夏ですね!
みなさん、Vaporwave聞いてますか!?!?!?
さて、今日の話題はVaporwave。
意外にもオバケウェブ初のVaporwave記事。
今回はVaporwaveのカタログを作ろうという企画。
はじめに重要なことですが、研究用の資料なので今はまだ公開できません。最後まで読んでもExcelファイル自体は手に入らないので悪しからず。
作成過程に興味ない人は、中盤以降から読んだほうが面白いかも。
ヘッダー画像は5分で作った。
さて、本日の話題は音楽作品の存在論。「音楽作品って、どういう特徴を持っているの?」「音楽作品の身分って、なんぞや」みたいな疑問に答えていく分野。
芸術作品の存在論をやっている人たちは、だいたい音楽作品を主題に扱っている印象。やはり、その特異な立ち位置に惹かれるのだろうか……。
本日の目次〜!
音楽作品の特徴/我々の直観
音楽作品の存在論的カテゴリー
「タイプ説」―メリット/デメリット
ジェラルド・レヴィンソン「指し示されたタイプ(Indicated Type)」説
ジュリアン・ドッド「曖昧なタイプ (Vague Type)」説
「音楽作品って、どういう特徴を持っているの?」
まずは我々の実践/直観に沿った、音楽作品の特徴を挙げてみる。このような記述的な作業から、音楽の哲学は始まるのだ。
ひとまずこの5つの条件を出発点とする。次に、音楽作品にふさわしい存在論的カテゴリーを考える中で、各論者は「1.と2.をうまく説明できる」とか「3.は説明できないが、そもそも3.の条件はいらないよね」みたいな作業を行っていく。
「音楽作品の身分って、なんぞや」
大きくわけて2つの派閥がある。
①「タイプ説」:
・普遍的な音楽作品としてのタイプと、個々の演奏としてのトークンを想定。
・タイプとトークンが持つ例化関係を、音楽作品と個々の演奏にも当てはめる。
-Nicholas Wolterstorff, “Toward an ontology of art works”, (1975)
-Jerrold Levinson, “What a musical work is”, (1980)
-Gregory Currie, “An ontology of art”, (1989)
-Peter Kivy, “The fine art of repetition: Essays in the philosophy of music”, (1993)
-Julian Dodd, “Musical works as eternal types”, (2000)
②「唯名論」:
・普遍的な音楽作品としてのタイプを認めない。
・主に「1.反復可能性」を否定することによって、存在するのは個々の演奏だけだと主張する。
-Nelson Goodman, “Languages of art: An approach to a theory of symbols”, (1968/1976)
-Ben Caplan & Carl Matheson, “Defending musical perdurantism”, (2006)
これまた普遍論争の実在論vs唯名論にそれぞれ対応している。両者にはそれぞれメリット/デメリットがある。
ここでは②「唯名論」は扱わない。「あらゆる演奏はその場限りの個別的なものであり、反復可能性や聴取可能性は幻想だ」という主張は、個人的にどうでもいいあまり魅力的ではない。例えば、ネルソン・グッドマンは『芸術の言語』で「一音でも違えば、それはもう別の曲だよ」と開き直るが、そんな逃げソリューションは端的に言ってダサい美しくない。
まぁ好みの問題だが、ひとまず②「唯名論」は別稿に譲るとして、ここでは①「タイプ説」のメリット/デメリットを見ていく。
その前に、タイプ説をもう少し詳細に確認しよう。
詳細は不明だが、多分Wollheimらが提出していた初期のタイプ説が持つ特徴をまとめる。間違ってたらごめん、Wollheim。
■「タイプ=音構造説」:
「タイプ説」のメリット/デメリット
■メリット
■デメリット(とりわけ、「タイプ=音構造説」に関するもの)
□(問題A)-「5.多様さの許容」を説明できない:
□(問題B)-「3.創造可能性」を説明できない:
タイプ説の目標とは、上記のメリットを引き継いだまま、デメリットを補うために「タイプ=音構造説」を乗り越えることである。
ここからタイプ説はいくつかの主張に分岐してゆく。同じタイプ説でも、様々なバリエーションが生まれてくるのだ。
