普段やっている「画像表象とリアリズム」とはやや毛色の違う論文をご紹介。
名前の読みはイジー・ベノヴスキーですかね。2011年の論文、"What photographs are (and what they are not)"です。
今回読んできたのは、写真はいかなる存在論的カテゴリーに属すのか、についてのもの。
PhilPapersにある「写真」のBibliographyページによれば、写真の存在論的カテゴリーを巡る議論は割と近年出てきたものらしい。(とはいえ、ざっと見渡した限り、主だったものとしてはベノヴスキーの論文ぐらいじゃないかな……)
芸術作品の存在論的身分については、とりわけ音楽作品に関する議論が豊富になされてきた。こちらについては、以前記事を書いたことがある。
本論文も、音楽における先行研究に依拠しており、これを写真に適用しようとする。
「写真は存在しない。なぜなら、我々はそれを必要としないからだ」
というのがベノヴスキーの主張。一見ショッキングなテーゼだが、はたしていかがなものか、以下で見てみよう。
1.写真とは何か
- 「写真とは何か」は明らかではない。”写真”を購入する際、何を購入しているのかはたびたび問題になる。*1
- 本稿では写真がいかなる存在論的カテゴリーに属するのかを考える。具体的には、ありえそうな形而上学的カテゴリーを持ってきて、写真がフィットするかどうかを検討する。
- ベノヴスキーの主張としては、いかなる既存のカテゴリーでも写真は説明できず、「写真は存在しない」と言わざるを得ない。しかし、このテーゼは一見したほど修正的でもなければ、常識に反するものでもない。
2.写真の制約条件および作成のプロセス
- 写真の存在論的カテゴリーを同定する上で、説明しなければならない制約条件を洗い出す。
①視覚可能性:写真は多くの人によって見られる。
⇔写真は、私的な心的現象ではない。もしそうだとすると、観者にとってアクセス不能だし、観者同士でも共有不可能なものとなってしまう。
②生成/消滅可能性:写真は人工的に作られる存在者であり、生成と消滅をしうる。
⇔普遍的に存在し続け、”発見”されるようなものではない。*2
- 次に、写真作成のプロセスを見ていく。
- ベノヴスキーによるわかりやすい(?)図解は、以下。
- (デジタルにせよアナログにせよ)写真とは、複数の種類の存在者を巻き込むプロセスによる産物である。
- ここでは、観者が目にする最終産物だけを「写真」と呼ぶことにする。未現像のフィルムや、ネガ、コンピュータファイルは、不可視である(制約条件①を満たさない)ため「写真」ではない。
- 写真システムはカメラやレンズだけでなく、化学物質、引き伸ばし機、ソフトウェア、印刷機、その他多くの要素を含むシステムである。
- デジタルとアナログは、多くの点で共通しているが、相違点もある。RAWファイルは劣化なしで複製可能なのに対し、フィルムやネガはコピーが大変だし、劣化が生じる。
3.候補となる存在論的カテゴリー
- 最終産物だけが「写真」なのであれば、「写真とは時空に位置を持つ物質的対象だ」と言ってよいのでは? アナログ写真は印刷紙とインクの組み合わせであり、デジタル写真は液晶と光の組み合わせ。
- 物質説は、写真に関して日常に使用されている言語と適合する。「恋人の写真を財布に入れて持ち歩いている」
- しかし、物質説には難点もある。物質的なものを写真とみなすならば、「写真」というカテゴリーは必然的に、あらゆる個々の写真を含む集合とみなすしかない。ここから問題が生じる。
- 集合は数学的な存在者であり、定義的に不可視である。
- 集合はそのメンバーを一つ消去することで、集合自体を破壊することができる({A,B,C}≠{A,B})が、写真のプリントを一枚破壊しても、「写真」そのものが破壊されることにはならない。
- 集合は、逆に増えることもできない({A,B,C}≠{A,B,C,D})が、写真は新たなプリントを作ることによって増えることができる。
- 写真は反復可能性(repeatability )を持つ*3。普遍者が複数の事例を持つように、「写真」も複数の事例を持つ。では、写真は普遍者*4とみなすのはどうか?
