描写の哲学ビギナーズガイド

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絵、写真、映画、アニメ、広告、ポスター、地図、ビデオゲーム、デザイン……。画像[picture]ないし画像的[pictorial]なものは、生活のいたるところにある。

本記事は、近年ますます盛り上がりを見せている「描写の哲学[philosophy of depiction]」についてのまとめです。

そもそも画像はなんなのか、なにをしているのか、なにがそんなに面白いのか。

「描写の哲学」とは、画像にまつわるあれこれを紐解こうとする、哲学・美学分野です。

 

今回はビギナーズガイドということで、哲学・美学が専門でない人にも①どんなトピックが争われていて②どの論者がなにを主張しているのか、なんとなく分かっていただける内容を目指しています。

「描写の哲学」の紹介は割に進んでいて、日本語で読める文献も少なくない。よって、本記事はまとめのまとめ、サーベイサーベイとしても使える。もっと踏み込んだ内容が知りたい方は、ぜひ引用先の論文をあたってみてください。

(「取りあげられてないけど、このトピックはこの記事・論文がいいぞ」というのがありましたら、ご一報ください)

 

先に宣伝ですが、2020年1月25日(土)大妻女子大学千代田キャンパスにて、「描写の哲学研究会」という催しがあります。本記事はなにより、当イベントの予習をかねている。

松永伸司さん(@zmzizmの主催で、難波優輝さん(@deinotaton村山正碩さん(@Aiziloと一緒に、セン(@obakeweb)も研究発表をさせていただく予定です。それぞれ異なる切り口から、画像についてあれこれ言い合うイベントになるそうです。こちらもぜひ。

 

  • 1.描写の本性:描写とはなにか? 画像とはなにか?
  • 2.描写の構成:描写内容はどのような構成を持つのか?
  • 3.主張と倫理:画像を使って、なにかを主張する? 画像のわるさとは?
  • 4.情動の表出:画像を使って、悲しみを表出する?
  • 5.リアリズム:リアルであるとはどういうことか? 
  • 6.写真の特性:写真のなにがそんなに特別なのか?
  • 7.文化と批評:描写の哲学 × ポピュラー・カルチャー
  • 「描写の哲学」へようこそ!
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レジュメ|エマニュエル・フィーバーン「画像で嘘をつく」(2019)

Viebahn, Emanuel (2019). Lying with Pictures. British Journal of Aesthetics 59 (3):243-257.

 

発話やテクストだけでなく、画像を使って嘘をつけるのだとしたら、「嘘(lying)」の定義を考え直すべきだよ、という論文です。

 

レジュメ

【ケース①マーサがノラに、「オスカーとポーラがキスをしている合成写真」を送信するケース。ノラは〈オスカーとポーラがキスをした〉と思ってしまう。】

マーサの行為は、嘘をつく(lying)ことにカウントされるのか?

【ケース②「オスカーとポーラがキスをした」というテキストを送信する】のは、明らかにlyingである。しかし、テキストを送る場合も、画像を送る場合も、マーサは騙す意図があり、ノラは等しく騙され、「マーサはノラに嘘をついた(lied)」と報告される。

ただし、「lied-that p」文だと、口頭で発話したという含意があるので、「lied-about p」文で考えるべき。マーサはノラに、〈オスカーとポーラがキスをしたこと〉について嘘をつく。

 

「嘘をつく(lying)」と「誤解を招く(misleading)」の違いはなにか?

【ケース③付き合っていないが、ルームシェアをはじめたオスカーとポーラに関して、マーサがノラに「オスカーとポーラは同棲をはじめた」と伝えるケース。ノラは〈オスカーとポーラは付き合っている〉と思ってしまう。】

このようなケースは、lyingじゃなくてmisleadingだと思われる。

誤解させることを意図していたとしても、マーサは自らが真であると信じていることについて伝達している。これは、マーサ自らが偽であると信じていること(〈オスカーとポーラがキスをしたこと〉)を伝えるのと対照的。