さて、タイプ説にとって採りうる戦略は二通りある。
■(戦略1)-開き直る:「5.多様さの許容」が説明できない、「3.創造可能性」が説明できない、だからどうした?と開き直る。そもそも「創造されること」「多様さを許すこと」は音楽作品であるための必要条件じゃないんや!といって、条件そのものを棄却する。
■(戦略2)-説明する:いやいや、タイプ説なら「5.多様さの許容」も「3.創造可能性」も説明できますけど?といって、そのための道筋を提出する。
例えば、問題Aに対して開き直るなら「多様さの許容なんて必要ないんや!ちょっとでも異なる演奏は、もう別の作品なのじゃ!」といえる。これは唯名論にちょっとだけ接近する主張でもある。
ここでは代表的な主張として、ジェラルド・レヴィンソン(Jerrold Levinson)の「指し示されたタイプ」説と、ジュリアン・ドッド(Julian Dodd)の「曖昧なタイプ」説を概観しよう。
レヴィンソンによれば、音楽作品タイプとは「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造 (S/PM structure-as-indicated-by-X-at-t)」である。
まずはこのわけわからん呪文を無視して、外堀から埋めよう。
■(問題A)への説明:タイプは単なる音構造じゃないし、ミスも許されるよ
レヴィンソンは勇敢なので、あろうことか新たな条件「6.文脈依存性」を提出する。音楽作品は、それが作曲された「音楽的―歴史的文脈」に依存し、文脈が異なる作品は異なる作品だ、という。ボルヘスの有名な「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」問題に則るならば、セルバンテスが17世紀に書いた『ドン・キホーテ』と、ピエール・メナールが20世紀に書いた『ドン・キホーテ』は(たとえ全く同じテクスト構造を持っていたとしても)、文脈が異なるので異なる作品だ、ということになる。
根拠となるのは、美的性質・芸術的性質の違い。異なる時代に書かれた2つのテクストが、(文学史的評価などによって)それぞれ異なる性質を付与されるのは自明。よって、異なる性質を有する両者は同一とは言えない。
同様に音楽作品もまた、音構造だけでなく文脈に依存する。こうしてレヴィンソンは「タイプ=(単なる)音構造説」を棄却するのだ。
音楽作品は単なる音構造じゃない。それは「6.文脈依存性」によって、一見するとよりカッチリした規定になるように思える。「5.多様性の許容」からは遠ざかる一方ではないか。肝心なのは「音構造ではない」ということ以上に、「多様性が認められる」のはなぜか、という問題であったはずだ。
どうやらこれについてレヴィンソンは、ドッドのところで後述するWolterstorffの「規範タイプ」説に同意を示しているらしい。(もっとも、レヴィンソンはWolterstorffから影響されたJames Anderson(1985)を引いているが)。なので、これは後回しにしよう。
レヴィンソンに関して興味深いのは、しかし、タイプは依然としてある種の音構造なのだ、と考える点だ。
■(問題A)への開き直り:作品はやっぱ、ある意味で音構造だわ
レヴィンソンの「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」とは、「時点」と「作者」に依存する音構造のことである。例えば、僕が今日「《天体観測》と全く同じ音構造を持つ曲」を作曲したとしても、それは「今日-セン-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」なのであり、BUMP OF CHICKENの《天体観測》”ではない”。
しかし、僕がそれを演奏するならば、それは「2001年に-藤原基央-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」という規範タイプ(後述)を志向するという点で、僕の演奏トークンは作品タイプ《天体観測》に属する。
レヴィンソンは、音楽作品が何かしらの点で「構造的」であることは否定しない。ただ、それを単なる楽譜的/数学的データとしてみなす「単なる音構造」ではなく、「指し示された構造」なのだ。
やはり重要になってくるのは、そんな「指し示された構造」が多数の個別例を生み出しうるのはなぜか、という問題だ。文脈を含むカッチリとした規定だったら、なおさら例化は難しいんじゃないか?