- 普遍者説は、以下二つに区別して考えなければならない。
- プラトン的な、時空に位置を持たず、生成/消滅しない普遍者(外在的な普遍者)
- アームストロング的な、時空に位置を持ち、生成/消滅する普遍者(内在的な普遍者)
- 前者では、写真に関する制約条件②「生成/消滅可能性」を説明できない。原理的に不可視なので、制約条件①「視覚可能性」も説明できない(「写真それ自体」は目にすることができない)。
- よって、普遍者説を取るなら、アームストロング的な「内在的な普遍者」でいくしかない。
- アームストロング(1978)の「内在的な普遍者」:最初の事例とともに生成され、最後の事例とともに消滅するような普遍者。事例の存在に依存することで、はじめて存在することができるような普遍者。
- これによって、制約条件②「生成/消滅可能性」も説明できるし、反復可能性も説明できる。
- アームストロング流普遍者説に対する反論1:マーゴリス(1980)「いずれにせよ、普遍者だったら見ることはできないんじゃね?(制約条件①を満たさない)」
- ➡キヴィ(1983)の応答「個別の事例を通して、間接的に普遍者にアクセスできる*5」
- しかし、キヴィの応答はやや極端、というのがベノヴスキーの見解。間接的であれ、普遍者が”可視的”だと言うのは大きなコストのように思われる。
- そもそも、こんなに強い主張をする必要はない。普遍者「円性(circularity)」は不可視だが、個別者「円状のもの(circular things)」は可視的、というので十分。後者が可視的であることを説明するのに、前者まで可視的だと言う必要はない。
- 写真に関しては、普遍者である「写真」そのものは見えないが、「個別の写真」は見える、というので十分である。
- アームストロング流普遍者説に対する反論2:ドルシュ(2007)「二人の作家が全く同じ文章を書いたとしても、それらは別々の普遍者だとみなすべきだよね?」
- 写真の場合は、二人の写真家が全く同じ見えの写真を撮った場合、それぞれが例化する普遍者も区別するべきだ、という話。*6
- しかし、これは普遍者説にとって不都合。*7
- 普遍者説の難点は他にもある。生成/消滅が可能と言うが、あらゆるプリントを消去しても、「写真」は消滅しないように思われる。
- ➡ネガやRAWファイルといった、”潜在的な”*8写真が存在するから。
- ネガやRAWファイルも「写真」の外延に含めて、「それら全部が消滅すれば、写真も消滅する」とは言えるものの、今度は別の問題が生じる。ネガとプリントがともに「写真」の事例であるならば、「写真」の事例は可視的かつ不可視ということになる。両者はあまりにも似つかない性質を持っている。
- さらなる反論として、個別事例であるプリント同士でも全く同じ性質を持つわけではない、と言える。印刷工程の技術的制約や、スクリーンの解像度による見えの違い。
- 「質的に全く異なる事例が同じ普遍者である」というのも、説明できなければならない。*9
- 以上のような議論を、ベノヴスキーは「破壊のテスト(the test of destruction )」と呼ぶ。メンバーの一部である{X,Y,Z}が破壊されたときに、存在者Eがどうなるかを考えることでEという存在者のカテゴリーを考える。
- 以上の議論によって、普遍者説はうまくいかないことがわかった。無理に「写真」の外延を拡げる(写真はプリントであり、ネガであり、データであるような存在者)と、「写真」は「潜在的かつ非潜在的、知覚可能かつ知覚不可能、反復可能かつ反復不可能」ということになって形而上学者が発狂する。
4.新たなカテゴリーを設ける?
- 写真はこれまでに見てきた各カテゴリーの特徴を、ちょっとずつ持っているようだが、そのどれとも言えない。
- 「写真」のために新しいカテゴリーを設けるのはどうか? ローバッハ(2003)やドルシュ(2007)はこのようなソリューションを採る。
- しかし、新たなカテゴリーはごく基礎的な存在者に対してのみ設けられるべきであり、写真は基礎的なものでも、標準的なものでもない。写真のためにわざわざカテゴリーを設けるのは、メタ理論的に倹約的でなく、不健康だというのがベノヴスキーの見解。
- ローバッハとドルシュもこの難点を意識しており、自らの設定したカテゴリーに一般性をもたせようと頑張っている。
- ➡しかし、我々にはそんなことをしなくても、別のソリューションがある。
5.ニヒリズム説「写真は存在しない」
- ベノヴスキー「写真は存在しない」という、ニヒリズム的ソリューションを採る。
- このテーゼの根拠となっているのは、「我々はすでに、写真を説明するのに十分な存在者を持っている」というもの。具体的にはフィルムや、ネガ、RAWファイル、イメージファイルといった物質的な存在者。
- パラフレーズ:「写真を買う」と言って、実際に買っているのは「プリント」や「ファイル」や「ネガ」。⇔決して、抽象的な「写真」それ自体を買っているわけではない。
- ➡新たなカテゴリー「写真」を設ける必要はない!
