レジュメ|ケンダル・ウォルトン「画像とおもちゃの馬」(2008)

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昨年の夏に碑文谷公園で見かけた猫

Walton, Kendall L. (2008).Pictures and Hobby Horses: Make-Believe beyond Childhood. In Kendall Walton, Marvelous Images: On Values and the Arts. Oxford University Press.*1

はじめに|ウォルトンによる描写の哲学

今回はケンダル・ウォルトン(Kendall Waltonによる描写の哲学。ウォルトンが描写について書いている論文はいくつかある。参照文献を兼ねて、以下にまとめておこう。

  • Walton, Kendall L. (1973). Pictures and Make-believe. Philosophical Review 82 (3):283-319.

描写論に限らず、後にウォルトンの中心的なテーゼとなる「ごっこ遊び理論(Make-Believe Theory)」が提出された最初期の論文。

虚構的命題の真偽にまつわる形式的な議論など、わりかし硬派な論述をしている。

 

  • Walton, Kendall (1992). Seeing-In and Seeing Fictionally. In J. Hopkins & A. Savile (eds.), Psychoanalysis Mind and Art. Blackwell. 281-291.
  • Walton, Kendall (2002). Depiction, Perception, and Imagination: Responses to Richard Wollheim. Journal of Aesthetics and Art Criticism 60 (1):27–35.

ともにリチャード・ウォルハイムの描写論に対するコメンタリー。

ちなみにウォルハイムからウォルトンへのコメンタリーもある。両者の論争(?)については清塚さんによる以下の論文がくわしい。

 

ウォルトンの主著。描写に関する話は第8章で扱われている。既発表論文を元にした節が多め。右も左もわからないころに翻訳をペラ読みしたが、あまり覚えていない。

 

  • Walton, Kendall L. (1976). Points of View in Narrative and Depictive Representation. Noûs 10 (1):49-61.

画像に小説のような「語り手(narrator)」はいるのか、という問題。未読。

 

  • Walton, Kendall L. (1984). Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism. Critical Inquiry 11 (2):246-277.

obakeweb内で無限に言及しているWalton 1984。写真の「透明性」を訴えた論文。

ウォルトン理論を俯瞰したとき、「透明な画像」の写真論はいわば「スピンオフ作品」だというのが僕の見解だ。実際、ウォルトンが写真経験に対して認めている性格は、彼が包括的な表象論として意図しているであろう「ごっこ遊び理論」から見ると、分かりやすく例外としての位置を占めている。さしあたり、本記事に写真の特殊性についての話は含まれない。

 

本記事で紹介する論文および上に挙げたいくつかは、論集『Marvelous Images: On Values and the Arts』に収録されている*2。美的価値に関する論文や、かの有名な「Categories of Art」(1970)も入っているので、一冊を手に入れて間違いない書籍である。

 

「画像とおもちゃの馬」(2008)は、自身が提唱するごっこ遊び理論のまとめと、それによる画像経験の説明を試みた論文である。

個人的な反省として、写真論を除くウォルトン理論については、かなりざっくりと理解してしまっている部分があったので、復習を兼ねて読んでみた次第。割と丁寧めにまとめたので長いです(1卍超え)。

*1:論文の出自については注1に書かれている。元となったのは1991年のレクチャー(ゆえに、語り口はやわらかめ)。その後、1992年にArt Issues誌に5ページの短い研究ノートが載り、1994年に長いバージョンがPhilosophic Exchange誌に載っている。Susan FeaginとPatrick Maynard編の『Aesthetics』にはひとつを残して図を省略したバージョンが載っている。

*2:姉妹本である『In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence』には音楽の哲学、メタファー論、フィクションの情動などが収録されている。

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レジュメ|グレゴリー・カリー「視覚的痕跡:ドキュメンタリーと写真の内容」(1999)

Currie, Gregory (1999). Visible Traces: Documentary and the Contents of Photographs. Journal of Aesthetics and Art Criticism 57 (3)-285-297.