先を急ぎたいところだが、まずはレヴィンソンによるもう一つの説明を見ちゃおう。
■(問題B)への説明:創造行為、できてますけど?
音楽作品タイプを「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」とみなすことで、「3.創造可能性」に関する問題Aも解消できる。
というのも、Xの作曲行為によって(αが創造されたとは言えないにしても)、「Xによって指し示されたα」が創造されたのは明白だからだ。
「α」というタイプ=音構造自体は、作曲行為以前にも存在していたかもしれない。しかし、「t時に」「Xによって」という文脈に依存した存在者は、少なくとも作曲行為以前には存在していなかった。作曲家が、これを創造したのだ。
すなわち、ベートーヴェンが19世紀に作曲したのは「《運命》の音構造」ではなく、「19世紀のある時点において-ベートーヴェン-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」なのだ。
作曲家は、それまで世界に存在していなかったものを、創造によって存在させた。だから、偉い。
ドッドにとって、音楽作品とはそもそも曖昧な存在者である。
■(問題A)への説明:タイプは規範種なんや。
「タイプ=音構造説」では、もとの音構造とかっちり同じ構造を持つ、すなわち必要な確定的性質のすべてを満たすトークンだけが、そのタイプに属することになっていた。ここでは、ミスや失敗が許されない。
これに対し、ドッドは「曖昧なタイプ」を提案する。そこでは、必要十分条件であっても、曖昧なものとして扱われる。
ドッドが援用するWolterstorffによれば、音楽作品とは「規範タイプ(norm-type)」である。規範タイプはいくつかの規範的性質を持ち、トークンにたいしてそれらを満たすことを要求する。しかし、規範的性質は確定的性質とは異なり、トークンがそれを適切に満たしていないからといって、「そのタイプに属さない」ことにはならない。なぜなら、必要十分条件のように見える性質であっても、その内実は「あればいいけど、なくてもいい」という曖昧なものだからだ。ミスや失敗を含む演奏トークンは、単に「不適切に形成されたトークン」なのだ。ある意味で、トークンはこれらの曖昧な必要十分条件P1…Pnを、”全て満たす”と言える。要は、「適切に満たしている」か「不適切に満たしている」の二通りしかないのだ。
音楽作品を規範タイプとみなすことによって、正しく形成された演奏トークンも、不適切に形成された演奏トークンも、ある程度の類似性さえあれば、ひととまず”同一の”音楽作品として認められる。この類似性がどの程度のものかは、また別の問題。
こうして、ドッドは「5.多様性の許容」に関する問題Aを解決する。要するに、音楽作品とはもともと曖昧なのだ。レヴィンソンもざっくり、同じ立場をとっている
■(問題B)への開き直り:「創造じゃねぇ、発見だ!」
「3.創造可能性」に関する問題Bに対し、ドッドの「曖昧なタイプ説」は、「そもそも我々は作品の創造を行っていない」と返答する。これは、ラディカルかつ修正的な観点である。いかに反直観的であろうとも、「ベートーヴェンは《運命》を”創造していない”」のだ。
作曲家は作品を「創造」を行っているのではない。作品を「発見」しているのだ。
ニュートンが重力を発見したように、ベートーヴェンは《運命》を発見したのだ。重力も《運命》も、それ自体はニュートンやベートーヴェンの生誕以前から存在していた。
では創造行為の持っていた「創造性 (creativity)」はどこへ行ったのか、という新たな問題に対し、ドッドは「発見であっても、十分に創造的(creative)だぜ」という。発見行為において、作曲家は十分に想像力を発揮させる必要がある。たとえ新たな存在者を創造したわけではないにせよ、そのような想像力の発揮において、作曲家は創造的なのだ。だから、偉い。
