetic Explanation. Journal of Aesthetics and Art Criticism 79 (1):5-15.

 

最近のJAACに載っている論文。「美的なもの[the aesthetic]」についての最新研究です。*1

 

【Abstract】広く認められているように、芸術作品が特定の非美的性質を持つことは、特定の美的性質を持つことを説明する。このような説明の興味深い特徴のひとつは、その選択性[selectivity]である。すなわち、美的性質の存在が依存する非美的性質のうち、一部のみが引用されるのだ。そこで、選択される非美的性質と、選択されない性質とを区別するものはなにかという問いが生じる。私は、ローラ・フランクリンホール[Laura Franklin-Hall]による因果的説明の選択原理をモデルとした選択原理を提案することで、この問いに答える。それによると、説明は、デリバリー(説明に引用された要因が被説明項を様相的に堅牢[modally robust]にする度合い)とコスト(説明に含まれる情報量)の比率を最大化するような一連の要因を選択する。 (Song 2021)

  • 1.イントロダクション
  • 2.シブリーの選択原理
  • 3.因果的説明の選択性
  • 4.美的説明のための選択原理
  • ✂ コメント

*1:著者Moonyoung Songミシガン大学アナーバー校でポスドクをされている方。フィクションにおける情動芸術的価値と道徳的価値の相互作用についての論文も書いています。受け入れ先はウォルトンの研究室だったりするのだろうか。

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