 

分析写真論としてはWalton 1984と並び、写真の「情動的能力(affective power)」「現象学的特権(phenomenological privilege)」に関する定番論文の一つ。映画関連のアンソロジーなんかにも収録されている。

 

レジュメ

1.イントロダクション*1

中心的な課題は、(主に)映画における「ドキュメンタリー(documentaly)」概念の定義。

「現実を映している」ぐらいのゆるい定義だと、実写映画はすべてドキュメンタリーということになってしまう。これはまずい。どうやって絞っていくか。

まずは写真的表象(photographic representation)=フィルムを使ったイメージ(film image)の二重性(duality)について整理している。写真論的にはこの辺が重要。

 

2.「痕跡」と「証言」

カリーいわく、写真の内容には二種類ある。

画像による内容の伝達は、「痕跡(traces)」として伝達する場合と、「証言(testimony)」として伝達する場合がある。法廷における情報源としての「痕跡」と「証言」をアナロジーにしているっぽい。

ざっと、前者は客観性ゆえに伝達される必然的な内容で、後者は意図や文脈依存的な内容。写真は対象の「痕跡」だが、絵画は頑張っても「証言」止まり。

痕跡はウォルトンが指摘したような信念独立性を持つ。写真は足跡やデスマスクと同じ痕跡である。

手が滑って写真が出来上がることはあるが、手が滑って絵画が出来上がることはない。

 

3.痕跡でもミスリードになりうる

とはいえ、写真が痕跡であることは、ドキュメンタリー映像がミスリードになりうることを排除しない。製作者がなんらか誤解していたり、観客を誤解させようとする意図を持っていた場合、映画は観客をあざむく。

ここで、誤解されうる内容は、「証言」として伝達されている。

「○○の写真(photograph of)」と「○○についての写真(photograph about)」を区別する。of対象はつねに現実のものであり、写真映像はof対象の「痕跡」である。一方、about対象は虚構的な対象でも可であり、写真はabout対象の「証言」となる。

 

4.痕跡であるがゆえの価値について

次に、痕跡であることはなにが特別なのか確認しておく。認識論的価値、情動的価値をめぐる節。

写真的映像は認識論的価値が高めケネディ暗殺の映像から、撃たれた回数についての知識を形成することができる。痕跡であるおかげで。

写真的映像は情動的価値も高め。写真で見るのは絵画で見るのよりも相対的にショッキング。もちろん、直接見るのが一番ショッキングだが。情動喚起パワーは、痕跡であることによって得られている。

ウォルトンは写真が透明であるとまで言っているが、カリーは痕跡であるというコミットメントにとどまりたいらしい。

 

5.ドキュメンタリーにおける物語

ようやくドキュメンタリーに戻ってくる。

痕跡であることはドキュメンタリーにとって必要そうだが、明らかに十分ではない。あらゆる実写映画はカメラを用いて撮影されている点で、「役者の演技」の痕跡だが、だからといってドキュメンタリーとは限らない。

また、ドキュメンタリーにも物語(narrative)がある。これが虚構的になってはいけない。ドキュメンタリーの物語は現実の事実に即している必要がある。

映像によって物語に意味を与えるのがドキュメンタリー映画、物語によって映像に意味を与えるのがフィクション映画、とのこと。

 

6.写真的内容は非概念的

なぜかまた寄り道。

フィルムイメージの二つの内容(痕跡=of対象=「写真的内容(photographic content)」と、証言=about対象=「物語的内容(narrative content)」)は、知覚の哲学的にも区別できる。

信念(beliefs)と知覚(perception)の区別として、前者は概念的内容(conceptual content)を持つが、後者は持たない。*2

ここで、写真的内容は非概念的だが、物語的内容は概念的だと言える。

写真Sの作者Xは、対象Pについての概念を持っていなくても(すなわち、見てもなんだか分からないとしても)、Pの写真を制作することができる。

 

7.ドキュメンタリーの緊張

物語としては一貫していながら、ミスリードな内容を含むドキュメンタリーには独特な緊張がある。

フィクションにおいてはこのような緊張はない。製作者が事実を誤認していたとしても、映画自体は誤った内容として一貫している。一方、ドキュメンタリーにおいては、物語的内容と写真的内容の間に齟齬が生じうる。

理想的なドキュメンタリー(ideal documentary)においては、それを構成するフィルムイメージが写真的な仕方のみで表象を行う。これを作業仮説とする。

 