また、こちらのケースにおいて、マーサには否定可能性(deniability)がある。騙されたノラから問い詰められた場合、「〈オスカーとポーラは付き合っている〉とは言っていない」「〈オスカーとポーラは同棲をはじめた〉は事実」だと言い逃れられる。

すなわち、lyingとmisleadingの違いは、否定可能性の有無によって切り分けられる。

 

ここで、【ケース①】のケースには否定可能性がない。ゆえに、嘘をついていると考えられる。

また、同じく画像を用いたケースでも、以下はmisleadingだがlyingじゃなさそう。

【ケース④「オスカーとポーラが、同棲している場面の写真」を送る。ノラは〈オスカーとポーラは付き合っている〉と思ってしまう。】

 

実際、画像を用いた嘘はあちこちにある。(ソ連の捏造写真、「いまどこに居る?」と聞かれて前日に取った写真を送る、ステージド・フォト)

写真だけでなく、手製のスケッチでも嘘がつける。(実際に起きた出来事の描写だが、背景の看板に偽りの地名が載ってるスケッチ)。絵画でも嘘がつけそうだが、写真やスケッチほどはうまく使えなさそう。

 

ここで、画像嘘(pictorial lie)を嘘の一種として認めるならば、言語嘘(linguistic lie)との違いが問題になる。

(1)画像は「嘘の内容p」を特定しがたい。(2)画像は様々なメカニズムを通して嘘をつける。(3)画像は複数の命題を伝達するので、一部嘘を付きながら、一部真実を伝えるケースがある。

➡画像嘘を嘘とみなすなら、「嘘」の定義を考え直す必要がある。

 

伝統的な「嘘」の定義

ABに嘘をつくのはiff

ある命題pについて

(L1)ABにpだと主張する

(L2)Apが偽だと信じている

 

ここで、主張する(assert)の内実が問題となる。主張することは、しばしば言う(say)こととみなされてきた。(sayベースの定義)

すなわち、AがBに嘘をつくのは「ある命題pについて、Aはpが偽だと信じていながら、Bに対してpだと言う(say that p to B)」とき。

しかし、この定義だと、画像を提示しているだけで発話していない①は、嘘ついていないということになる。

➡lyingの定義を拡張する必要がある。

 

まず、sayベースの定義を維持したまま、画像の描写内容を厳密に特定することで、画像も実質的に「pと言う」のだと理解するアプローチが考えられる。

しかし、これは上手く行かない。(1)画像は命題を持たない説がある(否定形とか無理)、(2)厳密な描写内容が全然特定できん。

この線で使えそうなのは、Abell 2005による「画像の含み」理論。(以下にレジュメを公開しています)

エイベルは画像の持つ「視覚内容(visble content)」と、「描写内容(depictive content)」を区別する。前者は画像との類似に基づく対象で、後者は観者が実際に帰属させる対象。視覚内容は必ずしも描写内容とは限らない。

エイベルはこの区別を、発話における「語の意味(sentence meaning)」vs「発話の意味(utterance meaning)」と対応させている。前者は字面通りの意味で、後者はコミュニケーションにおいて実際に帰属される意味。両者は「会話の含み」によって結びつく。

同様に、画像にも「画像の含み」がある。(視覚内容:〈棒人間〉+画像の含み=描写内容:〈普通の体型の人間〉)*1

 

しかし、目下の議論においてエイベルの理論は使えない。

「視覚内容」が狭すぎる:【ケース①】に関して「合成写真は〈オスカーとポーラがキスをした〉と言っている」とはみなしがたい。

「描写内容」が広すぎる:【ケース④】に関して「写真は〈オスカーとポーラは付き合っている〉と言っている」とみなしてしまう。

 

その他、Blumson 2014の理論も検討している(割愛)が、やはり、筆者的にはsayベースの定義を維持するのは難しいらしい。

➡ゆえに、sayベースではなく、commitmentベースでlyingを定義してみる。

 

commitmentベースの「嘘」の定義

ABに嘘をつくのはiff

(L1)ABに向けて、内容pを持つ伝達行為Cをする

(L2)伝達行為Cによって、Apに自らをコミットする

(L3)Apが偽であると信じている

 