こうやって見ると、レヴィンソンとドッドの大きな違いは、「3.創造可能性」をいかに説明するか(ないし開き直るか)にあると思われる。
「普遍的な抽象的存在を創造するのは無理じゃね?」という疑問に対し、レヴィンソンは「いや、ほら、t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造を創造してんじゃん」と説明し、ドッドは「創造してないよ。発見してるだけ」と開き直る。
どっちがお好みかは、あなたしだい。
タイプ説が直面する問題は他にもある。
例えば、「2.聴取可能性」に対してタイプ説は、トークンを経由することで間接的にアクセスできると説明するが、これはナイーヴすぎるのではないか、という問題がある。タイプが抽象的存在者である限り、それはハイデガー的に退隠し続け、あらゆるアクセスを拒絶する可能性がある。タイプという抽象的存在者を認めることで、むしろ「音楽作品それ自体にアクセスできない」という事態になりかねない。
この問題に対して、ドッドはクワインの「延長直示」を援用し、いろいろ難しい理論をこねくり回している。これについては勉強不足なのでまた今度。
「指し示されたタイプ説」と「曖昧なタイプ説」にも、それぞれ批判がなされている。
前者に対しては、「指し示す行為が創造的であるのは、どの時点やねん」といった疑問とか。
後者に対しては、タイプを曖昧なものとみなすなら、それを例化する複数のトークンが「これっぽっちも似ていない」という事態は十分にありえる。これをどうするべきか。
また、タイプ説の論者同士でも、解決策に対して常に合意が得られるわけではない。たとえばドッドは、レヴィンソンの呪文について「存在論的に疑わしい」とおっしゃっている。これに対してレヴィンソンは「疑わしくても、そういうもんなんだからしょうがなくね?」と返答する。これはもう美的価値観の違いだ。
見えないものを見ようとしてェ!
本当は最初に書くべきだったが、これらの議論の大前提となっているのは、ここで想定されている音楽が西洋クラシック音楽に限定されているということだ。よって、ロックやジャズなど20世紀以降の誕生するポピュラー音楽に対しては、別の議論が必要になる。
僕が専門的に扱っているのはポピュラー音楽なので、このような限定はまさに残念至極である。とはいえ、これをポピュラー音楽に応用するのは、それほど難しくないだろう。いつかやってみたい。
個人的にはドッドの方に説得力を感じる。とりわけ、「創造」を「発見」で置き換えるのは、修正的だが魅力的な主張のように思う。あらゆる時点において存在する普遍的なタイプを認める立場は、時間の哲学における永久主義にも通ずる。この辺は、あらためて論じたい。
レヴィンソンの「t時において-X-によって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造」は、随所でディスられているとおり、「実践に適合させるためにしつらえた、その場しのぎの存在論的カテゴリー」であり、端的に言って美しくない。レヴィンソンはあまりにも、直観/実践に追従した論者、といった印象。こんなこと言ったら、分析系の人たちだいたい敵に回しそうだが……。
ただ、どちらも作品タイプの必要十分条件を規範的なものとみなそうとするのは、あまり……ってかんじ。それだと、なんでもありになっちゃうんじゃね?というのが正直なところ。
今回も面白かった。
音楽作品の存在論は、近頃ちょっと盛り上がってるみたいだが、上で見たとおりオーソドックスな普遍論争の延長線上みたいなところがある。性質に関する実在論、D.M.アームストロング周辺の議論も、親和性がありそう。また、創造行為に関して「作者の意図」を取り上げる論者もいるのも、批評の哲学専門家としては見逃せないぜ。to be continued…………。
最後に、単に個人的なアイデアをちょっとだけ書いておく。
[*注]
完全に無視してきたが、演奏手段というのもレヴィンソンにとって重要なファクターである。これは「タイプ=音構造説」を否定する材料でもある。