- 美学に話を限定するなら、美的性質は「プリント」や「コンピュータスクリーン」など、視覚的に知覚可能な対象へと帰属させられている。かつ、美的性質の帰属は(物理的媒体を必要とするだけでなく)、しばしば物理的媒体そのものへ帰属される(プリントの具合やスクリーンの解像度)。
- ニヒリズムは、制約条件①②と矛盾しない。写真の代わりとなる存在者(ネガやデータ)はそれを満たすから。(そもそも写真は存在しないので、制約条件を満たす必要がない、とも言える)
- ニヒリズム説への反論:「写真は存在しない」というのは、「壁に写真がかかっている」といった日常言語の使用と矛盾するのではないか?
- 応答:二つの異なる言語使用を区別するべき*10。
- 「写真は存在しない」というのは存在論言語(Ontologese)であり、”厳密に言えば”というカッコつきで形而上学者が用いるもの。これは、日常言語において「壁に写真がかかっている」というのが自然であることと、両立しうる。
- より強力なニヒリズムも存在する。メリックス(2001)「写真どころか、ネガもプリントもカメラもテーブルもなにも存在しない」➡「原子だけが存在する」的な。
- 極端な消去主義:「テーブル」は存在せず、テーブル状に並んだ「原子」だけが存在する。消去主義者はより根源的なものによる還元を通して、あらゆるものを説明しようとする。*11
- これは意外に、日常の実践と矛盾しない。「プリント」の代わりに、プリント状に配置された「原子」だとパラフレーズしても、なんとかなる。
- もっとも、ベノヴスキーはこのような極端な立場を全面的に養護したいわけではない*12。少なくとも以下の二点、①日常経験との両立、②日常言語との両立は、ニヒリズムの利点として挙げられるべき。
- ➡ニヒリズム的に還元された存在者(プリント、ネガ、データ)によって、還元される前のもの(写真)は十分に説明できる!
- 結論として、「写真は存在しない。なぜなら、我々はそれを必要としないからだ」。
- これはメタ存在論的に、倹約的というメリットを持つ。
感想&コメント
- 細かいツッコミは注でさせてもらったので、もうちょい広い観点から。これは音楽の存在論に関しても言えることだが、個別芸術について考える必要は実はなくて、人工物の存在論的身分を考えるので十分なんじゃないか? 形而上学的な広い目で見れば、音楽も写真もペットボトルも、人工物としては同じような身分だと思ってしまう。(音楽の存在論や写真の存在論があるのに、ペットボトルの存在論がないのは不平等ではないか!?)
- ベノヴスキーの目的としては、写真を「ネガ」や「データ」に解体するので十分だと議論されてるが、そうなってくるとなぜ「原子」まで解体しないのかが問題となる。すなわち、(ベノヴスキーが避けようとしている)極端なメレオロジー的ニヒリズムの難点は、全部ベノヴスキーの議論にも降りかかるはずだ。
- ベノブスキーは、ニヒリズムが日常実践と両立しうることを、頑張って示しているが、それでも依然として反直観的な立場であることに変わりはない。
- 個人的には(ハーマンっ子なので)、解体する欲望には抗いたい。「写真」という中くらいのオブジェクトはすごく居心地が良いので、このまま使いたい気持ちがある。*13
- 途中で引かれているD.M.アームストロングについては、いつかいつかと言ってなかなか勉強する機会がなかったので、部分的にでも触れられてよかった。こういった存在論的身分の話に関しては、やはり影響力があるみたいですね。『現代普遍論争入門』も読むぞ……!