8.部分と全体の問題

次に、部分と全体の問題を考えなきゃならない。

映画全体が真正なドキュメンタリーであったとしても、部分部分に非ドキュメンタリーなニセの素材が含まれている可能性がある。ワンシーンだけセット撮影、など。

ここで、「ドキュメンタリー部分(documentary parts)」が真にドキュメンタリー的であるのは、それが真正なドキュメンタリー映画の一部であることによって定められる。

しかし、「真正なドキュメンタリー映画」は、そもそも真正な「ドキュメンタリー部分」によって構成されていることを必要条件とする。

すなわち、ここには循環がある。部分が真正ではじめて全体は真正だし、全体が真正ではじめて部分は真正になる。このあたり、カリーは結構まじで苦戦している。

いろいろ調整した結果として↓

ドキュメンタリーの定義

部分Aは真正なドキュメンタリー映画Bの真正なドキュメンタリー部分であるiff

①AはBの部分である。

②AはフィルムによるPの痕跡であり、Bという(主張された)物語内においては、痕跡であることによってPに関する情報伝達に寄与する。

③Bのフィルム的部分は、そのたいていが、Aのような部分によって構成されている。

これで、フィクション映画もはじけるし、フェイクドキュメンタリーもはじけるし、伝記映画のような事例もはじける。

 

9.その他いろいろ①

痕跡でありかつ証言でもあるような面倒なケースを見ていく。

ヒトラーのドキュメンタリーにおけるナレーションは、ナレーターの声の痕跡だが、ヒトラーの痕跡ではない。ゆえに、映画においては痕跡としての映像と証言としてのナレーションが混在している。

このように考えると、ナポレオンについての(ナレーションによる)証言は存在しても、(映像による)痕跡は存在しないので、「ナポレオンのドキュメンタリー」は不可能ということになる?

カリーはこの帰結を認めた上で、ナポレオン-についての-ドキュメンタリー(documentary-about-Napoleon)は不可能だが、ナポレオンに関連するドキュメンタリー(Napoleon-related-documentaly)は可能だ、的なことを言っている。専門家のインタビューを集めた映像は後者。

こうなってくると、テレビのレクチャー番組や、スポーツ中継も、ドキュメンタリーということになるが、この辺はなぁなぁにしている。

最後に、芸術作品を「歴史的概念(historical concept)」とみなす立場についてコメントしている*3。「ドキュメンタリー」もその線でいけそうだが、カリーはそもそも芸術作品の歴史的定義に与しないので、ドキュメンタリーについても支持しないらしい。*4

 

10.ドキュドラマについて

事実に基づきつつ脚色を加えたドキュメンタリー・ドラマ(Docudrama)について補足。

たいていのドキュドラマはフィクション映画だと言ってしまってかまわない、とする。製作者の意図によって再構成された映像を多数含むため、信念独立ではなく、痕跡的なドキュメンタリーではない。

 

11.その他いろいろ②

残された課題について整理。

上の議論ではおよそショットを単位として考えていたが、単一のショットにおいてドキュメンタリーかどうか定かでないような事例がある。ディズニーランドのドキュメンタリーで、ディズニーランドを映像として映しつつ、画面端にミッキーのアニメーションを映しているようなショットなど。

これをどう考えればいいのかマジでわからん、的なことを書いている。

 

✂ コメント

必要十分条件云々の定義論に関しては、個人的にほとんど興味ないのでノーコメント*5。流石に議論が飛び散りすぎだろ、と思うがその辺の構成についても保留。

 

「痕跡/証言」「of/about」「非概念的/概念的」「写真的/物語的」と二項対立を連発しながら、写真的映像を特徴づけているのが、写真論的な見どころか。*6

実際、「痕跡ゆえの価値」というくだりがだいぶルーズなので、いまいち説得的ではない。大筋としては言っていること(痕跡なので、知識形成においては役立つし、特別な情動的経験を与えてくれる)には異議がないが、痕跡だから価値アリというナイーヴな議論はやや不安だ。

また、「痕跡かどうか」という別の定義論については、スクルートンやウォルトンに軽く触れているぐらいで、ほとんど扱っていない*7。「自然的な反事実的依存関係を持つ」ことは「痕跡である」ことにとって十分ではなさそうなので、この辺もうちょい詰めてほしかった(タイトル的にはむしろこっちを期待していたな)。*8