レヴィンソンいわく「ヴァイオリンで弾かれるのを想定されて書かれた曲を、チェロで弾いたら、それもう別の曲」とのこと。レヴィンソンはかなりの楽器主義者らしく、「いくらシンセサイザーで似せた音を出しても、それがヴァイオリンの代わりになることはありえない」と主張しているらしい。
らしい、というのは僕自身このあたりよくわからないからだ。先日参加させていただいた勉強会でレヴィンソンの”Sound, Gesture, Space, and the Expression of Emotion in Music”という論文を読んだが、そこでは「音楽の聴取および鑑賞においては、音を発する楽器構造についての想像力の行使が不可欠である」的なことが書かれていた。なんかよくわからんが、そういうことらしい。
ひとまずこの主張はシカトしちゃった。要勉強。
[参考文献]
田邉健太郎「分析美学における音楽の存在論は何をどのように論じているのか」
田邉健太郎「「指し示されたタイプ」的存在者としての音楽作品:ジェラルド・レヴィンソンの音楽作品の存在論に関する一考察」
田邉健太郎「ジュリアン・ドッドの音楽作品の存在論を再検討する」
西條玲奈「芸術作品の存在論における曖昧なタイプ説の批判的検討」
西條玲奈「反復可能な芸術作品の存在論におけるまばらなメレオロジー唯名論」(⬅西條さんの博論。未読。唯名論の立場から音楽作品の存在論を試みたものらしい)
『分析美学基本論文集』、飛ばし飛ばしですが読み進めています。今回は第3章「作品の意味と解釈」からアメリカの哲学者Jerrold Levinsonによる「文学における意図と解釈」のメモです。
出典は1996年の『The pleasures of aesthetics』に収録された論文「Intention and Interpretation in Literature」。作品解釈において、「作者の意図」ってどこまで関与する&考慮すべきなの?という問題に対し、「仮想意図主義」という立場を突き付けた重要論文とのこと。
ひとまず、「意図と解釈」を巡る論争を追ってみる。
まずはじめに、素朴な意図主義があった。作品には作者の「意図」が反映されていて、「解釈」とはそれを正しく引き出すことである、と。
ここで大前提となっている以下の二点。
①作品の裏に、唯一の真である「意図」が隠れている、という本質主義
②分析によって、それを突き止めることができる、というアクセス可能性
これは、あまり芸術鑑賞に親しんでいない、ごく一般的な人にとっては直観的に受け入れやすい考えであろう。現代文のセンター試験で「作者の気持ちを答えよ」と言って選択肢から選ばせる問題は、まさにこのような①と②を前提としている。
これが19世紀までの常識だった。
しかし、人間だんだんと頭よくなってくると同時に懐疑的になってくるもんで、「本当にそうか?」と思う連中が出てくる。
1910年代半ばのロシア・フォルマリズムが「小説って、各機能が連鎖しているだけじゃね?」と言い出し、これに元気づけられたW. WimsattとM. Beardsleyが、超有名論文「意図の誤謬 The Intentional Fallacy(1946)」を発表、ニュー・クリティシズムが爆誕する。
「作品を歴史的文脈や、作者の伝記的事実と結びつけて論じるのって、しょーもないよね」「作者の意図って、そもそも知りえなくね?」ってことで、意図主義の大前提であった②アクセス可能性が棄却される。
続いてフランスで構造主義が出現すると、もう大変。「小説の肝心な部分は、その構造によって決定されている」らしい。意味があって構造が作られる、のではなく、構造があって意味が作られる、のであれば①本質主義も信じられなくなる。
そこから、「テクスト外部の情報をガン無視した批評」としてのテクスト論が興隆を極め、世はまさに大★反意図主義時代。1967年にはロラン・バルトが「作者の死」を宣言し、作者はいよいよどーでもいい存在になってくる。