主張する(assert)をコミットする(commit)として理解すれば、画像嘘も嘘の一種として回収できる。コミットされるpは、必ずしも画像の描写内容でなくてもいい。

「コミット」とは:pの真偽が追及されたときに、擁護する責任を負うということ(cf. Brandom 1983)

Aがpにコミットしているかどうかは、ある程度直観的に分かる。(主張しているのか、推測を述べているのか。主張であればコミットし、推測を述べるだけならコミットしない。)

この定義に基づけば、【ケース①】は、〈オスカーとポーラがキスをした〉にコミットするためlyingであり、【ケース④】は、〈オスカーとポーラは付き合っている〉にコミットしないのでmisleading止まりである。

その他、コミットメントはいろんな仕方でなされる。(この辺の紹介は断片的なので割愛)。

再度、画像によるコミット内容は、描写内容とは限らない。結局、画像がいかなるコミット内容を持つかについては、ひとまずオープンとする。

結論:commitmentベースでlyingを定義するのがよいよ。*2

 

✂ コメント

  • lyingとmisleadingの切り分け(否定可能性の有無)については腑に落ちつつ、画像を用いたlyingが可能であるという議論がピンときていない。合成写真を送りつけるというケースは否定可能性がないのでlyingだとあるが、「合成じゃないとは言ってない」と言い逃れられるのでは?
  • 【ケース①】は〈オスカーとポーラがキスをした〉についてのlyingで、【ケース④】は〈オスカーとポーラは付き合っている〉についてmisleadingだがlyingじゃない。 というのが直観的な前提らしいが、「前者もmisleading止まり」という話はできそうな気がする。
  • ブランダムの「コミット」定義でいくと、【ケース①】が〈オスカーとポーラは付き合っている〉について擁護責任があるようだが、ここもいまいちピンときていない。
  • 「画像がなににコミットするのか」がオープンなので、ここは掘りたい。
  • あと、「画像メディア間で、lyingしやすいものとしづらいものがありそうだよね」というトピックは、修論でちょっと触れようと思う(来週提出)。

*1:棒人間、ぱっと見は〈ガリガリで頭がでかい奇形の人間〉だけど、空気を呼んだら〈普通の体型の人間〉だとみなすべきでしょ、という話。

*2:sayベースからcommitベースにする動機には、画像嘘だけでなく、メタファーなどの字義通りでない(non-literal)発話による嘘を説明したいというのも含まれる。

レジュメ|フレッド・ドレツキ「コメント要約:写真を通して見ること」(1984)

Dretske, Fred (1984). Abstract of Comments: Seeing through Pictures. Noûs 18 (1):73 - 74.

情報理論で有名なフレッド・ドレツキ(Fred Dretske)によるWalton 1984への短文コメントをご紹介。*1

コメント先になっているウォルトン論文については、以下にノートを挙げています。

 

フレッド・ドレツキ「コメント要約:写真を通して見ること」 

ドレツキによれば、ウォルトンのテーゼには二つの主張が含まれる。

  1. 写真は、伝統的な仕方で描かれた画像(絵画)が持たない、ある種のリアリズムを持っている。
  2. この特権的なリアリズムは、写真が新しい仕方での「見ること(seeing)」を提供する点から説明されるのがよい。すなわち、画像を通して被写体を見る(seeing through picture to the object)という新しいseeingを、写真は可能にする。

ドレツキは(1)に同意するが、(2)は否定する。

 

まず、ウォルトンは写真と手製の画像の違いについて、いくつか重要な差異を指摘している。

  • 対象について:写真は常になにかの(of something)写真である。絵画は必ずしも常になにかの絵画とは限らない。*2
  • 中立性について:写真は対象を中立的に意味するが、絵画はそうではない。[航海している人の写真]は〈航海している人〉を意味するが、[航海している人の絵画]はそうとは限らない。
  • 機械性について:写真による表象の成功や失敗は、そこに介入する人の認知的“レンズ”がちゃんと情報を伝達できたかどうかに依存しない。絵画は画家に依存している。