分析写真論ではPettersson 2011が「痕跡としての写真」説を打ち出して、カリーをフォローしている。カリーを読んでから考えるとそこまで目新しいことを主張しているわけではないと分かるのだが、痕跡かつ描写である画像の経験や、認識論的価値と情動的価値の絡み合いなど、カリーがサボっている論点を詰めてくれるので、真面目だなぁと思う。

 

*1:見出しは適時ぼくがつけています。

*2:知覚の哲学についてはそこまで明るくないが、概念的かどうかで信念と知覚を切り分ける議論は、たぶん古めのもの。ティム・クレーン(Tim Crane)の1992年の議論を参照しているらしいが、なんだか眉唾なくだりに思われる。知らぬけど。

*3:ジェラルド・レヴィンソンやノエル・キャロルの立場だったと思う。

*4:この節の終わりで唐突に「There may be more to documentary than I have been able to excavate, but I hope I have uncovered at least part of its structure.」というドロンをかましているが、突然言い訳されても困る。しかも論文はもうちょい続く。

*5:定義として成功しているかは置いといて、ドキュメンタリーの特徴づけとしてオモローかどうか聞かれれば、いまいちだとは思う。

*6:ちなみに、この手の区別としてはMaynard 1997の「の写真 (photograph of)」vs「の描写(depiction of)」が有名だが、カリー論文では引用されていない。うーむ。

*7:ウォルトンについても、「...photographs are not representations at all. Rather, they are like windows, mirrors, and telescopes: aids to sight」という立場として説明されているが、これは普通に誤り。ウォルトンは「写真は画像表象であり、かつ、視覚の補助である」という立場なので、「not only ~ but also」とすべきところ。同様の誤解(単純化されたウォルトン理解?)はカリーに限ったものではないので、修論ではこの辺めちゃめちゃ責めたつもり。

*8:例えば、「時刻を同期している二つの時計AとB」みたいな事例を考えたときに、時計Bは時計Aの痕跡か、と言われればノーと答えたくなる。

レジュメ|アーロン・スマッツ「『ピックマンのモデル』:ホラーと写真の客観的意味」(2010)

Smuts, Aaron (2010). 'Pickman's Model': Horror and the Objective Purport of Photographs. Revue Internationale de Philosophie 4:487-509.

 

分析美学の遊撃兵ことアーロン・スマッツ(Aaron Smuts)による写真×ホラー論。

昨年の若手フォーラムで発表した「不気味な写真の美学」には組み込めなかった一本。遅ればせながら目を通しました。

 

レジュメ

タイトルはラヴクラフトの小説より。青空文庫で読めます。

グロい怪物の絵を描く知人の家に行ったら、グロい怪物の写真が見つかり、なんと怪物は実在でした!という話。

 

このような物語が示唆するのは、「写真は写真ゆえに怖い」という仮説。

とりわけ、虚構的なホラー映画において、その怖さを効果的に引き出しているのは、写真が写真ゆえに持つ性質なのか?というのが本題。

 

写真の客観的意味(objective purport)

写真が“写真ゆえに”怖いとはどういうことなのか。

ナポレオンの弟の写真を見ていたロラン・バルトは、「かつて皇帝を見たその目が、私を見つめている!」と大興奮だったが、これはどういうことか。いろんな人がいろんな説を提唱している。*1

 

  • アンドレ・バザン「写真映像の存在論」(1945)によれば、①写真はそれを通して被写体を見ることができるし、②被写体の痕跡だし、③その経験は写真のメカニズムに関する我々の知識に基づくし、④なんなら写真は対象そのものである。

このうち、④は口が滑っただけなので無視してよいが、それ以外の三つについてはその後議論される論点がおよそ出揃っている。

  • ケンダル・ウォルトン「透明な画像」(1984は①を引き継ぎ、写真は鏡や望遠鏡や眼鏡と同じく透明なので、それを通して被写体を見れると主張する。

  • グレゴリー・カリー「視覚的痕跡」(1999)は②を引き継ぎ、写真は被写体の痕跡なので、特別な情動的経験を観者に与えると主張する。
  • バーバラ・E.サヴドフ「変化するイメージ」(2000)は③を引き継ぎ、写真の観者はどうしても写真を客観的なものとして見ちゃうと論じる。