ちょっとまてよ!と言ったのがアメリカのE.D.Hirsch博士。1967年の「解釈の妥当性 Validity in Interpretation」では、なんと自ら①本質主義と②アクセス可能性をかなぐり捨て、「テクストはそもそも曖昧なのだ」と認める。
そもそもテクスト論は、棄却したはずの①本質主義と②アクセス可能性を前提としているのではないか、とハーシュは攻撃する。彼らは言語的な分析から得られる結果を重視するが、言語自体が曖昧ならば、その結果に意味ってないんじゃないか?と。
だからこそハーシュは言う。「もうちょい作者の意図を考慮してもいいんじゃね?」。
復活した意図主義は、90年代以降二つの派閥に分かれてゆく。
その一つが、ノエル・キャロルやGary Ismingerに代表される「穏健な”現実”意図主義」。穏健現実意図主義は、
①テクストは、その言語的習慣から複数の「読み=解釈」が可能であり、
②その「正しさ」を採点する要素は、やはり「現実の作者が持っていた意図」である、
と主張する。①については、オースティンらの言語行為論を援用する論者もいる。言葉というのは、たとえ曖昧であっても、習慣によって規定可能なのだ、と。
たとえば、「月が綺麗ですね」というのが「I love you」を意味するのは、我々が「夏目漱石がかつて<I love you>を<月が綺麗ですね>と訳させた」こと知っている場合、かつそのときに限る。要はこれが「習慣」だ。
しかし、「月が綺麗ですね」というセリフによって、「告白」を意味させることは、一筋縄じゃいかない。テクスト論者だったら「月が綺麗ですね」を額面通り「月の綺麗さについて同意を求める」発言だと解釈してしまう。そうではなく、「I love you」を意味するのは、他ならぬ話者本人が「I love you」と伝えようとしていたから、すなわち、「I love you」を意図していたからにほかならない。
ここまでは素朴な意図主義と同じだが、素朴な意図主義には問題点がある。それは、もし話者が「バーカ」を意図して「月が綺麗ですね」と発言したというのが事実であれば、「月が綺麗ですね」は罵倒言葉となってしまう。つまり、意図だけが意味内容を決定するのでは「なんでもアリ」になってしまい不都合なのだ。
穏健現実意図主義であればこれは簡単な話で、「でもそんな言い方、習慣的に存在しないよね」って一言でおしまい。②は①によってカバーされることで、「意図はやっぱり大事だよね」ってことになる。
ただし①を突き詰めるあまり、今度は②を無視して「習慣だけが意味内容を決定する」という「慣習主義 Conventionalism」というのも出てきたらしいが、これについては勉強不足なので留保。
さて、穏健現実意図主義は、あろうことか味方にぶん殴られる。それがジェロルド・レヴィンソンの唱える仮想意図主義だ。ここでようやく本題に入る。
「文学における意図と解釈 Intention and Interpretation in Literature (1996)」によって立ち上がる仮想意図主義は、穏健現実意図主義の②「現実の作者が持っていた意図が、解釈の正しさを決定する」に関して、その「現実」って部分に疑いを投げかける。
要は、それって読者が解釈行為を行う中で、バーチャルに形成された仮想的な作者の意図なんじゃね?ってこと。
文学として提供されたものや他の言語的言説の意味を決定するのは、話者の現実の意図ではない。それはむしろ、作品内部の構造とその製作に関わる周囲の文脈の中でわれわれに利用可能なあらゆる情報源を考慮し、そこから正当に引き出された特性のすべてにわたって、最も適切に立てられた仮説としての意図なのである。(p.247)
レヴィンソンはこれを「最良の仮説」と呼ぶ。
続いてレヴィンソンは、「作者の意図」として混同されているものを、二つに区別する。一つが「意味論的意図」であり、いわゆる「作者のいいたいこと」に一致する。例えば、棒状のものを登場させて、作者が「男根のメタファーだ!」と言えば、「男根」がその意味論的意図である。