これらの差異は認識論的に重要であり、十分に写真の特権を擁護しうるものだとドレツキは考える。

しかし、これらを根拠に「我々は対象を実際に(actually)見ることができる」と結論づけることはできない。

 

写真はその他の中立的な記号(signs)、例えば足跡ゲージの目盛り雲の形と同じように、情報に関して透明(informationally transparent)だが、知覚に関して透明(perceptually transparent)ではない。

例えば、私は[ベルの音]によって、〈インターホンが押された〉という情報を得ることができるが、だからといって「インターホンが押された音を聞いた」わけではない。[ベルの音]は情報に関して透明だが、知覚に関して透明ではない。

 

写真やテレビの映像や映画は、鏡や眼鏡や望遠鏡とは異なる。後者は知覚に関して透明である(=それを通して別のものを見る、という経験を可能にしている)。

両者の違いは、対象についての情報が、メディウムや装置についての情報に埋め込まれている(embedded in)かどうか

例えば、テレビでサッカーの試合中継を見るとき、私は「テレビ画面上で起きていることについての情報」を得ることで、「試合についての情報」を得ている。これは、「ガスメーターの目盛りの位置についての情報」を得ることで、「ガスタンクについての情報」を得るのと同じである。目盛りを通してガスタンクを見ているわけではないため、テレビを通して試合を見ているわけでもない。

観客席から望遠鏡で試合を見る場合、試合についての情報は望遠鏡についての情報に埋め込まれているわけではない。「レンズ上で起きていることについての情報」は、見る必要がない。ゆえに、望遠鏡は真に透明であり、文字通り試合を見せてくれる。

 

✂ コメントへのコメント

ウォルトン論文に対する最初期の応答であり、とりわけ目新しい点はないが、「あるメディアが知覚に関して透明である」ことの条件として「対象についての情報が、メディアについての情報として埋め込まれていない」ことを挙げている点が独特か。

争点は、「埋め込み(embedded in)」という概念がいまいちクリアでない部分にあるだろう。一つの解釈としては、「媒体が持つ性質を通して、対象が持つ性質を知る」といったところか。情報が埋め込まれている場合、ひまわりが[黄色い]という性質を持つことは、ひまわりの写真が[黄色い]ことを通して知られる。情報が埋め込まれていない場合、ひまわりが[黄色い]ことは、それを眺める人がかけている眼鏡のレンズが[黄色い]ことを通して知られるわけではない。ゆえに、後者のみが透明であり、それを通して(through)ひまわりを見る(see)ことができる。

しかし、後者の情報伝達において「特定の時点における眼鏡のレンズは[黄色い]という性質を持っている」ことは、割と直観的に認められるし、写真やテレビ中継との決定的な差異になるとは考えづらい。また、「非埋め込み」を必要条件にすると、テープレコーダーの録音で誰々の演説を聞くことは、情報が埋め込まれてしまっているので「誰々の演説を(文字通り)聞くことにはならない」。これは割と受け入れがたい帰結のように思われる。*3

知覚と情報伝達について、ドレツキがどう考えているのかは勉強不足なので、その辺を掘ってみたい。

その他、写真の認識論的価値については、ドレツキの情報理論も援用したCohen & Meskin 2004がかなりクリアなので、おすすめです。コーエン&メスキンも、写真が特権的な情報源であることを認めつつ、知覚的な透明性については否定する立場。

*1:「コメント要約」らしいのだが、要約でないコメント全文が見つからない。なぜ?

*2:おそらくは、描写対象を持たないような抽象絵画を念頭においている。ところで、本論文でドレツキはpictureを「写真」の意で使っているっぽい。

*3:これに限らず、写真の透明性を巡る議論は、テープレコーダーの透明性を踏まえれば、擁護せざるを得ない部分があると思う(なぜか議論している人は少ないけど)。我々は「聞くこと(hearing)」に関しては大盤振る舞いなのに、「見ること(seeing)」についてはケチすぎるのではないか。