いずれの論者も、写真が写真ゆえに持つ情動喚起パワーについて論じており、スマッツはこのような性質をまとめて写真の「客観的意味(objective purport)」と呼ぶ。訳は適当なので、以下ではOPと呼ぶ。

 

ホラー映画とOP

ホラー映画の怖さも、部分的にはOPに由来すると予想されるだろう。

ぼやぼやした、不鮮明な、ホームビデオ風の映像に映る怪物は、なるほどめっちゃ怖い。

 

具体的な事例として、スマッツは三つのホラー映画と、そこに見られるOPの役割について検討している。残念ながら僕はいっこも観てない。

 

ジョン・カーペンターパラダイム』(1987)

 

M・ナイト・シャマラン『サイン』(2002)

 

ダニエル・マイリック&エドゥアルド・サンチェス『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)

 

個別事例についての検討は割愛。

これらの事例を見ていると、なるほどOPはホラーの演出に一役買っているように思われる。しかし、それだけではない。

OPとは別に、ホラーにおいて重要なテクニックは、示唆(suggestion)である。

上に挙げた事例しかり、ラヴクラフトの小説しかり、怪物の正体は示唆されるだけで、鮮明には描かれない。これが露骨に出てきたり、説明的すぎる描写がなされると、作品は台無しになる。

不鮮明なビデオもまた、示唆のテクニックに含まれる。ぼやけて、よく見えないがゆえに怖い。

部分的な情報しか与えられない観客は、自らの想像力(imagination)によって空白を埋めようとする。これこそ、ホラー映画の怖さの肝心要にほかならない。

 

ホラー映画が効果的に描かれるかどうかは、示唆および観者の想像力にかかっており、OPにかかっているわけではない、というのがスマッツの主張。

 

なんで二者択一なん?

普通に考えて、OPも関与的だし、観者の想像力も関与的じゃね?というのはごく当然のツッコミ。

まず、OPは怖いホラー映画のための十分条件ではないスティーヴン・スピルバーグ宇宙戦争』(2005)にも写真的な映像を提示する場面があるが、全然怖くない。ここでは、OPが含まれているにもかかわらず、ホラー映画として失敗している。

また、OPベースの説明は、クリップとして部分的に切り取られてきたワンシークエンスが、それでも怖いことを説明できない。示唆&想像力ベースの説明であればできる。

さらに、示唆&想像力ベースの説明であれば、文学的ホラーについても説明できる。OPにはこれができない。

結果的に、OPを関与的だと考える積極的な動機はないと結論づける。

 

✂ コメント

僕は「不気味な写真の美学」でOPをもとに写真の不気味さを論じた(痕跡説)ので、スマッツとは対立する立場。

それでなくとも、「これはやばいだろ」なムーブがいくらか含まれており、ある意味ホラーな論文だった。

  • 後で「OPは関与的でない」ことを主張するのに、OPをもとにして個別事例三つを検討するというくだり(5ページ分)が迷走すぎる。なんのための作業?
  • 「写真的である(OPを持つ)ことがホラー効果に影響するどうか」という論点と、「不鮮明であることがホラー効果に影響するかどうか」という論点を、ごちゃまぜにしているのが心配。論点の切り分けがうまくいっていない。
  • 最終的に、OPを叩く論拠が個別事例(『宇宙戦争』)という大胆さ。
  • 最終的に、自説のメリットを示す根拠が文学的ホラー。え、映画の話だったのでは??
  • 示唆&想像力が関与的であることについては、普通に同意。その上でOPを切り落とそうとする動機は謎。なんで二者択一なん?*2

 

だいぶ間が空いてしまったが、落ち着いたら「不気味な写真の美学」についても書き直したい。そういう気持ちにさせられた点はよかった。

*1:分析美学系の写真論では、写真の「情動的パワー(affective power)」や「現象学的特権(phenomenological privilege)」と呼ばれて議論されている。

*2:示唆&想像力ベースの説明にしても、my solutionを豪語するほど新規性のあるものではまったくない。