もう一つが「範疇的意図」であり、作品のカテゴリーに関わる。これは個々の表現について「作者であるオレ様は、これを意味しているんだ!」という強制的なものではなく、「いかに捉えられるべきか」に関する、ゆるやかな推奨である。例えば、小説が(日記やニュース記事としてではなく)他ならぬ小説として読まれるのは、作者がそれを「小説として」読んでもらうよう、範疇的意図を働かせたからである。「最良の仮説」を作り上げる上で、重要なのは範疇的意図を捉えることであり、意味論的意図を突き止めることではない、とレヴィンソンは言う。
さて、解釈を行う上で、我々は作品の内外から様々な情報を収集し、根拠とする。ここで、どんな情報に依拠するべきなのか、というのが問題となる。穏健現実意図主義を含む意図主義には、つまるところ「筆者がそう言っているのだから、そうに違いない!」という信念があり、作者のインタビューや私的な日記を重視するが、レヴィンソンはそこに疑問を投げつける。作者の私秘的な情報が、その他の情報に比べて、明らかに説得的ではない場合において、それででも私秘的な情報を優先させる意図主義者の解釈は、それが最適ではないという点で間違っている、と。
そもそも、それがいかに私秘的なものであろうとも、だからといってイコール作者の意味論的意図なのだと確定できるわけではない。また
、意図主義者だけがそのような私秘的情報にアクセスでき、非意図主義者は「できるのにそうしていない」と批判するのは道理に合わない、と。
(間奏。ワケワカメの典型例としてゴダールの『ウィークエンド』を貼っておく。意味論的意図はとくに無い)
なるほど面白かった。何十年もかけて議論が少しずつ洗練されてゆく感じは、実に刺激的。
要は謙虚さの違いだ。意図主義はどこまで行っても本質を前提とする意味での実在論であり、仮想意図主義は相対的にのみ物事を捉えようとする唯名論なのだ。意図主義者からすれば仮想意図主義は気取っていて埒が明かない。仮想意図主義者からすれば意図主義は理想論ばかりでまだまだ子供だ。
「仮想意図主義」は実在論にシンパシーを感じる僕ですら説得的なように思えるが、これも一つの「クールの哲学」に違いない。しかし、これは批評行為の本質的不可能性を掲げるものではなく、批評行為を積極的に肯定する点でものすごく好感的な主張だ。
「解釈の実態とは◯◯”である”=事実的言明」「解釈は△△”であるべきだ”=規範的言明」の区別については、意識的/素直な議論が必要だろう。実際のところ我々がどのように批評を行っているのか、という議論の中に、「より”作品をすくい上げる”ことができる」といった価値評価を組み込もうとするとロクなことにならない。「作者の意図は関与するのか」のように、事実記述をスタート地点にすると、行き着く先は規範との循環だ。
「作者の意図は考慮”すべき”か」「どのような解釈を行う”べき”か」といった規範的な議論からスタートすれば、もう少しマシなように思える。仮想意図主義が「正解」の解釈を諦めて「最適」の解釈に依拠することで行うのは、規範的言明である。これは僕の個人的な論敵である「クールの哲学」に属するが、批評行為を肯定し、救済するものでもある。だからこそ、仮想意図主義は非意図主義なのであって、反意図主義なのではない。
いやァ、こういう論文を書きたいものだ。たいへん勉強になった。
「意図と解釈」の議論については、このまま修論の題材に使おうかとすら思っている。前回取り上げたケンダル・ウォルトン周辺のフィクション論や、ネルソン・グッドマン周辺の記号論/イメージ認識とも隣接していて、まさに分析美学の中心地だ。思弁的実在論における相関主義の議論とも接続可能だし、ポスト・インターネット以降のコンテクスト変化とも結びつけられれば面白そうだ。
結局、僕の関心は「真実」vs「虚偽」からブレずにここまでやってきたんだなぁ、と実感する。
●参考文献